Tag: 観察

その人らしさは両刃の剣

リハやケアの分野で
「その人らしさ」という言葉を聞いて
プラスのイメージを抱く人は多いと思いますが
さて、「その人らしさ」って何ですか?

「その人らしさを大切にする」「その人らしさを尊重する」
とは、リハやケアの分野でよく聞く言葉ではありますが
私たちのどういう言動がその人らしさを大切にすることで、
どういう言動がその人らしさを尊重していないことなのでしょう?

リハやケアの分野あるあるなのは
なんとなく喧伝されていることに乗っかってしまいがちなことです。
具現化する努力よりも唱え合うことで満足してしまいがちなことです。

本来、「その人らしさ」にプラスもマイナスもありません。
「その人らしさ」がプラスに働くかマイナスに働くのかを
決定づけるのは、その時の状況です。

認知症のある方の場合に
物事をきっちり遂行するタイプの方が
きっちり遂行するよりも優先すべきことを判断できずに
周囲にとってちょっと困った行動に見えることもあります。
 
例えば、集団でのActivityの後に
自身が座っていた椅子をきちんと机の中に入れてくださり
その隣の椅子も同様に片付け、さらにその隣の椅子も。。。と
「きちんと片付ける」ことに集中してしまい
なかなかお部屋に戻れなくなってしまったり。

例えば、他者への気遣いを行動で示すタイプの方が
自分が座るように促された席に職員を座らせようと思って
違うところに移動して何をどうするのかわからなくなってしまったり。

その人らしさがあるがために
動作干渉となってしまい、近時記憶の低下によって
そもそもの目的、何をする予定だったのかがわからなくなってしまう
他者に助けを求めることができなかったり
周囲に誰もいなければ自分でなんとかしようとしてドツボにハマってしまう
。。。ということもよくあることです。

その人らしさは諸刃の剣となって現れる

「その人らしさを大切にする」
「その人らしさを尊重する」
と言う人は多いですが
私には具体的に現実的に何をどうすることを意味しているのかがわかりません。
だから私はこれらの言葉を使ったことはありません。

そのかわり、その方自身が大切にしていることは何なのか
普段の場面から観察・洞察するようにしています。
長年大切にしてきたであろうことがプラスに働くようにActivityを選択したり
長年大切にしてきたであろうことがどのように生活障害というマイナスのカタチで
反映されているのかを観察するようにしています。
そうすれば、生活障害を援助するにあたり
より適切な介助を、より適切な言葉を選び、より円滑に
大切にしてきたこととイマ、ココですべきことを両立させる働きかけが可能となります。

さて、あなたに質問です。
「その人らしさって何ですか?」
端的に明確に答えられますか?

 

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臨床能力を高める

働いていれば
「どうしたら良いのだろう?」と悩むことはたくさんあります。

そのような時には
考えるのではなく
誰かに聞くのでもなく
観察に立ち戻ります。

食事介助でも
ポジショニングでも
BPSDへの対応でも
Act.の選択でも
どうしたら良いのか。。。ということは
評価さえできていれば、一本道のようにスーッと浮かび上がってくるものです。

〇〇という困難はあるけれど
△△という能力がある。
⬜︎⬜︎という状況を☆☆と認識しているだろうから
**という対応をする。というように

浮かび上がってこない時には
評価ができていないから
そして、そういう時にはたいてい観察ができていないんです。

認知症のある方の言動を見落としているか
自身の非言語を含めた言動を見落としているか
それらを見誤っているかのどれか、もしくは重複です。

じゃあ、どうしたら
見落としなく見誤ることなく観察力を磨くことができるのか
了解をもらって録画しましょう。
そして繰り返し繰り返し見返しましょう。
虚心に見返すことがポイントです。
「読書百遍義自ずから通ず」と同じことが起こります。
「じっと見る」「隈なく見る」「何回も同じ場面を見る」
ことで気づけることがあります。
知識がなくても違和感を覚える場面があるはずです。
知識があればハッと気がつくことができます。
意図していなかった自身の言動の不適切さに気づくこともあるでしょう。

観るということは、事実をありのままに観るということです。

専門家と呼ばれる人たちが陥りやすい罠は
事実をありのままに見るのではなくて
あらかじめよく耳にする言葉ですぐにくくってしまうことです。

よく使われているギョーカイ用語(専門用語ではない)でくくる
ということは
事実をありのままに観るのではなく
判断を交えて見ている、つまり思い込みをもって見ている
ということを表しています。

こういう人たちは本当に多いです。
OTも多いですけど他の職種の人たちも多い。
というか、事実をありのまま観察できる人の方が少ないんじゃないかな?

