Category: よっしーずボイス(ブログ)

Cheer ! 陰ながら心から

中島みゆきの「ファイト!」と「宙船」の歌をぜひ聴いてほしいと思います。

働いていると、いろいろなことがあるじゃないですか。
詳しく説明しなくてもツーカーで分かり合える人と出会えたり
頑張っている人の踏ん張りを見聞きして自分も頑張る勇気をもらえたり
一方で
胸糞悪いことも、理不尽なことも
一生懸命な人が辛い思いをするだけだったり
足を引っ張られたり、悪者にされたり

そういうのも、頑張ってるからこそ。なんだよね。

大切なことは、自己表明なんだと思ってます。
わからんちんにじゃなくて、世界に対しての。
私はこうしています、こう在りたいですと、世界に対して、自分自身に対して、表明する。
(表明とは言葉だけじゃなくて行動も含めています)
だから、わからんちんにわかってもらう必要なんて全然ない。
ただ、わからんちんにも言った方が良い時もあるとは思う。
「私は表明した。あとはあなたの選択。選択した責任はあなたにある。」という意味で。
もしも、その人の中でアンテナがちょこっとでも立っていたら
今すぐには無理でも、後になって伝えられた言葉を思い出して真正面から受け止めてくれることがあるかもしれない。

以前に勤めていたところで
あんまり話をしたことがなかった(実は私はあんまり信頼していなかった)人から
「よっしーさんて、対象者や家族の悪口は絶対言わないものね」と言われたことがあって
びっくりしたことがあります。

どんなOT人生を送るかは、自分で決めて選ぶことができます。
そして、言葉にすることで、行動に示すことで、自身の選択を表明することができる。
変な言い方に聞こえるかもしれないけど、
表明すると、そして表明に足る実践を続けていると
状況が変わったり(本当にありえないような変化が起こったこともありました)
実現の機会に遭遇することが本当に起こりました。

これはどういうことなのか、わかりません。
神様が願いを叶えてくれたのか
世界が聞き届けてくれたのか
たまたまそういう巡り合わせだったのか
巡り合わせは実はたくさんあったのに気づかずに過ぎてきたことを自分が気づけるようになったのか
自分が変わったから周囲を見る自分の視点が変わって同じ景色を見ていても異なるように見えたのか
何が起こっていたのかはわからないけれど、
私の相手は私であって、わからんちんじゃないってことだと思う。

時には、闘えなくなることだってあるし、漕いでた手が痛くて動かせない時だってあるし
冷たい水の中でじっと耐えてることが最善のことだってあると思う。
でも、今、手応えがなくても先が見えなくても、奥歯を噛み締め涙を堪えても
それは、頑張ろうという志を持ってるからこそ
そう在りたいという願い、そうせざるをえない志を持っているからこその辛さ
その願いや志が崇高であればあるほど、そんな容易く実現できるわけがない。
だから、表明し続けないと。

肝心なことは、口先だけじゃダメ。
当たり前だけど。
だって、「自分は口先人間だ」って世界に表明してることになっちゃうから。

今、辛い思いをしながらも、頑張っている人たちに伝えたい。
頑張りが無駄になることは決してない。
望んだ結果になることばかりじゃないけど
真摯な努力は確実に自身の成長につながっているし
別の場所で頑張っている誰かがちゃんと見ていてくれてる。
仮に、誰にもわかってもらえず、本当に孤独な思いに潰されそうな時があっても
世界に表明しているのだから、それで良いのです。
そうやって、崇高な志や願いを実現するに足る実践力が磨かれていくように感じています。

時には休んでも
時には後退りしても
願いや志を捨てさえしなければ
状況を変えられるだけのチカラがつくか
状況の方が変わってくるか
いずれにしろ、機会は巡ってくるから
その時に十分にチカラを発揮できるように牙を研いでおく。
ハタからは沈黙と思われても、自分にとって雌伏の時期を過ごせば良い。

「るろうに剣心」の中で
「捨てたものは見つからないが、失くしたものはきっと見つかる」というセリフがありました。

正確には
「まあ しかし 長い人生 何かを失うコトは常につきまとうもの 捨てなければそれでいいんじゃ」
「失ったものは再び不思議と見つかったりもするが 捨てた物は再び不思議と拾えた例がない」
というオイボレのセリフのようです。

だから、頑張れ〜!
私も頑張る〜!

