Category: 素朴な疑問 不思議なジョーシキ

常識の罠

常識の罠「褒めてあげる?ともに喜ぶ!」
http://kana-ot.jp/wp/yosshi/27
の記事で、現行よく言われている「褒めてあげる」という言葉への違和感を書きました。
1年以上前の記事ですが、最近になってその違和感を振り返れるようになってきたので、改めてとりあげてみたいと思いました。

そもそも、「褒める」ことは目上の人が目下の人に向かってすることで目下の人が目上の人に対してすることではない。だとすると、お年寄りに対して「褒める」ことを励行する時点で非常に失礼なのではないかと感じていました。また「寄り添って」「その人らしさを尊重して」という言葉の真意としての「尊敬」という概念と矛盾するのではないかとも思いました。
人間が生きていくうえでさまざまな矛盾を抱えているのは、この年になればさすがにわかりますけれど(^^; よりよいサービスを提供する…ということを考える時に、最低限考えられる限りは整合性のあるものを提供して初めて矛盾ある生に向き合えると考えていますので、現行よく言われている「褒めてあげることが大事」というスローガンはおかしい。と思っています。

また、神奈川県作業療法士会ニュース147号
http://kana-ot.jp/wpm/news/fil……07/147.pdf
の8-9ページに掲載されているインタビューで失敗談として取り上げていますが、私たち職員がどんなに褒めても、ご本人自身が落ち込んだ気持ちは変わらなかった…という体験をしています。

「褒めてあげることが大事」とよく言われているけれど、それは違う。
でも、概念としては違っている言葉が、何故こんなに流行しているのか。
こんなに流行しているのは、何かしらの意味があるから出回っているのではないだろうか…と考えました。
本当によくない言葉なら、みんな使わないだろう…とも思ったのです。
人口に膾炙するからには、それだけの理由があるはず。
もしかしたら、この言葉のどこかに何か重要な本当に大事なことが含まれていて、たまたま褒めるということと似ている概念があってそれがすり替えられて言い伝えられているのではないか。と思い至りました。

そこで思いついたのが「確認」です。
「それでいいんだ」と伝えること。

認知症のある方は記憶の連続性が低下しているので、自分の言動の根拠を過去の記憶と照合することが困難になります。
果たしてこれで本当によいのかどうか、自信がない。
自分だけでは判断するべき「根拠」がわからない。
だから、誰かにそれでよいのだと言われて安心する。
とりわけ、確証が得られやすいのが、褒められる…ということだったのではないかと。
だとしたら、尊敬するということと矛盾しません。

言葉に敏感になる…ということは概念に明敏になるということだと考えています。
言葉の限界はあるけれど、だからこそ言葉を意図的に明確に扱えるようになりたいと考えています。

本当は
「褒めてあげることが大事」
なのではなくて
「それでいいんだと伝えることが大事」
だったのではないでしょうか。
今はそう考えています。

でも、私の経験では
認知症のある方ができなかったことができるようになった時
褒める…なんて心理的距離のあることじゃなくて
本当にうれしいから、ともに喜ぶ!感じなんですけどね。
その人自身の能力と特性が
その人自身の日々の暮らしの困難を乗り越えていく
その過程をともにした者としては、まずうれしい!とにかくうれしい!本当にうれしい!
…のです。

だから、今は
過程において、それでいいのだと伝える。
結果において、ともに喜ぶ。
そう考えています。

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舌の動きが見落とされている

舌の動きが見落とされている食事介助において
看護介護職員が重点を置いてみているのは
ムセないかどうか…ということです。
これはとても大切なことです。
でも、ムセなければ食べ方がOKということにはなりません。
ところが、ムセないから大丈夫…という判断が下されがちで、案外、舌の動きが見落とされてしまいがちです。
つまり、ムセないから嚥下は大丈夫、他はわからないけど…ではなくて
ムセないから食べること全般も大丈夫…という判断になってしまう傾向が高いのです。

たいていの施設、病院において
対象者の食べ方の能力よりも高い食形態が選択されがちな傾向があるのは、このような背景があるからではないかと考えています。

食事を介助していれば、口腔内に食塊が残っているかどうか、食塊が残りやすい部位があるのかどうか…ということはわかります。
少なくとも、食事後の口腔ケアの時に、口腔内に食塊が残っていることは確認しているはずなのです。
口の中に食塊が残っている…ということは、舌の動き=本来の意味の咀嚼が不十分なことを意味しています。
それなのに、食形態の変更について検討されていないことが多いようで不思議に思います。

食べこぼしがひどかった方や
食事を食べようとしなかった方
食事中に手を口の中につっこみ手づかみ食べをしていた方が
食形態を落としたことにより、スムーズに食べられるようになった…というケースは枚挙にいとまがありません。