考えてみれば
卒前卒後の養成過程において
観察をさせ言語化させる機会ってあんまりないんじゃないでしょうか。

専門家としての観察力ってとても重要な能力なのに
検査やバッテリーや論文や理論の重要性が語られることはあっても
観察の重要性って何故かあまり語られていません。
(その理由はここには書きませんけど)

養成に関しては
卒前でも卒後でもグループワークの導入が進んでいますが
認知症のある方への対応を考えさせるようなグループワークは
百害あって一利なし。です。
観察よりも勝手な思い込みを助長させてしまうから。
 
もしも、グループワークをするなら
ある場面を見させて、観察・言語化しあう体験の方が有意義です。
そして最後にきちんと解説できる人が解説する。
というような体験が必要だと思います。
(解説者が専門家としての観察力を持っていることが必須ですが)

養成の問題は養成の問題としてありますが
臨床での問題は待ったなしです。
誰かの助けを待つよりも自分で自分を育てる方が
手っ取り早いし確実でもあります。

先に挙げた観察力を磨く方法は
今すぐに自分一人でもできる方法です。

臨床能力を高めたいなら観察力を磨くべきです。
観察の解像度を上げることができれば
より細かくより明確に状態像が把握でき
より精密により適切な場面設定を含めた対応ができるようになります。
そのことは確実に認知症のある方に伝わります。
その結果、認知症のある方の本来の能力を目にすることになり
挫けそうな時に自身の努力を支えられることにもなります。

 

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対応に困った時にすべきこと

認知症のある方の言動のあれこれに対して
どう対応したら良いのか
困ってしまうことってあると思います。

そんな時にどうしていますか?

ここって、ものすごく誤解が多いところです。

ひとつは
どうしたら良いのか、考えたり話し合ったりすること

  きちんと観察・洞察ができていれば
  どうしたら良いのかは自然と浮かび上がってくるものです。

もうひとつは
認知症のある方の困りごとではなく
私たちスタッフの困りごとを改善しようとすること

  根本的なところで、すり替えが起こっているのです。

私は
認知症のある方が困っている場面そのものの観察に立ち返ります。
自身の関与も観察しなおします。

 自身の観察に自信がなければ言語化・文章化する
 いったん、自分の頭の中を外に出して(まさしく)見える化すると
 良いと思います。

不思議なもので(まさにだからこそ、と言うべきか)
一から観察し直してみると、見落としていた箇所に気がつけて
そこからブレークスルーの道が開けてきます。
後になってわかるのですが
実は、ポイントほど見落としていたり、見間違えているものなのです。。。

認知症のある方のBPSDや生活障害は
認知症のある方ご自身にとっても
ご家族やスタッフにとっても困りごとではありますが
同時にその困りごとそのものに解決へのヒントが存在しています。

一見、困りごとというカタチで表れる事象には
障害や症状や困難だけではなくて、同時に、能力も反映されているからです。

反映されている障害、症状、困難と能力を観察するのです。
(そのために知識の習得・概念の本質の理解が必要なのです)

そうすると
私の言語・非言語の関与も含めた環境に対して
認知症のある方がどのように感受し、判断し、応じていたのかを洞察することができます。

ここまでできれば
じゃあ、どうしたら認知症のある方と私たちが
お互いに困ることなく
能力を発揮しあって
イマ、ココという「場」で過ごせるのか
ということは自然と浮かび上がってくるものなのです。

対応の工夫は、考えることではないのです。

イマ、ココで何がその方に起こっているのか は
同じ方でもその時々で異なります。
言葉にして聞いてみないとわからないこともある一方で
言葉では表せないことや
言葉によって迎合や追従を無自覚に要請してしまうこともあります。

観察って
カンタンに思われているし
科学的ではないと思われていて
蔑ろにされがちですが
観察ほど、観察者の能力が求められるものはありません。
観察者の静かでかつ能動的な関与が求められるからです。
知識がなければ、見落としたり見間違えたりしてしまいます。
自身の言動に無自覚であったりコントロールできなければ
認知症のある方の能力を引き出すことは難しくなります。

同じ場面でも観察者が異なれば、得られる情報の量も深みも異なります。

観察は「客観性に欠ける」「科学的ではない」と言われがちですが
本当にそうでしょうか?
認知症のある方の状態はその時々で変動します。

検査やバッテリーをとった時といつも同じ状態ではありません。
検査やバッテリーは、確かに施行時の障害を明確に示してはいますが
施行時以外の状態像の異なる他の場面に検査結果を適用・援用することのほうが
現実的な根拠に欠けるのではありませんか?
 

実際には、検査・バッテリーは実施はしても、
その結果を対応に活用することは少ない。
検査・バッテリーはすべきことだからしているだけで
検査は検査、実践は実践と乖離している。
実践に活かすための検査とはなっていない。
例えば、
HDS-Rはとっても
その結果を対応に活かしてはいない
五角形模写課題はしたけれど
その結果をどう対応に活かすかは考えていない
というパターンだって多いのではありませんか?

私たちは評論家ではない
援助職なのに。。。

おそらく
無自覚には本当は感じている、わかっているのだと思います。
観察・洞察の有効性と実践の困難さを。
だからこそ否定する。

きちんと観察することの重要性や
観察するに値する知識の習得、本質の理解の必要性
自身の言動が無自覚に伝えてしまうことの意識化の重要性も
そのためには日々の地道な努力の蓄積が必要なことも

本当はわかっているけれど
大変なことだから、努力が必要なことだから、無意識に回避しているのでは?

観察が客観性や科学性に欠けるのではなく
欠けると言っている人の観察力が客観性や科学性に劣っているのであって
観察そのものが客観性や科学性に劣るものではないのです。
精度の高い観察を知らなかったり実践できない人が否定しているのです。

  いわゆる、抵抗と防衛です。

人文科学としての作業療法は
検査やバッテリーをとることで科学的であろうとするのではなくて
長い職業人生を賭けて
観察・洞察の確かさ、客観性、科学性を磨いていくのが本筋なのではないでしょうか?

