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第6回神奈川県臨床作業療法大会 事前参加登録が開始されました!

2024年12月8日(日)に開催される
第6回臨床作業療法大会の事前参加登録が本日9月2日(月)12:00から開始されます !

詳細・お申込は
_大会公式サイトの参加登録_から。

事前申込の参加費は、¥2,000円とのことです。

開催日程は、_こちら_をご参照ください。

第2講演として
「なんちゃって目標からの卒業〜自分自身に問い直す〜」というテーマ

お話させていただきます。

思えば
リハの分野は目覚ましい発展を遂げてきました。
私が高校生の時に進路指導の先生に尋ねられて
「リハビリテーションの学校に行きます」と答えたら
「リハビリテーション?それは何だ?」と言われました。
でも、今やリハを受けたことのない人はいても
リハビリという言葉を聞いたことのない人はいないと思います。

リハの知識も技術も蓄積され
対象分野も大きく広がり
従事するセラピストの数も大きく増えました。

一方で
私が学生の頃からあまり変わっていない課題もあります。
チームワークしかり
目標設定しかり。

なぜなんでしょう。。。

チームワークについては
一時期は飲ミュニケーションという言葉が席巻したこともありますし
目標設定についても
一時期OTの中でブームとなったアプローチもあります。
でも、飲ミュニケーションという言葉は定着しませんでしたし
今の若い人は聞いたこともない言葉なのではないでしょうか?
同様に、一時ブームとなったアプローチだって定着しているとは言いかねます。
定着していない。。。ということは
結局、現場的に
使いづらさがあるとか、現実的ではない、つまり、本質ではない
ということだと思っています。
 
リハも世の中の一部ですから、世の中全般と同じように
リハの世界にも流行り廃りがあるのです。
パワーリハとか回想法とか学習療法とか、一時はものすごい盛り上がりを見せました。
それらはそれぞれ意義がありますから、上手に活用すれば良いのに
「これをすればOK」とばかりに盛り上がり過ぎたように感じています。
流行り廃りがあるということは本質ではないのです。
踊らされちゃいけません。
「曇りなき眼で見定め決める」とは、もののけ姫のアシタカのセリフですが
まさしく、まさしく!

12月の臨床作業療法大会での講演では
目標設定の本質に迫るお話をしたいと考えています。

実は、目標設定で悩んでいる人はすごく多いはずなんです。
(自覚している人はまだしも、自覚できていない人も多い)
「目標をどんな風に設定したら良いのかわからない」
「これで本当に良いのかわからない」
と立案時に悩む人もいれば
「やりたいことを尋ねたら、そんなものはないと言われた」
「やりたいことを提供したら、全然できなかった」
と提供時になって初めて困る人もいますし
目標をちゃんと設定できていないのに困ることすらできない人もたくさんいます。

今思えば、私が学生の時に目標設定をちゃんと教えてくれる人はいなかった。
そして、私もちゃんと教えてと言うことも疑問を抱くこともできていなかった。
じゃあ、今は?
リハの知識や技術の目覚ましい発展に比べ
目標設定に関する知識や技術はどれほど進展してきたと言えるでしょうか?
周囲を見渡す限り、いろいろな場面で見聞きする限り
私が学生の頃とほとんど変わっていないように感じています。

どうしてなのでしょう?

本当は
目標の設定の仕方がわからない
のではなくて
目標とは何ぞや
ということがわかっていないのだ
と考えています。
 
問題の本質を吟味することよりも
表面化した問題を表面的に解決しようと(善意ではありますが)
考えた方法論の限界が見えてきていると思います。
本来、対応すべきは目標の概念理解だったのですから
問題設定の問題に陥っていたことを自覚して
本来の問題に対応すべきだと考えています。

そもそも普通に考えて、
目標の概念理解ができていないのに、目標設定の仕方を検討したり工夫する
って、すっごく変!

コトは目標設定に限りません。
まったく同じコトが違うカタチで臨床現場で起こっているんです。
 
概念の本質を理解せずに対応を考えたり推奨したりしている。。。
食事介助でのムセへの対応しかり
ポジショニングの最大可動域の設定しかり
認知症のある方に敬語を奨励することしかり。。。

極めつけが
どんなテーマで講演しても質疑応答で必ず出る、
「〇〇という状態の人がいますが、どうしたら良いでしょうか?」
というカタチの質問です。
この質問のカタチには、ふだんの思考回路が反映されています。

〇〇という時には、△△する
という思考回路です。
というか、単なるハウツーの当てはめですから思考ですらありません。。。

そのような市場の要請に応じて
ハウツーを売りにした研修も
ハウツーを売りにした本もサイトも散見しています。。。

その一方で
「その人らしさを大切にする」
「その人に寄り添う」
というスローガンは、どの分野でもどの職種でも花盛りです。

本当に。。。?

どういった思考や言動がその人らしさを大切にすることで
どのような思考や言動がその人らしさに寄り添っていないことなのでしょうか?
「言う」のではなくて
「実践する」ためにどれだけ検討し
「実践後」にどれだけ自己検証しているのでしょうか?

「その人らしさを大切にする」
「その人に寄り添う」という理念を
本当に実践・具現化していたら
ハウツーを求める質問は出てこないし
ハウツーを売りにする研修や本やサイトが提供されるはずがありません。
ハウツーは「その人らしさを大切にする」「その人に寄り添ったケア」とは
真逆の在り方だからです。

その反映の現れの一端が
「現状維持」「移動能力の維持・向上」「筋力増加」「可動域改善」「認知機能維持」
といった文言で「目標」として設定されていることも多々あります。

こんなにも、実践と理念が乖離している現実に
疑問を感じる人がどうしてこんなに少ない
のでしょうか?

