Category: 本文

非麻痺側のべた足歩き

非麻痺側のべた足歩き歩行時に非麻痺側の足関節の背屈が起こらないケースが圧倒的に多いのです。
ヒールコンタクトが起こらない。
非麻痺側なのに。

非麻痺側ですから
当然、端座位では、足関節を背屈できます。
でも、歩行時にはヒールコンタクトではなくて足裏全体で接地しているのです。

初めて、このことに気がついた時には自分の見間違いかと思いました。
何度も見直しました。
何人もの方の歩容を確認しました。
やっぱり見間違いなんかじゃない。

このことが意味することは一体なんなのでしょう?

おそらく、安定性を優先して非麻痺側下肢のはたらきを自制しているのだと思われます。

身体は総体としてはたらいている
身体は身体を守っている

私はこのことを確信しています。
いつかどこかで書くつもりでいますが
認知症のある方においても言えることなのです。

非麻痺側のべた足歩き

なぜ、こんなにも明白なことなのに
今まで誰も気がつかなかったのか…

身体を部分として捉え
麻痺側を「修正すべき」対象として捉え
歩行観察はしても
全体をみていなかったことの証しではないでしょうか。
非麻痺側の下肢なのだから「問題」が起こるはずがない。

最初から「非麻痺側は問題ない」として
「見れども見えず」状態だったのではないでしょうか。

そして、もし、そうだとしたら
同じことが他の状況でも起こっているのではないでしょうか

それらの意味することは何なのか…

私たちは科学的という言葉を使う一方で
とても重大なことを見落としてきてしまったように感じられてなりません。

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良い姿勢?

良い姿勢?食事の姿勢のことです。
食事をする時には、良い姿勢で食べましょう。
股関節90度、膝関節90度屈曲位が正しい姿勢です。
…ということで、振り子式車いすにかろうじて座っている人も食事中に起こされて食べにくそうにしている人をよくみかけます。

うーん…

上体はムリに起こさなくても大丈夫。
それよりも、頸部の角度が誤嚥防止には重要なのです。

上体をムリやり起こして良い姿勢を作ったとしても
頸部後屈してしまっていたら
それこそ、誤嚥一直線(> <) ふだん、ただ座るだけでも、ちゃんと座ることができない方が 座る+食べることを両立しておこなえるでしょうか? 食事というのは楽しみであると同時に生命に直結した行為です。 まず、安全に食べられることが何よりも大事です。 看護学の教科書にも90度の常識が書かれているそうですが だからこそ、実際の現場で 頸部の角度確認の重要性を声を大にして訴えていかねば…! 「良い姿勢」「正しい姿勢」もいいですが 目の前の方にとって「より適切」な姿勢を担保することが 第一優先なんじゃないかしら…と思うのであります。 そして、その時にその姿勢が「適切」かどうかの判断根拠は 何を為すための姿勢か…ということ。 目的とする行為が何なのか…ということだと考えています。

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丁寧な段階づけの工夫を

段階付け…という言葉ってもう死語になってしまったのでしょうか?
「何をしたらいいのでしょう?」
と聞かれることはあっても
「どのようにしたらいいのでしょう?」
って、あんまり聞かれないかも(^^;

同じ1つの課題でも素材や方法や場面設定を工夫することで
いろいろな状態像の方ができるようになります。

丁寧な段階づけの工夫をむしろ、既に知られていたり、市販されている課題で何の工夫もしないでできることのほうが少ないと思います。

工夫をする…ということこそが大事

たとえば、おなじみの「毛糸モップ」
県士会サイト:INDEX > OT Tips & PDF > 作業療法Tips > 手工芸Tips > 「毛糸モップ」

何の工夫もしないでできる方もいるかもしれませんがこの方法でできない…からダメ!ではなくて作業療法士としては、ぜひ、ひと工夫を!

