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「脱!ハウツー」のススメ

私がすごく疑問に感じるのは
「その人らしさを大切に」「認知症のある方に寄り添ったケア」
と唱えられることはあっても
実際の実践は、単にハウツーの当てはめをしているだけというケースが多いことです。
「〇〇という時には△△する」
これのどこが、その人らしさを大切にしていることなのか、寄り添っているのか
私にはさっぱり理解できません。
ハウツーは個別性の真逆にあるものです。
そもそも、どういう言動がその人らしさを大切にしていることで
どういう言動が寄り添ったケアではないのか
具体的に現実的に考えていくと、とても難しいことです。

たとえば
帰宅要求がある方に対して
「お茶を飲んでいただく」「タオルを畳んでいただく」
などの気をそらす対応が為されています。

諸般の事情で、そうするしかない時だって、もちろんあるとは思います。
そのような時には、望ましい対応でも適切な対応でもないことを自覚した上で
気をそらせる対応をするしかないからするのだと自覚しつつ行えば良いのです。
けれど、実は、
「気をそらせる=良い対応」と思い込んで為されている場合が多いのではないでしょうか?
帰宅要求に対して、気をそらせるような対応は
決して望ましい対応でも適切な対応でもありません。
だって、もしも上述の対応が良い対応だとしたら
どれだけ上手く気をそらせられるか、どれだけ上手く誤魔化せるか
ということが良い対応ということになってしまいます。
そんなバカなことがあるはずがありません。

認知症と人権擁護がご専門の齋藤正彦医師は
「微笑みながら徘徊したり帰宅要求を訴えている人はいない。みんな必死だ。」
とおっしゃっていました。
本当にその通りだと思います。

この問題はとても根深くて
「帰宅要求→気をそらせる」対応は単に表面的に表れているだけで
それよりも根本的な問題があって、
「帰宅要求→どうしたらおさめることができるか」
という発想のもとに対応の工夫が展開されてきた
そしてそのようなハウツー的対応への疑問や改善提案が
為されてこなかったことにあると考えています。

それって、下図のような思考過程(本当は思考ですらない)
で為される対応です。
帰宅要求だけを切り取って、どうしたら帰宅要求がなくせるか
考える。という対応です。

私が実践し提案してきていることは、まったく違うことです。

上図の通り、まず、きちんと情報収集をします
目の前に起こっている、一見すると不合理な言動、
たとえば、帰宅要求をしている場面そのものをきちんと観察します。
(この過程がすっ飛ばされている、不十分過ぎることが圧倒的に多い)
知識があれば、その場面に反映されている、
その方の能力と障害と特性を見出すことができます。
見出すことができれば、その方に今、何が起こっているのかを洞察することができます。
洞察することができれば、どうしたら良いのかを判断することができます。
それは、自然と一本道のように浮かび上がってくるものです。
あとは、その判断を具現化できる技術があれば良いだけです。

錯綜した現実を解きほぐす
そのためには、知識が必要です。
知識がなければ、単に「何度も繰り返し帰りたいと言う」ことしかわかりません。
知識があれば、近時記憶障害があっても再認可能だからきちんと説明しよう。
という判断ができますし
説明する時には口調に気をつけて、伝わりやすい言葉を選択しよう。
といった、その方の特性も理解できているからこそ可能な判断ができます。

観察の解像度を上げる

きめ細やかに現実を解きほぐせるほど
より的確な対応がその時々、その方それぞれに可能になる所以です。

ポジショニングの現状とまったく同じコトが違うカタチで起こっているだけです。

どうしたら良いのかがわからないのではなくて
何が起こっているのかがわからないのです。
だとしたら、「自分にはわからない」という事実にきちんと向き合って
錯綜した現実を解きほぐせるように
情報収集からやり直せば良いだけです。
その繰り返しで、パッと観てパッと洞察できてパッと対応できるようになります。
知識を習得しようとしない人や情報収集の過程をすっ飛ばす人には
結局、何が起こっているのか皆目わからないでしょうし
その人ができていなくて、私がやっていることとの違いもわかりません。
本当に違うのは、実際にやっていることではなくて
実践を下支えしている観察・洞察なのです。

今、本当に問われているのは
どう対応するか、ではなくて
観察、洞察、評価が不十分だという、私たちの側の問題なのです。
だからこそ、今すぐにでも改善可能なのです。

「その人らしさを大切にする」
「寄り添ったケア」
という高邁な理念は唱えているだけでは決して実現できません。
理念は唱えるものではなく、実践の際のもう一つの指針となるものです。
どのように指針となるのか
理念がどのように対応の工夫に役立つのか
次からの記事でご提案していきます。

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非習慣的遂行機能の評価

「非習慣的遂行機能の評価」

当院に実習に来る学生さんには、遂行機能の評価は習慣的遂行機能と非習慣的遂行機能の2つを評価するように指導しています。
でも認知症の病態が進行してくると、非習慣的な遂行機能評価の「使えるバッテリー」がないのです。
正確に言うと、現存する非習慣的な遂行機能評価バッテリーは要求水準が高すぎて、中等度・重度の認知症のある方には実施できないのです。
そこで、たとえ標準化されていなくても「評価」ができるツールを考えようと思いました。
それがこちらです。

