Category: 素朴な疑問 不思議なジョーシキ

問いを問い直す

認知症のある方への対応にしろ
食事介助への提案にしろ
生活期にある方へのポジショニングにしろ
私のさまざまな提案の根底に通底しているのは
現行の在り方への疑問です。

問いを問い直す

アーシュラ・K・ル=グウィンの「西のはての年代記III ヴォイス」という本に
「心の中の神が石の中の神を見る」
「はかりしれない謎に理にかなった思考を寄せる」
「われわれの探す迷子の羊は真の問いだ
 羊の体のあとに尻尾がついてくるように
 真の問いには答えがついてくる」
という言葉が出てきます。
まさしく!まさしく!

いわく
現場では多くの人が、
認知症のある方の大声や暴言、介護抵抗といったBPSDが
「どうしたら出なくなるか」
「どうしたらなくなるか」
という問いを立て、その問いに答えようと多様なハウツーが主張・展開されています。

でも本当は
「何に対して怒っているのか」
「何が嫌だと表現しているのか」
を尋ね、共有化することが最初の問いなのではないでしょうか。

どうしたらBPSDがなくなるのか
という問いは目標設定が適切にできるようになれば
(現実には大変な困り事ではあったとしても)
解決の視点としてはおかしなことだと気がつけるようになります。
 「BPSDがなくなる」というのは行動ではないので目標にはなり得ないからです。
  詳細は目標設定についての記事を検索・ご参照ください。

問題設定の問題、問いを間違えていたのです。
だとしたら、問いを問い直せば良いだけです。

尋ね方にはまず言葉で尋ねることが重要で
その尋ね方にも知識と技術が必要ですが
その際の知識と技術が明確化されていないのが私たちの側の問題の一つです。
また、言葉ではなく「介助というもう一つの言葉」で
「もしかしたら〇〇ということが嫌で怒っていたのですか?」
「△△という方法なら大丈夫でしょうか?」
と尋ね確認する過程も必要で、この過程にも知識と技術が必要ですが明確化されていません。
これも私たちの側の問題です。
(いずれに対しても私はあちこちで知識と技術の側面から提案をしています)

これらの過程の問題が解決されていないので
紋切り型の対応やハウツーが希求されるしかないのだと思います。
でも、そのような対応では実際の現場で
「うまくいかない」体験を必ずしているはずなんです。

認知症のある方への現場では
いろいろなことが混同され切り分けられていないという側面もあります。
そこを整理することが必要だと考えています。
・善意であれば正しい結果を出せるわけではない
・対人援助は関係性の中で為される行為であるからこそ
 援助者側の困難が対象者の問題として投影されてしまう
・援助は強制や独善とは同じコインの裏表
 容易にすり替わりがちで
 援助であれば強制や独善にはなり得ず、強制や独善であれば援助にはなり得ない
・援助者側の都合は否定されるものではないが、混同されるべきものでもない
・対象者の言動を的確に観察・洞察できている援助者は思った以上に少ない
・安易な紋切り型の対応、ハウツーへの希求は
 受講者側だけでなく研修会主催者や講師側にも根深く位置づけられているため
 拡大再生産されてしまう

これらの現実をきちんと見つめ、整理し直すことが必要だと考えています。

紋切り型の対応やハウツーの当てはめを卒業できるように
こちらでの記事をはじめ自身のサイトや著書や講演を通して具体的に提案をしています。
困っている方はぜひご参照ください。
   
卒業できるようになるには、
知識も技術も必要ですし体験学習の蓄積という時間も必要です。
技術を習得・実践・活用できるようになるまでの過程で
時には自身の未熟にいやというほど直面させられることもあるでしょう。
でもその先があるのです。

実践の過程を支えてくれるのは
認知症のある方が良くなっていく過程の協働体験そのものです。
認知症のある方がなんとか問題解決しようとする意思と
不合理な形であったとしても発揮されている能力の発露に触れることです。

そこを知れば、もう決して元の在り方や考え方に戻ることはできません。

 

