Category: 素朴な疑問 不思議なジョーシキ

「ちゃんと話ができるしっかりした方」?

「ちゃんとお話ができるしっかりした方」
「年相応の物忘れ」
といった発言をする人は30年以上前から今に至るまで後をたちません。。。

ところが実際には
近時記憶障害が著明でHDS-Rが9点、10点、11点というケースは多々あります。
中には、HDS-R5点なのに「しっかりした方」と言われていたケースもありました。。。
SDATの方でHDS-Rがこれだけ低いと
近時記憶障害はもちろん、構成障害や遂行機能障害があって
日常生活に大きな支障が生じていたはずです。
それなのに、なぜ認知機能低下に気づかれないか
問題は私たちの側にあります。

「ちゃんとお話ができるしっかりした方」といった発言をする方には
「ちゃんとお話ができない=認知症」という思い込みがあって
その思い込みで判断しているだけなのです。。。
つまり、認知症とは何か、ということを理解していないのです。
これだけ認知症への普及啓発事業が進められているのに
30年前と変わらずいまだにこのような人たちがいることにびっくりしてしまいますが
職種を問わず、このような発言をする人は少なくありません。
(もちろん、職種を問わずきちんと認識している人も大勢います)
  
このような思い込みは二重の意味で危険です。
1)お話ができても近時記憶障害があることによって起こる生活障害を見落としてしまう。
2)お話ができなくても近時記憶障害がないか軽度なので、可能な生活能力を見落としてしまう。
   
つまり、目の前にいる方の状態像を的確に把握することができないという問題が起こります。
その結果、目の前にいる方の暮らしの困難も潜在している能力も見落としてしまい、対応が後手にまわってしまいます。
しかも、そのような事態に無自覚なのです。
近時記憶と会話の可否や言語表現力は別の能力なのだということを知らないと、このようなことが起こってしまいます。

私は、ICD11で示されている7つの認知領域を参照することをオススメしています。
下記にICD11の認知症の定義をお示しします。

 
(一般社団法人京都府薬剤師会 参照)

Aで示されている7つの認知領域つまり
記憶・実行機能(遂行機能)・注意・言語・社会的認知及び判断・精神運動速度・視覚認知又は視空間認知
これらを念頭に置いて会話することを常に心がけています。

数分前のことを忘れてしまっても
その場の会話がスムーズに成り立つ方は大勢いらっしゃいます。
逆にその場で会話が成り立たなくても
少し前にした体験を覚えている方も大勢いらっしゃいます。
近時記憶と疎通の可否や言語表現力は別の能力です。
混同してはいけません。

 

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食べられる口をつくる

講演終了後の質問で
「口を開けてくれない人がいるんですけどどうしたら良いですか?」
という質問を受けることがよくあります。

どう、口を開けてくれないのかよくわからないので
状態を確認していくとどうも覚醒不良によるもののようで
「覚醒が悪いんじゃないんですか?」と尋ね返すと
「いいえ、口を開けてくれないんです」と言われました。
そこで今度は私の方から
「お食事の時に目を閉じていませんか?」
「声をかけ肩を叩いても目を閉じたままではありませんか?」
と尋ね返すと「そうなんです」と言います。
「それを覚醒不良と言います」とお伝えしたことがあります。

覚醒不良の時に口を開けられるはずがありません。
覚醒不良の時には食事を食べさせてはいけません。

現場では、こんな風に
「食べさせること」を念頭に置いて
「どうやったら食べさせられるか」を考える人たちがいまだにたくさんいます。

数メートルのごく短距離の歩行後に息切れがひどい方に対して
「CMのプランに歩行練習って書いてあったから歩かせないといけない」
と言われたこともあります。
えぇっ?CMはそんなこと言いませんよ〜。
むしろ歩行練習をしてみた結果の状態を報告してくれって言っています。
歩行練習が目的ではなくて〇〇を達成するための手段としての歩行練習なのだから
代替提案をすれば良いだけの話です。

それと同じように
覚醒不良で食べることができない状態でもやるべきことは多々あります。

まず、なぜ覚醒不良に至ってしまったのか
どうしたら、覚醒できる状態を作れるのか
本質的な改善策を考えると同時に
覚醒不良の状態でもできる口腔ケアを行います。

食べられる口を作る、維持することによって
いざ、覚醒できた時にすぐに食べられるように備えておく
のです。

食べられない状態の方の
口腔内に何の問題もないということは稀です。
痰の付着、口腔内乾燥、汚染された唾液。。。
必ず何らかの問題があって口腔ケアを必要としています。

食べられる口を作る

口腔ケアは単に口の中をきれいにするという守りではなくて
食べられる口を作るという攻めのケアでもあります。

 

 

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立って食事介助してはいけない?