理学療法士・作業療法士という言葉が1965年に日本に誕生して来年で60年になります。
日本には還暦という言葉があります。
「産めよ、増やせよ」で国策としてのPT・OT養成がひとまわりするわけです。
このあたりで、第二の人生に生まれ変わるという還暦の意味に沿って
もう一度、根幹となるものを考え直しても良いのではないでしょうか?

知見の集積は必須でした。
でも、どんな物事であれ
物事は表裏一体、メリットもあればデメリットもあります。
皮肉なことにリハの知見の集積が叶ったからこそ
蓄積された知見を対象者のために活用するのではなく
知見に対象者を当てはめるような在り方
が広まってしまった側面もあるのではないでしょうか。
知見の集積をどのように扱うのかは扱い手の問題です。
だからこそ、今一度、本質を見直すことが重要なのではないでしょうか。

目標を目標として設定できるということは
それ自体、重要な能力でありますが
それ以上に、臨床能力を下支えするメタ認識を涵養させるという意味でも重要です。

実際に現場で起こっている問題の本質について
言語化し、問題提起し、解決策を提案
している人は稀です。

日本のリハビリテーションの未来を担う人たちに向けて
他では聞けない、本当に貴重なお話を聞ける講演にいたします。

どうぞ、ご参加をご検討ください。

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目標設定は技術である

目標設定は技術です。
技術なので、トレーニングが可能ですし、習得も可能です。

「目標設定をうまく教えられない」という人は
1)概念が理解できていない
2)技術をトレーニングするために必要な要素を明確に認識できていないのだと思います。
だとすれば、明確に認識するようになれば良いだけですし
自分でトレーニングしようとする人は意識すれば良いだけです。

1)については、_前の記事_で示したので
ここでは2)について記載していきます。

ポイントは、段階づけと反復学習です。

骨折術後の人に歩行練習をするに際して
いきなり、杖歩行を練習したりはしないと思います。
段階を踏んだ、リハプログラムを提供すると思います。
子どもに料理を教えようとして
いきなり、材料を提示して「ほら、作ってみな」とは言わないと思います。
まずは、工程の少ない献立を選んで
一緒に作るという場を共有し説明しながら作ると思います。

まず、最初に
「目標設定は思っていた以上に難しいものだ」
「自分はちゃんと設定できていない」
という事実に向き合うこと、認識を共有化する
ことから始めます。
 
次に、概念の理解を細かく段階づけしながら体験学習をしていきます。
判断の根拠は、目標の定義
です。

   「周囲の人がそう言うからそうだと思う」
   「以前に先輩がそう言っていたから」ではなくて
    自らが納得して判断できるように根拠としての定義を示すことが大切です。

 
その都度、目標の定義に立ち戻って体験学習を進めていきます。
教える過程において、細かく段階づけができるということは
教える側がどれだけ概念を明確に理解しているかということと関連
します。
概念の本質を理解するということは大切で大変なことだと認識している人は
これらの一連の過程を丁寧に提供することができると思います。
逆に、概念の本質を理解することをすっ飛ばして
手っ取り早く実際的な事例をもとに目標設定させようとする人は
教える側が「自分はよくわかっていない」と言っているも同然なのです。
そして、そういう人が目標と目的と方針と治療内容を混同させて設定したりするのです。
それを聞いた人は、頭の中が「?」マークでいっぱいになっても
どこをどう尋ねたら自身の疑問が解消されるのかがわからないから
質問することもできず、わからないからわかるように教えて欲しいと言えず
次のステップに進まされ表面的に課題をクリアすることを考えるようになってしまいます。
これが現状なのではないでしょうか?

  先日、とても面白いYouTubeを見ました。
  「バレーボールでレシーブの技術を磨く」
  「どうしたら素早くボールの下に入れるか」
  というテーマで、課題分析とトレーニング方法について説明していました。
  知識提供→できることのステップアップ→遂行困難→一つ前の課題をトレーニング
  という展開でとても納得できる説明でした。
  判断の基となる「見る」ことから始めて
  必要な能力の統合を丁寧に段階的に練習していく方法でした。
  新規事象の学習において、あるいは再学習において
  頭でわかったつもりでも実行できないということは必ず起こります。

  私たちは対象者の行動変容を促すことが仕事なので
  この過程を自身でも体験しておくことは有意義なことだと思います。
  知るー理解するーできる は違います。
  納得できたからといって、すぐに習得できるわけではなく
  地道な反復練習が必要ですが
  「そうだったのか!」「やってみよう」と希望を抱くことができる内容でした。
  コメント欄も「知らなかった」「すごくわかりやすかった」「やってみる」
  というコメントであふれていました。

  バリデーションを学んだ時にも反復練習の重要性を体感しました。
  課された課題を自身と対象者で実践、ビデオに撮ったものを
  受講生で観ながら講師のコメントを聞くという展開がありました。
  同じテーマを異なる対象者と異なる実践者で幾つものパターンを観ることで
  テーマの理解が深まることを実感しました。

 

目標設定のトレーニングも同じです。
概念を明確に言語化して提示
概念を知る→理解する→使える と段階づけて体験学習
していきます。
最初から、リハのケースを使ってトレーニングしない方が良いです。
概念を明確に理解できた後で、実際にリハでよく遭遇する事例をもとに体験学習していきます。
すると、この過程において、実際的な疑問が生じます。
実際的な疑問は、実は概念をより深く理解することと関連していますので
(例えば、基準と条件がどう違うのか?など)
その観点に立って、説明し体験学習するように促します。

詳細は、_目標設定_のページをご参照ください。

つまり、
目標設定を適切に行える
目標を目標というカタチで設定できる
ということは、徹頭徹尾、目標の概念理解ができているかどうか
が問われるので
段階づけてトレーニングすることが必要
ということを意味しています。