そういった本当に地道な努力の蓄積よりも
各種の検査やバッテリーを数多く行うことのほうが
簡単だし、カッコ良いし、最先端をいってるように見えるし。。。
とか。。。?

認知症のある方の対応に困った時
結果として、表面的に現れる生活障害やBPSD
例えば、「歩けないのに立ち上がる」「帰宅要求が激しい」といった表現では
観察しているとは言えないのです。

観察とは
「歩けないのに立ち上がる」「帰宅要求が激しい」のは
どのような環境で
何をしようとしているのか
スタッフの関与はどのような非言語で
どういった言葉で関与したのか
を踏まえて
それらの言動に反映されている、
記憶や見当識やコミュニケーション能力、遂行機能などの障害や能力や特性を
まさしく観て察することです。

多くの人は、この過程をすっ飛ばしています。

表面的な事象への対処、つまり、
「どうしたら、立ち上がらなくなるか、帰宅要求がなくなるのか」を
考えています。

その時、その場での、その関係性の中での認知症のある方 を観察せずに
スタッフの困りごとをなくそうとして考えるのです。
だから、ハウツー的対処がはびこります。。。

「帰宅要求があったら、タオルたたみをさせる」
「お茶を飲ませる」etc。。。

これらは、気をそらせる対処にすぎません。
確かに、気をそらせた結果、帰宅要求を忘れてしまい、帰宅要求がなくなる
というケースはあるでしょう。

でも、こういった方法論に走ると
「いかに気をそらせるか」ということを
無自覚のうちに目的とするようになり
どれだけ上手に気をそらせるかを考えるようになり
上手に相手を騙すことや言いくるめることが良いケアということになってしまいます。
そんなバカなことがあるはずがありません。

認知症のある方に寄り添ったケアという理念の真逆の対応を追求することになり
非常に大きな矛盾した働き方をスタッフに要請することになります。
誠実で良心的なスタッフほど、辛い日々を送ることになります。。。

あちこちの現場で起こっていることではありませんか?

このような対応は
リハやケアの本質ではありません。
ただし、暮らしに近い場面ほど
時間稼ぎとして、その場しのぎとして
一時的に用いざるを得ない場面は出てきます。
時間稼ぎ、その場しのぎの引き出しを多く持っているにこしたことはありません。
ただ、やる方が
「今は本質的な対応はできない」
「時間稼ぎとして、お茶をにごすことをしている」
「本質的な対応ではなく、しのいでいる」
という自覚を持ってその場しのぎをすべきです。

ところが
いつの間にか、その場しのぎと本質とを混同したりすり替えている。。。
関与するスタッフ自身が何をしているのかわからなくなってしまっているのが
1番の問題だと思います。

ピンチはチャンス

対応に困った時ほど
実は、自らの成長の機会でもあります。

今までの自分の在り方をもう一段高め深めるチャンスなんです。

観察・洞察は技術です。
技術であれば習得可能です。
技術であるから「感受」が関与しますが、

「伝達」も可能ですし「指導」もすべきです。
ただし、その技術が凄ければ凄いほど、習得には時間がかかります。
習得までの過程でイヤというほど自身のできなさに直面させられるでしょう。
でも、その先があるのです。

生活障害やBPSDというカタチの現れを
認知症のある方が
能力をより合理的に発揮できるようになった結果として解消されていく時には
認知症のある方だけでなく
必ず、スタッフの側にも行動変容が起こります。

そうやって、職業人として鍛えられ、高められていきます。

 

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OTの不安への答え

半年近く前になりますが
分野違いですけど、ある研修会に受講者の立場で参加しました。

そこで若い作業療法士の
「自分のやってることがこれでよいのか不安」
「見通しが立たない中で日々仕事をしている」
という声をたくさん聴きました。

思ったのは
これって「実習は楽しく!」という方針の弊害じゃない?ということでした。
養成校の先生も指導者も「楽しく」って本当によく言葉にしますよね。
結果として楽しい実習だった。なら良いと思いますが
目的として楽しい実習を目指すのは本末転倒
実習の時に体験すべきことは体験しておかないと
何よりも本人が就職してから大変な思いをすることになるし
課題の先送りをしてしまうと(実習中は問題が表面化しなくて楽でも)
卒後養成を本格的に整備・充実できずにいたら
「なんちゃってOT」が増えてしまって
OTの質が問われかねなくなり
結局は自分達で自分達の首を絞めることになりかねないと危惧しています。

私は実習の時に
「今は指導者がいるけど、将来は自分自身がこの選択・決定の責任を負うんだ」
ということに身も震えるような怖さを感じました。
自身の知識と技術のなさに直面させられ
習得への思いを新たにしたものです。
だから、実習は楽しいどころか、辛い思いをたくさんしました。

それは自分が未熟だったから仕方ないことだと受け入れるしかありませんでした。
そういうものでしょう?
事実に向き合い、乗り越える努力をする。
乗り越え方には幾多の方向性も方法もあるとしても。
仮に私が優秀な学生だったら、楽しく実習をすることができたかもしれませんが。。。

卒業してから必死になって勉強しました。
当時は限られた知見しかないし
今のように多数の研修会があるわけでもなかったのですが
それでも片っ端から本を買い、片っ端から研修会に出ていたので
パンの耳をかじり、素ラーメンを食べていて
突然尋ねてきた知人に笑われたものです (^^;
同期と勉強会を立ち上げましたが、そこで思ったのは
どんぐりの背比べじゃダメだ。良い指導者からちゃんと教えてもらわないと。
ということでした。