先日、すっごく久しぶりに普通救命講習を受けて
講師が「覚えるだけじゃなくて意味がわかることが大切」
って言っていて「本当にそう!」と思いました。
その後、ネットを見ていたら
「食事介助を立ってするなんて言語道断」みたいなのが流れてきて
「そうその通り!」なんてコメントもついていて
う〜ん。。。隔靴掻痒な気持ちになりました。。。

なんで立って食事介助をしてはいけないのか
その理由を知ってるのかなー?
意味がわかってないと
座って介助していてもやっちゃいけないスプーン操作をしちゃってることもあるし
「私はちゃんと座って食事介助してる」って
自身の不適切さを自覚することができなくなることすら起こります。

立って食事介助すると
対象者よりも高い位置からスプーン操作をすることになるので
どうしてもスプーンを斜め上に引き抜きやすい構造になっています。
スプーンで食塊を上の歯でこそげ落とすようにしたり
スプーンを斜め上に引き抜いてはいけないのですが
その理由は次の二つ。
1)スプーンを斜め上に引き抜くと対象者の顎が上がってしまいます。
  顎が上がるということは、気道確保をする姿勢です。
  つまり、食事介助しながら気道確保するという、とんでもなく危険なスプーン操作なのです。
2)スプーンを斜め上に引き抜くことで
  上唇を丸めて取り込むという準備期の重要な働きを阻害することになってしまいます。
  人の身体は解剖学的にも生理学的にも連続性がありますから
  準備期の能力低下(実際には介助者による能力阻害)が口腔期の能力低下を引き起こし、
  咽頭期の能力低下をも引き起こしています。
  (もう30年以上言い続けていますが、生活期の方の食べ方の問題は
   咽頭期ではなく準備期にあり問題の本質は誤介助誤学習である場合が圧倒的に多いのです。)

座って食事介助するのは、とても良いことですが
それだけでは十分ではありません。
自身のスプーン操作に留意しながら介助することが重要です。
いくら座って介助していても、肝心のスプーン操作を適切に行えずに
斜め上に引き抜くようなスプーン操作をしていれば座ることの意義を発揮できていないことになります。

逆に言えば、どうしてもスペースがないなどの理由で
立って食事介助するしかない場面でも
より一層、自身のスプーン操作に気をつけながら介助すれば良いのです。

問題は、立って行うか座って行うかではなくて
斜め上に引き抜かずに、下唇か前舌を押して水平に引き抜くようなスプーン操作が行えるかどうか
なのです。

意味がわかることが大事

食事介助は立ってするか座ってするかは問題の本質ではなく
適切なスプーン操作を行いやすい環境は座って行うことだという手段に過ぎません。
手段と目的のすり替え。。。
リハやケアでいろいろなカタチで起こっていることです。。。

救命講習で
意味がわからないために確認し損ねたり、実践できなかったり、間違えたりしたら
それこそ、生命に関わりますものね。
救命講習そのものを受講できたことも良かったし
関連して重要なことの再確認もできて良かったです。

 

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帰宅要求への対応:問いを問い直す

帰宅要求をする方に対しても
「どうしたら帰宅要求がなくなるか」という視点に立って
対応がなされがちです。
曰く、
「高齢女性だったらタオルたたみをしてもらう」
「お茶を飲んでもらう」
「気持ちをそらす」。。。

かつての私は積極的にそのような対応をしていたわけではありませんが
傾聴するとしても
「その方が帰りたい」という気持ちはわかっても現実に帰れるはずがない時に
どこに終着点を持っていったら良いのかわからず
傾聴することの意義がわからず
認知症のある方の帰宅要求も収まらなかったり
収まったら収まったとしてもこちらの独善や押し付けのような気がして
ずっと悶々とした気持ちを抱えていました。

