Tag: 臨床あるある

論理的に考える:ムセたら食事中止

誤解している人がとても多いと思います。
食事中に強く激しくムセたら食事を中止させていませんか?

そのような判断をする人は
「強く激しいムセ=ひどい誤嚥」と誤解しています。
ムセとは何か?がわかっていないのです。

確かに誤嚥すればムセは起こりますが
ムセとは異物喀出する生体防御反応です。
強く激しくムセたということは、異物喀出力の高さ、つまり
異物をしっかり喀出しようとする能力があることを示しています。
強くムセることができるのは良いことなのです。

ムセたら食事を中止するのではなくて
ムセたら呼気の介助をしてしっかりとムセきってもらいます。
落ち着いたら声を確認して清明な声であれば食事を再開することができます。

ところが
ムセとは何か?を知らずに
周囲が行っているから
今までそうしていたから
という理由にもならない理由で
漫然とムセたら食事中止という対応がまだまだ多いのが現実です。

むしろ、中止すべきなのは異物喀出能力の低下を示唆するムセ方です。
弱々しくしかムセられない
痰がらみのムセ
遷延するムセ。。。

これらの方は要注意ですけど
概念の本質が理解できていないと
弱々しくしかムセられない、異物を喀出しきれていないのに目立たないから
そのまま食事を継続させられたりしてしまいます。
逆なんです。

そして
ムセとは異物喀出作用なのに
なぜかムセの有無が食べ方の指標になってしまっています。

曰く
「ムセることなくお食事を全量召し上がられました」。。。
「今日は途中でムセたのでお食事を半量ほど摂取したところで終了しました」。。。

あちこちで何回も書き、機会あるごとにお話していますが
ムセは異物喀出作用なので食べ方の指標にはなり得ません。
摂食・嚥下5相に則って、きちんと食べ方を観察しましょう。
その方の本来の食べるチカラを見出せるように、きちんと介助できるようになりましょう。

上唇を丸めて食塊を取り込めているか
舌で食塊再形成ができているか
送り込みが円滑にできているか
喉頭は完全挙上できているか
など、観察すべきポイントがたくさんあります。

 

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論理的に考える:「認知の人」「認知のある方」

ギョーカイ用語のようになっていますが(^^;
「認知の人」「あの人は認知があるから」
って言う人、案外多いですよね〜。

もちろん、状況から「認知症のある方」を指して言っているんだということはわかります。
でも、「認知の人」「認知があるから」って、とてもおかしな言葉です。
実際に一般の方から指摘を受けたこともありました。
ある機関の依頼で公民館に行って認知症関連の講演をした後で
「ちょっと質問してもよろしいでしょうか?」
「最近、認知の人、認知のある方って言葉をよく聞きますが
 それって変な言葉ですよね?」と言われたのです。

まさしく、まさしく!
認知あって良いじゃないですか?
認知なかったら困りますよ。
言葉と概念が真逆になっているのに疑問を感じることができないから言える言葉だと思います。

この話をした時に
ある養成校の教員は「学生が実習から帰ってくると高次脳の人、高次脳のある方って言い始める」
って教えてもらったこともあります。。。
CVAの人、骨折の人、なんで形容詞化するかなぁ。。。

言葉を大切に扱う、ということは
概念を大切に扱う、ということでもあります。

英語は「人」と「病気」をちゃんと分けてるんですよね。
People who have Dementia
People with Dementia

ギョーカイ人だと、結構、形容詞化して使っている人多いです。
「徘徊する人」
「BPSDの激しい人」
「溜め込んで(食事を)飲み込んでくれない人」。。。
でも、常に徘徊しているわけではないしBPSDのない時だってあるし
溜め込まずに飲み込める食形態だってあります。

有効な答えを求めるには
実は適切な問いを立てることが必
要で
どうしたら良いかわからなくて困っている場合に
問いが適切でないから答えが出てこない
と言うケースが圧倒的に多いものです。

表面的なことに視点が固まってしまって
色眼鏡を掛けて事実を見てしまっていることと
概念の取り扱い方、本質を理解できないことは地続きなんです。

だから、逆に言えば
何か、一つ、きちんと考え直すことによって
臨床実践がガラッと変わることも起こり得るんじゃないかな?