行動のカタチで表現できるようになるためには
行動とは何かという概念理解が必要で
その上で段階づけたトレーニングが必要
です。

言い換えれば
段階づけたトレーニングができるためには概念の明確な理解が必要で
概念を明確に理解するためには段階づけたトレーニングが必要なのに
現状では
これら一連の過程をすっ飛ばして
目標の定義を伝え
次に仮想事例で目標を設定させ
当然、的確なフィードバックがなされない。。。
これで「ちゃんと目標設定しろ」という方が無理でしょう。
問題の本質は、技術をどう習得させるか、という『トレーニングの問題』でもあります。
つまり、
対象者の行動変容の促し方」そのもの、
『リハの臨床能力そのものの土台』の問題
でもあります。

目標設定が適切にできるということは、二重の意味で重要なのです。

目標設定は本来「ちゃんとできる」人が教えるべきですが
残念なことに臨床家でも教育家でも
ちゃんと目標設定できる人は少ないのが現実です。
ですが、自己学習も可能です。
_目標設定_のページで自己学習の方法も展開していますし
第6回神奈川県臨床作業療法大会が12月8日(日)に開催されます。
そこで_「なんちゃって目標からの卒業ー自分自身に問い直すー」_
をテーマにお話をさせていただきます。
まずは、一度お話を聞いてみてください。
眼からウロコ、モヤモヤがスッキリすることが多々あると思います。
また、大会そのものが斬新な取り組みを多数検討されているようですし
ぜひ、ご参加をオススメします!
詳細は、公式ウェブサイトの他、XやInstagramをご確認ください。

さて、臨床家にとって大切な目標設定
対象者の状態の見通しがわからない、ということとは別問題
むしろ、わからないからこそ、目標設定することに意義があります。
これは次の記事で述べていきます。

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目標を目標というカタチで設定する

目標設定について
養成校でも臨床指導者からも職場の先輩からも
概念理解と技術面の両面をきちんと教えてもらったことのある人の方が
少ないのではないでしょうか。

目標を目標というカタチで設定できることが非常に重要なのに
目標設定なんて簡単とか
目標設定が曖昧でも臨床をちゃんとやってれば問題ないとか
思われてるんじゃないかなーと思います。

たとえば
・「活動に参加を促す」
・「現状維持」
また、下記のような実施計画書を見たこともありました。
・「目標:関節可動域の改善・筋力の改善 
  方針:関節可動域の改善・筋力の改善  
  治療内容:関節可動域訓練・筋力増強訓練」
・「認知症だから目標を共有できない」として目標の欄が空欄

これら「なんちゃって目標」がまかり通っているのは、現場あるあるです。
「あ、自分もそうだ」と思った方は
後輩や学生に指導するときに説明できなくて内心困ったことがあるのではありませんか?

でも、ちゃんと説明できなくて
「言葉にするのは難しいけどそのうちだんだんわかってくるよ」とか
「だいたい良いんじゃない」とか
言ってしまったことがあるのではないでしょうか?

内心、モヤモヤとした気持ちを抱きながらも
日々の忙しさに紛れて後回しになってしまい、そのままになってしまったとか
職場の先輩や友人に相談したけれど納得のいく答えがもらえなかったこともあって
そのままになってしまったということだってあるのではないでしょうか。

「冒頭のなんちゃって目標のどこが悪いのか、わからない」という人は
ちゃんと教えてもらえる機会がなくて
「目標とは何ぞや?」ということをわかっていないのです。

ぜひ、こちらのサイトの_目標設定について_を読んでみてください。
きっとお役に立てると思います。

少なくとも
「これは目標だ」「これは目標じゃない」と
目標とそうでないものの区別がはっきりとつくようになります。
つまり、目標の概念を明確に理解できるようになります。
概念の本質を理解する体験ができるのです。

この体験はとても重要です。

臨床で最も重要な観察・洞察を的確に行えるようになるために
自身の内なるものを科学的であるように涵養していくための
最初の出発点は概念の本質を理解することだからです。

誤解している人が多いなーと思うことは
「科学的=多数の論文を読む」
「科学的=最新の知見を多数知っている」
「科学的=理論を使用している」
ことだと思っている人の多さです。
もちろん、それらの努力を否定はしません。
しないよりはした方が良いでしょう。
でも、多数の論文をいくら読んだって、
最新の知見をいくら知っていたって
いくら理論武装したって、
肝心の目の前にいる対象者の方が良くならなければ意味がありません
 
ここが重要なんです。
私たちは臨床家ですから臨床能力を高めるための手段として、
論文を読んだり最新の知見に触れたり理論を学んだりするのであって
それらが目的ではありません。
(私がよく言う、手段の目的化が起こっているのです)

かつて、「OTは科学的じゃない」という批判を受けた時に
おそらく、焦ってしまって努力の方向を間違えてしまったのだと思う。

だから、多数の検査をしても
目の前にいる対象者の方の言動から障害と能力を観察・洞察し損ねてしまう臨床家や
検査はしても、その結果を対応や治療に活用できない臨床家が
多いのではないでしょうか?
 