東京都立松沢病院の名誉院長の齋藤 正彦医師は
「微笑みながら徘徊する人や帰宅要求をする人はいない」
と言っていました。

そうなんです!
必死になって訴えている方のお気持ちを無碍にするような対応への違和感が拭えず
かといって、どうしたら良いのかわからなかった。。。
 
 帰宅要求を訴える方の再認の可否について確認し対応します
 具体的な対応の指針と実践例については 新著に記載してありますので

 よろしかったらご参照ください。

帰宅要求を収めることをゴールとして対応の工夫を考えるのではなく
帰宅要求をしている方がイマ・ココで何を心配しているのか
その心配に反映されている障害と能力と特性を把握し
常に感受・判断を繰り返しながら対応していくことが求められています。

多くの場合
この、障害と能力と特性の把握、感受と判断の繰り返しといった過程が困難だから
結果として起こることを目的化してしまうのだと思います。

帰宅要求への対応が難しいのではなく
目の前にいる方の障害と能力と特性の把握が難しいのです。

ここには
認知症のある方を対象とした現場あるあるがいくつも反映されています。
・結果として起こることの目的化
・手段と目的の混同
・自身の困難を認知症のある方へ投影してしまう
・観察を主とした状態把握をすっ飛ばして、ハウツーを当てはめる
・当てはめたハウツーの適否を確認しない

だとしたら
そのような臨床思考を脱却すれば良いだけです。
指針と実践はお示ししています。
ただし、「結果を出せる」ようになるためには反復練習、トレーニングが必須です。
その過程において、幾度も自身の未熟に直面させられることになります。
ここで安易な道に走ってはいけません。
今までやってこなかった考え方、在り方、方法論を行おうとするのですから
すぐにできなくて当たり前です。
同じコトを違うカタチで実践するに際し、最初は新しい方法論でできていても
ふと気がつくと以前の方法論に戻っていることに気がついて愕然とすることに何度も遭遇すると思います。
習得するまでには、できたりできなかったりを繰り返しようやく習得に至ります。
そんなの当たり前です。
リハビリテーションの対象者は皆さんこの過程を通っています。
リハビリテーション提供者がこの過程を自身の辛さのために回避するのはおかしなことです。

これをすれば誰でもいつでもどこでも帰宅要求が一発でなくなる
なんて方法があるわけがありません。
仮にあったとしても、そんな方法は恐ろしいだけです。
でも、現場では自覚なく求めている人が圧倒的に多いのです。。。

個別性のある対応
その人らしさを大切にする
理念としては誰もがそう語りますが、実践はその真逆となっているのではないでしょうか?
理念は語るものではなくて実践するものです。

問いを問い直す

切実に問われていると感じています。

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Activity:問いを問い直す

イメージ_猫

認知症のある方へのActivity、余暇活動については
多々誤解があると考えています。

・大勢で一斉に同じ課題を提供する
・「できる」課題を提供しがち
・場面設定への工夫よりも職員の声掛けで対応しようとしがち
・そもそもなぜその課題なのかという必然性に関して検討されない などなど。

おそらく
現場の職員は
ある一定の時間を「何かして過ごす」ことを目的として考え
認知症のある方に「できそうなこと」を考え
その結果、例えば塗り絵を提供してみたらできたから継続して行なっている
といったパターンが圧倒的に多いのではないでしょうか?

現場あるあるです。。。
ただ、誤解なので誤解から脱却できれば
大きな改善が生まれると考えています。

その中でも最も重要なことは
なぜその課題をしていただくことが
目の前にいるAさんにとって適切と考えたのか
ということを提供する職員の側がきちんと検討しておくということです。
 
余暇活動、Activity、レクリエーションをする意義を
「業務として行わなければならないから行う」と考えているのか
「目の前にいるAさんに有意義な時間を過ごしてほしい」と考えているのか
ということをきちんと考え直す必要があります。
ここを曖昧にしたまま、何をしてもらおうか?と考える。。。というのが
現場あるあるの大きな問題
ではないでしょうか?

