Category: 教科書的基礎知識篇

古くて新しい目標設定の問題

イメージ_お堀

私が学生だった頃は
リハスタッフを生めよ増やせよの時代でした。
1学年20名で3年制の養成校で
学科の教員は2名のみ。授業の多くは外来講師が担当していましたが
当時の各分野の第一人者に教わることができました。

しかしながら、今にして思えば
どの分野でも目標設定に関して
目標とは何かと明確に教わることはなく
実習前にプリントで仮想ケースを提示され目標を立てるように言われました。

それでも、当時から
長期目標を達成するための短期目標で
短期目標は具体的であること、達成可否の判断可能なもの
ということを指導されたことは覚えています。

ただ、説明されてあぁそうかと思うことはあっても
いざ、実践で個々のケースに即して
どのように目標設定を考えたら良いのか
という指導はなされず
実習においても、私が設定した目標に指導が入ることはあっても
じゃあ、基本的にどのように考えたらいいのか
自分自身で目標を設定しようとした時に
参照できるような考え方について
指導を受けたことはありませんでした。
今にして思えば。

私が目標設定の指導方法にこそ、問題があるのだ
じゃあ、指導の方法を改善すれば良いのだ
と気がつくことができるようになったのは
臨床を積んで模索に模索を重ねて
教育関係の図書を読みあさってからのことです。

私は2014年から目標設定についての講演をはじめましたが
その後県内の複数の養成校から
私の提案をもとにした目標設定の授業をしていると聞き
とても嬉しく思ったものです。

昨年の神奈川県臨床作業療法大会で目標設定の講演をした時に
現場あるあるの目標でないものを尋ねたところ
以前に比べて正解率がとても上がってきていて、感無量な思いがしました。

目標の概念をきちんと理解している若手OTが増えてきて
後輩や学生の指導に役立ててもらえたら
こんなに嬉しいことはありません。

安易にハウツーものに飛びついたり
PDCAを回すことのない漫然としたリハの提供に対して
(漫然としたリハはROM Ex.や筋力強化に限りません。
 漫然とした立ち上がりやActivityだって為されています。)
自己修正し具体的に現実的に改善していくことが可能となります。

適切な目標設定ができるようになることの効果は本当に大きいのです。
地道な学習かもしれませんが
回り回って、目の前に起こった事象を的確に観察することが叶うようになります。
本当の意味で対象者のために有意義な試行錯誤が行えるようになります。

それでは本題に入りましょう。

次の中に「目標」がいくつありますか?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1)整形外科受診を勧める          
2)痛みの有無の確認と痛みの改善を図る   
3)バランスの強化             
4)立位での姿勢反応の強化         
5)全身の筋力強化   
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

正解は次の記事で!

 

 

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リハ計画書「目標設定」の問題

短期目標「現状維持」長期目標「現状維持」

実際に私が見聞きした、リハ計画書の目標です。
嘘みたいなホントの話です。

これでは、「目標とは何か、がわかっていない」と自分で言っているも同然です。

今や、ご家族やご本人が同業者。ということも増えてきています。
同業者でなくても医療・保健・福祉に従事している方や
一般企業であっても、大企業に勤務されている方は目標管理を徹底されています。
むしろ、企業の方が目標管理には厳しいかもしれません。
  
本来であれば、対象が「人」という、「あぁすればこうなる」が通用しない
私たちの分野こそ、目標設定・目標達成の確認・対応の検討が必要だと思うのですが
目標はとりあえず書かれていればあまり検討されずに
治療方法について検討するパターンが多いように感じています。

日々の多忙さに追われ
目の前の切実さに追われて
目標については後回しにされてしまう。とか
目標設定の意義の重要性が実はあまり認識されていない。とか
あるんじゃないかな?
違うかな?
だから、いざ実習生や新人に目標を指導するときに
ちゃんと教えられない、言語化して説明できない場面に遭遇しても
その時に、実際に「臨床に役立つ目標設定の考え方」を探しても見当たらないから
諦めてしまう。。。ということはありませんか?
対象者に「やりたいこと」を尋ねても
「そんなものはない」
「暮らしに精一杯でそんなこと考えたこともない」
と言われてしまって、何と言っていいかわからず困ってしまった。
そんな経験をしている人は本当はすごく多いはずなんです。

