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作業に語らせる:輪くさり

時節柄のご紹介。と言っても、七夕さまはもう過ぎてしまいましたが…(^^;
イベントに必須の輪くさり。です。
作業に語らせる:輪くさり
一見簡単そうに見えますが
たかが、輪くさり。されど、輪くさり。
認知症のある方にとっては難しい場合も少なくありません。
よく遭遇するパターンが
輪っかを作れるけど、輪っかをつなげることができない。
作業に語らせる:輪くさり
輪っかをつなぐことはわかってるけど、どうやってつなげるのか思い出せない。
作業に語らせる:輪くさり

輪くさりを作る…という時には、まず、見本を作って置いておきます。
(何回も言うようですが、これは必須です。)
そして、いったん作り方を実演+言葉で説明します。
(これでできれば、苦労はない(^^; ここからがポイント)

まずは実際に作っていただきます。
この時に、どこまでできて、どこからできないのかを確認します。
できないところ、できそうで違っているところから介入します。
例えば、輪の中に折り紙を通してから渡す
渡された折り紙の端を重ね合わせてのりづけする…という最後の行程はしていただきます。

SDATのある方だと、何回か反復するとその場では行程を遂行することができるようになってくることが多いのです。
行程の遂行を確認した後で、今度は輪の中に少しだけ折り紙を差し入れて渡すようにします。
この時に油断しないで、行程の遂行を確認します。
人によっては、これだけの違いでもできなくなってしまう方もいるので、その時にはまた援助をもとに戻します。
折り紙を少しだけ差し入れるだけの援助でも行程を遂行できるようになったら
今度は輪っかと折り紙を渡します。
輪の中に通す作業をしていただくのです。
それでもできるようだったら、近くに折り紙をまとめて置いておいて見守りだけにします。

ここでのポイントは常に見守りを続けること。
最初は調子良くできていても、途中でわからなくなってしまう方もかなりいるので
困っている様子が見えたら、混乱しないようにすぐに援助をすることが大切です。

「足し算で考え、引き算で対応」

でも書いたように、ポイントは援助をだんだんと引いていく。
行程の最後は自力でできるように、行程の途中を援助する。ということです。

もうひとつ、ポイント。
相手が作業している時に、良かれと思って言葉で詳しく説明しようとするのは百害あって一利なし。です。
言葉で説明するのではなくて、作業に語らせる。
そのための、場面設定であり、段階付け。なのです。

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症状を援助に活かす:視覚的被影響性亢進

症状を援助に活かす:視覚的被影響性亢進FTD(前頭側頭型認知症)のある方では、視覚的被影響性が亢進します。
目で見たものに行動が影響されやすくなるのです。
たとえば、目の前で手のひらを大きく広げながら言葉で「じゃんけんのグーを出して」と言われても、認知症のある方はパーを出してしまう…ということが起こってきます。

実は、こういった症状はFTDのある方だけではなくてSDAT(アルツハイマー型認知症)のある方にも起こってきます。
認知症というのは、疾患の定義上、進行性の疾患です。
SDATのある方でも疾患の進行に伴ってFTDの症状が現れてくるということにはよく遭遇します。

これは、脳の器質的生理的変化に基づく症状ですが、逆に援助に活用することもできるのです。

「困ったときほど要注意」http://kana-ot.jp/wp/yosshi/37 の記事にも書きましたが、こちらが柔らかい笑顔だと相手もつられて笑ってしまう。
こちらが怖い顔をしていると相手もよけいに怒りだす…ということはよくあります。
試しに、鏡の前で、にっこり笑いながら語気荒く怒ってみてください。
逆に、強面の形相で柔らかい口調でゆったりとしゃべってみてください。
どうでしょう?
できましたか?
仮に、できたとしてもかなりの努力を要したのではないでしょうか?

対人援助職ならどのような方に対しても、自らのノンバーバルなコミュニケーションに自覚的であることは大切だと思いますが、こと認知症のある方に対してはより一層強調されるべきことだと考えています。

認知症のある方が混乱している時に、こちらが強ばった表情で語気荒く接することは火に油を注いでしまうことになりかねません。
相手が混乱している時こそ、柔らかい表情でゆったりした声で接することが必要です。
状況を悪化させないだけでなく、往々にしてそれだけで落ち着かれる場合も多々あります。
「Do No Harm 悪いことはしない」という意味はもちろんですが、さらに症状を逆手にとって援助に活かすこともできるのです。