その証拠に
HDS-Rをとっても、その結果を声かけの工夫に活かせない臨床家が多すぎです。
HDS-Rをとることが目的化してしまい、どのように日々の臨床に活用するのかという
観点が欠落し、肝心の実践が為されていないことが多々あります。

立方体透視図模写テストや五角形模写課題をしても
「構成障害とは何ぞや?」という問いに明確に答えられなかったり
トレイルメイキングテストをしても
「遂行機能障害とは何ぞや?」という問いに明確に答えられなかったりします。
そんな状態で認知症のある方に
何が起こっているのか観察も洞察も出来ようはずがありません。
だから「〇〇という人にどうしたら良いの?」というカタチの質問が
あふれかえる。。。
 
評価と治療が乖離している

ハウツー的対応が跋扈するわけです。

その方に対して何をどうしたら良いのかは
その方に今、何が、起こっているのかを洞察できれば
自然と一本道のように浮かび上がってくるものです。

どうしたら良いのかと
考えたり、悩んだりする時点で
状態像を把握できていないということを示しています。

この時すべきことは
どうしたら良いのかを人に尋ねることではなくて
対象者の状態像把握に立ち戻ることです。
状態像の把握ができるためには観察・洞察することです。
観察・洞察ができるためには知識が必要です。
知識というのは
「構成障害という言葉を聞いたことがある」
「構成障害は立方体透視図模写テストをして確認する」
ということではなく、
構成障害という概念の本質を理解できていることが求められます。

目標設定もまったく同じなんです。
 
「目標とは何ぞや?」ということが理解できていないのに
適切に目標設定ができるわけがない。
よく言われる誤解が
「学生や若手だと経験がなくて将来像がわからないから目標が立てられない」と
目標の中身・内容の問題にすり替えられてしまうことですが
ここでも「問題設定の問題」が起きています。
だから、いつまで経っても適切に目標設定できるセラピストが増えてこない。
将来像がわからない、確信が持てないからこそ、目標を設定することに意義があるのです。
(このことについては別の記事で述べたいと思います)

目標設定の基礎は3時間あれば習得可能です。
基礎さえ教えてもらえたら、後は自分自身で蓄積・修正ができるようになります。

そして
今まで曖昧にしていた目標の概念理解が可能となると
リハ領域で曖昧にしていた諸々の知識の概念理解を
自己修正しようとする意思が働くようになります。
仮に、多忙のために先送りしていたとしても
機会が巡ってきた時に「これだ!」ということがピンとくるようになります。

まさに、一事が万事

ひとつの表面的な事象を理解するということは
同時にその表面的な事象を下支えしているメタ認識の理解も行う
ことになるからです。

これらの過程は
まさに、私たち自身の Re-Habilis(再び適する) です。

 

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実習指導CCSの振り返りも必要では?

実習指導について
今は、CCSクリニカルクラークシップが導入されるようになっています。
でも、一度振り返りをして軌道修正することも必要なんじゃないかと考えています。

なぜ、OTの卒前養成過程に実習が組み込まれているのか
なんのために、学生時代に実習をする必要があるのか
そこをもう一度再確認することも必要だと思う。

かつて、私が実習指導に関与していた時には「楽しい実習」の大合唱でした。
どの養成校の教員も「実習は楽しく」
どの指導者も「実習は楽しく」
もしかして、学生も「実習は楽しく」って思ってるとか?

???

私はずっと前から異議申し立てをしていますが
将来、OTとして一人前に働けるようになるための体験学習だから
結果として「楽しかった」と思ってもらえるならそれは良いことだけれど
最初から楽しい実習を目的とするのはどうなんだろう?
教えるべき、体験させるべきことはきちっと教え、
体験させる必要があるのではないかと考えています。

  飛行機のパイロットの養成過程で
  「楽しい養成を」なんて合言葉になっているんだろうか?
  もちろん、ハラスメントはいけないけれど
  どんな状況に陥っても、突発的な事態になっても
  安全に飛行機を飛行させ目的地に着陸させることができるようになるために
  相当厳しいトレーニングがなされているのではないでしょうか?
  明確な基準をクリアして初めて操縦桿を握ることが許されるのではないでしょうか?

「楽しい実習」が大合唱されるようになった背景として
多分、以前の実習のハードワークや理不尽さに対する反動もあるのだとは思う。
私自身は、(できない学生だったけど)実習で過剰に追い詰められることもなかったし
重箱の隅をつつくような指導をされたこともなかったし
夜遅くまで実習地に残されることもなかったし
理不尽な課題を要求されることもありませんでした。
(逆に、ちゃんと教えてもらえたかというとそれは微妙でしたが。。。)

ただ、上記のような体験をした人には、多数出会っていて体験談をたくさん聞かされました。
それはやっぱり良くないことだと思うし、改善されるべきだと思う。
だけど、旧来の実習の良い面もあったと思うし、必要不可欠な要素もあったとは思う。
それは、体験学習ができること
自分のできなさという事実に直面できること。
指導者がいるという安全な環境
多少の失敗(致命的な失敗は許されませんが)も試行錯誤も許容されること。

CCSも本来はそうだったんだと思うけど
導入の段階で微妙なすり替えが起きたんじゃないかと思っています。
それは、EBMを導入した医師が現在の取り扱われ方について異議申し立てをしているのと同じように。

実習に来た学生が見違えるように変わっていく姿、過程を見ることができるのは
指導者にとっても大きな喜びです。
でも、それは結果だから、常に得られるとは限らない。
ここで、いつの間にか、結果の目的化が起こったんじゃないかな?