問いを問い直す

問題設定の問題がここにあります。
   
Cさんの障害と能力と特性を把握できていないと
提供する課題の適切さの検討が出来ようはずがありません。

障害と能力と特性を把握できれば
回避する課題、提供する課題が浮かび上がってきます。
認知症のある方に適切な余暇活動の提供が難しいのではなく
認知症のある方の障害と能力と特性の把握が難しいのです。

二重の意味で、問題設定の問題、問いを問い直す必要があるのです。

実際の現場では、とりあえすできそうな課題を提供して
適切な課題を検討する時間を稼ぐことは戦略としてありですが
できたことで安心してしまうのは違うと思います。
できた課題をどのように行うのかということを観察することで
障害と能力と特性を把握することが叶います。

この過程を回避しようとして
(障害と能力と特性を観察から把握するということは簡単なことではない)
意向尊重、意思尊重として「何がやりたいのか」を問うことを強調するのは
ちょっと相当違うのではないかと考えています。
  新著にも書きましたが
  やりたいことを実現するために希望を尋ねるのではなくて
  自分が自分であることの再体験のための手段のひとつとして、希望を尋ねるのだと考えています。
  このことについては、とても大切なことなので別の記事で書いていきます。

あることを回避しようとして別のことを強調する、すり替えは
人の防衛反応としてのあるあるです。

Activityを提供する際に私は平行集団を実践し提案しています。
同じ場所同じ時間を共有しながらも
「すること」は人それぞれ異なる。
Cさんの特性と能力から適切な課題を選択し障害や困難に応じて場面設定をする。
たった一人で16〜18人の重度の認知症のある方の平行集団を2時間運営してきました。
帰宅要求や突然の立ち上がり、大声を出してしまう方ももちろんいました。
5年以上その方法で行ってきて転倒は1件転落が1件だけでいずれも外傷はありませんでした。

認知症のある方へのActivityや余暇活動の提供で悩んでいる方は大勢いると思いますが
皆が一斉に同じことをするような今のやり方がすべてではないのです。
高邁な理念を語っていてもどこかで手段と目的を取り違えるというパターンは現場あるあるです。
だとしたら、そこからやり直せば良いのです。
手段はたくさんあります。
目的は目の前にいるAさん、Bさん、Cさんにとっての適切さなのです。

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大声・暴言のある方への対応:問いを問い直す

大声や暴言のある方に対して
「大声・暴言のあるBさんに対して、どうしたら大声や暴言をなくせるか」
という問題を設定して、みんなで対応を考える
というパターンが圧倒的に多いのではないでしょうか?

問いを問い直す
問題設定の問題と言っている現場あるあるの課題は、ここにあります。

まず一つ、
「大声や暴言のBさん」と、BPSDを形容詞化してしまっています。
どんなに大声や暴言の著明な方でも24時間365日大声や暴言を言っているわけではありません
形容詞化してしまうことで、大声や暴言のない時のBさんの状態を見落としてしまいます。

二つ目には、
大声や暴言という大きな見た目は同じでも
Bさんが「何に対して」大声や暴言をしているのかを全く確認をしていないということが問題です。
本来、「何に対して」怒っているのかがわからなければ対処のしようもないはずです。
先の記事で書いたように
「電気を消すことの何が嫌なのか」確認しようとしない
という私たち職員側の在り方と全く同じことが違うカタチで起こっているのです。

「ちゃんと声掛けしているのに怒られた。どうしたら良いの?」
という相談もよく受けますが
「ちゃんと」というのが実はクセモノで(苦笑)
言葉は丁寧でも口調がぞんざいだったり、キツかったり。。。
あるいは、長々と説明しているので理解できなかったり。。。
または、一方的に「その場を収める」ための声かけで本当の意味で「聴いて」いなかったり。。。

大声を出す、暴言を言う、という表現に表れているのは
その方のなんとかして欲しいという要望の強さのこともあります。
もちろん、いくら対人援助職だからといっても
誰だって怒鳴られたり酷いことを言われたら
人間として怖いし傷つきます。

でも、私たちは
お金をもらって認知症のあるBさんに接しています。
怒る、大声を出すという言動の評価ができる情報収集の貴重な機会を逃さないようにしましょう!
Bさんが「何に対して」大声や暴言という表現をしているのか率直に尋ねる。
そして、大声や暴言に反映されているBさんの困難と能力は何か
ということを把握しましょう。