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脱ハウツーのススメ:PDCAを回す

認知症のある方への対応でも
食事場面への工夫でも
身体的なリハでも
単にハウツーを当てはめてるだけの人って案外多いものです。

もうひとつ
そういう人たちの思考傾向として
PDCAを回さない。ということが挙げられます。
確認をしない。ということが挙げられます。(下図参照)

「座位で傾いてしまう方には座面を傾ける」
「食事が自力摂取できない方にはカットアウトテーブルに両肘をつかせる」
「かきこみ食べをする方には食器を小分けにして小さなスプーンで提供する」
「生活期の方のポジショニングで過剰に膝を伸展させたり股関節を外転させる」
「拘縮予防として大きな巻きタオルを手に持たせる」
「帰宅要求があったらタオルたたみをしてもらう」
「認知症のある方にはパラシュートというレクが良い」などなど。。。
実際に私が見聞きしたハウツー展開の一端です。

そして、実際には上記のようなハウツーを展開しても
良い結果にはなっていないのに
「CHECK」をしない
あるいは、「CHECK」に向き合わないために
漫然とその対応が続けられてしまう。。。

ピンチはチャンス

辛いかもしれないけど
「自分がちゃんとできない」
「どうしたら良いかわからない」
と、困ることによって
できない自分自身に向き合うことによって
今まで自身が見落としていた事象に気がつくことができるようになったり
自身が知らなかった知識に触れることができるようになったりします。
困って辛い思いをしたとしても、その先があるのです。

今、モヤモヤした違和感を抱いている人は、
まず、事実確認、PDCAのCHECKを意識するようにしてほしいと思います。
「そうすべきと教えられたことをしても良くなっていない」
という事実にきちんと向き合い
きちんと困ることができる人になりましょう
そこがスタートラインです。

そして
どんなに遠い道のりのように見えたとしても
対象者にとって悪いことはしない
と心がけるようにしましょう。

すべてはそこから始まります。
辛い日々も増えるかもしれませんが
それは、成長・成熟のサインなんです。
困った時には、きっとこのサイトも参考になると思います。
過去にもいろいろな記事を書いていますから
サイト内検索をしてみてください。

まさしく、まさしく、本当にこの通りなんです!

 

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悪いことをしないように心がける

先日、久しぶりに会った知人から
「前によっしーさんに言われた『悪いことはしないように』
 それだけは守ってる」と言われて、とても嬉しく思いました。

その人は、とても優秀な人で謙虚な人だから
「良いことはできなくても悪いことはしないように心がけている」
という言い方をしていましたが
本当に優秀な人は本当に謙虚だなーと改めて思ったものです。

対象者にとって悪いことはしないように心がける。

これは、かつての私の実践でもあります。
若い時には、認知症のある方に対して
どうしたら良いのか
どう考えたら良いのか
さっぱりわかりませんでした。
良いと言われていることは何でも学びやってみましたが
納得はいかない。。。
結局、目の前にいる方から学ぶことしかなかったのですが
その時に、悪いことはしないように
ということをスタートラインにしたのです。

「良いことをしよう」という意識は
善意であることは疑いませんが
「地獄への道のりは善意で敷き詰められている」
「地獄には善意が満ちているが、天国には善行が満ちている」
というヨーロッパの諺の通り
独善に陥ったり、自身のスローガンの実践にとどまったり
PDCAを回すことを怠ったりしがちです。
 
一方で
「悪いことをしないように」という意識は
対象者本意の視点から始まります。
対象者にとっての悪いことというのは対象者一人一人によって異なるからです。
こちらの独りよがりや強制を予防することができます。

いろいろな人の実践を垣間見聞きし
いろいろな経験を積むにつれ
「悪いことはしない」ように心がける実践から始めることができて
本当に良かったと思う今日この頃ですが
当時は、その意味が今ほどはわかっていなかったと思うのです。
出発点を間違えずに本当に良かった、ラッキーだったと思っています。
その選択をしたのは紛れもなく私自身ではありますが
何かの出会いのタイミングのちょっとしたズレの蓄積で
そのような選択ができなかった可能性だってあったかもしれず
そう思うと怖さで身震いするほどです。