目の前にいる対象者に対しての関与という、紛れもない事実・体験から虚心に学ぶ
事実だから、都合の良い事実だけが生じるわけがない。
その時に、学生も指導者もどう対峙するかが問われる。
でも、そんなの働いていればヤマほど遭遇することです。

お膳立てされた体験とは、まったく違う。

もちろん、臨床家養成の1ステップとして
お膳立てされた体験も必要かもしれないけれど
問題は、それだけしか体験できないことだと思う。
今の実習指導の形態では
就職してから、いきなり、お膳立てされていない体験に直面することになっています。

以前だったら、指導者のいる安全な実習期間中に体験できたことを
今は、入職して初めて、一人の国家資格者として周囲のOTと同等の立場にありながらも、
未知の体験に直面することになります。

言い方を変えれば
学生が実習で体験すべきことを先延ばしにして就職先に丸投げしている
とも言えるような状況が生まれてきています。
体力のある就職先や卒後養成が確立されている就職先に入職できれば
体験学習を受けながらフォローしてもらいながら働いてもらう猶予期間を設定できます。
でも、昨今の厳しい診療報酬や介護報酬の中では、そのような就職先は限られているんじゃないでしょうか。

国家資格者としての責務を負いながらも
わからないことだらけの中でどう「在る」のか、ふたつに分かれます。

   今春放映されたTBSの「アンチヒーロー」の最終回で主人公の明墨が語ります。
  「人は2とおりに分かれる。真実と向き合うものとそこから目を背けるものと。」

自分自身のできなさを正視し愚直に努力する人と
その場を取り繕うことはしても技術職のプロとしての努力をしない人と

どちらのOTに担当されても
対象者とそのご家族は、同じ時間とエネルギーとお金を国家資格者への対価として支払います。
美容師の世界のように一般のスタイリストとトップスタイリストで支払う金額に差があるわけではありません。
厳然とした技術差があっても。

将来、医療や介護保険の受け手に回ることがあれば
自分や家族はちゃんとした人に担当してもらいたいと思う。

ちゃんとした人を養成できる仕組みになっているんだろうか?

OTの世界でも、ホワイト化が進んでいます。
それはとても良いことだと思う。
終業後に残って勉強会を開催することは難しくなり定時で帰ることが要請される。
それ自体は良いことだと思う。
でも、カタチとしてのホワイト化が進む一方で
職場の後輩指導や実習指導にあたる人たちは、どう時間を捻出するか
そこから悩んでいるんじゃないでしょうか?
そして、ようやく捻出した限られた時間で教えようとしても
自分自身のできなさに直面する意思も体験もしてこなかった人たちは
果たして、真摯に教えようとしてくれる人に感謝することができるのでしょうか?
関係ない職場であれば、国家資格者なんだから自己研鑽、個人の問題と切り離せるのでしょうけれど
職場として最低限の質の担保をしようと考えた場合にその重責は一気に養成担当者にのしかかります。

「こうすればああなる」というハウツーを要求し
自分が困らないことを暗黙の優先事項として対応していることすら自覚できない人に対して
ハラスメントに注意し後輩の背景や気質を尊重した上で
職場の底上げを考えた時に、共有できるメタ認識の少なさに愕然とすることだってあるのではないでしょうか。

OTの志望動機として「家族・知人に勧められたから」という人が圧倒的に増えています。
お金を稼ぐ1つの職種としての認識だと資格を取ったらゴールと考えて当たり前かもしれません。
養成過程において成功体験だけを蓄積され、自身の困難に向き合う体験ができなければ
回避しようとするのも必然の防衛機制なのかもしれません。
 
本来は、資格をとったということは、
OTとしてのスタート地点に立つ資格を得たに過ぎないんですけどね。

ゴールと考えている相手とスタートと認識している人とでは、お話にならない。
双方にとってのストレスですが
この場合、スタートと認識している人の方が心身のエネルギーを削がれます。
(ゴールと考えている人には、そんなことすら想像もできません)

そしておそらく
「資格をとった=ゴール」と考えて就職した人たちも
既に後輩や学生を教える立場になっているのではないでしょうか?
何をどう教えることができるのでしょうか?
ハラスメントは絶対ダメ!と教わってきた人たちは
(確かにそうですが)
指導に際して、自身の言動がハラスメントに当たらないかどうか不安で
当たり障りのないことを言うしかなかったりするのではないでしょうか?

そういったことは、すでにあちこちで起こっているんじゃないでしょうか?
表面化していないだけでたくさんの人たちが悩んでいるのではないでしょうか?

もうそろそろ、このあたりで
より良いOTを育成するために、
いったんCCSの功罪について、
そしてその取り扱われ方についても検討する時期なのではないでしょうか。

 

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Cheer ! 陰ながら心から

中島みゆきの「ファイト!」と「宙船」の歌をぜひ聴いてほしいと思います。

働いていると、いろいろなことがあるじゃないですか。
詳しく説明しなくてもツーカーで分かり合える人と出会えたり
頑張っている人の踏ん張りを見聞きして自分も頑張る勇気をもらえたり
一方で
胸糞悪いことも、理不尽なことも
一生懸命な人が辛い思いをするだけだったり
足を引っ張られたり、悪者にされたり

そういうのも、頑張ってるからこそ。なんだよね。

大切なことは、自己表明なんだと思ってます。
わからんちんにじゃなくて、世界に対しての。
私はこうしています、こう在りたいですと、世界に対して、自分自身に対して、表明する。
(表明とは言葉だけじゃなくて行動も含めています)
だから、わからんちんにわかってもらう必要なんて全然ない。
ただ、わからんちんにも言った方が良い時もあるとは思う。
「私は表明した。あとはあなたの選択。選択した責任はあなたにある。」という意味で。
もしも、その人の中でアンテナがちょこっとでも立っていたら
今すぐには無理でも、後になって伝えられた言葉を思い出して真正面から受け止めてくれることがあるかもしれない。

以前に勤めていたところで
あんまり話をしたことがなかった(実は私はあんまり信頼していなかった)人から
「よっしーさんて、対象者や家族の悪口は絶対言わないものね」と言われたことがあって
びっくりしたことがあります。

どんなOT人生を送るかは、自分で決めて選ぶことができます。
そして、言葉にすることで、行動に示すことで、自身の選択を表明することができる。
変な言い方に聞こえるかもしれないけど、
表明すると、そして表明に足る実践を続けていると
状況が変わったり(本当にありえないような変化が起こったこともありました)
実現の機会に遭遇することが本当に起こりました。