私が就職してすぐに勤めていた肢体不自由児施設には
ボバースアプローチの世界的権威の
紀伊克昌先生や古澤正道先生が年に1回きてくださり
デモンストレーションを目の前で見たことがあります。

普段誰がやってもできなかったことを
え?こんなこともできるの?というようなことまで
子供たちができるようになっていました。
しかも初めて会った人の手で。

ダメなのは子供たちじゃなくて私たちじゃん!
この子たちは本当はこんなことまでできるのに
もしかしたらもっとできるかもなのに。。。
と痛切に思い知らされたものです。

デモンストレーションで何が起こっているのか皆目わからず
当然再現することもできず
教えてもらうにも教えてもらうに値するだけのレベルに到達しないといけないと
強く思いました。

また、天と地ほどの技術の差がこんなにもあるにもかかわらず
診療報酬上、
同じ時間のリハを受け
同じお金を親御さんは払わなくちゃいけない
ということを思い知らされました。

今のままじゃいけないと思っても
当時は自分で自分をどうやって育てていけば良いのかわからなかった。。。

だから
「自分のやってることに自信が持てず不安」
「見通しが立たない中でやっていて不安」
という気持ちは、参加者の本当に正直な気持ちの吐露だと感じたし
かつての自分を思い起こしても共感できます。

でも
そういった気持ちを抱いているという時点で
結果が出てないことの表明だし
それは実は、状態把握・評価が曖昧で不十分ということの表明でもあります。

ここでも問題設定の問題、すり替えが起こっています。

人として、不安な気持ちには共鳴できるけれど
プロとして解決すべきは、
あなたの不安じゃなくて結果が出せていないことの方です。

結果が出せたから不安は解消されるのであって
結果が出せていないのに不安だけが解消されるわけがない。

360度の試行錯誤は、プロのお仕事じゃありません。
限界があったとしても、範囲を狭められる試行錯誤がプロのお仕事です。

かつて、試行錯誤という名の360度広角対応しかできなかった私でも
地道に研鑽を積むことで
本来の試行錯誤ができるようになってきました。
そしてほとんど試行錯誤せずに結果を出せるようになってきました。

大切なことは、観察・洞察です。
確かな知識に基づいた観察・洞察であり
観察・洞察に基づいた確かな技術の適用です。
そして何よりもまずは結果を出すことです。

臨床実践において理論は必要不可欠なものではありません。
ここは断言できます。
私は、いわゆる作業療法領域で紹介される理論を使っていませんが
  現実に認知症のある方に適用できないからです。
  除外要件が多すぎるものは本質ではないと考えています。
正確に言えば、よっしー理論とでもいうべきものはあり
重度の認知症のある方に対して
骨折後のリハや食事などのADL面でもActivityの領域でも
生活障害やBPSDへの対応に対しても通底している考え方です。
そして結果も出しています。
(もちろん対象者の状態によっては限界もあります)

ここが大切なところですが
なぜ結果を出せたかの言語化もできます。
つまり、今何が起こっているのか推測できるようになったし
これからどうなるかという見通しのもとで関与できるようになった
ということです。
ただし、それらはあくまでも推測であり見通しであり
不確定な要素が生じることもあるし
必ず確認するようにしています。

同時に
何をどうしたらマズイ。ということもはっきりわかるようになりました。
一般的抽象的なレベルではなくて
具体的現実的に
固有の〇〇さんのその時の状態の中で。という意味です。

私が臨床の現場で抽出してきたことは
「対象者の埋もれている能力を見出し
 より合理的に発揮できるように援助する」
「対象者の能力を信頼する」
「対象者の特性の良い面が良い方向に発揮できるように援助する」
「自分を含めたその時その場の状況・関係性の中で
 対象者の言動が表現されている」
「関与しながら観察する」
これらの概念を指針として大切にしているということです。

でも最初はまったくできませんでした。
本当に何も分かっていなかったと思う。。。
私はまだまだ未熟だけれど、少なくとも方向性を確立できた今になって
かつて、自分がいかにわかっていなかったかということは
はっきりとわかるようになりました。

  できない時には、できないからこそ
  「できる」ことがまったく認識できない
  できるようにならなければ、できない人とできる人との違いがわからない

  できるようになって初めて、
  できない人とできる人との違いがわかるようになるのだ
  ということもよくよくわかるようになりました。

私ができるようになったのは観察と
その観察を支えた知識のおかげで理論は無関係です。

バリデーションは有用なツールだと感じていますが
私は作業療法士として実践し、
バリデーションを適用することもありますが
バリデーションありきの実践をしているわけではありません。

理論はツールですから、活用するものに過ぎません。

誤解を避けるために敢えて書きますが
私は理論を否定はしませんし
論文の読み書きの意義もありますし
バッテリーを使用することに意味もありますが
それらと臨床能力とは直結はしていないと言っているだけです。
   
臨床能力、実践力は
理論とは別に実践力として涵養すべき種類のもので

そのために必要なのは解剖学・運動学・症候学などの基礎知識の習得と
自身の観察力・洞察力を磨くことです。

Twitterで同じことを言っている研究者のツイートを見かけました。
https://twitter.com/shinshinohara/status/1451563470495752199?s=21
ぜひ、前後のツイートも読んでみてください。

「勉強すればするほど落ち込む」という言葉を他のSNSでも見かけましたが
そりゃそうです。
上には上がいるのです。
上と自分との落差を明確に認識できたとしたら
それは良いことなので落ち込む必要はないのです。
スタートラインに立てたということなのだから。
むしろ、今までが幻想の中にいたのです。
自分が落ち込むことを回避するために困ることすらできない人に
なっちゃいけないのです。

学びは楽しいことです。
自分の変化・向上を実感することができる。

でも
対象者の立場にたてば

少しでも腕の良いセラピストに担当してもらいたいでしょう?
「実習は楽しく!」「仕事は楽しく!」
なんてことは言ってられないんじゃないかな?

