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足し算で考え、引き算で対応

足し算で考え、引き算で対応「難しいなぁ…」の記事で書きましたが

対象者の方は、既に喪失体験で十分苦しんでいます。
現在の活動と過去の手続き記憶との照合も円滑にはできない
ワーキングメモリも低下している

「目に見えるモノを作り上げる」ということはホントに難しいんです。

臨床でよくあるパターンというのは
あるべき理想像を勝手にイメージして
そこから引き算で現状を考えて
「がんばってこうなろうね」って尻を叩くか
「○○能力低下」ってしたり顔でメモするとか(^^;

いやいや、「できるように援助する」のがOTの仕事です。
だから、たとえば、もっと段階付けに工夫をしてほしいな。

先の記事の「広告紙を半分に手で切る」を例にとって説明すると…

あらかじめ、OTのほうで下準備をしておきます。
半分にきっちり折り込みをつける
紙の端に切れ込みを少し入れておく…という下準備。
対象者の方には、両手で均等に引っ張り合いながら切る動作をしていただきます。
最初は硬めのハリ感のある材質の紙を選んだほうがラクです。

慣れてきたら今度は
OTの下準備は、半分にきっちり折り込みをつけることだけ。
紙の端の切れ込みは省略します。
対象者の方には、切れ込みを入れることと両手で均等に引っ張り合いながら切るの2動作をしていただきます。
ここでもハリ感のある材質を選びます。

さらに慣れてきたら次は
OTの下準備は、紙半分の折り込みの両端と真ん中の3カ所だけにとどめます。
紙の端の切れ込みも省略します。
対象者の方には、紙の端を揃えて半分に折ることと切れ込みを入れることと切ることの3動作をしていただきます。

次に何も折らずに紙をそのまま渡したり、材質もいろいろなハリ感の紙を混ぜたりします。

対象者の能力発揮を足し算で考え
こちらの対応は引き算で段階付けをしたり場面設定を工夫していきます。

言い換えるなら
OTがその場であれこれ助言というカタチで口を出すということは
対象者ーAct.ーOTの3者関係の中で、対象者に対応を迫るということです。
ただでさえ、困難な作業に取り組んでおられるのに
そこへもってきて、さらに、他者(OT)への対応まで求められたら大変です。
(善意の職員はこういうところがわかっていなかったりします)
そんな無謀な同時並行課題を求めたりしないで、対象者ーAct.の2者関係の中で、失敗せずに繰り返し挑戦ができるように、身体運動感覚のコツを身体が思い出せるように、2者の関係性を調整工夫していくような場面設定ができるということが重要だと考えています。

当然、2者の関係性を準備できるということは
対象者の能力と困難と特性の把握ができて初めて可能なことです。
少なくともアタリをつけておくことができなければなりません。
(こういうところがおろそかにされているように感じられてなりません)

「足し算で考え、引き算で対応」しているうちに
手続き記憶が引っ張り出されると、もう場面設定の工夫の必要性もなくなってきます。
そしたら、その時間とエネルギーを他に振り分けることができます。
いかがでしょうか?

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ここにいていいんですか?

ここにいていいんですか?楽しいハズのレクを楽しめない…そういう方は案外多いものです。
いつもと違うことがおこなわれているのはわかる
でも、自分が何故ここにいるのかわからない…。

「ここにいていいんですか?」

私の手をぎゅっと握りしめ
繰り返し繰り返し尋ねてこられた方がいました。
どんなにか不安だったことでしょう。

楽しい場が気分転換や発散になる方も大勢います。

けれど皆が皆そういうわけではありません。

近時記憶の低下や見当識の低下によって混乱してしまう。
もしも、私たちが突然異国のお祭りにタイムワープしたりすれば
きっと同じように感じて落ち着きなく楽しむどころじゃないでしょう。

「ここはどこですか?」
「こんなことしてる場合じゃない。」
「私は帰りたいんです!」

そんな時に
「さぁ、そんなこと言ってないで楽しみましょうよ」
「ほら、あれを観て。おもしろいでしょう。」
と言われてもきっとそれどころじゃないと思う。

それに
大勢でワイワイやることだけが万人にとっての楽しみというわけではないし。

その方の能力と障害と特性にそって
楽しむことを援助するのが私たちの仕事であって
楽しませることが仕事ではない。
少なくとも
その方を困惑させてしまうようなことはしたくない。
たとえ、善意の意図からであったとしても。

