Category: 素朴な疑問 不思議なジョーシキ

結果を引き起こしている必然を把握する 3

口腔ケアを拒否する方もいます。

すると
言葉で丁寧に説明したり
明るく元気よく声かけしたり
下手に出るようにお願いをしてみたり
それでもダメだと口腔ケアを無理やり行ったり
口腔ケアすることを諦めてしまう。。。
というパターンが多いようです。

口腔ケアをしようと
自分の関与を工夫してはいますが
それは誰にとっての工夫でしょうか?

認知症のある方に接する職員で多いパターンが
認知症のある方が環境把握しようとしている
ということを見落としているというケースです。

心のどこかで
認知症=何もわからない=やってあげる
と思っているのではないかと思います。

認知症のある方の言動をよく観察すれば
認知症のある方が周囲を把握しようとし、対応しようとしていることに気がつけます。

だとしたら
周囲を把握するチカラを助ければ良いだけだし
どう対応したら良いのかということを
声かけという認知症のある方にとっての聴覚情報だけでなく
他の情報で伝えれば良いだけです。

大切なことは、まずアイコンタクトをとることです。
アイコンタクトをとる時には
笑顔で
穏やかな口調で
相手の名前を呼びかけます。

ここで大事なことは、口調です。
急いていると、つい口調も気忙しくなってしまうものですが
口調に反映されてしまうこちらの感情に対して
認知症のある方が反応しているということはよくあることです。
自身の口調、声のトーンをコントロールできるように
穏やかな口調で呼びかけるようにしましょう。

次に
歯ブラシを見せて相手が歯ブラシを見たことを確認します。
視覚情報を提示して、相手の視覚的理解力に働きかけます。
歯ブラシを見たことを確認してから
「歯磨き」と言って歯ブラシを横に動かします。
ジェスチャーという視覚情報を提示することで
「これから歯磨きをする」ということを伝えます。
そうすると、開口してくださる方はとても多いものです。

ここで大切なことは順番です。
相手が見る、つまり視覚的理解力を発揮したということを確認してから声かけする
その声かけは端的明確に単語中心に声かけをします。
相手が環境を感受するのが先
その感受を補うのが声かけという聴覚情報であり
歯ブラシを横に動かすジェスチャーという視覚情報を提示することなのです。

決して
相手の反応を確認もせず
「歯磨きしますよ〜」と声をかけながら
既に歯ブラシは口の中ということのないようにしたいものです。

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結果を引き起こしている必然を把握する2

認知症のある方や高齢者のせん妄予防対応として
日中過ごすお部屋を明るくすることは常識となっていますが
実際の現場では、なかなか実現が難しいこともあるようです。

例えば
現場あるあるなのが
日中お部屋の明かりをつけてと言っていっても
「明かりを消して」って言われる。
お部屋の明かりをつけるのは嫌なんだと思う。
というケースです。

このケースの問題はいくつもあります。
1)近時記憶障害がどんな風に現れるのかわかっていない
2)「明かりをつける」メリットがその方の認識に沿って説明されていない
3)障害を好き嫌いとすり替えて判断される

つまり
1)については
仮に「日中は明かりをつけておく」ことをその場は了承してもらえても
近時記憶障害があると、時間が経つと忘れてしまいます。
現場あるあるなのは、「その場のお話がちゃんとできる方=認知症じゃない」と思っている職員が
まだまだ多いということです。

当然、相手に認知症がないと判断(誤認ですが)していれば
訪室するたびに「明かりを消してほしい」と言われれば
「あぁ、この方は明かりをつけておくのが嫌なんだな。」
「この方の意向を尊重して明かりを消してあげよう。」
と、善意からであったとしても、誤った認識に基づいて誤った対応をした結果
過活動型せん妄を起こしてしまった。というケースもありました。

過活動型せん妄に対しても
その場の表面的な対処しか為されないと本質的な改善には至らないものです。
ここで、その方の認識に即して説明することが求められます。
2)に関する対応です。