敢えて書きますが
私は何も実習を苦しい辛いものにしろ。と言ってるわけじゃありません。

「辛かったけど、苦しかったけど、楽しかった」
という結果としての楽しさと
手段、目的としての楽しさを混同してはいないでしょうか?

私は学生の時の授業で
「君たちのような若造が人様の役に立とうだなんてとんでもない」
というようなことを言われたことがあって
ショックでしたけど、同時にその通りだとも思いました。
(多分今のご時世だったら言ってもらえない言葉でしょうけど)

実習という守られた環境で
セラピストとして働く、対人援助職として働くということの
心身両面の厳しさに対する心構えが全くできずに就職したとすれば
働き出してから、突然ひとりのセラピストとして在ることを要請されるわけで
それは非常にキツいことだと思います。
 
その矛先が
「認知症だから仕方ないよね」と対象者に向かったり
「理論の習得や論文の読み書き」と知的武装に向かったり
「多数のバッテリーを使用する」と検査と評価の混同
となってしまって
かんじんかなめの基礎知識の概念の本質を習得する
習得した知識を活用して観察・洞察するといった
自分自身の臨床能力を高めることに向き合う
ことを回避させてしまっているのではありませんか?
  
その代表例が目標を目標というカタチで設定できない
ということではないでしょうか?
  
「目標設定が難しい」という声もよく聞きますが
それは違うんです。

目標の概念が理解できておらず(目的や方針や治療内容と混同する)
対象者の状態像の把握ができていなければ
当然的確な目標設定ができるわけがありません。

ただし、ここに希望もあって、逆に言えば
目標の概念を理解すればいいし
対象者の状態像の把握ができるようになればいいだけなのです。

評価、状態像の把握が難しいという人もいるかもですが
目標を目標というカタチで設定できれば
設定の過程において
状態像の把握が要請されます。

つまり、目標設定を的確に行おうと意思することで
状態像の把握をも同時に要請されるのです。
(私の目標設定の講演を聞いたことのある人は
 深く納得してもらえると思います)

多くの人が
目標設定なんて地道なことよりも
手技や理論に走りますが
その焦る気持ちはわかるけれど
すり替えちゃいけないんです。

なんちゃってOTになりたくなければ
OTという職業を選んだ時点で
生涯続く厳しい地道な研鑽の日々を選んだも同然なのです。

冒頭に紹介した研修会では
ビデオも見せていただいて
講師が対応した時の対象者の表情と行動と
他のスタッフが対応した時の対象者の表情と行動は
同じ対象者なのに、まったく違っていたのです。

研鑽の蓄積とそれらを支えた在りようは
無意識のうちに伝わっているんだろうと思いました。

「学問に王道なし」

今私たち作業療法士がすべきことは
「OTは楽しい」
「OTは素晴らしい」
という呪文を唱えることではなく
楽しいOTを対象者が体験できるように
素晴らしいOTを対象者が体験できるように
作業療法士としての臨床能力を磨き、高める
そのためには地道な日々の実践とその継続しかないのです。

 

 

 

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拒否は情報収集のチャンス

認知症のある方へ対応しようとして
暴言や暴力や介護抵抗があると
正直、しんどいですよね。

そうすると
無意識の自己防衛から
「どうしたら暴言や暴力や介護抵抗を受けずに済むだろうか」
という観点に立って物事を考えようとしてしまいます。

でも、そうじゃない。
気持ちはよくわかるけど。

そのような観点に立って
為されたことが効果があるわけがない。
(だって、自己防衛の観点で対象者の観点ではないもの)
仮に短期的に効果があったとしても
長期的にはむしろ逆効果にしかならない。

ここで、私は決して
介助者が我慢すべき。などといっているわけではありません。

我慢することではないけれど
拒否された、その時その場にいる人が
一番よく状況をわかるのです。

どのような場面で
どのような状態像の方に
どんな関与をしたら
拒否されたのか

ここは、情報収集のチャンスなんです。

拒否は表面的な言動であって
必ず、拒否というカタチに現れている障害と能力があります。

そこを観察・洞察すれば
本質的な改善のミチがひらけてきます。

検査はするけど
貴重な情報収集の機会を逃している人って大勢います。
情報収集せずに「どうしたら良いか?」考えても
適切な介入方法が得られるわけがありません。

私たちは
客観性や科学的であるということを誤解させられてきたと思う。

人文科学に寄与する私たち対人援助職がすべきことは
科学的・論理的・合理的な観察ができるように
観察の精度を高めることであって
観察を否定することではない。
 
検査には検査の意義があるけれど
観察より検査の方が価値が高いわけではない。

観察とは
「ちゃんと関わっているのに拒否する」
といった表面的な言動ではなく
認知症のある方にとっての
環境の一因子としての私たち自身の言動も含めた「場」と
拒否という言動に反映されている能力と障害と特性を把握することです。

拒否されたら
メゲてしまうかもですが
そんなことを言っていたら勿体無い!
情報収集のチャンスをつかまねば。

ここで情報収集ができれば
回避すべき場面を明確に具体的に設定することができるようになります。

 

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関与しながらの観察:よっしーver.