その方は
私と出会う以前に
出会って以降も
ずっともう十分に傷つく機会はたくさん遭遇しているのだから。

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記憶の連続性の低下が見落とされている

記憶の連続性の低下が見落とされているちょっとかなりビックリしてしまうことですが臨床でかなりの確率で遭遇していることなのです(^^;

その場での言語のやりとりがきちんとできると記憶の連続性の低下についてきちんと評価が為されにくいようです。

礼節が保たれ
ユーモアたっぷりに
時には療法士を気遣うような対応ができる
それでも記憶の連続性は著明に低下している
というケースはたくさんあります。

HDS-Rが10点以下でも
そのような対応ができる方は大勢おられます。

「普通のおばあちゃん?」

の記事にも書きましたが
そのくらいに、誤解がまだまだ多いのだと思います。

リハという特別に設定された場面で
従命可かどうか…ということが優先されるのであれば
記憶の連続性について評価しなくてもすむかもしれません。

ですが
その方が生活という場でどのように過ごせるのか
という観点に経てば
否が応でも、記憶の連続性という状態を観ないわけにはいきません。

介護保険で要支援認定のおりた方でも
冷蔵庫の中にはモノがあふれ
薬の飲み残しや数が足りない
といった状態の方はたくさんおられます。

老健では認知症短期集中リハ加算が創設されたこともあり
「なにかトレーニングしなくちゃ」
と焦る療法士も少なくないかもしれません。

でも「やる」ことばかりに気を取られ
「どんなことをしたらよいのでしょうか?」
と質問されることがかなりあります(^^;
「記憶の連続性はどの程度?」と聞き返すと
何の評価もしていなかったりします。
観察もしていない
HDS-Rもとっていない

うーん…
それって
CVA後遺症のある方に
評価もせずに、とにかく麻痺側上肢を動かすためにどうしたらよいのか
と問うようなものなのですが(^^;

記憶の連続性について
自分の観察と客観的指標との照らし合わせの経験が少ない人には
まず、HDS-RなりMMSEなりを必ずとることを推奨します。
自分の観察が結構いい加減なことに気づかされると思います。
(いかに、その場の対応に左右されるか…という意味です)

よっしーずボイスでもHDS-R関連の記事を複数書いています。
もしよかったらご参照ください。

「HDS-Rは対象者を傷つける」

「HDS-R 答え方にも注目」

「HDS-Rの終わり方」

「ふだんの会話の中での視点」

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ちぎり絵の工夫

塗り絵は、かなりお年寄りに対して使われているAct.のようですが
実際には、複数の下絵から対象者が選んで行う…という対応が多いようです。
場面設定、段階付けがもっと細やかに為されるといいのにな…と感じています。

塗り絵については、「よっしーずボイス」の下記記事をご参照ください。
「下絵の大きさ」 http://kana-ot.jp/wp/yosshi/214
「下絵の用意」 http://kana-ot.jp/wp/yosshi/197
「下絵の工夫」 http://kana-ot.jp/wp/yosshi/196
「幼稚な画題はNG」 http://kana-ot.jp/wp/yosshi/194

ここからは、「ちぎり絵の工夫」について、場面設定のことをご説明します。
たぶん、事前に和紙を色ごとにちぎってケースに入れておくという準備をしている方は多いと思います。
ちぎり絵の工夫

でも、お年寄りで手指の巧緻性、協調性が低下している方って結構いらっしゃるんです。
まして、このような創作作業からは遠ざかっていた…というケースがほとんどです。
評価として、身体能力低下という判断を下す前に、この「やり慣れていない」ということを配慮してほしいな…と常々思っています。
認知症のある方は、日々喪失体験を重ねておられます。
その過程において、最低限の身の回りのことはしても、それ以上のことから遠ざかることがあっても決して不思議はありません。
私たちが初めて新車を運転する時の「違和感」のようなもの、それ以上のものを感じておられるのではないでしょうか。