いろいろなところで言っていますが
スティーブ・ジョブズの「意図こそが重要」という言葉は真実です。
認知症のある方への対応についても言えることです。

認知症のある方へどう対応したら良いのかわからない
と困っている人は、困ることができる人でもあります。
困ることすらできない人になってはいけない。
ピンチはチャンス。
今までとは違う実践、認知症のある方に対して悪いことはしないように
心がける実践に切り替えるチャンスです。

 

 

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認知症のある方の話を聴く:事実確認と感情表出

あけましておめでとうございます。

本年も情報発信に努めていきたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。

・記憶の連続性を確認したい時には事実確認を優先する
・エピソード記憶を聴いている時や認知症のある方が言いたいことがある時には
 感情に焦点を当てて聴く

認知症のある方と話をする時には必ず自分の意図を明確にしています。
記憶の連続性を確認したいのか
認知症のある方に感情表出を促したいのか
意図が異なれば対応も変わります。

記憶の連続性を確認したい場合についてご説明します。

まず、その方の日課に沿って体験直後に尋ねます。
例えば、昼食後に(今日のお昼ご飯はいかがでしたか?)と尋ねます。
「おいしかったよ」
だけだと判断できないので
(何が一番おいしかったですか?)と尋ねます。
そこで具体的に献立名が返ってくれば覚えていることが推測されます。
(再生の可否を確認します)
ここで具体的な献立名が返ってこなければ
こちらから献立名を提示します。
(聴覚情報で再認ができるかどうかを尋ねます)
この時の答えや表情から再認可能かどうかが推測できます。
単にお愛想で応じてくれただけで再認が曖昧と思えば
他の場面で複数回、情報収集するようにします。

「このあと〇〇時にお部屋に伺いますね」とお伝えしてから
〇〇時に訪室した時の様子を確認します。
「あら、すみませんね」
「お待ちしていました」
と返ってくれば、お伝えした時刻から△時間は覚えてくれていたことがわかります。
「あら、どうしたんですか?」
と返ってくれば、お伝えした時刻から△時間は記憶の保持が困難だったことがわかります。

このように、意図的な会話ができれば
なんてことのない話の中で、拾えるエピソードがたくさんあることに気がつきます。
記憶の連続性については、こちらが意識してさえいれば
会話だけでもかなりの情報を収集できます。

認知症のある方が帰宅要求をしている時など
感情表出を促したい時には事実かどうかではなく
その方の感情に焦点を当てて話を聴くようにしています。

例えば
90歳代の方が
「お父さんの先生が亡くなったからお通夜に行かなくちゃ」
と発言された時に
ここで「お父さん」が夫なのか父を指しているのかはわかりませんし
どちらであったとしても既に亡くなられていることは事前情報から把握できています。
その先生であれば、おそらく亡くなられていると思われますが
いずれにしても、それらの事実はさておき
「お世話になった方が亡くなられたから最後のご挨拶に伺いたい」
という気持ちは理解できます。

「とてもお世話になった方が亡くなられたんですね」
「それでお通夜に行こうとしていたんですね」
「不義理なことはできないですよね」
その方の特性を把握できていれば
どのような言葉を選択したら良いかは自然と浮かび上がります。

その方のほうから
どんな先生だったか語り始める時には
その方に任せて語られていることをイメージしながら聴いていきます。

必要に応じて沈黙も大切にします。

帰宅要求があると
話を逸らそうとしたり
気を逸らすために何かさせたり
といった対応をする人は多いけれど
帰宅要求があった時に介入可能であれば
きちんと感情表出を促すことで(だけで)
自然と帰宅要求が収まってしまうということは多々あります。

HDS-Rの得点が1桁の方でも
単なる説明(聴覚情報)や視覚情報のを併せて提供すると
再認することができる方は数多くいます。

人権擁護と認知症がご専門の齋藤正彦医師は
「微笑みながら徘徊する人はいない」
「微笑みながら帰宅要求する人はいない」
と言っていましたが、本当にその通りだと思います。

必死になって訴えている方に対して
気を逸らす対応をしていたら
信用してもらえなくて当たり前だと思います。

現行で常識的な対応とされていることでも
よくよく考えるとおかしな対応って結構あります。
じゃあ、どうしたら良いのか、改善提案をしていきますね。

 