見た目にも美味しくお食事していただきたい…という気持ちはわかりますが
対象者の食べる能力よりも高すぎる食形態の選択は、不適切な環境への不適切な学習をさせてしまうおそれがあります。
「生活リハ」という言葉が誤解されているのではないかと感じています。
むしろ、適切な食形態で十分に「食べる」ことの再学習ができると、1ランク上の食形態でも食べられるようになることのほうが多いのです。
(認知症のある方への「学習」については、誤解されていることが多々あると感じているので、そのことはいずれまた記事にするつもりでいます)

ムセの有無だけではなくて、食べ方をちゃんと把握してほしい。
少なくとも、口腔ケアのときに食塊が残っているという事実に気がついたら、単にその場で口の中をきれいにするということだけではなくて、何が起こっているのか、その事実が示している意味について考えをめぐらせてほしいと思っています。

食事は生命に直結した場面ですし、最後まで残るADLでもあります。
食形態の選択、食事介助の方法の選択が、対象者の「食べる」能力と障害について、適切に把握したうえでの選択になっていきますように…。
心から願っています。

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良い姿勢?

良い姿勢?食事の姿勢のことです。
食事をする時には、良い姿勢で食べましょう。
股関節90度、膝関節90度屈曲位が正しい姿勢です。
…ということで、振り子式車いすにかろうじて座っている人も食事中に起こされて食べにくそうにしている人をよくみかけます。

うーん…

上体はムリに起こさなくても大丈夫。
それよりも、頸部の角度が誤嚥防止には重要なのです。

上体をムリやり起こして良い姿勢を作ったとしても
頸部後屈してしまっていたら
それこそ、誤嚥一直線(> <)

ふだん、ただ座るだけでも、ちゃんと座ることができない方が
座る+食べることを両立しておこなえるでしょうか?
食事というのは楽しみであると同時に生命に直結した行為です。
まず、安全に食べられることが何よりも大事です。

看護学の教科書にも90度の常識が書かれているそうですが
だからこそ、実際の現場で
頸部の角度確認の重要性を声を大にして訴えていかねば…!

「良い姿勢」「正しい姿勢」もいいですが
目の前の方にとって「より適切」な姿勢を担保することが
第一優先なんじゃないかしら…と思うのであります。

そして、その時にその姿勢が「適切」かどうかの判断根拠は
何を為すための姿勢か…ということ。
目的とする行為が何なのか…ということだと考えています。

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入院すると認知症がひどくなる?

入院すると認知症がひどくなる?結果として起こっていることなのですが…(^^;

「入院すると認知症がひどくなる」

これもよく聞く言葉です。 入院生活は刺激がなくて単調だから…と環境の問題にされがちです。 けれど、果たして本当にそうでしょうか?

入院生活というのは、日課がきちんと決められています。 医師や看護師の言語指示を聞き取り、理解し、記憶し、従うことが求められます。 また、病棟全体の中で病室やトイレの位置関係を相対的に把握し、行動できることも求められます。

このようなことは、アルツハイマー型認知症のある方にとっては、とても難しいことなのです。

もともと、認知症の中核症状はあったけれど、 なじみのある自宅という場でマイペースに暮らしていたから 症状が目立たなかった。 それが、入院というきっかけで、新たな場で新たな事柄に対応することが求められるという場面において表面化した。

入院生活という環境がよくないから入院すると認知症がひどくなる …というのではなくて 入院生活に適応できないくらいに 既に認知症が進行していたということが表面化した …のではないでしょうか。

環境適応能力が限られてしまう…ということは 認知症のある方が、身体疾患を発症した時に生じる課題の1つでもあります。

その課題にきちんと対応できるようになるためにも 結果として起こっていることと原因との混同なく 状態像の把握ができるようにならないと、対策も後手後手になってしまうように感じています。

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ケアの統一

ケアの統一よくよく聞くヘンな言葉 「ケアの統一をしましょう」

だって、お年寄りの状態がさまざまなのに ケアを統一して、どうしていいことができると思うんだろう?

その時その場のその関係性において 適切な関わり方ができるかどうかこそが問われているのに

たとえば トイレ動作の自立を目標にがんばっている方がいるとして その方が「おしっこもれそうだから手伝って」と言っているのに 「自分でできるように練習しているんだから手伝えないの」 「みんなでそう決めたのよ」 って、そんなのってどうかと思う。

論理のすりかえ。だよねー。 結果として、起こるはずのことを 方法論として、用いている

どんな時どんな場どんな関係性においても ステレオタイプな対応をするのではなくて その時その場のその関係性において 適切な対応をすることで 結果として、 どのような時どのような場どのような関係性においても 能力を発揮できるようになっていく…だよね。

「あの人は人を見るからさー」 いやいや…(^^; 人を見る能力があるのは、イイコトで…。

もしも、人を見て、ある動作をやったりやらなかったりするのだとしたら それは、依存的等という言葉でくくられるのではなくて その人にとっては、「やらされ感」があって 本当はやりたくない、やりづらい…ということを態度で示しているのではないでしょうか。