ご家族がリハ計画書を読んでも
何もおっしゃらないかもしれないけれど
ご自身がきちんと目標設定をしている方なら
「目標設定ができているか、できていないか」がわかってしまいます。
言わないだけで。
私自身、ご家族に
「よく読み直してみたんですけど〇〇について確認させてください」と言われて
事前情報の病歴が違っていたことが判明したり
リスク管理について病状確認した時にリハ計画書をもとに説明した時に
「あぁ書いてありましたね」
と言われたことが複数回あります。
ご家族はきちんとリハ計画書を読んでくださっている
リハ計画書が信頼関係構築のとっかかりにもなるのだと感じています。

目標を目標というカタチで設定することさえ、できるようになれば
PDCAを回すことができるようになるから
的確に評価することができるようになり
自身で不足している情報を明確化できるようになり
何をどうしたら良いのかを明確化することができるようになります。
有効な試行錯誤ができるようになるのです。

おそらく、リハの、OTの分野で
目標設定に関して、カタチが重要、記述の仕方こそが重要
と言明したのは、私が一番最初だと思います。
目標設定について私が講演し始めたのが2014年からですから
もう10年以上前から公の場で提案してきています。

教育工学の第一人者である、沼野一男が著書の中で
「目標は記述の仕方が問われるべき」と記述したのが1986年ですから
教育分野で40年以上前から提唱されていることを
リハの分野ではまだ常識化できていないという現実があるのです。

これから目標設定について記事を書いていきますが
今すぐにでも知りたい、困っている方は_こちら_をご参照ください。

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論理的に考える:なじみの関係

「毎朝訪室して挨拶してなじみの関係になって信頼関係を作る」
という言葉をいまだに聞くことがあってびっくりしています。

結果として、信頼関係ができるのであって
それを目的化するのは本末転倒だし
そもそも看護介護職員は、なじみの関係になっていなくても
入院入所の当日からケアをしなくてはならないのです。
なじみの関係になってから排泄介助をします、なんて言っている看護介護職員に会ったことはありません。

私は常々、何か良いとして提唱されたツールでも
最初から除外要件が大きいものは本質ではないと考えています。
その一つが、なじみの関係です。

また、自分のことを考えてみてもわかると思いますが
毎日顔を合わせているから信頼関係ができるわけではありませんよね?
職場の同僚や先輩や上司にも、いろいろな人がいますよね?
その人が信頼に足るからこそ信頼しているのであって
毎日挨拶したって信頼できない人は信頼できないじゃないですか。
仕事だから自分の感情は傍に置いておいて普通に接しているだけで。

認知症のある方に信頼してもらえるかどうかは
認知症のある個々の方の価値観に反した言動をしていないか
認知症のある方の困りごとを解消しようと努力しているか
ということが認知症のある方に伝わった結果として起こることです。
まずは、自分が認知症のある方の信頼に足る存在になれるように努力することが先なんです。

「なじみの関係になる」ということは
結果として起こることを目的化しているのです。

せっかく毎朝訪室するなら
なじみの関係になることを目的化するのではなくて
一定の時間帯でその方の言語理解力や言語表現力に変動があるかないか
あるとしたらその変動の幅を把握することを目的化した方がずっと有益だと思います。

 

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論理的に考える:手引き歩行

    
30年以上前からずっと言い続けていますが
手引き歩行撲滅作戦!

お年寄りの前に向き合うように介助者が立って
お年寄りの両手を引いて歩かせる方法がいまだに為されています。。。

もちろん、狭いところでも介助歩行ができるというメリットはありますが
手引き歩行のデメリットを考慮することなく
「歩行介助=手引き歩行」周囲の人がみんなそうやっているから、
手引き歩行を行っている人の方が多いのではないでしょうか?