たとえば、体操をしていただきたいのなら、職員が正面に立ち身体を明確に動かす。メリハリをつけて動きをわかりやすく伝える。
周囲の状況も目に入りやすいように、半円形に並んで座っていただく…などの場面設定をする。

周囲の状況がわかってなおかつ食事に集中できない方の場合には、敢えて食事動作の自立度の高い方たちのいる席に座っていただく。

誘導する時には、言葉だけでなくジェスチャーを使って視覚的に伝える。

ここに書いたような方法論は、たぶんおそらく何となく使える方法として現場では既に取り入れられていることと思います。
ただ、方法論が意味する意図を明確に言語化した上で取り入れられているケースは少ないのではないでしょうか。

対象者の能力と障害と特性に応じ、視覚情報という場面設定を細かく複数組み合わせるとさらに応用することもできます。
ポイントは、こうしてみたらAさんによかったからBさんにもしてみよう…ではなくて(^^; Aさんの能力と障害と特性はこうだからこのような場面設定をしてみた。Bさんの能力と障害と特性はこうだからこんな場面設定はどうかな?というマッチング、照合作業です。

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舌の動きが見落とされている

舌の動きが見落とされている食事介助において
看護介護職員が重点を置いてみているのは
ムセないかどうか…ということです。
これはとても大切なことです。
でも、ムセなければ食べ方がOKということにはなりません。
ところが、ムセないから大丈夫…という判断が下されがちで、案外、舌の動きが見落とされてしまいがちです。
つまり、ムセないから嚥下は大丈夫、他はわからないけど…ではなくて
ムセないから食べること全般も大丈夫…という判断になってしまう傾向が高いのです。

たいていの施設、病院において
対象者の食べ方の能力よりも高い食形態が選択されがちな傾向があるのは、このような背景があるからではないかと考えています。

食事を介助していれば、口腔内に食塊が残っているかどうか、食塊が残りやすい部位があるのかどうか…ということはわかります。
少なくとも、食事後の口腔ケアの時に、口腔内に食塊が残っていることは確認しているはずなのです。
口の中に食塊が残っている…ということは、舌の動き=本来の意味の咀嚼が不十分なことを意味しています。
それなのに、食形態の変更について検討されていないことが多いようで不思議に思います。

食べこぼしがひどかった方や
食事を食べようとしなかった方
食事中に手を口の中につっこみ手づかみ食べをしていた方が
食形態を落としたことにより、スムーズに食べられるようになった…というケースは枚挙にいとまがありません。

見た目にも美味しくお食事していただきたい…という気持ちはわかりますが
対象者の食べる能力よりも高すぎる食形態の選択は、不適切な環境への不適切な学習をさせてしまうおそれがあります。
「生活リハ」という言葉が誤解されているのではないかと感じています。
むしろ、適切な食形態で十分に「食べる」ことの再学習ができると、1ランク上の食形態でも食べられるようになることのほうが多いのです。
(認知症のある方への「学習」については、誤解されていることが多々あると感じているので、そのことはいずれまた記事にするつもりでいます)

ムセの有無だけではなくて、食べ方をちゃんと把握してほしい。
少なくとも、口腔ケアのときに食塊が残っているという事実に気がついたら、単にその場で口の中をきれいにするということだけではなくて、何が起こっているのか、その事実が示している意味について考えをめぐらせてほしいと思っています。

食事は生命に直結した場面ですし、最後まで残るADLでもあります。
食形態の選択、食事介助の方法の選択が、対象者の「食べる」能力と障害について、適切に把握したうえでの選択になっていきますように…。
心から願っています。

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言語操作能力をみる

言語操作能力をみる私は、障害をきちんと把握できなければ能力も把握することができないと考えています。
認知症のある方の記憶の連続性をはじめ中核症状やBPSDについて、その程度とパターンを把握することはとても大切なことだと考えています。
ところが、案外、臨床で確認されていないのが言語操作能力なんです。

「援助の言葉、意思表示の言葉」

でも触れていますが
どんな風に伝えたら理解しやすいのか
どんな風に言語表現するのか
…という部分の把握があんまり為されてはいないように感じています。

「声かけが大事」という言葉に異論のある方はいないと思います。
でも、「声かけに気をつけましょう」「そうですね。気をつけましょう」
といった総論抽象論になってしまうと
声かけがなぜ大事なのか
声をかける時に、私たちが具体的にどう言ってどう行動することが
気をつけるという行為になるのか
という私たち自身の行動変容につながりにくいものです。
意図的な行為ができなければ、その行為についての振り返りもできない。
声かけが目の前のAさんに適切だったかどうかの判断をできない
ということになってしまいます。