これはどういうことなのか、わかりません。
神様が願いを叶えてくれたのか
世界が聞き届けてくれたのか
たまたまそういう巡り合わせだったのか
巡り合わせは実はたくさんあったのに気づかずに過ぎてきたことを自分が気づけるようになったのか
自分が変わったから周囲を見る自分の視点が変わって同じ景色を見ていても異なるように見えたのか
何が起こっていたのかはわからないけれど、
私の相手は私であって、わからんちんじゃないってことだと思う。

時には、闘えなくなることだってあるし、漕いでた手が痛くて動かせない時だってあるし
冷たい水の中でじっと耐えてることが最善のことだってあると思う。
でも、今、手応えがなくても先が見えなくても、奥歯を噛み締め涙を堪えても
それは、頑張ろうという志を持ってるからこそ
そう在りたいという願い、そうせざるをえない志を持っているからこその辛さ
その願いや志が崇高であればあるほど、そんな容易く実現できるわけがない。
だから、表明し続けないと。

肝心なことは、口先だけじゃダメ。
当たり前だけど。
だって、「自分は口先人間だ」って世界に表明してることになっちゃうから。

今、辛い思いをしながらも、頑張っている人たちに伝えたい。
頑張りが無駄になることは決してない。
望んだ結果になることばかりじゃないけど
真摯な努力は確実に自身の成長につながっているし
別の場所で頑張っている誰かがちゃんと見ていてくれてる。
仮に、誰にもわかってもらえず、本当に孤独な思いに潰されそうな時があっても
世界に表明しているのだから、それで良いのです。
そうやって、崇高な志や願いを実現するに足る実践力が磨かれていくように感じています。

時には休んでも
時には後退りしても
願いや志を捨てさえしなければ
状況を変えられるだけのチカラがつくか
状況の方が変わってくるか
いずれにしろ、機会は巡ってくるから
その時に十分にチカラを発揮できるように牙を研いでおく。
ハタからは沈黙と思われても、自分にとって雌伏の時期を過ごせば良い。

「るろうに剣心」の中で
「捨てたものは見つからないが、失くしたものはきっと見つかる」というセリフがありました。

正確には
「まあ しかし 長い人生 何かを失うコトは常につきまとうもの 捨てなければそれでいいんじゃ」
「失ったものは再び不思議と見つかったりもするが 捨てた物は再び不思議と拾えた例がない」
というオイボレのセリフのようです。

だから、頑張れ〜!
私も頑張る〜!

一見、悪いことに見える良いことも
良いことに見える悪いこともあるから
OT人生ってわからないものです。

 

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「普遍性という名の幻想」を読んだ

片付けをしていて見つけました!
「普遍性という名の幻想 日本の作業療法における文化的コンテクストの重要性」
20年以上前の論文ですが、この論文の内容は今も色褪せることはありません。

2003年に発刊された、OTジャーナルVol.37No.4に掲載されています。
著者は、Michael K Iwama 氏
英題は、Illusions of Universality The Importance of Cultural Context in Japanese Occupational Therapy

著者は、日本生まれのカナダ育ち
そして、太平洋の東西それぞれでOT学生を教えた経験をもとにして記された論文です。
「東洋と西洋は根本的に文化が異なる」
「西洋で開発された理論は西洋文化を基盤としている」
「日本は西洋由来の理論を型だけ導入して意味を見失っている」
「日本の文化に立脚して理論を変容させるべき」
といったところが要旨でしょうか。

まさしく!まさしく!

西洋と東洋の違いについて、そして今後の展望としてその融合について、かつて河合隼雄も述べていました。

私自身も大人になってから、ちょこっとだけ英会話を習った時に強烈に感じたことがあります。
例えば、「そこにリンゴがあるから食べな」と家族に伝える時に
日本人であれば、そこに幾つのリンゴがあるかは言明しません。
1個だろうが、2個だろうが、個数に触れることはありません。
ところが、英語では「There are two apples. 」と個数を言明します。
英語は、見たまま事実を言語化するんだ。。。と感じました。
日本語では、リンゴが幾つあるのかは見ればわかることだからそこには触れない。
「あんた、食べな」に言葉の力点が置かれていて、言語に省略しかも無自覚の省略がある。

例えば、同じことは臨床場面でも起こっています。
OTが何かしらのActivityの工程を説明する時に多くの人が
「ここをこうしてこうやって」と説明しているのではないでしょうか?
ここがどこなのか、こうするとはどうすることなのか、こうやるとはどうすることか
言葉では何も説明せず、動作で説明をしています。
つまり、相手がきちんと工程を見ているということを暗黙の前提として説明を行い
かつ、相手も説明を受け入れています。

つまり、動作的説明が先行し、言語的説明が後に回っている。
もっというと、視覚情報主体の説明をしている。
言葉に対する力点の置き方が違っています。

大昔、ちょっとした知り合いがアメリカでSEをしていた時に
「超能力者じゃないか」って言われたそうです。
言葉で説明していないことも理解する。。。そう思われても納得できます。

また、会話中に関係性の中で言語化するのが日本語ですが、
関係性に関わらず、自身の表明として言語化するのが英語です。
例えば、「昨日、この本を買わなかった?」「Did’nt you buy the book?」という問いかけに対して
日本語では「うん、買わなかったよ」「ううん、買ったよ」
英語では「Yes,I bought the book.」「No,I didn’t buy the book.」

言葉には発話する人の意思や思考過程が反映されます。
私は海外に旅行したことも留学したこともないので西洋文化を知りませんが、
根本的なところで日本とは違うのだろうと推測はしています。