大声や暴言という見た目、大きな枠組みは同じでも
その時その場の状況において
「何に対して」怒っているのか、ということは同じBさんでもまったく異なってきます。

だから、その都度「何に対して」怒っているのかを聴くことから始める必要があります。
言葉にして聴く時には聞き方に工夫が必要ですし
介助というもう一つの言葉で聴く時にも工夫が必要
です。
その工夫とは〇〇したら大声・暴言がなくなる、というハウツーの当てはめではありません。

大声や暴言を収めようとする在り方は
「大声や暴言がない」という状態を「望ましい状態」として無意識のうちに設定しています。
目標として計画書に記載していなかったとしても
実際の目標、ゴールとして設定しています。
この時点で、「状態であって行動ではない」から「目標=達成すべき本人の行動」とはなり得ない。
望ましいゴールではないところを目指しているので
当然行動変容が起こらない。努力が空回りしてしまう。という帰結を迎えます。

問いを問い直す。

どうしたらBさんの大声や暴言がなくなるのか
という問題設定ではなく
イマ・ココでBさんは何に対して大声や暴言というカタチで表現しているのか
という問題設定をする。
二重の意味で問いを問い直すことが求められています。

ちょっと話がそれますが
お気づきの方もいると思いますけれど
私はこちらのサイトでも論文や著書においても
「正しい」という文言は使っていません。
「適切」という文言をよく使っています。
誰にでも、いつでも、どこでも、万人に通用するような
「正しい」声かけや対応はありません。

目の前にいる方に対して、その時その場で適切だったかどうかが求められています。
適切かどうかの根拠はその方の目標です。
だから、認知症のある方に対して適切な対応ができるためには
目標設定を的確に行えることが望まれるし
目標設定が的確に行えるようになると
認知症のある方への対応の適不適の判断もできるようになってきます。
非常に強く関連しているのです。

いまだに時々見かける
長期目標:関節可動域の維持・改善
短期目標:関節可動域の維持・改善
治療内容:関節可動域訓練
だったり
長期目標:移動能力の維持
短期目標:移動能力の維持
といった記録を残すような人で認知症のある方に対して適切な対応ができる人に会った試しがありません。

逆に言えば
たとえ、今、目標設定ができない人でも、認知症のある方に適切な対応ができない人でも
どちらか一方がきちんとできるようになると
他方のおかしさを自覚し、自身でトレーニングを積むことができるようになり
いずれどちらも改善できるようになっていきます。
ここに未来への希望を感じています。

 

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問いを問い直す

認知症のある方への対応にしろ
食事介助への提案にしろ
生活期にある方へのポジショニングにしろ
私のさまざまな提案の根底に通底しているのは
現行の在り方への疑問です。

問いを問い直す

アーシュラ・K・ル=グウィンの「西のはての年代記III ヴォイス」という本に
「心の中の神が石の中の神を見る」
「はかりしれない謎に理にかなった思考を寄せる」
「われわれの探す迷子の羊は真の問いだ
 羊の体のあとに尻尾がついてくるように
 真の問いには答えがついてくる」
という言葉が出てきます。
まさしく!まさしく!

いわく
現場では多くの人が、
認知症のある方の大声や暴言、介護抵抗といったBPSDが
「どうしたら出なくなるか」
「どうしたらなくなるか」
という問いを立て、その問いに答えようと多様なハウツーが主張・展開されています。

でも本当は
「何に対して怒っているのか」
「何が嫌だと表現しているのか」
を尋ね、共有化することが最初の問いなのではないでしょうか。

どうしたらBPSDがなくなるのか
という問いは目標設定が適切にできるようになれば
(現実には大変な困り事ではあったとしても)
解決の視点としてはおかしなことだと気がつけるようになります。
 「BPSDがなくなる」というのは行動ではないので目標にはなり得ないからです。
  詳細は目標設定についての記事を検索・ご参照ください。

問題設定の問題、問いを間違えていたのです。
だとしたら、問いを問い直せば良いだけです。

尋ね方にはまず言葉で尋ねることが重要で
その尋ね方にも知識と技術が必要ですが
その際の知識と技術が明確化されていないのが私たちの側の問題の一つです。
また、言葉ではなく「介助というもう一つの言葉」で
「もしかしたら〇〇ということが嫌で怒っていたのですか?」
「△△という方法なら大丈夫でしょうか?」
と尋ね確認する過程も必要で、この過程にも知識と技術が必要ですが明確化されていません。
これも私たちの側の問題です。
(いずれに対しても私はあちこちで知識と技術の側面から提案をしています)