一見、悪いことに見える良いことも
良いことに見える悪いこともあるから
OT人生ってわからないものです。

 

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説明の仕方・説明の受け方

ある時、道に迷ってしまったので尋ねました。
「この道をまっすぐ行くとバス通りに出るからそこを左折」
私は初めての場所だったので『バス通り』がわかりません。
そんな気持ちが顔に出たのでしょうか、隣にいた少し年配の方が
「この道をまっすぐ行って一つ目の信号を左折」と教えてくださいました。

あーなるほどなー。と思いました。
相手の状態を把握し、理解しやすい言葉を使えるかどうか。
最初に教えてくれた人も間違った説明をしたわけではありません。
その説明で理解できて助かった人だっていると思います。

説明が上手というのは
相手の状態に応じて適切な言葉を選べる
か、どうかということなんだなーと
説明を受ける立場になって再確認。

同じ日に全くの別件で説明を受ける機会があり
その人の説明の仕方とその根幹にある思考過程に触れることになりました。
聞き手・尋ね手の立場として、
説明者の状態に応じて適切な質問のカタチで尋ねることの重要性
を再確認させられました。

説明と同意は、介護保険サービスや医療を提供する時にも受ける時にも必須の過程です。
双方の立場で説明の場にたくさん立ち会ってきました。
さすがだなーと思ってパクらせてもらった説明の仕方もありますし
そうなるよなー仕方ないよねと思ったこともありますし
それはマズイでしょうと思ったこともあります。

説明と同意という過程が形骸化してしまうというのは
いろいろな因子が関与していると思いますが、 日本的でもある と感じました。
 

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「普遍性という名の幻想」を読んだ

片付けをしていて見つけました!
「普遍性という名の幻想 日本の作業療法における文化的コンテクストの重要性」
20年以上前の論文ですが、この論文の内容は今も色褪せることはありません。

2003年に発刊された、OTジャーナルVol.37No.4に掲載されています。
著者は、Michael K Iwama 氏
英題は、Illusions of Universality The Importance of Cultural Context in Japanese Occupational Therapy

著者は、日本生まれのカナダ育ち
そして、太平洋の東西それぞれでOT学生を教えた経験をもとにして記された論文です。
「東洋と西洋は根本的に文化が異なる」
「西洋で開発された理論は西洋文化を基盤としている」
「日本は西洋由来の理論を型だけ導入して意味を見失っている」
「日本の文化に立脚して理論を変容させるべき」
といったところが要旨でしょうか。

まさしく!まさしく!

西洋と東洋の違いについて、そして今後の展望としてその融合について、かつて河合隼雄も述べていました。

私自身も大人になってから、ちょこっとだけ英会話を習った時に強烈に感じたことがあります。
例えば、「そこにリンゴがあるから食べな」と家族に伝える時に
日本人であれば、そこに幾つのリンゴがあるかは言明しません。
1個だろうが、2個だろうが、個数に触れることはありません。
ところが、英語では「There are two apples. 」と個数を言明します。
英語は、見たまま事実を言語化するんだ。。。と感じました。
日本語では、リンゴが幾つあるのかは見ればわかることだからそこには触れない。
「あんた、食べな」に言葉の力点が置かれていて、言語に省略しかも無自覚の省略がある。

例えば、同じことは臨床場面でも起こっています。
OTが何かしらのActivityの工程を説明する時に多くの人が
「ここをこうしてこうやって」と説明しているのではないでしょうか?
ここがどこなのか、こうするとはどうすることなのか、こうやるとはどうすることか
言葉では何も説明せず、動作で説明をしています。
つまり、相手がきちんと工程を見ているということを暗黙の前提として説明を行い
かつ、相手も説明を受け入れています。

つまり、動作的説明が先行し、言語的説明が後に回っている。
もっというと、視覚情報主体の説明をしている。
言葉に対する力点の置き方が違っています。

大昔、ちょっとした知り合いがアメリカでSEをしていた時に
「超能力者じゃないか」って言われたそうです。
言葉で説明していないことも理解する。。。そう思われても納得できます。