「関与しながらの観察」とは
精神科医 Harry Stack Sullivan (1892-1949)によって提唱されました。

「現代精神医学の概念」 中井久夫・山口隆訳   みすず書房

 

評価とは
関与しながら観察することによって為され
治療とは
観察しながら関与することによって為される
と考えています。

 

そのためには
自分が何を観察しようとしているのか明確化できている
観察できる場面設定を行える(除外すべき条件がわかる)
意図的に選択された対応が行える(言語・非言語ともに)
起こっている事象を洞察できるだけの知識がある

ということが前提要件として求められます。

作業療法士の業界の一部では
検査と評価の混同や
目標を目標として設定できない
という臨床能力の育成に関して根本的な問題があると考えています。

多くの先達の努力のおかげで臨床知見の相当な蓄積が為されている昨今
そのメリットもあればデメリットもあって
該当障害の対象者に対しては
為すべきとみなされた検査項目を行い
為すべきとみなされた治療項目を行う
この過程において詳しく多数の検査項目を知っていることが優れた作業療法士である
というような誤解があるように感じられてなりません。
この間提唱されたEBMが誤解に拍車をかけたようにも感じています。
つまり標準化された作業療法の実践が本来の目的達成のために用いられるのではなくて手段の目的化に過ぎなくなってしまっているということです。
だから知見の集積の乏しい認知症という分野において
「どうしたら良いかわからない」「認知症は難しい」という訴えとなって現れているに過ぎないと考えています。

また
目標を目標というカタチで設定できず
方針や目的との混同が多々みられており
しかもそのことに自覚がないというケースにたびたび遭遇しています。
養成校の作業療法学科教授でも目的なのに目標として設定しているケースに複数遭遇しています。
受け取るリハサマリーでも目的を目標として設定されているケースも少なくありません。
 
このような現状では自家撞着に陥り自己修正ができようはずもありません。
だから「作業療法は説明するのが難しい」「作業療法は理解してもらいにくい」などと自己憐憫に陥るか、真逆の方向に「作業療法は素晴らしい」と自画自賛することで目の前の現実に向き合うことから逃避しているのではないかと勘ぐりたくなってしまいます。

現状改善への提案の一環として
目標設定に関しては
作業療法総合研究所において研修会で講師を務めました。

良い作業療法士になるために−目標を目標として設定できる

対象者の方と協働して良い目標が設定できる作業療法士になろう!

良い目標が設定できる作業療法士になろう!−概念編

認知症のある方への対応、作業療法の実践に関しては
作業療法学会で発表したり
各種研修会講師を務めたり
依頼された原稿を寄稿したり
こちらのブログで情報発信をしてきましたが
それらの集大成として「OT佐藤良枝のDCゼミナール」を作成・公開しました。

作業療法は実践の科学なのですから
最も重要なことは日々の臨床において結果を出すことです。
結果を出すということは対象者の方が良くなることです。
対象者の方が良くなるということは目標を達成できることです。
だからこそ、目標を目標というカタチで設定できなければならない意味がここにあります。
目標を目標というカタチで設定できずに、目的や方針や治療プログラムと混同していれば結果が出たかどうかがわからないということを意味しています。

結果を出せるためには
いろいろな検査ができることでもなく
いろいろな理論を知っていることでもなく
大学院を卒業しているとか、論文をどれだけ読んだり発表しているとか、それなりの職位にあるとか、ましてや経験年数の多寡とは何の関係もありません。
目の前で起こっている事象をプロとしてきちんと観察できることから始まります。

ところが
知識がなければ、プロとしての観察が行えません。

食事介助において
「口を開けてくれない」
「飲み込んでくれない」

ちゃんと声をかけたのに
突然怒り出すなんて怒りのスイッチがわからない

といった、表面的なことしか見ることができないのであれば
近所のおじさんおばさんと何の違いがあるのでしょうか?

口を開けてくれない、飲み込んでくれない
突然怒り出した
といった表面的な事象には
認知症のある方の困難(症状や障害)とともに能力も反映されています。
その、反映されている困難や能力を観察することができるから、プロなのです。

そして
その表面的な事象は
その時その場の状況や相対した作業療法士の関与も大きく影響しています。
その影響についても観察でき、影響の意味が洞察でき、影響をプラスの方向にコントロールできるから、プロなのです。

関与しながらの観察という言葉、概念は
昨今では、あまり教えられていないようで
学生や若手作業療法士に尋ねても
「教わらなかった」という答えが返ってくることが多くなってしまいました。

かく言う私も学生の頃に言葉として聞いたことはありましたが
その意味の理解ができていたかと言うと、やっぱりわかっていなかったと思うし
当然、実践もできてはいませんでしたが
知っているということはモノゴトのスタートになります。
(もちろん、知っていることと理解できることと実践できるということそれぞれの隔たりの大きさは十分わかっていますけれど)