日中部屋の明かりをつけておくことに対して
人によっていろいろな理由があります。
Aさんは、「まぶしいから」
Bさんは、「お金がもったいないから」
Cさんは、「ずっと昼間は明かりをつけずに過ごしてきたから」
明かりを消してほしい理由は三者三様なので
その方の理由に即して対応します。
   
Aさんは、ベッドを真っ平らにして過ごしていました。
ベッドの真上にある電灯を点灯すれば、お顔に明かりが当たってまぶしいのもわかります。
そこで、ベッドをギャッジアップしてお顔の真上から明かりが当たらないようにしました。
Bさんには、「電気料金は施設持ちであること、
      施設の考え方としてお部屋を明るくして足元が危なくないように過ごしてほしい」
ということを伝えると「あぁそうなの。悪いねぇ。どうもありがとう。」と了承してもらえました。
Cさんには、「そうなんですね。日当たりの良いお部屋だったら明かりをつけなくて済みますものね。
      でも、このお部屋はきっとCさんのお家ほどには日当たりが良くないので
      健康のためにも明かりをつけさせてくださいな。
      日中明るいところで過ごすと健康に良いんですって。」
と伝えると「あら、そうなの。知らなかったわ。どうもありがとう。」と了承してもらえました。

その方が「明かりを消してほしい」と思う必然に沿った説明が必要なのです。

そして、近時記憶障害は障害なので解消されることはありません。
その場で了承してもらえても忘れてしまいます。
忘れてしまうことを問題視するのではなくて
忘れてしまったら繰り返し説明をするしかないのです。

ところが、現実には
「明かりをつけさせてくださいね。」と言うだけだったり
元気よく明るく言ったり、下手に出てお願いしたりという風に
工夫はされていても、認知症のある方の立場に立った説明とは少しズレた対応が為されがちです。
だから、うまくいかない。
そして、近時記憶障害があるから時間干渉によって忘れてしまうという認識もないと
好き嫌い、意思表示と誤認してしまいます。
その結果、せん妄を起こしてしまい、的確な対処もできないということが起こりがちです。

善意から一生懸命関わっていたとしても知識をもとにした観察ができないと
自身の見立てや対応について自省が生じにくい
という問題が起こります。

本当にもったいない。

知識がなければ、今、認知症のある方に目の前で起こっていることを理解することができません。
見れども観えず、で見落としてしまいます。
自身の言葉や非言語的表現も的確に選択することができません。

まず、視点を変換させて
イマ、ココで、認知症のある方が環境をどのように感受し、認識しているのかを
きちんと観察・洞察することから始めましょう。

表面的に慣習的に行われていることを卒業しましょう。

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結果を引き起こしている必然を把握する1

認知症のある方へのリハやケアの根本的な問題は
どうしたら介助できるようになるかという視点でいろいろな方法論が展開されていることと
そのことに無自覚なことの2点
だと考えています。
  
認知症のある方は
イマ・ココでどのように状況を感受・認識・対応しようとしているのかを
まず把握するという視点へ自覚的に変換すべき
なのです。

わかりやすい例えをすれば
食事に時間がかかる方に対して
「どうしたらスムーズに食べられるようになるか」考えることや
「時間をかけてもその方のペースで食べていただこう」と考えることと
なぜそんなに食事に時間がかかっているのか、その必然を把握しようとすることとの違いです。

一見すると
焦らせずにゆっくり食べていただくという対応は
その人を尊重しているように見えるかもしれませんが
食事に時間がかかるのは結果であって、
食事に時間がかかる必然を観ようとせずに
表面的な結果として起こっている事象に表面的に対応しているだけ
というのはどうなんだろう?と思いますし
対応が後手に回っています。

私の体験では
1)義歯がゆるゆるで常食を食べていた というケース
2)舌の動きが非常に悪くて咽頭へ食塊を送りこめず口腔内に食塊が貯留している というケース
3)覚醒が悪くて食べられない というケース
がありました。