また、会話中に関係性の中で言語化するのが日本語ですが、
関係性に関わらず、自身の表明として言語化するのが英語です。
例えば、「昨日、この本を買わなかった?」「Did’nt you buy the book?」という問いかけに対して
日本語では「うん、買わなかったよ」「ううん、買ったよ」
英語では「Yes,I bought the book.」「No,I didn’t buy the book.」

言葉には発話する人の意思や思考過程が反映されます。
私は海外に旅行したことも留学したこともないので西洋文化を知りませんが、
根本的なところで日本とは違うのだろうと推測はしています。

かつて、日本では西洋に追いつけ追い越せ精神で、西洋技術を果敢に取り入れ、しかも、日本流にアレンジして活用するのが得意だったと聞いてきました。
でも、この論文の著者は「OTは違う」と言明しています。
北米発祥の理論を型だけ導入して、理解できないまま臨床で扱って困惑していると述べています。

その具体例として、OTの定義を挙げています。
OTの定義をスラスラと答える人はたくさんいたけれど、定義を丸暗記しているだけだったと。
この具体例は本当によくわかります。
かつての私もそうでした。
特に学生時代には、高校の部活の仲間によく尋ねられたものです。
「今、何の勉強してるの?」「作業療法って何?」
そこで定義を答えるという。。。しかも、違うんだよなぁと思いつつ。。。
そして尋ねた人も「これ以上は聞いちゃいけない」と暗黙のうちに察してそれ以上は突っ込まないでくれたという。。。
今の私なら、「その人の良い面を良い方向に活かすことを通して暮らしの困難を解決する援助」と言えます。
「OTは難しい」「OTって何だろう?」とOT同士で語り合いたがる人は少なくありませんが
そんなことしたって答えは出てきません。
答えは日々の臨床の中で結果を出すことを積み重ねることで導き出されるものだからです。
(この問題は後日改めて記載します)

話をもとに戻しますが、
自分の仕事を自分の言葉で語れない
もっと言うと本質的には
語るに足る実践ができている人が少ない
ということが大問題のなのだと思います。
定義を丸暗記して答える、丸暗記するくらいですから真面目なのはわかります。
でも答えてはいますが、表面的で型どおり。
聞いた人だってわかったようでわからない。
その言葉には、目の前にいる人の血肉が通っていないからです。

海外からの知識を輸入する時も同様のことが起こっていると著者は言っています。

まさしく!まさしく!

最新の理論を知っている、複数の理論を知っていることがさもOTとして優秀であるかのように振る舞う人も少なくありませんが、目の前にいる対象者に対して結果を出す方が先です。
認知症のある方に対して、生活障害やBPSD・食事介助・ポジショニング・身体リハ・Activityについて
既存の理論が使えた試しがありません。
臨床で使えない理論を有り難がったって意味ないし。

同じコトが違うカタチで起こっているのが目標設定です。
養成校の教員や実習の指導者で目標設定を明確に教えられる人がどれだけいるでしょうか?
教えられないということは、自分が実践できていないということを表しています。
臨床で適切に目標を設定できるために教えるんじゃないのかな?
そのために目標の概念を教えるんじゃないのかな?
いくら目標の概念を諳んじることができたって
臨床家としては使えなきゃ意味がないのでは?
知っている風を装ったって実践で活かせなかったら意味がないのでは?
目標設定で困る学生は山ほどいますし
教えられなくて困っている指導者も山ほどいます。
困っている人のことをちゃんと見ていないから目標の概念をたくさん教えることにエネルギーを注いだりするんじゃないかな?
そしていつの間にか、目標設定に困っている自分自身から目を逸らし
「認知症だから目標設定ができない」なんて平気で言えちゃうようになってしまうんじゃないだろうか?