 

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「脱!ハウツー」のススメ

私がすごく疑問に感じるのは
「その人らしさを大切に」「認知症のある方に寄り添ったケア」
と唱えられることはあっても
実際の実践は、単にハウツーの当てはめをしているだけというケースが多いことです。
「〇〇という時には△△する」
これのどこが、その人らしさを大切にしていることなのか、寄り添っているのか
私にはさっぱり理解できません。
ハウツーは個別性の真逆にあるものです。
そもそも、どういう言動がその人らしさを大切にしていることで
どういう言動が寄り添ったケアではないのか
具体的に現実的に考えていくと、とても難しいことです。

たとえば
帰宅要求がある方に対して
「お茶を飲んでいただく」「タオルを畳んでいただく」
などの気をそらす対応が為されています。

諸般の事情で、そうするしかない時だって、もちろんあるとは思います。
そのような時には、望ましい対応でも適切な対応でもないことを自覚した上で
気をそらせる対応をするしかないからするのだと自覚しつつ行えば良いのです。
けれど、実は、
「気をそらせる=良い対応」と思い込んで為されている場合が多いのではないでしょうか?
帰宅要求に対して、気をそらせるような対応は
決して望ましい対応でも適切な対応でもありません。
だって、もしも上述の対応が良い対応だとしたら
どれだけ上手く気をそらせられるか、どれだけ上手く誤魔化せるか
ということが良い対応ということになってしまいます。
そんなバカなことがあるはずがありません。

認知症と人権擁護がご専門の齋藤正彦医師は
「微笑みながら徘徊したり帰宅要求を訴えている人はいない。みんな必死だ。」
とおっしゃっていました。
本当にその通りだと思います。

この問題はとても根深くて
「帰宅要求→気をそらせる」対応は単に表面的に表れているだけで
それよりも根本的な問題があって、
「帰宅要求→どうしたらおさめることができるか」
という発想のもとに対応の工夫が展開されてきた
そしてそのようなハウツー的対応への疑問や改善提案が
為されてこなかったことにあると考えています。

それって、下図のような思考過程(本当は思考ですらない)
で為される対応です。
帰宅要求だけを切り取って、どうしたら帰宅要求がなくせるか
考える。という対応です。

私が実践し提案してきていることは、まったく違うことです。

上図の通り、まず、きちんと情報収集をします
目の前に起こっている、一見すると不合理な言動、
たとえば、帰宅要求をしている場面そのものをきちんと観察します。
(この過程がすっ飛ばされている、不十分過ぎることが圧倒的に多い)
知識があれば、その場面に反映されている、
その方の能力と障害と特性を見出すことができます。
見出すことができれば、その方に今、何が起こっているのかを洞察することができます。
洞察することができれば、どうしたら良いのかを判断することができます。
それは、自然と一本道のように浮かび上がってくるものです。
あとは、その判断を具現化できる技術があれば良いだけです。

錯綜した現実を解きほぐす
そのためには、知識が必要です。
知識がなければ、単に「何度も繰り返し帰りたいと言う」ことしかわかりません。
知識があれば、近時記憶障害があっても再認可能だからきちんと説明しよう。
という判断ができますし
説明する時には口調に気をつけて、伝わりやすい言葉を選択しよう。
といった、その方の特性も理解できているからこそ可能な判断ができます。

観察の解像度を上げる

きめ細やかに現実を解きほぐせるほど
より的確な対応がその時々、その方それぞれに可能になる所以です。

ポジショニングの現状とまったく同じコトが違うカタチで起こっているだけです。

どうしたら良いのかがわからないのではなくて
何が起こっているのかがわからないのです。
だとしたら、「自分にはわからない」という事実にきちんと向き合って
錯綜した現実を解きほぐせるように
情報収集からやり直せば良いだけです。
その繰り返しで、パッと観てパッと洞察できてパッと対応できるようになります。
知識を習得しようとしない人や情報収集の過程をすっ飛ばす人には
結局、何が起こっているのか皆目わからないでしょうし
その人ができていなくて、私がやっていることとの違いもわかりません。
本当に違うのは、実際にやっていることではなくて
実践を下支えしている観察・洞察なのです。