これらの過程の問題が解決されていないので
紋切り型の対応やハウツーが希求されるしかないのだと思います。
でも、そのような対応では実際の現場で
「うまくいかない」体験を必ずしているはずなんです。

認知症のある方への現場では
いろいろなことが混同され切り分けられていないという側面もあります。
そこを整理することが必要だと考えています。
・善意であれば正しい結果を出せるわけではない
・対人援助は関係性の中で為される行為であるからこそ
 援助者側の困難が対象者の問題として投影されてしまう
・援助は強制や独善とは同じコインの裏表
 容易にすり替わりがちで
 援助であれば強制や独善にはなり得ず、強制や独善であれば援助にはなり得ない
・援助者側の都合は否定されるものではないが、混同されるべきものでもない
・対象者の言動を的確に観察・洞察できている援助者は思った以上に少ない
・安易な紋切り型の対応、ハウツーへの希求は
 受講者側だけでなく研修会主催者や講師側にも根深く位置づけられているため
 拡大再生産されてしまう

これらの現実をきちんと見つめ、整理し直すことが必要だと考えています。

紋切り型の対応やハウツーの当てはめを卒業できるように
こちらでの記事をはじめ自身のサイトや著書や講演を通して具体的に提案をしています。
困っている方はぜひご参照ください。
   
卒業できるようになるには、
知識も技術も必要ですし体験学習の蓄積という時間も必要です。
技術を習得・実践・活用できるようになるまでの過程で
時には自身の未熟にいやというほど直面させられることもあるでしょう。
でもその先があるのです。

実践の過程を支えてくれるのは
認知症のある方が良くなっていく過程の協働体験そのものです。
認知症のある方がなんとか問題解決しようとする意思と
不合理な形であったとしても発揮されている能力の発露に触れることです。

そこを知れば、もう決して元の在り方や考え方に戻ることはできません。

 

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脱ハウツーのススメ:PDCAを回す

認知症のある方への対応でも
食事場面への工夫でも
身体的なリハでも
単にハウツーを当てはめてるだけの人って案外多いものです。

もうひとつ
そういう人たちの思考傾向として
PDCAを回さない。ということが挙げられます。
確認をしない。ということが挙げられます。(下図参照)

「座位で傾いてしまう方には座面を傾ける」
「食事が自力摂取できない方にはカットアウトテーブルに両肘をつかせる」
「かきこみ食べをする方には食器を小分けにして小さなスプーンで提供する」
「生活期の方のポジショニングで過剰に膝を伸展させたり股関節を外転させる」
「拘縮予防として大きな巻きタオルを手に持たせる」
「帰宅要求があったらタオルたたみをしてもらう」
「認知症のある方にはパラシュートというレクが良い」などなど。。。
実際に私が見聞きしたハウツー展開の一端です。

そして、実際には上記のようなハウツーを展開しても
良い結果にはなっていないのに
「CHECK」をしない
あるいは、「CHECK」に向き合わないために
漫然とその対応が続けられてしまう。。。

ピンチはチャンス

辛いかもしれないけど
「自分がちゃんとできない」
「どうしたら良いかわからない」
と、困ることによって
できない自分自身に向き合うことによって
今まで自身が見落としていた事象に気がつくことができるようになったり
自身が知らなかった知識に触れることができるようになったりします。
困って辛い思いをしたとしても、その先があるのです。

今、モヤモヤした違和感を抱いている人は、
まず、事実確認、PDCAのCHECKを意識するようにしてほしいと思います。
「そうすべきと教えられたことをしても良くなっていない」
という事実にきちんと向き合い
きちんと困ることができる人になりましょう
そこがスタートラインです。

そして
どんなに遠い道のりのように見えたとしても
対象者にとって悪いことはしない
と心がけるようにしましょう。

すべてはそこから始まります。
辛い日々も増えるかもしれませんが
それは、成長・成熟のサインなんです。
困った時には、きっとこのサイトも参考になると思います。
過去にもいろいろな記事を書いていますから
サイト内検索をしてみてください。

まさしく、まさしく、本当にこの通りなんです!

 

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