ちぎり絵は和紙を使うと仕上がりがキレイにできますが、和紙の1片をつまむ…ということが案外難しかったりするものです。
軽く、素材からの抵抗感がほとんどないので、ひとかたまりの和紙の中から1枚だけつまみあげるということが難しいのです。
「何回いっても、和紙をまとめて持ち上げてしまう」
という状態像は、認知症からくるものではなくて、身体的な困難さから生じている場合もあります。
ちぎり絵の工夫

そんな時には、この写真左側のように、タオルの上に和紙を1片ずつ置いておきます。
タオルと和紙との摩擦により、和紙をつまみ上げる時に抵抗感が生じるのでしっかりとつまめるようになります。
また、和紙がタオルの上に並んでいるので色味を一目で確認しやすくなります。

そして、ちぎり絵の下絵といえば、塗り絵と同じように枠線だけ描かれてあるものを用いることが多いかと思いますが、時には、写真右側のように塗り絵の見本をカラーコピーして使ったりもします。
「対象を想起し、その対象の色を紙で再現していることを行っているのだ」という短期記憶が(この場合は、ナスの色を紙で再現している)落ちている方でも、下絵の色と同じ色を貼っていくという工程をおこなうことはしやすいです。

塗り絵は色を創り出すことによって対象を再現するという課題です。
創り出す過程を楽しめるのなら良いのですが、往々にしてその過程を楽しめているかどうかの判断よりも、ただ単に色を塗ることはできるかどうかという判断によって塗り絵が提供されているケースが多いように感じられてなりません。

そのような方には、塗り絵を続けるよりも、ちぎり絵のほうが適切な場合もあります。
色を創り出すことは紙に任せてしまえるからです。
和紙には微妙な濃淡の違いがあるという素材の特性を活用できます。
あまり深く考えずとも、結果として微妙な色合いの変化が起こって作品の仕上がりがキレイになります。

既に色のついている下絵を使用すれば、和紙の貼り残しがあったとしても目立ちません。
かえって色合いの変化という良い面が生じる結果となります。
ちぎり絵の工夫

和紙だけでなく、100円ショップで売られている折り紙でも濃淡のある折り紙を使用してもよいでしょう。

作品としての仕上がりが美しいかどうかは対象者の方自身がしっかりと感じられることです。
せっかくがんばっておこなったのに仕上がりが今1つでは、どんなに周囲の職員から褒められても満足度は高くないのではないでしょうか。

単にできるかできないかではなくて、より容易に行いやすいように、より仕上がりのキレイなものになるように、私たちができる準備はたくさんあるように感じられてなりません。

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記憶の連続性の低下

記憶の連続性の低下SDATでは、中核症状の根幹は記憶の連続例の低下です。
近時記憶が障害されます。

今、その場で話したことは了解できるけれど
遠い昔のこともよく覚えているけれど
昨日のことは忘れてしまう
病状が進行すると、5分前、1分前のことも忘れてしまいます。

記憶のトレーニングが可能なのは
そのずっと前の状態にある方に対してで
このような状態像の方には
忘れてしまってもその人らしく暮らししていくために
どうしたらいいのか…を考えることのほうが重要です。
そのために
記憶の連続性の程度を把握している必要があるのです。

どのぐらい記憶の連続性が保たれているのか
内容によって連続性が異なるのかどうか
…これらは現状の困難の把握です。

でも、これだけではまだ片手落ちです。

困った時にどう対応する方なのか…をみておくことが肝要です。

自分でなんとかしようと努力工夫する方なのか
誰かに助けを求められる方なのか

表面的にあらわれる混乱や困難というものが
実は、自分で何とかしようとした結果
起こっていることだったりすることがままあります。

見た目に困ったこととしてあらわれることを
ただ単に注意したり咎めたりしても
対象者の方にとっても周囲の介助者にとっても
現実的には何のプラスももたらさないのです。

どこまでが
努力しようとした意図として行われていたのか
どこから
何をきっかけとして
その意図がズレてしまったのか

記憶の連続性の低下とともに
課題解決への対応のパターンをみていくことが重要です。

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援助の言葉、意思表示の言葉

援助の言葉、意思表示の言葉ふだん、何気なく使っている言葉をちょっと考え直してみる
これって、とても大切なことだと思います。

たとえば…
「対応を話し合う」にあげた、「車いすを押しますよ」という言葉
たぶん、とてもよく使われている言葉だと思うけれど
案外、無自覚に使われている言葉でもあると思います。