今、本当に問われているのは
どう対応するか、ではなくて
観察、洞察、評価が不十分だという、私たちの側の問題なのです。
だからこそ、今すぐにでも改善可能なのです。

「その人らしさを大切にする」
「寄り添ったケア」
という高邁な理念は唱えているだけでは決して実現できません。
理念は唱えるものではなく、実践の際のもう一つの指針となるものです。
どのように指針となるのか
理念がどのように対応の工夫に役立つのか
次からの記事でご提案していきます。

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CCSの振り返りを

実習指導に
クリニカルクラークシップ(CCS)が導入されて久しくなりました。

倫理的な問題も踏まえて
時代の流れとしての必然もあると思います。

CCSで臨床実習を受けた学生が多数臨床に出ているので
CCSのメリットもデメリットも
養成校側にも臨床現場側にも当の学生(新人や若手)にも職場管理者にも
把握できている頃合いなのではないでしょうか?

このあたりで一度メリット、デメリットを踏まえて
検討してみることも必要なのではないでしょうか?
より良いCCS、より良い実習体験、
最終的にはより良い臨床家を育てるための実習という目標に照らして
検討してみた方が良いのではないでしょうか?

実習で本当に体験学習をさせなければならないことは何なのか?

かつて
私が実習で感じたことは
今は指導者がいるから良いけれど
就職したら自分でPDCAを回していくんだという責任の重さ、怖さでした。

就職してからも
対象者に悪いことをしないで済むように
できれば良いことができるようになりたいと必死でした。
職場に来てくれたボバースの紀伊克昌先生や古澤正道先生のデモンストレーションで
いつもできない動作をスムーズにできるようになっていく対象者を目の当たりにして
天と地ほどの実力差を痛感し
にもかかわらず、ご家族は同じ時間と同じお金を支払うのだと思い知らされました。
  
まず、自分が真っ当なOTになりたいとずっと願っていました。
そのために必死になって学んできました。
自分自身がそれなりの実践を提供できていると自信を持てるようになったのは、かなり経験を積んでからのことです。
そして今でも、自分の技量の未熟によって対象者の方に不利益を提供してしまうようなことは避けたいと強く思っています。
自分が結果を出せるようになることが最優先で
実習では結果を出せるようになるための礎を体験してもらうことが最優先で
OTの楽しさ、素晴らしさを伝えたいと思ったことは昔も今も一度もありません。  
自分自身が納得できない現行の方法論から脱却し
どうしたら結果を出せるようになるのか
非常に大変な思いをしてきました。
私が興味関心を抱き続けてきたのは終始「結果を出す」「対象者がよくなる」こと
今も、それを一人でも多くの人に伝えていきたいと思っています。

かつて実習指導者会議に出席した時に
「実習では学生にOTの楽しさを体験させてほしい」
と複数の養成校の複数の教員から言われました。
当時はものすごく納得できなくて
でも、何をどう伝えたら理解してもらえるのかがわからなくて
結局は何も言わずにいたのですが
そして今となっては指導者の立場からは身を引いて外から養成を眺める立場ですが
やはり同じ思いを抱いています。

  私がよく言うことは
  飛行機のパイロットが同業者に向けて
 「パイロットの素晴らしさを伝えたい」と思うだろうか?ということです。
  どのような飛行条件であったとしても安全に目的地に着陸できるように
  自身の技量をトレーニングしているのではないでしょうか。

OTを志望してもらえる裾野を広げるために
一般の人に「OTの素晴らしさや楽しさ」をPRしていくことは必要だと思います。
けれどOTの養成過程にある人に対して
素晴らしさや楽しさを優先して伝える意義がどこにあるのか私には理解できません。
まず、OTとして最低限の技量を身につけるように養成するのが最優先なのではないでしょうか。
善意と善行の区別がつくように養成しなければならないのではないでしょうか。

私は志の高い、優秀なOTをたくさん知っています。
と同時に、そうではないOTがいることも知っています。
どんな職業でもピンキリであり
人にはそれぞれの事情やバックグラウンドもあるでしょう。