結果として、食事に時間がかかるという見た目は同じですけれど
食事に時間がかかる必然はまったく別の問題によって引き起こされています。

1)のケースでは、義歯再作成はしないということでしたから
  ポリグリップなどの入れ歯安定剤の購入を打診しました。
2)のケースでは、舌の動きが悪くても食べられるように食形態を変更するとともに
  そのような状態を引き起こしている状態について把握・対応しました。
3)のケースでは、まず覚醒を上げるために
  ・日中の居室を明るくする
  ・日中は生活歴にあるだろう音楽を聴いていただく
  ・朝食後の日光浴を導入
という対応を取りました。
その結果、いずれのケースでも食事摂取時間は結果として短縮されました。

食事に時間がかかるという方に対して
 1)その方のペースだから2時間かけても食べていただく
 2)どうしたら食事時間の短縮ができるか考える
と表面的に考えるのではなくて
食事摂取に時間がかかる必然をきちんと把握することから始めます。
摂食・嚥下5相のどの部分で時間がかかっているのか
そもそも覚醒良好なのか
低活動型せん妄ではないのか
姿勢保持ができているのか
注意散漫ではないのか
体力低下しているのではないか

時間がかかる必然によって対処はまったく異なります

このことは、食事場面以外でも同様に起こっています。
まったく同じコトが違うカタチで起こっている例を次の記事でもうひとつ。

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「ちゃんと話ができるしっかりした方」?

「ちゃんとお話ができるしっかりした方」
「年相応の物忘れ」
といった発言をする人は30年以上前から今に至るまで後をたちません。。。

ところが実際には
近時記憶障害が著明でHDS-Rが9点、10点、11点というケースは多々あります。
中には、HDS-R5点なのに「しっかりした方」と言われていたケースもありました。。。
SDATの方でHDS-Rがこれだけ低いと
近時記憶障害はもちろん、構成障害や遂行機能障害があって
日常生活に大きな支障が生じていたはずです。
それなのに、なぜ認知機能低下に気づかれないか
問題は私たちの側にあります。

「ちゃんとお話ができるしっかりした方」といった発言をする方には
「ちゃんとお話ができない=認知症」という思い込みがあって
その思い込みで判断しているだけなのです。。。
つまり、認知症とは何か、ということを理解していないのです。
これだけ認知症への普及啓発事業が進められているのに
30年前と変わらずいまだにこのような人たちがいることにびっくりしてしまいますが
職種を問わず、このような発言をする人は少なくありません。
(もちろん、職種を問わずきちんと認識している人も大勢います)
  
このような思い込みは二重の意味で危険です。
1)お話ができても近時記憶障害があることによって起こる生活障害を見落としてしまう。
2)お話ができなくても近時記憶障害がないか軽度なので、可能な生活能力を見落としてしまう。
   
つまり、目の前にいる方の状態像を的確に把握することができないという問題が起こります。
その結果、目の前にいる方の暮らしの困難も潜在している能力も見落としてしまい、対応が後手にまわってしまいます。
しかも、そのような事態に無自覚なのです。
近時記憶と会話の可否や言語表現力は別の能力なのだということを知らないと、このようなことが起こってしまいます。

私は、ICD11で示されている7つの認知領域を参照することをオススメしています。
下記にICD11の認知症の定義をお示しします。

 
(一般社団法人京都府薬剤師会 参照)

Aで示されている7つの認知領域つまり
記憶・実行機能(遂行機能)・注意・言語・社会的認知及び判断・精神運動速度・視覚認知又は視空間認知
これらを念頭に置いて会話することを常に心がけています。

数分前のことを忘れてしまっても
その場の会話がスムーズに成り立つ方は大勢いらっしゃいます。
逆にその場で会話が成り立たなくても
少し前にした体験を覚えている方も大勢いらっしゃいます。
近時記憶と疎通の可否や言語表現力は別の能力です。
混同してはいけません。

 