どういうことかというと…
「車いすを押しますよ」は、意思表示の言葉。
通常の会話なら、この言葉を聞けば
相手の意思表示→自分が座っている車いすが押される→自分が動かされる
と推測してもらえるけれど
認知症のある方の場合、この推測するということが困難な方もおられます。
「車いすを押しますよ」という言葉は聞こえているけれど
聞こえた言葉から自分の身に次に起こる状況を予測することと結びつけられない。のです。

そういう場合には、援助の言葉を使います。
「○○さん、動きますよ」
と、これから起こる状況を説明しながら伝えるのです。

ほとんどの人は
食事介助する時に「ご飯を食べさせますよ」とは言わないものです。
たいてい、「お食事しましょう」「食べましょう」という言葉を使っていると思います。

意思表示の言葉と援助の言葉

私たちは実は無自覚のうちに使い分けているのです。
でも、無自覚だからこそ
使っている言葉が意図せずに伝えていることに気がつけない…
認知症のある方の混乱や情緒不安という
「障害」や「問題」として現在扱われているコトの中に
実は、私たちの無自覚な言葉が
意図せずにもたらしてしまっているコトが含まれているのではないかと考えています。

だから
私たち自身が私たちが扱う「言葉」を
もっと自覚的に使い分けられたらいいんじゃないかなぁ…と思うのです。

「声かけは大事」

誰だってそう言うし
そのことに関して否定する人はいないと思うけど
声をかけりゃあいいってもんでもない(^^;
それなのに、具体的に現実的には
あんまり検討されてこなかったように感じられてなりません。

一般的な抽象論として考えるのではなくて

その時その場のその人にとって
理解しやすいように言葉を意図的に使うということを
具体的に自覚して実行することが大事…なんだと思うのですが。

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映画『木漏れびの家で』

映画『木漏れびの家で』とても良い映画です。
お年寄りに接する若い方には特に観てほしい映画です。

お年寄りの日々の暮らしを鮮やかに紡ぎ出しています。
1日をどんな風に過ごし
どんなことを感じているのか
歳をとるということで
暮らしにどんな不便が生じるのか。

細やかに丁寧に
そっと、でも、明確に描き出します。

現実に起こることの中に
過去も未来もある

そのことを自らの体験を通して確信できた時に
老いるということを
否定や肯定にとらわれずに
ただ、そのままに生きることができるのだろうか。

映像のもつ「ちから」は強い
「ちから」に頼らずに
「ちから」を活かしている映画だと思う。

主人公を演じる俳優の方も90歳を超えておられるとのこと。
生身の人間が任意の役柄を演じることの凄みも堪能できます。

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非麻痺側のべた足歩き

非麻痺側のべた足歩き歩行時に非麻痺側の足関節の背屈が起こらないケースが圧倒的に多いのです。
ヒールコンタクトが起こらない。
非麻痺側なのに。

非麻痺側ですから
当然、端座位では、足関節を背屈できます。
でも、歩行時にはヒールコンタクトではなくて足裏全体で接地しているのです。

初めて、このことに気がついた時には自分の見間違いかと思いました。
何度も見直しました。
何人もの方の歩容を確認しました。
やっぱり見間違いなんかじゃない。

このことが意味することは一体なんなのでしょう?

おそらく、安定性を優先して非麻痺側下肢のはたらきを自制しているのだと思われます。

身体は総体としてはたらいている
身体は身体を守っている

私はこのことを確信しています。
いつかどこかで書くつもりでいますが
認知症のある方においても言えることなのです。

非麻痺側のべた足歩き

なぜ、こんなにも明白なことなのに
今まで誰も気がつかなかったのか…

身体を部分として捉え
麻痺側を「修正すべき」対象として捉え
歩行観察はしても
全体をみていなかったことの証しではないでしょうか。
非麻痺側の下肢なのだから「問題」が起こるはずがない。

最初から「非麻痺側は問題ない」として
「見れども見えず」状態だったのではないでしょうか。

そして、もし、そうだとしたら
同じことが他の状況でも起こっているのではないでしょうか

それらの意味することは何なのか…

私たちは科学的という言葉を使う一方で
とても重大なことを見落としてきてしまったように感じられてなりません。

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