Tag: 能力
認知症のある方の
大声や暴言というカタチで表現されているコトに対して
多くの場合に
カタチを問題視して、
カタチを減らすために、
カタチへの対応の工夫を考える
という方向性で検討されがちです。
でも実は
大声や暴言というカタチでしか表現できないから
というケースが往々にしてあります。
不合理だけど能力でもある。
本当に私たちが考えるべきことは
大声や暴言をどう減らすか
ということではなくて
大声や暴言というカタチ以外のカタチで
表現してもらうには、どうしたらよいのか
つまり、何を表現したいと意図していたのか
確認・把握するということなんです。
だって、能力。なんですもの。
大声や暴言という
一見不合理に見えるけれど
能力の不合理な現れなんだから
大声や暴言を「減らす・改善する」という
「方向性」で考えることは
認知症のある方の能力を失わせるということになってしまう。
たとえ、結果としてであっても。
たとえ、意図していなくても。
こういうことをよくよく考えている人は
実は案外少ないものです。
「寄り添ったケアを」と言いながらも
180度違うことをやってしまっていたり。。。
自分がやっていることが何を意味しているのか
丁寧に考えて、丁寧に自らの実践を振り返る人は
残念なことに、本当に少ない。
私にできることは
日々の実践を通して自らを振り返り続けることと
可能な範囲で発信し続けること。
必ず
真っ正面から受けとめてくれる人の存在を信じて。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/2490
あちこちでいろいろな団体主催の研修会が
花盛りの今日この頃ですが
世間広しと言えども
「目標設定」の研修って聞いたことがありません。
昨年、作業療法総合研究所OTLabの主催で
研修会の講師を務めたくらいです (^^)
今日は小田原OT勉強会で「目標設定」について
お話をいたしました。
雨の中、ご参加くださったみなさま
どうもありがとうございました m(_ _)m
「目標設定」をめぐる現状に
何とか風穴を開けたいと思っています。
今日、お話を聴いてくださった方から
実践の輪が広がっていくことを願っています。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/1738
能力が低下
ということは能力がなくなったわけじゃない。
能力が低下したから
今までのやり方では通用しないけど
能力は低下していてもあるんだから
今までとは違うやり方なら通用する。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/1383
以前に
「観察」ということをちょっと考えたことがある。
観察を促すための記録としての
言語表現と視覚表現
言語表現は縦に
視覚表現は横に
そんなイメージがした。
視覚表現は関係性(全体と部分)の観察に
言語表現は時系列の観察に
有効かな?と思ったりした。
実習のデイリーノートが書けない…という場合に
案外、全体と部分の関係性を文字で書こうとして
観察できているがゆえに
書けずに止まってしまう場合があるのかも…と考えたり。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/1161
対象が学生でも認知症のある方でも精神科の患者さんでも
その人がどれだけできないか
話のテーマにしている人たちもいるようですが
できない情報をどれだけ集めても
その人ができるようにはならない。
(むしろ、できないことを話題にするほど対象者はできなくなっていく)
その人の能力を見いだし活用する方策を見いだすことで
できるようになっていく。
話題にするならそっちを話題にしないと。
私たちの仕事は診断でも評論でも審判でもない
援助なのだから。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/901
言語表現力が限定していて
自分の気持ちや考えを伝える能力が限られている
つまり、「使える言葉」が限定していたとしたら
たとえば、
「使える言葉」が「ねぇ!」だけだったとしたら
「ねぇ」と呼びかけて即応してもらえなかったとしたら
呼びかけ続けようとして
「ねぇ」という言葉を
だんだん大きな声で
繰り返し言うことになってしまうのかも
他の言葉が使えないのであれば
できることは
より大きな声で
繰り返すことが表現手段になるのかも
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/853
「実習で落とさないから」
実習開始時にこう言い渡すバイザーが多いらしい。
そう言っている指導経験者に複数会ったことがあるし
言われたことのある人にも複数会ったことがある。
私が非常に危機意識を感じるのは
言う側の人も言われた側の人も
この言葉は良い言葉だ…と感じていること。
そこが心底恐ろしい。。。
だって、到達目標はない
って言ってるのと同じなんだよ。
たとえば、パイロットの養成過程において
養成開始時に「私は落とさないから大丈夫」
なんて言うだろうか?
むしろ、逆なんじゃないだろうか?
ここまでできたら受かる。
大変だけど頑張れ。
ゴールはないよ。
と言うんじゃないくて
ゴールを明確に示すんじゃないのかな?
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/839
昨日の記事の続き。
そのココロは…のココロの巻です (^^)
遠くから指し示した椅子に座れる
…ということは
たくさんのモノの中から
椅子に注意を焦点化することができ
それを覚えていられて
なおかつ、椅子にたどり着いた時に
「座る」という動作を遂行することができる
…という能力があることを表しています。
目的地まで歩く+座る
という同時並行課題ができる
目的地を明確化できる
目的地を忘れずに覚えていられる
…ということです。
目的地の椅子のところまでお連れして
その場で「座る」こと「だけ」を 説明する。
そうすればできる方も大勢いらっしゃいます。
物理的距離の遠近によって
必要とされる能力も異なってくる。
ご本人の能力は必ず任意の環境下で発揮されるものなのですから、環境とペアで語られるべき性質のものです。
そこにこそ、私たちの介入・対応の工夫の余地がある。
ところが、現実には、この部分が あまりにも自覚されていないように感じられてなりません。
「対応の工夫」というモノが
いろいろなところでいろいろに囁かれていますが
結局のところ、『ご本人の能力』と 『対応の工夫』とは、一対のものであって切り離しては語れない。
まず、評価があって、初めて工夫を語ることができるのだと感じています。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/589
最近のコメント