手引き歩行のデメリットを下記に挙げます。
1)介助者もご本人も移動先の前方を見ることができない。
  前方の安全確認をしようとするとご本人に背を向けなければならない。
2)ご本人がいざバランスを崩して倒れそうになった時に
  介助者との距離があるので助けにくい。
  無理に手を引っ張ると腕神経叢麻痺を起こす恐れもある。
3)手を通してご本人の動きをコントロールしようとしても
  複数の関節があるのでコントロールの力が伝わりにくい。
4)歩行の本質(重心の前方移動)と
  真逆の身体反応(重心の後方移動)を引き起こしてしまうので
  いつまで経っても介助から脱却できないどころか
  ますます歩きにくさを助長してしまう。
5)「前から引っ張る方法」なので、心理的にも「寄り添う」のではなく
  介助者に依存させてしまう恐れが高い。

というわけで
私は側方から骨盤を支える介助歩行をしています。
(たぶん、リハスタッフで似たような思いをしている人はきっと多いのではないでしょうか。。。)

骨盤からの側方介助であれば
1)ご本人も介助者も同じように前方を見ることができます。
2)ご本人がバランスを崩しても骨盤を支えているので転倒防止が容易です。
3)複数の関節をまたぐことなく直接骨盤から介助するので
  途中でコントロールが抜けてしまうことがないし
  繊細なコントロールも可能です。
4)歩行の本質に沿った介助が行えるので
  段階的に介助量の調整も可能です。
5)横に立って歩行介助するので
  文字通り見た目も心理的にも「寄り添った」介助の実践ができます。

歩幅が狭く下肢が前に出にくい方に
骨盤からごくわずかに重心移動を介助することで
スムーズに足が前に出て歩幅も広く歩けるようになった方の経験もあります。
(このことについては別の記事で)

 

 

 

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論理的に考える:帰宅要求には気をそらす

「家に帰りたい」「早く帰らなきゃ」と帰宅要求や帰宅願望があった時に
たいていの人は気をそらせるような対応をしようとします。
「お茶でもいかが?」
「タオルでもたたんでいただけますか?」
「外は寒いし」
「明日にしましょうか」

他の方の介助があったりして、
そうするしかない時もあるかとは思いますが
いざ、時間があってしっかりその方に向き合える時にも
実は同じような対応をしていませんか?

気をそらせるような対応というのは
時間干渉や動作干渉によって「訴えを忘れてもらう」ことを期待した対応です。
確かにそのような対応が功を奏するように見えたからこそ
今まで連綿と受け継がれてきたのだと思います。

でも、それって本当に
認知症のある方に寄り添ったケアのあり方なのでしょうか?

多くの人は心のどこかで
「帰宅要求→おさめる」
「帰宅要求→話を聞いたら収拾がつかなくなる→気をそらせる」
という予期不安にとらわれているから、気をそらせるような対応をするのだと思います。

齋藤正彦医師は
「微笑みながら徘徊したり帰宅要求する認知症の人はいない」
と言っていました。必死になって訴えていると。

表面的に帰宅要求をなくさせようとする対応は
言葉にはしていなくても
「あなたの訴えを聞くつもりはありません」と態度で伝えてしまっています。

認知症のある方に、相手に合わせるという能力があれば
「いつも良くしてくれるこの人の言う通りにしないと申し訳ない」
「この人には言ったって仕方ない」などと、
表面的に訴えをおさめる協力をしてくれるかもしれません。

こちらに合わせてくれる能力があるから「帰宅要求をしなくなった」ように見えるだけですが
帰宅要求をおさめることを目的としていた人にとっては「成功」と思えるのも理解できます。
実際には単に我慢を要請していただけなので長期的には逆効果となってしまいます。
認知症の進行に伴い、相手に合わせる能力が低下した時に
過去の体験を再認して、一層大きな怒りとなって表出します。
「どうせ、あんたたちは聞く気もないんだろう!」
「そんなことばっかり言って!」
「私をバカにしてるんだから!」
認知症のある方がそう言っているのを何回聞いたことでしょう。
そしてまた、そこだけを切り取って「帰宅要求顕著」「易怒的」と私たちは判断してしまいがちです。。。