だとしたら、私たちが考えるべきことは 「やればできるんだから、がんばってやって!」 などという言葉で動作を「させる」のではなくて 「どうしたら、やりやすくなるのだろう」 「本人にとってのやることのメリットって何なのだろう」 ということなんじゃないのかしら。

日々の臨床の場では すぐに答えが出ないこともたくさんあります。 その時には、答えらしきものに飛びつくのではなくて お互いしんどくても 今は答えがない…でも、この方向性で考え続けよう という態度を持ち続けることなのではないでしょうか。

少なくとも 答えらしきものに飛びつくことで お年寄りをよぶんに傷つけることは避けられるのですから。

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箸を箸として扱える

箸を箸として扱える「あーなるほど!」と思ったことがあります。

Hさんの食事のしかたをみて
看護師さんが「箸が使えるね」と言いました。
でも、私はその時「箸が使えていない」と思っていたのです。

どういうことかというと
看護師は
Hさんが箸を使って食べこぼしなく介助もなく自分で食事していたから
「Hさんは箸を使える」と思ったのです。
私は
Hさんが握り箸で箸をスプーンのようにして食べていたので
「Hさんは箸を持って食べられるけれど箸を箸として扱えない」
と判断したのです。

こういうことって、ものすっごくたくさんあります。

視点の違いで同じ現実を見ているのに違う事実と認識する

でも、そのことに自覚のある人はそんなに多くいるわけではありません。
モノゴトの前提が違うのに
前提を抜きにして、結果だけをああだこうだ言ってる…(苦笑)

自分の視点とか前提って
自分にとっては、あまりにも自明のことだから自覚しにくいけれど
異なる前提を放置して
結果だけをすりあわせようとしても
うまくいくはずがない…(^^;

Hさんの例では
箸の使用可否について結果だけを議論しても平行線で終わってしまいます。
「箸は持ってこぼさず食べられるけれど握り箸で箸としての操作はできていない」
という起こったことそのままを共有すること
Hさんにとっての優先事項を確認しあって
それを根拠にして箸の扱いをどうするか
ということではないでしょうか。

 

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約束したでしょう

銀杏リアルの世界でも、ネットの世界でも、よく遭遇する言葉です。

「そういうことはしないって約束したでしょう」
この言葉に遭遇するたびに、ヘーンなの!…って思っちゃいます。

だって、ケアやリハの場面で「約束」する時って
たいてい、通常の対応でどうにもならないから使われることが多いと思う。
つまり、どうしようもないから最後の印籠として登場する(^^;
だけど、どうしようもないものだから
結局、約束は破られ、対象者の方は二重に叱られる。

「待ってるって約束したでしょう」
「そういうことはしないって約束したでしょう」
「どうして約束したのに守らないの」

おいおい…(^^;
できもしないことをさせてるのはどっちなんだい?
しかも、対象者の尊厳を二重に損なってしまっているのに…

そもそも、約束って、自分で自分に誓うもの。
誰かにさせられるものじゃない。

「○○様」とか何とか言うより先に
対象者の方に対して約束なんかを持ち出さずにすむように
対応の工夫を私たちが考えるほうが先なんじゃないのかなー?
と思うのであります。

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対応を考える

ムクドリ認知症のある方への対応に苦慮した時ってどうしていますか?

多くの場合、「どうしたらいいのか」カンファなどの話し合いをすることになると思います。

でも、
どうする…という方法論が話し合われても
何が起こっていたのか…という「場」についての振り返りがなされることは、あんまり多くはありません。
ほとんどないかも…ですね(^^;

けれど、モノゴトは関係性の中で起こります。

どのような状況で
どのような言動に対して
どのようなことが起こったのか

私たちは、「観察」という名目で
認知症のある方のあれこれを言いますが
物理的にも心理的にも環境因子の1つである自分自身の言動に対して
案外無自覚でいることが多いように感じています。

たとえば、こんなケース。
  「車いすを押しますよ」と声をかけてから押したのに
   Gさんたらいきなり怒り出してまったく最近怒りっぽいんだから!
   Gさんの易怒性に対してどう対応したらいいかしら?

確かに声はかけたかもしれませんが
Gさんは認知症があります。
もしも、Gさんが「車いすを押される=自分が動く」という言葉を結びつけて予測することが能力的に困難な方だとしたら
その声かけは適切だったと言えるのでしょうか?
「問題」なのは、Gさんの易怒性ではなくて
Gさんの能力に合わせた声かけができなかった職員のほうが「問題」なのではないでしょうか?
もしも、職員が「Gさん、動きますよ」と声をかけていたら、もしかしたらGさんは怒り出さずに済んだかもしれません。

「現実」は、さまざまなコトをあぶり出します。

認知症のある方の能力も困難も特性も
それだけではなくて
援助しようとする側の能力も困難も特性も

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