まさしく、この論文で著者が指摘したことは、
定義、目標設定、実際の臨床場面とカタチを変えてあちこちで今も起こっているのです。
著者は20年以上前に危機意識を持ってこの論文を書いたそうですが
実際には状況はもっと悪化しているのではないかと感じています。

「意味のある作業」を大合唱するOTもいますが、あまりに表層的過ぎます。。。
本来、意味のない作業なんてありません
賽の河原の石積みだって、シーシュポスの神話にだって、虚しい作業という意味があります。
「意味のある」という言葉に託された深みをどれだけ理解して使っているのでしょうか。。。

最後に
著者の記した言葉を記載してこの記事を終わりにします。
  
「OTはクライアントの社会的コンテクストを重視し、彼らがその中でoccupationの新たな意味を発見することを援助することを生業としている」
 
「日本の作業療法に緊急に必要なのは、西洋から導入した理論やモデルを批判的に評価し、日本で使えるように適応、変化させるのと同時に、日本人にとって意味のある新しいモデルを作ることである。臨床現場、クライアントの文化的コンテクストより理解された情報からボトムアップで浮かび上がった新しいパラダイムが必要である。」

 

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車椅子サイドガードの工夫

上の写真の緑色の矢印の部分に
足が挟まってしまうと聞いて
赤い星印のようなカバーを作りました。

認知症のある方は
じっとしていられなかったり
理解ができなかったり
かったるかったりといろいろな理由で
手足を動かす方もいます。

足が挟まってしまっては危ないので
挟まらないようにどうしようかと考えました。

まず考えたのは、板を設置することですが
実際に足を挟んだことがある以上、板では足が当たって痛いだろうし
板を認識できずに手で持ったり投げたりしたら危ないし

段ボールや発泡スチロールも考えましたが
手で持ったり投げたりするリスクは変わらないし
トランスファーのたびに、どけたり入れたりするのは手間がかかります。

毎回必ずしなければならないというのは
大した手間ではなくても毎回毎日続けなければならないのは
心理的な負担が増してしまうものです。

そこで考えたのが、フェルトカバー
フェルトなら触れた時の感触も柔らかいし
布とは違ってほつれることもないし
幸い、使用する方は食べ物などで汚染する可能性が少ない方だし
サイドガードを上げ下げしても、使用時に違和感はないし手間も増えない
フェルトが1枚だと伸びてしまうので
耐久性を考えてフェルトを3重に重ねて縫い留めました。

縫うのはもちろん手縫いだったので大変ではありましたが
赤い点線のところは部品ギリギリに2重に縫って
緑の実戦のところはアームレストの形状に沿って縫うことで外れにくいようにしています。

フェルトの色が目立つと手でいじってしまうので
色も目立ちにくいように車椅子本体の色、特にアームレストの色と揃えて黒にしました。

汚染の可能性が少ない方だからフェルトを選択しましたが
もしも、汚染の可能性が高い方なら交換の簡便性を優先して
ビニールクロスにガムテープか養生テープかな?
手で触られにくいように切り口は外側にしてテープで固定した後に
固定跡を隠すために同一のクロスを両面テープで留めておくとか?

そうすればサイドガードを上下させる時の操作の邪魔にはならないし
ちょっとした汚れは拭き取るだけで
しっかり汚れを落としたい時には全面交換になるけど
交換時の手間もさほどかからずにできます。

ちょっとした工夫ではありますが
考え方としては
乗車する対象者の方の安全確保を第一に
操作する職員の工程・手間を増やさないことを考え
汚染可能性について検討して素材を選択した
ということになります。

 

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感謝の気持ちでいっぱいです

イメージ_猫

すごく嬉しいことがありました。

ある研修会が企画されて
主催者と「ぜひたくさんの人に参加してほしいね」という話になり
過去に講師をお引き受けした研修会を主催された方々に連絡を取ってみました。

すっかりご無沙汰していたので半ば恐る恐るという気持ちもありましたが
実際には、ご周知へのご協力をご快諾いただけただけでなく
とても暖かいお言葉までいただき感謝の気持ちでいっぱいです。
こんな機会でもなければ、なかなかご連絡をすることもありませんでしたが
こんな風にしてもう一度ご縁が紡がれたことをとても嬉しく思いました。
還暦ってこんなことも起こるんだなーと感慨深い思いがいたしました。
  
ご縁の紡ぎ直しと新たなスタート
これから、どこかで出会う誰かとの新たなご縁ができることも楽しみです (^^)