かつて、日本では西洋に追いつけ追い越せ精神で、西洋技術を果敢に取り入れ、しかも、日本流にアレンジして活用するのが得意だったと聞いてきました。
でも、この論文の著者は「OTは違う」と言明しています。
北米発祥の理論を型だけ導入して、理解できないまま臨床で扱って困惑していると述べています。

その具体例として、OTの定義を挙げています。
OTの定義をスラスラと答える人はたくさんいたけれど、定義を丸暗記しているだけだったと。
この具体例は本当によくわかります。
かつての私もそうでした。
特に学生時代には、高校の部活の仲間によく尋ねられたものです。
「今、何の勉強してるの?」「作業療法って何?」
そこで定義を答えるという。。。しかも、違うんだよなぁと思いつつ。。。
そして尋ねた人も「これ以上は聞いちゃいけない」と暗黙のうちに察してそれ以上は突っ込まないでくれたという。。。
今の私なら、「その人の良い面を良い方向に活かすことを通して暮らしの困難を解決する援助」と言えます。
「OTは難しい」「OTって何だろう?」とOT同士で語り合いたがる人は少なくありませんが
そんなことしたって答えは出てきません。
答えは日々の臨床の中で結果を出すことを積み重ねることで導き出されるものだからです。
(この問題は後日改めて記載します)

話をもとに戻しますが、
自分の仕事を自分の言葉で語れない
もっと言うと本質的には
語るに足る実践ができている人が少ない
ということが大問題のなのだと思います。
定義を丸暗記して答える、丸暗記するくらいですから真面目なのはわかります。
でも答えてはいますが、表面的で型どおり。
聞いた人だってわかったようでわからない。
その言葉には、目の前にいる人の血肉が通っていないからです。

海外からの知識を輸入する時も同様のことが起こっていると著者は言っています。

まさしく!まさしく!

最新の理論を知っている、複数の理論を知っていることがさもOTとして優秀であるかのように振る舞う人も少なくありませんが、目の前にいる対象者に対して結果を出す方が先です。
認知症のある方に対して、生活障害やBPSD・食事介助・ポジショニング・身体リハ・Activityについて
既存の理論が使えた試しがありません。
臨床で使えない理論を有り難がったって意味ないし。

同じコトが違うカタチで起こっているのが目標設定です。
養成校の教員や実習の指導者で目標設定を明確に教えられる人がどれだけいるでしょうか?
教えられないということは、自分が実践できていないということを表しています。
臨床で適切に目標を設定できるために教えるんじゃないのかな?
そのために目標の概念を教えるんじゃないのかな?
いくら目標の概念を諳んじることができたって
臨床家としては使えなきゃ意味がないのでは?
知っている風を装ったって実践で活かせなかったら意味がないのでは?
目標設定で困る学生は山ほどいますし
教えられなくて困っている指導者も山ほどいます。
困っている人のことをちゃんと見ていないから目標の概念をたくさん教えることにエネルギーを注いだりするんじゃないかな?
そしていつの間にか、目標設定に困っている自分自身から目を逸らし
「認知症だから目標設定ができない」なんて平気で言えちゃうようになってしまうんじゃないだろうか?

まさしく、この論文で著者が指摘したことは、
定義、目標設定、実際の臨床場面とカタチを変えてあちこちで今も起こっているのです。
著者は20年以上前に危機意識を持ってこの論文を書いたそうですが
実際には状況はもっと悪化しているのではないかと感じています。

「意味のある作業」を大合唱するOTもいますが、あまりに表層的過ぎます。。。
本来、意味のない作業なんてありません
賽の河原の石積みだって、シーシュポスの神話にだって、虚しい作業という意味があります。
「意味のある」という言葉に託された深みをどれだけ理解して使っているのでしょうか。。。

最後に
著者の記した言葉を記載してこの記事を終わりにします。
  
「OTはクライアントの社会的コンテクストを重視し、彼らがその中でoccupationの新たな意味を発見することを援助することを生業としている」
 
「日本の作業療法に緊急に必要なのは、西洋から導入した理論やモデルを批判的に評価し、日本で使えるように適応、変化させるのと同時に、日本人にとって意味のある新しいモデルを作ることである。臨床現場、クライアントの文化的コンテクストより理解された情報からボトムアップで浮かび上がった新しいパラダイムが必要である。」

 

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認知症のある方へのActivity 現場あるあるの誤解その1

「認知症だから何かさせないと進行してしまう」
「徘徊しないように何かできることない?」
「やりたいことを尋ねたら何もないって言われた」
「やりたいことを提供したのにできなくなっていた」
「できないところは一緒にやるから大丈夫」

これらの言葉を
聞いたことのないOTも
言ってしまったことのないOTも
少ないのではないでしょうか?

私は未熟な時に、最後の言葉を言ってしまったことがあります。。。

認知症のある方で構成障害があると
隣で善意のOTが「ここをこうしてこうやって」と見本を見せても
再現できないケースが多々あります。
構成障害のある方に対して
「ここをこうしてこうやって」と見比べさせるのは
できないことを要請しているという非情な在り方です。
見本を見せてもできない認知症のある方に
動作介助をして何か作品が完成したとしても
認知症のある方に本当に達成感を感じていただけたことになるのでしょうか?
OTの脳みそが認知症のある方の手を動かしているに過ぎないのではないでしょうか?