観察する時には、何らかのカタチでの関与を必ずしています。
そしてその関与の在りように応じて観察の視点も広さも深度も変わってきます。

対象者を自身の意向に従わせようとしているのか
対象者の困りごとを少なくしようとしているのか
対象者は何もわからないと仮定しているのか
対象者は何とかしようと努力していると仮定しているのか
自身の関わりを吟味・検討せずに無自覚な声かけをしているのか
自身の関わりを吟味・検討した結果、意図的な声かけをしているのか

同じ事象を観察しても
人によって異なる観察結果が生じる所以です。
だから観察結果の相違を論じても仕方ない
前提となっている無自覚の関与の相違をこそ、論じるべきだと考えています。

関与の在りように応じた観察をしている

このことは、どんなに強調しても強調しすぎることはないと感じています。

「 ゲド戦記 IV 帰還 」のコケばばの言葉のように
「だけど、わしの方に見る目がなかったら、相手に目があるかどうかは言ってくれなきゃわからない。」記事「深きは深きを知るもので」より)
ということになっているのではないでしょうか。

 

だから
研修会で、観察と評価の重要性を説明しているにもかかわらず
「〇〇という人がいるんですけど、どうしたらいいんでしょうか?」
というカタチの質問があちこちの研修会で繰り返し起こるのだと感じています。
思考過程がもうガチガチにハウツー(思考ですらない)に染まっている証左なんだと感じています。

認知症のある方にどうしたらよいのか、
わからない時には評価に立ち返る
評価が曖昧な時には観察に立ち返る
観察する時には、認知症のある方を援助するという立ち位置に繰り返し立ち戻る

「関与しながらの観察」
この言葉に込められた意味は
とてつもなく広く深く
対人援助の実践に直結している
と感じています。

 

 

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観察力を磨くトレーニング

観察・洞察の重要性については
このサイトはもちろん、色々なところで繰り返し述べています。

でも「よし、わかった!観察力を磨こう!」と思っても
思うだけでは観察力を磨くことはできません。

小さな子どもが注意された時に
「これから気をつけます」
と答えるのと一緒です(苦笑)
気をつけようという気持ちはあっても
どこをどう修正するのか具体的に明確になっていないと
行動を修正することは難しい
ものです。

じゃあ、どうしたら良いのか

答えは日々の臨床にあります。
カルテにその日の記録をする時に
形容詞・副詞を使わずに記録するように心がけます。

転倒などのインシデント・アクシデントレポートを書くときに
転倒を発見した時の肢位を記載しようと思って
「あれ?どっちの手だっけ?」
「あれ?四肢はどんな風だっけ?」と
書けそうで書けない体験をしたことがあると思います。
「書けない」んじゃなくて「見れども観えず」だから
結果として書けない。
書くに値するほど観察できていないんです。

書くことで
観察できていないことを自覚し
具体的に観察し損ねていた部分を明確化できるので
結果として観察力を磨くことになります。

そして、この時にポイントがあります。

それは、形容詞・副詞は使わず
名詞と動詞中心に記録することです。

形容詞・副詞を使うと
なんとなくわかってるような、できてるような気分にはなっても
曖昧だから伝わらないし
現実問題として、自分自身が明確化できていない時に
形容詞・副詞を使いたくなるものなんです。
「きちんと記録できるようにしっかり観察します」とか。

現場あるあるなのが
「ムセないようにゆっくり食事介助する」
という文言です。

「気をつけて食事介助をします」という気持ちはわかりますが(苦笑)
ゆっくりとは何に照らしてゆっくりなのか
どのくらいのゆっくりさが適正なのか
どこをゆっくりするのが良いのか
全然わかりません(苦笑)

実際、そういう人は気持ちはあるのでしょうが
実践として、行動としては、適切な食事介助はできていないものです。

何を判断根拠とするのか明示されないと
どこをどう観察して判断するのかわからないから
自己判断・自己修正ができないからです。

「ムセないようにゆっくり食事介助する」
ではなくて
「2回目の喉頭挙上を確認してから次の食塊を介助する」
これなら、誰にでも観察すべきポイント、
どういう状態になったら次の介助をするのかということが明確に伝わります。

これって、カタチを変えていろいろなところで散見される状況ではないですか?
その他にも「優しく接する」「丁寧に接する」
ヤマほどありますよね?

明確化するのに
一番適しているのは言語化することです。
 
言語化する時に、形容詞・副詞を使わないように気をつけることで
抽象論・総論から脱却し、具体的・個別的に明確化するように
思考と観察力を磨くことができるようになります。

高いお金を払ってセミナーなんかに行かずとも
たった一人でも、今すぐに、始めることができます。

やってみると
今までいかに自分が
「わかったつもり」「やっているつもり」になっていたのか
わかるようになると思います。

私が実習生の時のデイリーノートには
対象者ごとに詳しく記録をするように求められていました。
主観と客観を区別して書くように指導されていました。

最近の実習では
デイリーノートの簡素化が進み
技術の体験に比重が置かれるようになりました。

実習の過剰な負担を減らすことは必要かもしれませんが
「書く」ことによって、「思考や観察の曖昧さを自覚させる」
というトレーニングにはなっていたと思います。
そのトレーニングの機会がなくなってしまいました。

臨床家として、最も基本的・本質的であり、かつ重要な資質なのに。

負担を減らすというメリットを得た代わりに
臨床家としての基本的・本質的・重要なトレーニングを代替させる場について
どれだけ議論と対応が為されてきたのか疑問に感じています。

「ちゃんと書く」「ちゃんと観察する」のは
誰でもできることではありません。
きちんとトレーニングが必要です。

「ちゃんと書く」「ちゃんと観察する」のは
願えば誰でもできるようになることではありません。
気をつけようと思えば、気をつけられるものではありません。
実践としてのトレーニングが必要です。

もしも指導者がそのことを身に染みてわかっていないのであれば
残念ながら、その人は抽象的総論的曖昧な実践しかしてこなかった
ということを意味しています。

だから
自身の未熟を対象者のせいにして
「認知症だから仕方ない」
「認知症だから希望は聞かない」
「認知症だから。。。云々」
と言えてしまうんじゃないでしょうか?