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食べられる口をつくる

講演終了後の質問で
「口を開けてくれない人がいるんですけどどうしたら良いですか?」
という質問を受けることがよくあります。

どう、口を開けてくれないのかよくわからないので
状態を確認していくとどうも覚醒不良によるもののようで
「覚醒が悪いんじゃないんですか?」と尋ね返すと
「いいえ、口を開けてくれないんです」と言われました。
そこで今度は私の方から
「お食事の時に目を閉じていませんか?」
「声をかけ肩を叩いても目を閉じたままではありませんか?」
と尋ね返すと「そうなんです」と言います。
「それを覚醒不良と言います」とお伝えしたことがあります。

覚醒不良の時に口を開けられるはずがありません。
覚醒不良の時には食事を食べさせてはいけません。

現場では、こんな風に
「食べさせること」を念頭に置いて
「どうやったら食べさせられるか」を考える人たちがいまだにたくさんいます。

数メートルのごく短距離の歩行後に息切れがひどい方に対して
「CMのプランに歩行練習って書いてあったから歩かせないといけない」
と言われたこともあります。
えぇっ?CMはそんなこと言いませんよ〜。
むしろ歩行練習をしてみた結果の状態を報告してくれって言っています。
歩行練習が目的ではなくて〇〇を達成するための手段としての歩行練習なのだから
代替提案をすれば良いだけの話です。

それと同じように
覚醒不良で食べることができない状態でもやるべきことは多々あります。

まず、なぜ覚醒不良に至ってしまったのか
どうしたら、覚醒できる状態を作れるのか
本質的な改善策を考えると同時に
覚醒不良の状態でもできる口腔ケアを行います。

食べられる口を作る、維持することによって
いざ、覚醒できた時にすぐに食べられるように備えておく
のです。

食べられない状態の方の
口腔内に何の問題もないということは稀です。
痰の付着、口腔内乾燥、汚染された唾液。。。
必ず何らかの問題があって口腔ケアを必要としています。

食べられる口を作る

口腔ケアは単に口の中をきれいにするという守りではなくて
食べられる口を作るという攻めのケアでもあります。

 

 

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立って食事介助してはいけない?

先日、すっごく久しぶりに普通救命講習を受けて
講師が「覚えるだけじゃなくて意味がわかることが大切」
って言っていて「本当にそう!」と思いました。
その後、ネットを見ていたら
「食事介助を立ってするなんて言語道断」みたいなのが流れてきて
「そうその通り!」なんてコメントもついていて
う〜ん。。。隔靴掻痒な気持ちになりました。。。

なんで立って食事介助をしてはいけないのか
その理由を知ってるのかなー?
意味がわかってないと
座って介助していてもやっちゃいけないスプーン操作をしちゃってることもあるし
「私はちゃんと座って食事介助してる」って
自身の不適切さを自覚することができなくなることすら起こります。

立って食事介助すると
対象者よりも高い位置からスプーン操作をすることになるので
どうしてもスプーンを斜め上に引き抜きやすい構造になっています。
スプーンで食塊を上の歯でこそげ落とすようにしたり
スプーンを斜め上に引き抜いてはいけないのですが
その理由は次の二つ。
1)スプーンを斜め上に引き抜くと対象者の顎が上がってしまいます。
  顎が上がるということは、気道確保をする姿勢です。
  つまり、食事介助しながら気道確保するという、とんでもなく危険なスプーン操作なのです。
2)スプーンを斜め上に引き抜くことで
  上唇を丸めて取り込むという準備期の重要な働きを阻害することになってしまいます。
  人の身体は解剖学的にも生理学的にも連続性がありますから
  準備期の能力低下(実際には介助者による能力阻害)が口腔期の能力低下を引き起こし、
  咽頭期の能力低下をも引き起こしています。
  (もう30年以上言い続けていますが、生活期の方の食べ方の問題は
   咽頭期ではなく準備期にあり問題の本質は誤介助誤学習である場合が圧倒的に多いのです。)

座って食事介助するのは、とても良いことですが
それだけでは十分ではありません。
自身のスプーン操作に留意しながら介助することが重要です。
いくら座って介助していても、肝心のスプーン操作を適切に行えずに
斜め上に引き抜くようなスプーン操作をしていれば座ることの意義を発揮できていないことになります。