認知症のある方は
脳の生理学的形態学的変化に基づく病気を抱えているのですから
言語操作能力を司る部位が萎縮したり機能不全に陥っていれば
当然、言語理解力や言語表現力も影響を受けます。

よくあるパターンとしては
「大便、どこ?」
と聞かれたりします。

字面だけ見ると、とてもおかしな表現です。
でも、「大便を排泄したいからトイレがどこかを探している」
ということが言いたいのだとすぐわかりますよね。
あまりに日常的によくあるパターンなので
違和感を抱くこともないかもしれませんが…。

関係性においてディスコミュニケーションの影響がないが故に
対象者自身の言語表現力が低下していることを
障害として認識しにくいのかもしれません。

それでも、このような方は
他の場面でも似たような表現をされているわけです。

もっと抽象的な考えを伝える必要性のある場面において困難が生じている
それなのに、障害を把握することなく「普通に」会話をしてしまって
対象者は「なんでわかってくれない!」
職員は「易怒的」「被害妄想」「執拗な訴え」
双方、混乱して悪循環…というようなケースが実は相当あるんじゃないかしら?
と感じています。

どのような伝え方をしたら
Aさんが理解しやすいのか
Aさんはどのようなパターンで表現することが多いのか

SDATアルツハイマー型認知症の方でも
記憶の連続性だけではなくて
言語理解力、言語表現力の程度と特性を把握しておくことが
重要だと感じています。

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本の紹介「第3の脳 皮膚から考える命、こころ、世界」

本の紹介「第3の脳 皮膚から考える命、こころ、世界」今日は本の紹介をします。
「第3の脳 皮膚から考える命、こころ、世界」
著者:傳田光洋
朝日出版社
http://www.asahipress.com/bookdetail_norm/9784255004013/

この本の書評を機関誌「作業療法」に書いたことがあります。
一般書だけど、著者がとてもとても丁寧に仕事に向き合っていることが伝わってきます。
分野は違っても同じ専門家として、その姿勢に尊敬の念を抱きました。
また、OTなら、どの分野で働いていても
「皮膚」には日常的にお世話になっていることと思います。
でも、皮膚のこと、全然知らなかった…。

学生のときに、皮膚が脳と同じ外胚葉由来ということを聞いて
すごく不思議に思いました。
皮膚と脳とではその働きがまるで違うのに何故同じ起源なんだろう?って。
そんなこともあり、手に取ったのがこの本です。

すごく刺激的な本です。
著者が丁寧に積み重ねている研究結果から
皮膚は単なる袋ではない。
触覚に錯覚があることや
色の識別をしている可能性
免疫機能も
思考回路も
伝達回路までもっている可能性について記載されています。

もう1つ、驚いたことは
私が大好きな大切にしている本のことが
この本にも記載されていたのです。

「非因果律的世界を護る皮膚」として
渡辺慧の生命論のことが記載されています。
「未来が過去を決定する」
そして著者もまた皮膚の働きから
生命の非因果律的存在の意味を考えています。

私たちは普段対象者の身体に触れることを許されている職業ですが
もしかしたら
私たちが業務として対象者に触れることには
私たちが想像している以上の関与が為されているのかもしれません。

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自分の偏見に自分が苦しむ

自分の偏見に自分が苦しむ実際に私が聞いたことのある言葉です。

「認知症=わからんちん」
「認知症=どうしようもない」

そう言っていた人が
実際に認知症になると
非常に強い不安感を示し
情緒不安定に陥り
他者を強く非難する
…という傾向が多いように感じています。

自分が否定しいていた
(多くの場合、蔑んでもいた)
状態に自分がなってしまった…
本当の自分は今の自分ではない…
今の自分にさせている周りがおかしい…

その姿は痛々しいくらいです。

自分の偏見に自分が苦しむ

実際問題として
これだけ「認知症」という言葉が
病気として認知されている今の時代においても
自分が認知症になるかもしれないとは思っていない人のほうが
圧倒的に多いのです。

「将来、自分もあんなになるかと思うと嫌」
「だから一緒にいるのは嫌」
そう言う人は実は少なくありません。

でも、元気なうちから
認知症になったとしても
できることもある
その人らしさが残っている
対等に接してもらえる
という現実を身近で実際に見聞きできれば
余分な不安感は少しは減るのではないかと考えています。