でも、対象者にとって、それは無関係なことです。

自分や自分の大切な人が対象者の立場に立てば
誰だって腕の良いOTに担当してもらいたいと願うものではないでしょうか。

たとえば
目標設定や筋緊張を緩和させるポジショニングについて
悩んでいる人がたくさんいることが記事のアクセス数からも伝わってきます。
でも、同時に、これって基本的なことなんじゃないかな?という思いも抱きます。
だけど、こういった基本的なことをちゃんと教えられる人が少ないから
困ってしまう人が多いんだろうとも思います。
そして、悩んでいる人はまだ良くて
目標設定やポジショニングができないのに
悩むことすらできないOTがいることも知っています。

私が思うに
検査はできても評価ができないOTが多いように感じています。
目の前で起こっている事象から障害を観察できなかったり
個々の事象の関連性を認識できず障害と代償との区別がつかなかったり
事象に対して表面的に対応したり、
ハウツーを当てはめるだけでそのハウツーが適切かどうか確認しない
そのような臨床姿勢が適正であると思い込んでいる。。。

OT協会の加入率が年々減少していて
卒後研修や自己研鑽に積極的ではないOTも少なからずいて
OTの質を底上げすることに関して
結果的にであったとしても就職先の職場に丸投げしているような現状だと
直接のOJT指導者にものすごい心身の負担がかかっているのではないでしょうか。
協会主催の卒後研修において、
もっと基礎的な実践的な知識と技術、臨床姿勢について指導も必要なのではないでしょうか。

一個人の私にできることは
日々の実践や講演などを通して
結果を出すとはこういうことだ
評価とはこういうものだ
評価を踏まえた対応とはこういうものだ
と伝え続けることしかできませんが、
その必要性や意義について再認識させられています。

卒前の養成過程において教授すべき知識量の増加や
卒前の実習の位置付けの変化
を踏まえて、
CCS導入によるメリット、デメリット
特に、臨床実践への影響について共有し検討すべきではないでしょうか。
そうでないと、昔は学生のうちに体験学習できていたことを
暗黙のうちに臨床現場に先送りすることになってしまわないでしょうか。
それは、真摯な若いOTにとっても、担当される対象者にとっても
大きなデメリットとなっているように感じられてなりません。

 

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目標達成の可否に向き合う

目標を目標というカタチで設定できないと
目標達成の可否に向き合うことができません。
漫然としたリハの提供に陥り、自己修正の機会を失います。
ここに目標は「記述の仕方が問われるべき」「目標を目標というカタチで設定できる」ことの意義があります。

「ワールドトリガー」という漫画の28巻で
麓郎の問いに対して、ヒュースが師の教えをもとに答えるシーンが出てきます。
「目標達成の期限を決めなければ
 成功か失敗かの判定を無限に先送りすることができる」
「現実的な反省や改善は望むべくもありません」
「期限を切るのは結果と向き合う手段の1つ」
という言葉が出てきます。

このシーンに出てくる麓郎の目標は
チームとしては「A級昇格」個人としては「個人ポイント8000点」
と目標というカタチできちんと設定されています。
ところが期限を決めていなかったのです。

じゃあ、私たちはどうでしょう?
短期目標、長期目標を設定しますが
期限が来た時に(リハ計画書を更新するたびに)
目標の達成可否を見直しているでしょうか?

「現状維持」「移動能力の維持」などという記述にとどまっていると
目標を目標というカタチで設定できていないので
期限が決められてはいるが(3ヶ月ごとに記録更新)
結果に向き合うこと
目標達成に向けての対応が
成功か失敗かの判定を無限に先送りして

現実的な反省や改善ができていない
ということはありませんか?