大切なことは
構成障害を含めた障害像を把握し
代償という不合理な発揮も含めた能力を洞察し
「ここをこうしてこうやって」と言わなくても
認知症のある方が遂行できるActivityを選択・提供・環境調整できることであり
そして、目の前にいる認知症のある方自身にとっての意義を
傍にいるOTが感受し理解できることだと考えています。

認知症のある方へのActivity提供に関して
現場あるあるの誤解・課題について記載していきます。

 

 

 

 

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卒後養成の課題

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実習がクリニカルクラークシップ(CCS)に移行したことに伴い
今後就職先での卒後養成をどう組み立てていくかということが
ますます問われるようになると考えています。

資格のない学生が
安心して安全に体験学習が行えるようにするために
卒前の実習がCCSへ移行するのは理の当然なのでしょう。

一方で
従来型の実習に比し、どうしても主体的な取り組みとはなりにくい構造でもあります。
つまり、学生としての体験学習はしたが
一人の療法士としての体験学習をしていない人を
どのように職場で従事させるか、養成していくかという問題が起こります。

職場によっては
かなりシステマチックに卒後養成に取り組んでいる施設もあるようですが
今後卒後養成の充実度のばらつきが顕在化してくるのではないでしょうか。

今はどの分野の人も忙しい日々を送っている人ばかりだと思います。
一方で働き方改革が進められ(このこと自体はもっともなことですが)
皮肉にもより一層時間的制約が厳しくなったと感じている人もいるのではないでしょうか。

私が就職した頃に比べると
論文をオンラインで読めるようになったり
本も多数出版されるようになり、動画も付属していたり
研修会も協会や士会以外の民間の研修会主催団体が多数出てきて
学ぶ環境はものすごく豊かになってきたと感じています。

学ぼうとする人はどんどん学べるような環境が整ってきている一方で
そうでない人もますます増える構造にある。。。

  どんな世界もピンキリですし
  2:6:2の法則もありますし
  自己責任ですから言ったってキリがないし
  
組織として、専門職としての最低限担保したいラインを
どこに置くのかが
問われるようになってきたのではないでしょうか。
もう既に作業療法士は居てくれればありがたいという職種ではなくなっています。

大きな規模の施設にも、小規模の施設にも
個々それぞれの課題が顕在化されつつあるのではないでしょうか。

あちこちで開催される研修会の大多数が机上の知識伝達型です。
専門職として、知識の習得は必須ではありますが
「聞いたことがある」レベルにとどまってしまうようでは
臨床家として実践に活用できているとは言えません。

認知症の分野で言えば
基礎的な知識提供型や実践紹介などは数多くあれど
それらを結びつける一番肝心な
知識をどのように活かすのか
知識と実践を結びつける臨床思考解説型の研修会は
とても少ないのが現状です。

知識の伝達は知識伝達
ハウツー的実践はハウツーとして
乖離された伝達がなされがちな現状があります。

ポジショニングしかり、食事介助しかり、Activityしかり。。。

また
先の記事 でも書いてきたように
問題設定の問題というのは認知症の分野で頻出していますし
おそらくOTの関与する他の分野でも潜在しているはずです。

臨床家は
結局のところ、OJTで育っていくものと感じています。
知識と技術は、その時々で深め広げていくもの。

限られた時間とエネルギーの中で
どうしたら、良い作業療法士を育成できるのか
問題設定の問題に絡め取られずに
手段と目的の混同やすり替えに自覚的になれるようにするために
どうしたら良いのか

あるあるなのが
スローガンを立てることですが
混同しないようにしましょう、すり替えないようにしましょう
といくら唱えても改善できるはずがありません。

混同していない人、すり替えない人は
混同やすり替えをしている人がすぐにわかりますが
混同している人は、混同していない人との区別ができません。
混同しないことがどういうことかわからないので
行動を修正することもできません。

まさしく、混同するなと言うのではなく
混同しないように指導することが必要なのです。

メタ認識の問題ですが
現場で切実に必要なのに
研修会で教えてくれることはありません。
それどころか、研修会で混同の具体例を開陳されることのなんと多いことか。。。

私が
どの分野にも共通する、臨床家として
最低限必須の、これだけは習得させるべきと考えているのは
目標設定です。

目標設定さえ、目標というカタチで設定できれば
なんちゃってOTにならずに
自分で自分を育てていける
対象者の不利益を回避することができると考えています。

目標設定は
学校で習ったけど、わかったようなわからないような。。。とか
実習中に指導者に尋ねても
「そのうちわかるよ」
「頭ではわかっているけど言葉にできないだけだから気にしないでいいよ」
などと励まされてるんだか、誤魔化されてるんだかわからない。
いった体験をしてきた。。。とか
実は、自分の目標設定って自信がない。。。とか
後輩や学生に教えるのに困ってる。。。という人でも
目標を目標というカタチで設定できるように
自分でトレーニングをすれば良いだけです。

しかも、目標を目標というカタチで設定できるようになるということは
目標設定の上達と同時に
概念の本質を理解し、実践に活かすという
メタ認識・メタ能力を向上させる
ことにもなります。

メタ認識・メタ能力そのものをトレーニングすることは難しいけれど
目標設定の過程を通して
メタ認識・メタ能力をトレーニングすることは可能です。

若手作業療法士には、一石二鳥!
超オススメですよ (^^)

本当に概念の本質を理解し、実践に活かすことができる人は
目標となんちゃって目標の区別ができます。

リハやケアの分野で蔓延している
「一見正しそうで、よくよく考えるとおかしなこと」にも
気がつけるようになります。
本来はどうすべきだったのか、わかるようになります。
そして、おかしなことなのにどうして広まってしまったのか
ということもわかるようになります。

でも、概念の本質を理解し、実践に活かすことをしていない人は
「みんなが言ってるからおかしくないじゃん」
「言葉遊びなんじゃないの?」
としか、思えないのです。
そして、目標となんちゃって目標の区別がつかないのです。

私としては、
卒後養成のいの一番に、目標設定のトレーニングをオススメします。
仮に、組織として取り組みがなかったとしても
たった一人、自分一人だけでもトレーニングすることが可能です。

目標設定やそのトレーニング法については、
すでに記事にしてありますので
あちこち検索してみてください。

 

 

 

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