私たちが今、対応していることは
目の前の対象者の方だけでなく
将来、対象者になるかもしれない方にとっても
大切なことなんだと感じています。

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バリデーションセミナー2012

バリデーションセミナー2012バリデーションってご存知ですか?
まだまだ知らない人のほうが多いと思いますが、認知症(主にSDAT)のある方とのコミュニケーションの方法論です。

私は2006年にバリデーションワーカーの資格を取得しました。
バリデーションと出会えて本当に良かったと思っています。
バリデーションの勉強をするまでは、OTとして「共感」については、それなりに自負している部分もあり、また他者からもそのような評価を受けてもいましたが、バリデーションワーカー資格を取得するスクーリングの過程で「自分は何と浅はかだったのだろう」と、とても恥ずかしく感じたことを覚えています。
認知症のある方との対応の過程において、とても辛い、自己嫌悪に陥る日々もありましたが、学んで以降は本当に自分がラクになりました。
また、バリデーションの勉強をしたからこそ、OTとしての本分も発揮できるようになったと感じています。

私がスゴイなと思うことの1つに、セミナーも本もスクーリングも、始まりが過去の反省で始まるということをあげたいと思います。
「かつて自分も過ちを犯していたが、変わることができた。だからあなたも変わることができる」というメッセージです。
そんな研修に出席したことはありません。
創始者の思いが伝わる始まり方です。
もちろん、バリデーションで全てが解決できるわけではありませんが、対応の根幹を支えるトレーニングになると考えています。
認知症のある方に接する人はもちろんのこと、対人援助職に従事する人全般に知っていただきたいと思っています。

私は、自分の名刺に「作業療法士」だけでなく「バリデーションワーカー」も記載するようにしています。名刺交換した時に、たいていの方に「これは何ですか?」と興味をもっていただけるからです。初対面の方には会話の糸口にもなるし、バリデーションそのものの宣伝にもなるかな?と考えています。

「バリデーションセミナー2012」についての詳細はこちらのサイトをご覧下さい。
「公認日本バリデーション協会」
http://www.clc-japan.com/validation/seminar.html#vali2012

バリデーション創始者のナオミフェイル氏が来日講演されます。
東京では、7/8(日)と7/16(月)に江東区で開催されるそうです。
迷っているなら、あなたの背中、私が押します(^^)

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記憶のトレーニングが逆効果

記憶のトレーニングが逆効果認知症というのは、一言で言うなら「覚えられない」という状態像でもあります。
ですが、よく遭遇するのが、認知症によって著明に短期記憶が低下している状態の方に、記憶のトレーニングをさせたりするというケースです。
そんなことされたら、苦しいだけです。イヤになっちゃいます。情緒不安定になってしまいます。

介護保険の認知症短期集中加算の対象の幅がとても広いことが、加算の目的からの逸脱や実施方法の混乱を招いている一因になっているようにも感じています。加算を「上手に」活用できればよいのですが、表面的に実施しようとして対象者の方に苦痛や困難を強いたり、実施する職員が混乱してしまうようでは本末転倒なのにな…と思ってしまいます。

HDS-Rで20/30点と言えば、日常生活の場では既に「同じことを繰り返し話す、聞く」という状態像にあることが多いように感じています。場合によっては「同じことを同じ表現で繰り返し話す」方も決して少なくありません。(てにおは、まで同じだったりします)
その他にも日常生活で薬の管理ができないとか、伝言ができない…等といった困った事柄が複数生じているような状態だと推測されます。

既に、日々の暮らしの中で「できなくなった」「覚えられなくなった」という喪失体験を重ねているのです。
そのような状態像の方に、トレーニングと称して困難なことを実施するのは、喪失体験の反復、強調体験になりかねません。

一概に言い切ることはできないにしても、基本的には、そのような状態の方には、記憶のトレーニングではなくて、生活能力を保っていくための工夫や能力発揮していくための工夫が必要だと考えています。

記憶のトレーニングが必要なのは、もっと軽度の方です。
トレーニングに耐えられるような脳のはたらきが保たれている方です。
実際にはそのような方が見落とされていて、トレーニングに対応できる状態の時にトレーニングが為されず、日常生活にはっきりと「問題」が表面化して、トレーニングに対応困難な時期になってからトレーニングが検討される…というように、対応が後手にまわっているような印象を強く抱いています。

良かれと思って、善意からの対応であったとしても、結果的に対象者の方に不利益を招くことのないように、提供する課題には慎重であってほしいな…と感じています。
少なくとも、PDCAサイクルをまわす意識を持っていれば防げることがたくさんあるように感じています。

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