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誤学習できる=正学習できる

中核症状とBPSD

誤学習できるということは
正の学習もできるということを意味します。

学習はできる
その方向がプラスの方向か、マイナスの方向かの違いで
その違いは、食形態・食具・介助方法含めた食環境の適否にあります。

食事介助を拒否する方
食事中の大声が止まらない方
口を開けてくれない方
ためこんで飲み込んでくれない方
たくさんの方が食べられるようになりました。

私は食べ方の観察ができるようになりました。
食べ方に反映されている困難も能力も特性も洞察することができるようになりました。
だから、重度の認知症のある方でも正の再学習を援助することが叶います。

逆に言えば
「〇〇という状態の人にどうしたらよいでしょうか?」
というカタチの質問には答えられません。
〇〇という状態を直接見てみないとわかりません。
食事介助を拒否するといっても、拒否する必然は人によってまったく違うからです。

食事中の大声が止まらないといっても、大声が出てしまう必然はまったく違うからです。
Aさんは、オーラルジスキネジアがあることを介助者側がまったく気がついておらず
適切な介助ができていなかったからであり
Bさんは、ポジショニングの不適合によって顎がズレてしまっていたからでした。

かきこみ食べをするからと、小さなスプーンを提供されても結局、かきこみ食べをしています。
Cさんは、上肢操作能力を十分に発揮できずにいてその代償としてかきこみ食べをしていたし
(手の問題)
Dさんは、とりこみ方を誤学習していたために代償としてかきこみ食べをしていました。
(口の問題)

口を開けてくれないと言われていた方の中には
Eさんは、原始反射様の動きが出ていることを介助者側が気づかず、口の中に食塊を入れられ続けてきたので口を開けるタイミングを図ることができなくなっていたし
Fさんは、パウチ状の栄養補助食品を押されることで水分と栄養を摂取していたので開口すると舌がパウチの口の形状に合わせてUの字型になってしまっていましたし
Gさんは、口輪筋が硬くなっていたので自身では食べる意思はあっても、おちょぼ口のようになってしまい開口できませんでした。

ためこんで飲み込んでくれないと言われた方は
Hさんは、口腔期が長い方で食塊が口の中に残っているから口を開けないだけでしたし
Iさんは、誤介助誤学習のために舌が板のように硬くなり送り込みができなくなっていましたし
Jさんは、オーラルジスキネジアのために送り込みに時間がかかっていました。

Aさん〜Jさん皆さん20分程度で完食できるようになりました。
皆さん状態像はまったく違いますし
私の対応も人それぞれ、変化に応じた対応をしていきました。

「大声 → 声を出さなくなる対応」
「かきこみ食べ → 小さなスプーン」
「口を開けてくれない → 開けてもらえる声かけ」
「溜め込んで口を開けてくれない → 口を開けてもらうスプーン操作」
などの「〇〇という時には△△すれば良い」というようなハウツーは、あるわけがないのです。

かつて、養老孟司が人に対して「あぁすればこうなる」なんてものはない
と喝破しましたが、なぜか、認知症のある方に対してみんなが求めているのが「ああすればこうなる」です。
そして、あまたある本や研修で伝えられているのも「〇〇という時には△△する」です。
だから、結果が出せないし
仮に、結果が出せたように見えても、いつの間にか別の問題が出てくるのです。
そのようなケースを繰り返し繰り返し見聞きしているはずなのに、
自身の思考回路や対応に疑問を持てずにいるのです。

HDS-Rが0/30点だったり
検査すらできなかったり
その場の会話が成り立たなかったり
介護拒否や介護抵抗の強い方や
大声や暴言暴力のある方などの重度の認知症のある方でも能力を発揮しながら暮らしています。

ただ、その能力発揮が不合理なだけなので合理的に発揮できるように援助すれば良いだけです。
だから、食べることの困難を協働して克服し、もう一度食べられるようになるのです。

認知症のある方や生活期にある方の場合に
食べる困難の多くは、実際には不適切な食事介助に適応した結果つまり誤介助誤学習が原因です。
誤学習ができるということは、正の学習もできるのです。
たくさんの方がもう一度食べられるようになる過程を協働してきましたが
そのたびに思うことは、
どんなに重度の認知症のある方でも能力を発揮しながら暮らしているということです。