逆に言えば、どうしてもスペースがないなどの理由で
立って食事介助するしかない場面でも
より一層、自身のスプーン操作に気をつけながら介助すれば良いのです。

問題は、立って行うか座って行うかではなくて
斜め上に引き抜かずに、下唇か前舌を押して水平に引き抜くようなスプーン操作が行えるかどうか
なのです。

意味がわかることが大事

食事介助は立ってするか座ってするかは問題の本質ではなく
適切なスプーン操作を行いやすい環境は座って行うことだという手段に過ぎません。
手段と目的のすり替え。。。
リハやケアでいろいろなカタチで起こっていることです。。。

救命講習で
意味がわからないために確認し損ねたり、実践できなかったり、間違えたりしたら
それこそ、生命に関わりますものね。
救命講習そのものを受講できたことも良かったし
関連して重要なことの再確認もできて良かったです。

 

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帰宅要求への対応:問いを問い直す

帰宅要求をする方に対しても
「どうしたら帰宅要求がなくなるか」という視点に立って
対応がなされがちです。
曰く、
「高齢女性だったらタオルたたみをしてもらう」
「お茶を飲んでもらう」
「気持ちをそらす」。。。

かつての私は積極的にそのような対応をしていたわけではありませんが
傾聴するとしても
「その方が帰りたい」という気持ちはわかっても現実に帰れるはずがない時に
どこに終着点を持っていったら良いのかわからず
傾聴することの意義がわからず
認知症のある方の帰宅要求も収まらなかったり
収まったら収まったとしてもこちらの独善や押し付けのような気がして
ずっと悶々とした気持ちを抱えていました。

東京都立松沢病院の名誉院長の齋藤 正彦医師は
「微笑みながら徘徊する人や帰宅要求をする人はいない」
と言っていました。

そうなんです!
必死になって訴えている方のお気持ちを無碍にするような対応への違和感が拭えず
かといって、どうしたら良いのかわからなかった。。。
 
 帰宅要求を訴える方の再認の可否について確認し対応します
 具体的な対応の指針と実践例については 新著に記載してありますので

 よろしかったらご参照ください。

帰宅要求を収めることをゴールとして対応の工夫を考えるのではなく
帰宅要求をしている方がイマ・ココで何を心配しているのか
その心配に反映されている障害と能力と特性を把握し
常に感受・判断を繰り返しながら対応していくことが求められています。

多くの場合
この、障害と能力と特性の把握、感受と判断の繰り返しといった過程が困難だから
結果として起こることを目的化してしまうのだと思います。

帰宅要求への対応が難しいのではなく
目の前にいる方の障害と能力と特性の把握が難しいのです。

ここには
認知症のある方を対象とした現場あるあるがいくつも反映されています。
・結果として起こることの目的化
・手段と目的の混同
・自身の困難を認知症のある方へ投影してしまう
・観察を主とした状態把握をすっ飛ばして、ハウツーを当てはめる
・当てはめたハウツーの適否を確認しない

だとしたら
そのような臨床思考を脱却すれば良いだけです。
指針と実践はお示ししています。
ただし、「結果を出せる」ようになるためには反復練習、トレーニングが必須です。
その過程において、幾度も自身の未熟に直面させられることになります。
ここで安易な道に走ってはいけません。
今までやってこなかった考え方、在り方、方法論を行おうとするのですから
すぐにできなくて当たり前です。
同じコトを違うカタチで実践するに際し、最初は新しい方法論でできていても
ふと気がつくと以前の方法論に戻っていることに気がついて愕然とすることに何度も遭遇すると思います。
習得するまでには、できたりできなかったりを繰り返しようやく習得に至ります。
そんなの当たり前です。
リハビリテーションの対象者は皆さんこの過程を通っています。
リハビリテーション提供者がこの過程を自身の辛さのために回避するのはおかしなことです。