丁寧な段階づけの工夫をたとえば…
「毛糸モップの工夫」
県士会サイト:INDEX > OT Tips & PDF > 作業療法Tips > 手工芸Tips > 「毛糸モップの工夫」

お年寄りの方
とりわけ、認知症のある方は
過去、嫌という程、失敗体験や喪失体験を重ねてきて
今もなお、その過程の中におられます。

毛糸をハンガーに結びつけるということを初めてするのですから
方法を覚えるというコトの難しさ+手指の協調性、巧緻性の低下という
短期記憶と身体能力という心身両面の困難に同時に直面することになります。

この場合にえてして
「うまくできない」という体験が
老化による協調性や巧緻性の低下という身体能力の低下なので
焦らずじっくりとやってみよう…とならずに
漠然とした「なぜかうまくできない」体験にとどまり
焦りや不安感を引き起こし
「こんなこともできなくなってしまった」
という認識になってしまいがちです。
ちょっとしたやりにくさ
…というものが大きな阻害因子となってしまいます。

丁寧な段階づけの工夫を短期記憶が低下している方に
初めての課題を導入する時には
身体的な要素への配慮が必要です。

単に「できる」「できない」ではなくて
「よりラクにできる」
「よりカンタンにできる」
そんな丁寧な方法を工夫できるのは私たち作業療法士ならでは…だと思います。

課題の選択に敏感になるのはもちろんですが
課題の工夫ということも、とても大きな課題だと考えています。

対象者の能力と困難と特性の把握ができて
初めて可能なことなのですから。

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老年期認知症ナビゲーター

老年期認知症ナビゲーター認知症のある方を対象としている方に超オススメの本です。
メディカルレビュー社
http://m-review.co.jp/shop/goods.html?item_base_id=130

本の後半にちょこっと、認知症のある方への対応についての記載もありますがむしろ、医学情報について基本的な概要を押さえることのできる本です。
診断基準、評価スケール、原因疾患、症状、病態などについて見開き2ページに1項目が記載されている形式で統一されています。
左ページの左端には項目名が右ページの右端には下位の項目名が印刷されているため調べたいことを探す時に非常に便利です。

簡潔にわかりやすくまとめられています。
まず、1冊として勧めるならこの本。

まずは、教科書として読んでみて必要に応じて該当項目を読み返して教科書のようにも、辞書のようにも使える本です。

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入院すると認知症がひどくなる?

入院すると認知症がひどくなる?結果として起こっていることなのですが…(^^;

「入院すると認知症がひどくなる」

これもよく聞く言葉です。 入院生活は刺激がなくて単調だから…と環境の問題にされがちです。 けれど、果たして本当にそうでしょうか?

入院生活というのは、日課がきちんと決められています。 医師や看護師の言語指示を聞き取り、理解し、記憶し、従うことが求められます。 また、病棟全体の中で病室やトイレの位置関係を相対的に把握し、行動できることも求められます。

このようなことは、アルツハイマー型認知症のある方にとっては、とても難しいことなのです。

もともと、認知症の中核症状はあったけれど、 なじみのある自宅という場でマイペースに暮らしていたから 症状が目立たなかった。 それが、入院というきっかけで、新たな場で新たな事柄に対応することが求められるという場面において表面化した。

入院生活という環境がよくないから入院すると認知症がひどくなる …というのではなくて 入院生活に適応できないくらいに 既に認知症が進行していたということが表面化した …のではないでしょうか。

環境適応能力が限られてしまう…ということは 認知症のある方が、身体疾患を発症した時に生じる課題の1つでもあります。

その課題にきちんと対応できるようになるためにも 結果として起こっていることと原因との混同なく 状態像の把握ができるようにならないと、対策も後手後手になってしまうように感じています。

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ケアの統一

ケアの統一よくよく聞くヘンな言葉 「ケアの統一をしましょう」

だって、お年寄りの状態がさまざまなのに ケアを統一して、どうしていいことができると思うんだろう?