もう一回、基本に立ち返って
組み立て直す時期が来ているんじゃないかと考えています。

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論理的に考える:食事時にティルトを起こす

現行のケアやリハの在り方で常識のように行われていることでも
理屈で考えてみると、とてもおかしなことってたくさんあります。

たとえば
ふだん、股関節90度屈曲した座位がとれないために
ティルト型車椅子に座っている方ってたくさんいると思います。
その方達を食事の時にティルトを完全に起こして食事介助する。。。

大昔は老年看護の教科書に90度の法則として、
食事は股関節90度屈曲膝90度足90度屈曲の「良い」姿勢で食べるように
という記載があったとのことですが
そもそも「良い」姿勢がとれない、股関節90度屈曲位をとれない方に対して
見た目だけ「良い」姿勢を取らせることにどんな「良い意味」があるのでしょうか?

科学は過去の知識の修正の上に成り立つ学問です。
きちんと論理的に考えて不合理な常識はアップデートしていきましょう。

理屈で考えてみれば
安静時でさえ、股関節90度屈曲座位がとれないのに
食べる(たとえ、全介助であっても)という、運動をする時にティルトを起こされたら
姿勢が崩れてしまいます。

もともと、仙骨座りの人だからティルトを倒して座っているのに
ティルトを起こされたら、ますます仙骨座りになってしまいます。
座面が平らだと前に滑り落ちそうになってしまいます。
その不安定さをなんとかしようとすると
使えるところを使うしかないので頸部の伸筋群を過剰収縮させることになります。
頸部の筋は、姿勢保持と嚥下と呼吸に関与しています。
姿勢保持に使う割合が増えれば、その分嚥下と呼吸の働きが疎かになりかねません。

また、仙骨座りを助長するような座り方をさせるので
剪断力が働き褥瘡発生のリスクが高まってしまいます。

何回も書いていますが、
褥瘡の原因は垂直方向の圧迫だけではありません。
ここを誤認している人がいまだに多いことに驚きますが
横や斜めのズレ、剪断力も褥瘡の原因の一つですから
思い込みを卒業し、仮に現行のケアやリハの常識とされていたとしても
論理的に考えて適切かどうかを判断したいものです。

 

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「 First,Do No Harm. 」がPDCAをも促す

「まず、第一に患者を傷つけないこと」
ヒポクラテスの誓いは、この言葉で始まるそうです。
患者は患者であるということで、既に傷ついているのだから
と、日野原重明氏の著書に書かれていました。

自分の関与によって
対象者に悪い結果にならないように
という意識を持つことで
自分の関与による結果を見直す姿勢を身につけることができます。

対象者にとっての悪いこと、というのは
人により、その時によっても異なるものなので
実践しようとすれば、
目の前の対象者と対象者の暮らしの事実を確認しようとする意識が働きます。

一方、良いこととして喧伝されているものは
大多数の人にとって良しとされているからこそ喧伝されるので
目の前の対象者と対象者の暮らしの事実を確認しようとする意識が働きにくいものです。
養老孟司の言うように「あぁすれば、こうなる」ものだと盲信してしまいます。

業界的に「為すべきこと」と教わったことを提供するだけの思考回路だと
自分の関与を疑うことができず
結果として、逆効果になっていることに気がつくことができなくなります。

善意に基づく実践でも
結果として悪手になってしまうことは多々あるし
短期的な効果はあるように見えても
長期的な逆効果になることも多々あります。

まさに
「地獄への道は善意で敷き詰められている」
「地獄には善意が天国には善行が満ちている」
というわけです。

 

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「科学は嘘をつかない。科学は多数決ではない。」服藤恵三の言葉

先日のNHK「プロジェクトX」は見応えがありました。
https://www.nhk.jp/p/ts/P1124VMJ6R/blog/bl/pjJo5qmnlv/bp/pOGLR2ZdMX/