リハ計画書の書式というカタチが
為すべき記載内容、為すべき実践を要請している
のに
書式に合わせた記述をしないと(その必要性が認識できないと)
単なる更新、機械的な事務処理に終始してしまいます。
  
優秀な臨床家は、常に自身の関与の適不適を確認しながら実践しています。
その確認ポイントを明確に自覚しているものです。
だから、目標の概念理解を学んでこなかったとしても
優秀な臨床家であれば、少なくとも、自身の目標設定に関して自信がない、不安だ、という自覚があるものです。

目標を目標というカタチで記述できる
ということは、実は臨床能力と相関があるのです。

目標なんか、それらしく書いておけば良いというものでは決してありませんし
また、本人のやりたいことを目標とすべきとか、内容が大事とか言う人もいますが
それは目標を目標というカタチで設定できて初めて言えることですし
目標というカタチで設定できてPDCAを回してさえいれば
いずれ自然と、かつ、必ず内容も伴う目標が設定できるようになるものです。

カタチがナカミを担保するのです。
  
日々の多忙さや、切実に求められることの多さから
目標設定は後回しにされがちかもしれませんが
臨床能力を自分自身で育てていく上で必須のものです。

臨床能力を自身で育てていけないと
理論や最新のツールといった外部の情報に過度に依存するようになります。
(まさしく理論武装をするわけです)
理論やツールに対象者を当てはめるのではなくて
対象者の利益のために理論やツールを活用すべきです。
活用できるように自身の内的な能力、臨床能力を高めるべきです。

目標を目標というカタチで設定できるようになれば
PDCAサイクルを回せるようになるので
結果として
目標を達成できるようになるために
個々の対象者に応じて
自身の関与の適否を自身で判断し
より良い関与ができるように
対象者の情報の不足している部分が具体的にわかるようになるので
自分で情報を収集できるようになり
自己修正ができるようになります。

つまり
自分で自分をより良い臨床家に育てていけるのです。

このような臨床姿勢こそ
卒前卒後を通して、生涯を通して、涵養し続けるべきものだと考えています。

 

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目標設定に際して

認知症施策

目標設定に際して
前の記事で記載したことを実践する際には
下記のことに気をつけると設定が明確になります。

主語を「対象者」述語を「〇〇できる」という文体で記述する。
これでかなり、治療方針や治療内容との混同を回避することが可能となります。
  
つまり、「△さんが〇〇できる」という文体で記述するようにします。
この枠組みに沿って記述するとなれば
「△さんが現状維持できる」という文章では疑問を抱きますよね?
すごく曖昧な文章だということに気がつけるようになります。
行動・条件・基準という指針に照らすと
すべてが曖昧だということを自覚することができるようになります。
現状維持とした行動が何なのかということを
記述の枠組みによって具体化することを求められるからです。

だから
「記述の仕方が問われるべき」
なのです。

また、よく聞くのが
「目標とは現状を改善するもので維持は目標ではない」
という指導を受けたという言葉です。

う〜ん。。。
現状維持だって概念としては立派な目標です。
ただし、ADLのどの部分を維持することが重要なのか
どのような行動を維持することが重要なのか
そして、それはなぜなのか
ということをきちんと認識できていることが必要なのです。

「歩行能力の維持」を短期目標として設定したとして
この短期目標の達成の可否をどうやって判断しますか?
杖歩行できていた方が転倒してしまったら?
杖歩行できていた方が歩行器歩行に変わったら?
杖歩行できていた方が歩行中のふらつきが目立つようになってきたら?
判断基準が曖昧であれば、きちんとしたPDCAを回すことができません。
結果、漫然としたリハの提供に陥ってしまうのです。
たとえ、善意の関与であったとしても、です。

   善意だからこそPDCAを回しにくいものです。
   善意というのは本当に恐ろしい。
   善意ではなく善行を為すことが重要です。
   この辺りの怖さを昔は実習で体験できていたんですよね。。。
   でも今は実習で体験しがたくなっていて
   善意の恐ろしさを身にしみてわからないままに
   臨床経験を重ねているセラピストが多いように感じています。

「歩行能力を維持」するために関与した結果として
どんな行動を維持する必要があるのか
行動・条件・基準 に基づいた目標を設定できれば
どんな人でもブレることなく判断できます

ここで大切なことを書きます。

1)行動とは状態ではない。
2)条件と基準は対象者にとっての優先順位によって変わる。

このあたりは、実際に自分で目標設定をしてみるとよく実感できると思います。

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