 

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「食べる」再学習:食具

中核症状とBPSD

自力摂取している方に
スプーンの工夫もしますが
 
介助が必要な方に食具を選択することも
食べる能力を発揮していただくためには重要です。

「何を」「どんな風に」
の部分で言えば、「何を」という食形態に関して検討されても
「どんな風に」の介助方法の部分は意外と疎かにされがちです。

スプーン操作の基本を知らない人はとても多くいます。
「スプーン操作を見直すべき兆候」をご覧ください。
これらの兆候ひとつひとつを
「私はしていない」と言明できる人がどれだけいるでしょうか?
「そんなところ見ていなかった」という人の方が圧倒的に多いはずです。
ぜひ修正していただきたいと思います。
そうすれば認知症のある方や生活期にある方が
どれだけ食べるチカラを持っているのか
どれだけ誤学習を起こしているのか
どれだけ誤学習から正の学習へ切り替える能力を持っているのか
ということがはっきりとわかるようになると思います。

通常使っているスプーンにとらわれることなく
必要であれば、Kスプーンとまでいかずとも
小さな平らなスプーンも使いますし、箸も使います。

幼児用のマグカップを使用したこともあれば
ストローを使うこともあれば
シリンジを使ったこともあります。

食具の選択には大きな意味があります。

準備期に直接的な影響を及ぼします。
つまり、
食具の選択は、準備期の能力を把握しているからこそできるのです。

臨床現場あるあるなのが
不適切なスプーン操作にも適応しようとして誤学習を起こすと
「食べる」協調性が低下してしまうことです。

協調性が低下した結果としての食べにくさを
表面的に捉えて問題視するような方法論は
あまり効果的ではありません。

むしろ、今の能力でラクに食べられるような
食形態と食具と介助方法を選択して
食べ方の再学習を図る方が効果的です。

協調性が低下したとしても
能力はさまざまに発揮されています。

上唇を丸めて取り込めないけれど
口唇閉鎖だけはできる。ということも多々あります。

体力低下していると
上唇を丸めてとりこむだけのパワーがない
ということも多々あります。

そのような時には
箸を使って介助した方がラクに食べられ
再学習が進展しやすい

ということがよくあります。

開口しなかった方が
開口してくれるようになると
それだけでホッとして(気持ちはわかりますが)
食べ方の観察・洞察なしに
スプーンでどんどん介助してしまうということも
食事介助の現場あるあるです。

食べ方をきちんと観察していれば
確かに開口はするけど上唇のとりこみが見られずに
上の歯でこそげるようなとりこみを代償として用いていることに
気がつくこともあるでしょう。

このような代償も誤介助誤学習の結果なのですが
そのことに気がつけずに漫然とした食事介助を続けていると
今は開口して食べられていても
早晩送りこめなくなってため込んだり、
また開口しなくなったり、
という状態になってしまいます。

食べ方の観察・洞察ができないと
今、表面的に結果として起こっている事象
しかも介助者にとっての不都合な事象しか見ていないために
短期的なメリットを追求し、かえって長期的な困難を惹起する
ということが食事介助の現場で起こっていることです。

摂食・嚥下5相の知識に基づいた観察をしながら介助することの重要性を
どんなに強調しても強調しすぎることはないと感じています。

 

準備期の能力発揮には段階がある・・・・・・・・・・・・・・・・

・上唇を丸めてとりこめる
・上唇を丸めてとりこめないが、とりこもうとする形にはなる
・上唇でとりこもうとする形もみられないが、口唇閉鎖はできる
・口唇閉鎖も不十分

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

これらの段階が
誤学習なのか、自身の代償も含んでいるのか
食塊の認識がどの程度可能なのか
といった観察・洞察のもとに
通常スプーンを使用するのか
小さくて平らなスプーンを使用するのか
箸を使用するのかを判断します。
水分摂取に関しても
ストローが良いのか、スプーンが良いのか、コップが良いのか
判断していきます。

脱水や低栄養で体力低下していると
通常のスプーンで「食べる」ことで
摂取するエネルギー、栄養補給、インプットよりも
消費するエネルギー、アウトプットの方が多くなり
体力消耗
してしまいがちです。

そのような時にも身体の負担の少ない
液体の栄養補助食品を使用したり
上唇でのとりこみをせずとも食べられるように箸を使用したりします。

食べ方や飲み方の改善に伴い、食具も切り替えていきます。

準備期=食塊のとりこみ=食事介助
というのは、本当に怖い

経験を重ねるにつれ
認知症のある方の「食べる」チカラの凄さを知るとともに
食事介助の怖さを思い知らされています。

 

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