帰宅要求があった時に
「何があったのか?」
「どうしてそこまで帰ろうとするのか」
「もし帰らないと何が起こるのか」
もう一段踏み込んで話を聞くだけで自然と帰宅要求が収まることも多々あります。
ただし、聞き方には配慮と知識と技術が必要です。
まず第一に「あなたの困りごとを一緒に解決したい」
という気持ちが伝わらなければ
認知症のある方も目の前にいる固有の人に話してみようとは思わず
自身の気持ちを表明するだけになってしまいます。
なぜなら過去に散々気をそらせる対応、すり替える対応をされてきたからです。

どんなに重度の認知症のある方でも
体験を通して再認できる方はたくさんいます。
そのことを知らない人が多すぎなんです。

帰宅要求で困っているのは認知症のある方なのに
帰宅要求を表面的に収めようとするあり方は誰の困りごとに対する姿勢なのでしょう?
認知症のある方の困りごとが解決するから結果として職員の側の困りごとも解消するのに
最初から職員の側の困りごとを解決しようとして対応を考えているのではないでしょうか?

帰宅要求があったら
まず第一に認知症のある方のお顔を見ましょう。
本当に困った表情、必死になった表情をしています。
その顔を見ても、気をそらせるような対応ができますか?

 

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論理的に考える:ムセたらトロミ

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ムセたら食事を中止する人も多いけど
ムセたら飲み物にすぐにトロミをつける人もとても多いですよね。

確かに、トロミは飲み物の粘性を高めてゆっくり通過するので
喉頭挙上のタイミングが遅い人には有益だったりします。

ですが、ムセたからトロミをつけたのに、まだムセる方もいます。
そうするとすぐに、もっとトロミをつけていませんか?
「トロミ剤を大さじ3杯入れるように」って言った人もいましたけど
トロミ剤大さじ2杯でも結構ベッタリと口腔内や咽頭にへばりついて違和感バリバリです。
介助に従事する人は是非トロミ剤を入れた飲み物を飲んでみていただきたいものです。

誤解のないように付け加えると私が若い頃に比べるとトロミ剤はとても進化しています。
昔は変な匂いと味がしてもっとベッタベッタにへばりつく感じがしましたが
最近のトロミは変な匂いや味はほとんどしなくなって
へばりつきもずっと少なくなってきていると感じています。
トロミ剤があるから、水分を安全に飲める方がたくさんいます。

ただし、どんなに良いものでも扱い方が不適切であれば
効果があるどころか逆効果になることすら起こり得ます。

それが、口腔期に問題があって二次的に咽頭期の能力低下が起こっているケースです。
実は、そのようなケースは生活期にある方や認知症のある方にとても多いのです。

不適切なスプーン操作によって誤介助誤学習が生じ
舌が後方へ引っ込んでしまったり
板のようにガチガチに固くなってしまうと
舌のしなやかな動きが損なわれてしまって
スムーズに食塊を再形成したり
送り込んだりする働きが低下してしまいます。
その結果、喉頭挙上の動きまで損なわれてしまうのです。

舌の動きが低下しているのに
トロミをたくさんつけて粘性を高めれば
ただでさえ動きの悪い舌にもっと負担をかけることになってしまいます。
だから送り込みがうまくできなかったり
喉頭挙上の動きが阻害されてしまい、ムセてしまう。
つまり、咽頭期に本質的な問題があるのではなくて
口腔期に本質的な問題がある方に
トロミをつけると逆効果
になってしまうのです。

このようなケースはとても多いのに
「ムセたらトロミ、まだムセたらもっとトロミ」
をつけることによってますます食べにくくさせてしまいます。

摂食・嚥下5相にそって食べ方を観察すると
本来の困難が咽頭期にあるのか、口腔期にあるのか、
観察することができるようになります。
口腔期に本質的な問題があって咽頭期の能力が保たれている場合には
むしろ粘性は下げてトロミは必要最低限にしてから、
食べ方・飲み方の再学習を行う
誤嚥することなく安全にスムーズに食べたり飲んだりすることができるようになります。
舌が動くようになってきたら段階的に食形態をあげることも可能になります。

ムセたらトロミ、というパターン化した対応はもう卒業しましょう。

ムセてもムセていなくても食べ方をきちんと観察するようにしましょう。

 

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論理的に考える:ムセたら食事中止

誤解している人がとても多いと思います。
食事中に強く激しくムセたら食事を中止させていませんか?