オウム捜査を陰で支えた警視庁科学捜査研究所の研究員、服藤恵三を取り上げていました。
NHKのディレクターがこの方の著書を読んだことがきっかけとなったとのこと。

詳細は
ぜひ、11月2日(土)[総合]午前8:15〜9:00の再放送をご覧ください。

番組の最後に服藤氏が語った言葉です。
「科学は嘘をつかない
 科学は多数決ではない
 科学は自分では意志がない
 使う人によって悪いことにも良いことにも使える
 そこをどういうふうに制御するか
 というところがその人間に問われている
 真実を見れる目を持って俯瞰的に全体像を見ながら
 この位置付けがどういうものなのか
 しっかり把握してこれを使っていかなきゃいけない」

まさしくまさしく!

Xでも、多数の人がこの言葉を取り上げていました。
それだけ、本質に迫る言葉なのだと思います。
服藤さんの著書もあります。
https://books.bunshun.jp/articles/-/9329

関連して
「科学は嘘をつかない。でも科学者は嘘をつく」も興味深い記事でしたのでご紹介。
https://bookplus.nikkei.com/atcl/column/060900083/060900002/

こちらもあるあるですよね。
都合の悪いことは無かったことにするという。。。
わからないことは判断保留し継続課題としなければならないのに
多くの人が思い込みによって勝手にストーリーを作ってしまう。。。

認知症のある方の対応で
圧倒的に多いのが
「きちんとした見立てができないと
(障害や症状に関する知識がなく観察・洞察ができないと)
好き嫌いの問題に変換されてしまいがち」

という問題設定の問題があります。

そのために
多くの認知症のある方とご家族の方と志ある介助者が
余分な困難を抱えこまざるを得ず
本当の問題を自覚できない人は困ることすらできないという。。。

人は、過去からの自身の体験を踏まえて
無意識に判断しているものですが
自身の体験が誤っていることだって多々あり
(もちろん正当なことだって多々ありますが)
本質的に誤っていることもあれば
科学の進歩によって過去とは違う見立てができるようになったということもあります。

だから
対人援助職は謙虚でなければいけないと思うし
本質に迫る努力を欠かしてはいけないと思うし
周囲の人皆が言っているから、といった言い訳で逃げてはいけないと思う。

実現の仕方や戦略は様々だとしても
一生懸命対象者のためにしていることで
結果を出し続けていれば
必ず見て理解して取り入れて質問してくれる人がいるものです。

OTはよく「説明して理解をしてもらう」ことを考えるけれど
本当はまず何よりも最初に「自分が結果を出す」ことが必要なんだよね。

「科学は嘘をつかない」
「科学は多数決ではない」
「科学を扱う人の扱い方の問題」
という服藤さんの言葉は職域を超えて共感を呼び起こす言葉だと思いました。

ぜひ、再放送をご覧ください。

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ADL低下予防の実践に際して

皮肉だなーとは思いますが
本当に予防できた時って、その効果を誰にもわかってもらえなかったりします。
起こると予測されたことを未然に防げた、つまり、現実には起こらなかったことだから。

私は認知症のある方の
一見、できないというカタチで現れる行動に反映されている能力を見出し活用する
ということをとても大切にしてきました。

そして同時に
一見、できるというカタチで現れる行動に反映されている困難を見出し最小化する
ということもとても大切にしてきました。

わかりやすいのが食事場面です。
食事を自力摂取できている方だと
どんな風に自力摂取可能なのかという質的側面を見落としてしまいがちです。
ものすごい把持の仕方をしていても、
代償的な取り込みをしていても、
「今、自分で全量食べられる」という状態だと「問題なし」と認定され
現在の過剰代償という認識も
将来起こるかもしれない困難があると予測することも
将来起こるかもしれない困難を最小化するための手立てを今とっておくことも
いずれも「何言ってんの?」「ちゃんと食べてるじゃない」としか認識されずに
対応が後手に回ってしまいがちです。
そして、思った通りの事態が生じても、
過去に指摘したことについては忘却の彼方となっていて
議論が進まず、いちゃもんをつけられたとしか受け止めてもらえなくなったりということも
現場あるあるです。