これをすれば誰でもいつでもどこでも帰宅要求が一発でなくなる
なんて方法があるわけがありません。
仮にあったとしても、そんな方法は恐ろしいだけです。
でも、現場では自覚なく求めている人が圧倒的に多いのです。。。

個別性のある対応
その人らしさを大切にする
理念としては誰もがそう語りますが、実践はその真逆となっているのではないでしょうか?
理念は語るものではなくて実践するものです。

問いを問い直す

切実に問われていると感じています。

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Activity:問いを問い直す

イメージ_猫

認知症のある方へのActivity、余暇活動については
多々誤解があると考えています。

・大勢で一斉に同じ課題を提供する
・「できる」課題を提供しがち
・場面設定への工夫よりも職員の声掛けで対応しようとしがち
・そもそもなぜその課題なのかという必然性に関して検討されない などなど。

おそらく
現場の職員は
ある一定の時間を「何かして過ごす」ことを目的として考え
認知症のある方に「できそうなこと」を考え
その結果、例えば塗り絵を提供してみたらできたから継続して行なっている
といったパターンが圧倒的に多いのではないでしょうか?

現場あるあるです。。。
ただ、誤解なので誤解から脱却できれば
大きな改善が生まれると考えています。

その中でも最も重要なことは
なぜその課題をしていただくことが
目の前にいるAさんにとって適切と考えたのか
ということを提供する職員の側がきちんと検討しておくということです。
 
余暇活動、Activity、レクリエーションをする意義を
「業務として行わなければならないから行う」と考えているのか
「目の前にいるAさんに有意義な時間を過ごしてほしい」と考えているのか
ということをきちんと考え直す必要があります。
ここを曖昧にしたまま、何をしてもらおうか?と考える。。。というのが
現場あるあるの大きな問題
ではないでしょうか?

問いを問い直す

問題設定の問題がここにあります。
   
Cさんの障害と能力と特性を把握できていないと
提供する課題の適切さの検討が出来ようはずがありません。

障害と能力と特性を把握できれば
回避する課題、提供する課題が浮かび上がってきます。
認知症のある方に適切な余暇活動の提供が難しいのではなく
認知症のある方の障害と能力と特性の把握が難しいのです。

二重の意味で、問題設定の問題、問いを問い直す必要があるのです。

実際の現場では、とりあえすできそうな課題を提供して
適切な課題を検討する時間を稼ぐことは戦略としてありですが
できたことで安心してしまうのは違うと思います。
できた課題をどのように行うのかということを観察することで
障害と能力と特性を把握することが叶います。

この過程を回避しようとして
(障害と能力と特性を観察から把握するということは簡単なことではない)
意向尊重、意思尊重として「何がやりたいのか」を問うことを強調するのは
ちょっと相当違うのではないかと考えています。
  新著にも書きましたが
  やりたいことを実現するために希望を尋ねるのではなくて
  自分が自分であることの再体験のための手段のひとつとして、希望を尋ねるのだと考えています。
  このことについては、とても大切なことなので別の記事で書いていきます。

あることを回避しようとして別のことを強調する、すり替えは
人の防衛反応としてのあるあるです。

Activityを提供する際に私は平行集団を実践し提案しています。
同じ場所同じ時間を共有しながらも
「すること」は人それぞれ異なる。
Cさんの特性と能力から適切な課題を選択し障害や困難に応じて場面設定をする。
たった一人で16〜18人の重度の認知症のある方の平行集団を2時間運営してきました。
帰宅要求や突然の立ち上がり、大声を出してしまう方ももちろんいました。
5年以上その方法で行ってきて転倒は1件転落が1件だけでいずれも外傷はありませんでした。

認知症のある方へのActivityや余暇活動の提供で悩んでいる方は大勢いると思いますが
皆が一斉に同じことをするような今のやり方がすべてではないのです。
高邁な理念を語っていてもどこかで手段と目的を取り違えるというパターンは現場あるあるです。
だとしたら、そこからやり直せば良いのです。
手段はたくさんあります。
目的は目の前にいるAさん、Bさん、Cさんにとっての適切さなのです。

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