そのような判断をする人は
「強く激しいムセ=ひどい誤嚥」と誤解しています。
ムセとは何か?がわかっていないのです。

確かに誤嚥すればムセは起こりますが
ムセとは異物喀出する生体防御反応です。
強く激しくムセたということは、異物喀出力の高さ、つまり
異物をしっかり喀出しようとする能力があることを示しています。
強くムセることができるのは良いことなのです。

ムセたら食事を中止するのではなくて
ムセたら呼気の介助をしてしっかりとムセきってもらいます。
落ち着いたら声を確認して清明な声であれば食事を再開することができます。

ところが
ムセとは何か?を知らずに
周囲が行っているから
今までそうしていたから
という理由にもならない理由で
漫然とムセたら食事中止という対応がまだまだ多いのが現実です。

むしろ、中止すべきなのは異物喀出能力の低下を示唆するムセ方です。
弱々しくしかムセられない
痰がらみのムセ
遷延するムセ。。。

これらの方は要注意ですけど
概念の本質が理解できていないと
弱々しくしかムセられない、異物を喀出しきれていないのに目立たないから
そのまま食事を継続させられたりしてしまいます。
逆なんです。

そして
ムセとは異物喀出作用なのに
なぜかムセの有無が食べ方の指標になってしまっています。

曰く
「ムセることなくお食事を全量召し上がられました」。。。
「今日は途中でムセたのでお食事を半量ほど摂取したところで終了しました」。。。

あちこちで何回も書き、機会あるごとにお話していますが
ムセは異物喀出作用なので食べ方の指標にはなり得ません。
摂食・嚥下5相に則って、きちんと食べ方を観察しましょう。
その方の本来の食べるチカラを見出せるように、きちんと介助できるようになりましょう。

上唇を丸めて食塊を取り込めているか
舌で食塊再形成ができているか
送り込みが円滑にできているか
喉頭は完全挙上できているか
など、観察すべきポイントがたくさんあります。

 

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論理的に考える:食事時にティルトを起こす

現行のケアやリハの在り方で常識のように行われていることでも
理屈で考えてみると、とてもおかしなことってたくさんあります。

たとえば
ふだん、股関節90度屈曲した座位がとれないために
ティルト型車椅子に座っている方ってたくさんいると思います。
その方達を食事の時にティルトを完全に起こして食事介助する。。。

大昔は老年看護の教科書に90度の法則として、
食事は股関節90度屈曲膝90度足90度屈曲の「良い」姿勢で食べるように
という記載があったとのことですが
そもそも「良い」姿勢がとれない、股関節90度屈曲位をとれない方に対して
見た目だけ「良い」姿勢を取らせることにどんな「良い意味」があるのでしょうか?

科学は過去の知識の修正の上に成り立つ学問です。
きちんと論理的に考えて不合理な常識はアップデートしていきましょう。

理屈で考えてみれば
安静時でさえ、股関節90度屈曲座位がとれないのに
食べる(たとえ、全介助であっても)という、運動をする時にティルトを起こされたら
姿勢が崩れてしまいます。

もともと、仙骨座りの人だからティルトを倒して座っているのに
ティルトを起こされたら、ますます仙骨座りになってしまいます。
座面が平らだと前に滑り落ちそうになってしまいます。
その不安定さをなんとかしようとすると
使えるところを使うしかないので頸部の伸筋群を過剰収縮させることになります。
頸部の筋は、姿勢保持と嚥下と呼吸に関与しています。
姿勢保持に使う割合が増えれば、その分嚥下と呼吸の働きが疎かになりかねません。

また、仙骨座りを助長するような座り方をさせるので
剪断力が働き褥瘡発生のリスクが高まってしまいます。

何回も書いていますが、
褥瘡の原因は垂直方向の圧迫だけではありません。
ここを誤認している人がいまだに多いことに驚きますが
横や斜めのズレ、剪断力も褥瘡の原因の一つですから
思い込みを卒業し、仮に現行のケアやリハの常識とされていたとしても
論理的に考えて適切かどうかを判断したいものです。

 

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