特に食事介助というのは
ご本人にとっても介助者にとっても大変な場面ですから
できるだけ自力摂取を推奨したいものです。
こんな時に説得力があるのは、過去にいた対象者の方の状態像を引き合いに出して説明することです。

  研修会では「事例があるとわかりやすい」のは
  テーマ問わず職種問わず、共通してよくいただく感想でもあります。
  抽象的な説明を具体的にイメージすることが容易となるからです。
  写真や動画があるとわかりやすい、納得感があるというのも同じ理由です。
  ましてや、文化の変容で本を読まない人が増え
  文字情報から視覚的情報を自身で構築するという体験が乏しい世代にとっては尚更です。
 (当人は体験したことがないので説明してもわからないという
  暗黙の前提要件を共有化できないところを踏まえた説明が必要となります)
  
〇〇が起こることを未然に防ぐために△△するというのは、抽象的説明です。
しかも〇〇が起こる恐れがあるということすら知らない人にとっては余計です。
具体的にイメージできないので、「理屈ばっかり言って」と受け止められかねません。
そこで、共通体験として共有できている事例を引き合いに出して状態像を説明すると
聞く耳を持ってもらえることがあります。
  
「Aさんは最初食事自力摂取できていたけど、だんだん食べこぼしが増えたじゃない?
 あれってスプーンと手指のフィッティングの問題で、
 フィッティングの問題を解決すれば自力摂取が続いていた可能性が高いの。
 今、BさんがAさんと同じ状態だからスプーンの柄にこういう工夫をしてるんだ。」
 
そうすると必ずスプーンの柄に工夫をした時としない時とで食べ方が違うということに
気がついてくれる人が出てきます。
このような体験の繰り返しをすると
「よっしーさんの言うことには必ず意味がある」
 (この言葉を言われた時にはすごく嬉しかったです)
ことをわかった上で実行してもらえるようになります。
  
でも、みんながみんなそうじゃないことだって現場あるあるですよね。
そうなるとここで温度差が出てきてしまいます。
工夫したスプーンを使わないから食べこぼしが増えたのに
食べこぼしが増えたのは「認知症のせい」「認知症が進行したから」
という理由づけをされてそれでおしまい。ということも現場あるあるです。
食環境の重要性の認識がなければそのような思い込みに一層の拍車がかかります。
そのような職場環境だと、予防するために為した
さまざまな実践の意味も効果もわかってもらえることはほぼないと言えるでしょう(^^;

でも、諦めないでほしい。
大切なことは、あなた自身の言動を通して世界に表明することだから
誰にわかってもらえなくても
助けてもらった対象者自身にすら理解してもらえなくても
あなたの実践には意味がある。
今は誰にも理解されず辛い気持ちはよくわかるけど
この体験は必ず後になって、線を結ぶことにつながる
だから自身の実践の確度・精度を高めることの方がずっと重要

  点と点がどんな線を結ぶかは、後になってからでないとわからない
  ということはあちこちで言われていますし
  まさにそうだと思う。

ADL低下予防に取り組む時には
本当に効果的な実践ができた時には
そして周囲の人の理解が及ぼない時には一層
効果があったからこそ誰にもわかってもらえないものだという心構えをしておくこと
皮肉なことに
本当に大切で有効な予防策を実践できた時ほど理解してもらえないものなのだと
予め心構えをしておくことが
自身の心を守ることにもつながります。

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「普遍性という名の幻想」を読んだ

片付けをしていて見つけました!
「普遍性という名の幻想 日本の作業療法における文化的コンテクストの重要性」
20年以上前の論文ですが、この論文の内容は今も色褪せることはありません。

2003年に発刊された、OTジャーナルVol.37No.4に掲載されています。
著者は、Michael K Iwama 氏
英題は、Illusions of Universality The Importance of Cultural Context in Japanese Occupational Therapy

著者は、日本生まれのカナダ育ち
そして、太平洋の東西それぞれでOT学生を教えた経験をもとにして記された論文です。
「東洋と西洋は根本的に文化が異なる」
「西洋で開発された理論は西洋文化を基盤としている」
「日本は西洋由来の理論を型だけ導入して意味を見失っている」
「日本の文化に立脚して理論を変容させるべき」
といったところが要旨でしょうか。

まさしく!まさしく!