その時その場のその関係性において 適切な関わり方ができるかどうかこそが問われているのに

たとえば トイレ動作の自立を目標にがんばっている方がいるとして その方が「おしっこもれそうだから手伝って」と言っているのに 「自分でできるように練習しているんだから手伝えないの」 「みんなでそう決めたのよ」 って、そんなのってどうかと思う。

論理のすりかえ。だよねー。 結果として、起こるはずのことを 方法論として、用いている

どんな時どんな場どんな関係性においても ステレオタイプな対応をするのではなくて その時その場のその関係性において 適切な対応をすることで 結果として、 どのような時どのような場どのような関係性においても 能力を発揮できるようになっていく…だよね。

「あの人は人を見るからさー」 いやいや…(^^; 人を見る能力があるのは、イイコトで…。

もしも、人を見て、ある動作をやったりやらなかったりするのだとしたら それは、依存的等という言葉でくくられるのではなくて その人にとっては、「やらされ感」があって 本当はやりたくない、やりづらい…ということを態度で示しているのではないでしょうか。

だとしたら、私たちが考えるべきことは 「やればできるんだから、がんばってやって!」 などという言葉で動作を「させる」のではなくて 「どうしたら、やりやすくなるのだろう」 「本人にとってのやることのメリットって何なのだろう」 ということなんじゃないのかしら。

日々の臨床の場では すぐに答えが出ないこともたくさんあります。 その時には、答えらしきものに飛びつくのではなくて お互いしんどくても 今は答えがない…でも、この方向性で考え続けよう という態度を持ち続けることなのではないでしょうか。

少なくとも 答えらしきものに飛びつくことで お年寄りをよぶんに傷つけることは避けられるのですから。

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愚痴を聞いてくれるいい人

愚痴を聞いてくれるいい人対象者の方に愚痴をこぼす職員が多くてビックリです。

対象者の方は、お金を払ってご自身の時間を割いてリハを受けるのです。
愚痴を聞かせるなんてもってのほかです。
ラポール…ということを誤解しているのではないかと思います。

もし、対象者の方が
好んで職員の愚痴を聞いてくれるとしたら
その能力と特性を他の場面で活かせるように考えることが
専門家としての在り方です。

飛行機のパイロットが操縦中に
いろいろな愚痴を客席に聞かせたとしたら
乗客は、どう感じるでしょう?
大変なのはわかるけど、今はとにかく安全に操縦してくれよ…と思うのではないでしょうか。

最後にひとこと。
私は、たくさんのお年寄りからお年寄り自身の愚痴を聞いてきました。
と同時に、たくさんのお年寄りから、職員のこぼした愚痴もマル秘な話も聞きました(^^;
そうなのです。
お年寄りにこぼした愚痴は、ちゃんと廻り廻って他の人の耳に入っているのです。

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ボケちゃえば何にもわからない?

ボケちゃえば何にもわからない?私には、とてもそんな風には思えません。

もちろん、ご家族など周囲の人のご苦労はお察しします。
けれど、認知症のある方が「何にも感じていない」わけがありません。

時間や場所の見当識が低下し
短期記憶が低下し
なぜ、今、自分がここにいるのか
なぜ、今、自分がこうしているのか
わからない…

わからないという自覚や不安を感じるのに
状況の理解ができなくなるという状態が
どんなに辛いことか…

私たちがいきなりタイムスリップして
見知らぬ時代の見知らぬ土地へ連れてこられたようなものなのではないか
と感じることがあります。
何もわからない場所で
よく知らない人たちの間で
生活様式の異なるところで
自分にはよくわからない言葉が交わされる…

私たちにとっては自明の前提が崩れてしまっている状況で
なおかつ、暮らしていくことの困難さ

職業人としての私たちに求められていることは
そのような日々の暮らしの困難を少しでも改善していくことのお手伝い

症状がある…ということは
能力がある…ということ

たとえ、認知症になったとしても
その人らしさは失われない
その人の能力と特性こそが
その人の日々の暮らしの困難を乗越えていく
(逆に言えば、ないものはない。
 ないものねだりはできない
 …ということにもなるのですが。)

たぶん、作業療法士は、職業柄
1番具体的に現実的にそのことが共感できる職種だと感じています。

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