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アイソカルゼリーたんぱくプラスが発売されました

ネスレさんから
アイソカルゼリーたんぱくプラスという商品が発売されました。

なんと!
この小さなゼリー1個で100kcal・タンパク9.5gが摂れます。
今までのアイソカルゼリーはタンパク3.0gでしたから
すごい商品ですよね。

味もちゃんとブドウとパインの味がします。
テクスチャーは、ちょっともっちりしてるから、
しっかりと舌で硬口蓋に押し付けて食べることが要請されます。

アイソカルゼリーは
介助方法に応用が効くのもオススメです。

食事介助において
スライス法も使いますが、必要に応じてもっといろいろな介助方法をしています。


(写真を撮るためにスプーンがちょっと傾いていますが)
こんな風に、あえてスプーンの先にだけ少しこんもりと食塊を載せることで
準備期の改善(上唇での取り込みを強化)がスムーズになることがあります。

また、スプーン介助で変なクセ(誤介助誤学習)がついてしまっている方の場合には
箸でゼリーをつまんで介助することでとりこみ方を変え食べ方の再学習もできます。

栄養的に、このゼリーを食べて欲しいけど
形態的に、ちょっと難しいようなケースでも


上の写真のように
スプーンで崩してよく潰してから提供すれば食べられるようになるケースもあります。

商品の詳細はこちらをご参照ください。

発売元のネスレさんのサイトにも掲載されています。
アイソカルブランドサイト
アイソカルゼリーたんぱくプラス紹介サイト
もご参照ください。

 

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かきこみ食べ→小さいスプーン?根底にある問題

かきこみ食べをする方ってよくいると思いますが
対応としてどうするかというと
たいていの場合に
かきこみ食べをしないようにと、箸や小さいスプーンが提供されるかと思います。
でも、それでかきこみ食べが解消されたかというと
小さいスプーンでもかきこみ食べをしてるんですよね。。。
当初の問題設定に対して実効的な対策となっていないのに
そこはスルーされるという。。。
そして、かきこみ食べも解消されないし
当初、なかった別の問題、例えば、吸い込み食べや誤嚥といった問題が
新たに出現してしまいます。
実際に、「かきこまずにすくって食べるトレー」で紹介した方は
かきこみ食べ→小さいスプーン→もっとかきこみ食べ→誤嚥性肺炎に至っていました。。。
現場あるあるです。。。

こういった、パターン化した対応ができるということは
〇〇という時には△△する、というパターン化した思考回路がベースにあるわけで
パターン化した方法論を単に当てはめているだけで
目の前にいる方の状態像を的確に把握できているわけではないのです。
根本的な問題はここにあります。

逆に言えば
先の記事で紹介したトレーだって万人に通用する方法論ではありません。
当然のことですが。
ただし、紹介した事例にはドンピシャ!的を射た対応だった、
つまり、事例の状態像を的確に把握できていたことの証左だったわけです。

蛇足ですけど
別のかきこみ食べをしていた方には
全介助で食塊のとりこみの練習をしたこともあります。
かきこみ食べをせざるを得ない必然が
上肢の操作能力にあるのか、口腔機能にあるのか、私はきちんと判断しています。
私は必ず、最初にその方の食べ方の総体を観察していますが
多くの人は、かきこみ食べをしているという判断が先にあって
その方の食べ方の総体を観察しないという現実があります。

多くの人は
自身の気になるところしか、見ていません。
観察が不十分なんです。
やることばかり考えるけれど、やる前に観なければ。
でも、観るに足る知識がないから観ることができない。
だから、やることで補償(防衛機制)してるんです。
これは、食事介助に限らず、
認知症のある方への声掛けやリハやポジショニング、Activityの提供などなど
対応全般に言えることです。

 
だからこそ、私たちが変われば対象者の方も変わるんです。

ここに、未来への希望があります。
私が情報発信する意義もここにあります。

つまり、養成の問題なんです。
 
私の話は具体的です。
聞いた人が汎化できるように思考過程を明確化しています。
自己努力を惜しまない人に必要な情報提供ができるレアな話です。
講演あるあるの
単なるハウツーではありませんし、
理想論・抽象論だけを語る(騙る)こともありません。
理想を具現化してきた事実をお伝えしています。

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