西洋と東洋の違いについて、そして今後の展望としてその融合について、かつて河合隼雄も述べていました。

私自身も大人になってから、ちょこっとだけ英会話を習った時に強烈に感じたことがあります。
例えば、「そこにリンゴがあるから食べな」と家族に伝える時に
日本人であれば、そこに幾つのリンゴがあるかは言明しません。
1個だろうが、2個だろうが、個数に触れることはありません。
ところが、英語では「There are two apples. 」と個数を言明します。
英語は、見たまま事実を言語化するんだ。。。と感じました。
日本語では、リンゴが幾つあるのかは見ればわかることだからそこには触れない。
「あんた、食べな」に言葉の力点が置かれていて、言語に省略しかも無自覚の省略がある。

例えば、同じことは臨床場面でも起こっています。
OTが何かしらのActivityの工程を説明する時に多くの人が
「ここをこうしてこうやって」と説明しているのではないでしょうか?
ここがどこなのか、こうするとはどうすることなのか、こうやるとはどうすることか
言葉では何も説明せず、動作で説明をしています。
つまり、相手がきちんと工程を見ているということを暗黙の前提として説明を行い
かつ、相手も説明を受け入れています。

つまり、動作的説明が先行し、言語的説明が後に回っている。
もっというと、視覚情報主体の説明をしている。
言葉に対する力点の置き方が違っています。

大昔、ちょっとした知り合いがアメリカでSEをしていた時に
「超能力者じゃないか」って言われたそうです。
言葉で説明していないことも理解する。。。そう思われても納得できます。

また、会話中に関係性の中で言語化するのが日本語ですが、
関係性に関わらず、自身の表明として言語化するのが英語です。
例えば、「昨日、この本を買わなかった?」「Did’nt you buy the book?」という問いかけに対して
日本語では「うん、買わなかったよ」「ううん、買ったよ」
英語では「Yes,I bought the book.」「No,I didn’t buy the book.」

言葉には発話する人の意思や思考過程が反映されます。
私は海外に旅行したことも留学したこともないので西洋文化を知りませんが、
根本的なところで日本とは違うのだろうと推測はしています。

かつて、日本では西洋に追いつけ追い越せ精神で、西洋技術を果敢に取り入れ、しかも、日本流にアレンジして活用するのが得意だったと聞いてきました。
でも、この論文の著者は「OTは違う」と言明しています。
北米発祥の理論を型だけ導入して、理解できないまま臨床で扱って困惑していると述べています。

その具体例として、OTの定義を挙げています。
OTの定義をスラスラと答える人はたくさんいたけれど、定義を丸暗記しているだけだったと。
この具体例は本当によくわかります。
かつての私もそうでした。
特に学生時代には、高校の部活の仲間によく尋ねられたものです。
「今、何の勉強してるの?」「作業療法って何?」
そこで定義を答えるという。。。しかも、違うんだよなぁと思いつつ。。。
そして尋ねた人も「これ以上は聞いちゃいけない」と暗黙のうちに察してそれ以上は突っ込まないでくれたという。。。
今の私なら、「その人の良い面を良い方向に活かすことを通して暮らしの困難を解決する援助」と言えます。
「OTは難しい」「OTって何だろう?」とOT同士で語り合いたがる人は少なくありませんが
そんなことしたって答えは出てきません。
答えは日々の臨床の中で結果を出すことを積み重ねることで導き出されるものだからです。
(この問題は後日改めて記載します)

話をもとに戻しますが、
自分の仕事を自分の言葉で語れない
もっと言うと本質的には
語るに足る実践ができている人が少ない
ということが大問題のなのだと思います。
定義を丸暗記して答える、丸暗記するくらいですから真面目なのはわかります。
でも答えてはいますが、表面的で型どおり。
聞いた人だってわかったようでわからない。
その言葉には、目の前にいる人の血肉が通っていないからです。

海外からの知識を輸入する時も同様のことが起こっていると著者は言っています。

まさしく!まさしく!

最新の理論を知っている、複数の理論を知っていることがさもOTとして優秀であるかのように振る舞う人も少なくありませんが、目の前にいる対象者に対して結果を出す方が先です。
認知症のある方に対して、生活障害やBPSD・食事介助・ポジショニング・身体リハ・Activityについて
既存の理論が使えた試しがありません。
臨床で使えない理論を有り難がったって意味ないし。

同じコトが違うカタチで起こっているのが目標設定です。
養成校の教員や実習の指導者で目標設定を明確に教えられる人がどれだけいるでしょうか?
教えられないということは、自分が実践できていないということを表しています。
臨床で適切に目標を設定できるために教えるんじゃないのかな?
そのために目標の概念を教えるんじゃないのかな?
いくら目標の概念を諳んじることができたって
臨床家としては使えなきゃ意味がないのでは?
知っている風を装ったって実践で活かせなかったら意味がないのでは?
目標設定で困る学生は山ほどいますし
教えられなくて困っている指導者も山ほどいます。
困っている人のことをちゃんと見ていないから目標の概念をたくさん教えることにエネルギーを注いだりするんじゃないかな?
そしていつの間にか、目標設定に困っている自分自身から目を逸らし
「認知症だから目標設定ができない」なんて平気で言えちゃうようになってしまうんじゃないだろうか?

まさしく、この論文で著者が指摘したことは、
定義、目標設定、実際の臨床場面とカタチを変えてあちこちで今も起こっているのです。
著者は20年以上前に危機意識を持ってこの論文を書いたそうですが
実際には状況はもっと悪化しているのではないかと感じています。

「意味のある作業」を大合唱するOTもいますが、あまりに表層的過ぎます。。。
本来、意味のない作業なんてありません
賽の河原の石積みだって、シーシュポスの神話にだって、虚しい作業という意味があります。
「意味のある」という言葉に託された深みをどれだけ理解して使っているのでしょうか。。。

最後に
著者の記した言葉を記載してこの記事を終わりにします。
  
「OTはクライアントの社会的コンテクストを重視し、彼らがその中でoccupationの新たな意味を発見することを援助することを生業としている」
 
「日本の作業療法に緊急に必要なのは、西洋から導入した理論やモデルを批判的に評価し、日本で使えるように適応、変化させるのと同時に、日本人にとって意味のある新しいモデルを作ることである。臨床現場、クライアントの文化的コンテクストより理解された情報からボトムアップで浮かび上がった新しいパラダイムが必要である。」

 

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認知症のある方へのActivity 現場あるあるの誤解その1

「認知症だから何かさせないと進行してしまう」
「徘徊しないように何かできることない?」
「やりたいことを尋ねたら何もないって言われた」
「やりたいことを提供したのにできなくなっていた」
「できないところは一緒にやるから大丈夫」

これらの言葉を
聞いたことのないOTも
言ってしまったことのないOTも
少ないのではないでしょうか?

私は未熟な時に、最後の言葉を言ってしまったことがあります。。。

認知症のある方で構成障害があると
隣で善意のOTが「ここをこうしてこうやって」と見本を見せても
再現できないケースが多々あります。
構成障害のある方に対して
「ここをこうしてこうやって」と見比べさせるのは
できないことを要請しているという非情な在り方です。
見本を見せてもできない認知症のある方に
動作介助をして何か作品が完成したとしても
認知症のある方に本当に達成感を感じていただけたことになるのでしょうか?
OTの脳みそが認知症のある方の手を動かしているに過ぎないのではないでしょうか?

大切なことは
構成障害を含めた障害像を把握し
代償という不合理な発揮も含めた能力を洞察し
「ここをこうしてこうやって」と言わなくても
認知症のある方が遂行できるActivityを選択・提供・環境調整できることであり
そして、目の前にいる認知症のある方自身にとっての意義を
傍にいるOTが感受し理解できることだと考えています。

認知症のある方へのActivity提供に関して
現場あるあるの誤解・課題について記載していきます。

 

 

 

 

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