非習慣的遂行機能の評価

「この線の上にシールを3枚貼ってください」という課題です。
もうすでに、講演等で紹介してはいますがより多くの方に知っていただこうと思ってご紹介します。

用意するものは、写真にあるように、真ん中に太い線をくっきりと引いたA4用紙1枚とシール数枚。
写真ではシールがたくさんありますが、通常はシールは6枚提示しています。
その場の言語理解が可能であれば、HDS-R0/30点の方でも行えました。
この課題のオススメは、日々の暮らしの場面で失敗体験を重ねている認知症のある方にとって失敗やわからないという不安を想起させにくい。いかにも「テスト」「検査」という雰囲気が少ないということです。
また手指の巧緻性の低下があっても、シールを「貼る」だけなら失敗もしにくい。
認知症のある方にとっては「紙に○を書く」よりも「丸いシールを貼る」ほうがずっと心理的抵抗感は少ないものです。
それでいながら遂行機能の「意図・計画・立案」「実行・評価・修正」「目標保持」の過程を明確に評価することが可能です。

「線の上にシールを貼る」のは、線の真上に並べて貼っても良いし、重ねて3枚貼っても良い。
線の上の方の空間にシールを貼っても間違いではありません。
肝心なことはそれらのうちどの方法を選択したのかということです。
なかには、どの方法を選択すべきか確認する人もいるかもしれません。

そして指示した枚数よりも多めにシールを用意しておくというのがもう1つのポイントとなります。
3枚で貼り終えることができるのか、それとも「3枚」を忘れてしまって用意されたシールをすべて貼ってしまうのかが観察ポイントになります。

一見単純に見える「ツール」ですが、人によってさまざまな結果を見せてくれます。
もちろん、私は日常生活での行動観察を重視していますが、認知症のある方の非習慣的な遂行機能障害が明確になることによって、日常生活での暮らしの困難がどういうものであったのかより明確になり、ひいてはどのような援助が適切なのか具体的に考えることができるようになります。

当院では重度の認知症のある方が多いので、このような形で実施していますが、もう少し軽度の方であれば課題を複雑にするように工夫できると思います。

認知症のある方に心理的抵抗感がより少ない方法で、重度の認知症のある方の非習慣的遂行機能障害を評価できる「ツール」としてご紹介しました。

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バリデーションセミナー2014

バリデーションセミナー2014「バリデーションセミナー2014のお知らせ」
今年も開催されます。
バリデーションセミナー2014!
平成26年7月19日(土)の東京会場を皮切りに、大阪・福岡・名古屋でも開催されます。
認知症のある方とのコミュニケーションに悩んでいる方はもちろん、広く対人援助職の方にオススメします。
問い合わせ・申込は公認日本バリデーション協会http://www.clc-japan.com/validation/
こちらからは、過去のセミナーの様子や参加者の感想をみることができます。

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BPSDへの対応とその視点・考え方

BPSDへの対応とその視点・考え方徘徊や暴言、暴力、異食や大声等のBPSD(Behavioral and Psychological Smptoms of Dementia:認知症の精神・行動症状)は、ご本人も介助者も困ってしまいます。
タイトルに引かれてこのサイトを訪れてくださった方は、きっと今何かしらの困りごとを抱えておられるのではないでしょうか。
ケアの分野でよく言われているようなことは一通り試してみたけれど、なかなか現実が変わらない…どうしたらいいのだろうかと思い悩んでおられるのではないでしょうか。
「認知症のある方が言っていることは否定しちゃいけない」って言うけど、じゃあいったい何て言ったらいいんだろう?って思いませんか?介助者が我慢だけを積み重ねたり、嘘をついて迎合したりするのってやっぱりヘンだって思いませんか?

BPSDに対して、多くの人が「問題視」して現状をなんとか修正・改善しようとして「対応策」を考える…というのが現在のケアの常識のように感じています。でもその立ち位置は、現実的に私はあまり有効ではないと感じています。そのような方法論が依拠する視点、考え方に疑問も抱いています。
私が有効だと実感しているのは「BPSDも状況・場面に対するアウトプット」だという考え方です。「BPSDは能力があるからこそ起こる」「能力の現れ方が不合理なだけ」「BPSDの原因などわからない。その場面でその人にとって必然をもって起こる」「より合理的なアウトプットのために能力を活用する」という視点、考え方です。

リハの分野でもケアの分野でも相互関係論であるICFをとりいれるという考え方は常識になっていると思います。このことに異論がある人はいないと思います。
けれどBPSDの原因を探索し原因に対応するという考え方は因果関係論であるICIDHそのものです。片方でICFを提唱しながら片方でICIDHに基づく方法論を提唱するというのは合理的な考え方とは思えません。
このように一見もっともな、でもその実不合理な現状に違和感を抱いている人は本当は私だけではないと思います。ただ言語化できないから、言われていることが何となく変だと思いつつもどこがどう変なのかわからない。ただ違和感だけはずっと残っている…。違うかな?

具体例を挙げて考えてみたいと思います。
たとえば、食事場面におけるBPSDは案外多いものです。
口を開けてくれない、スプーンを噛んでしまう、大声などのBPSDは職員なら一度は遭遇したことがあるのではないでしょうか。
介護保険下のさまざまな施設で「BPSDを改善」しようと思って「不安や不快の原因を探索」「親切丁寧に優しく接する」「褒めてあげる」ことを一生懸命しても状態が変わらなくてほとほと困ってしまった…という方に接するのが今の私の職場です。
つまり、現在の常識と言われている対応をしても「BPSDを改善」することはできなかった方が対象者なのです。
私は、今、障害と能力を把握する・能力を合理的に表出できるように再学習を促すという視点に立って、具体的に指導することで結果としてBPSDが改善されるという体験をたくさんしています。そしてそれは私以外の職員でも再現できることなのです。もともとご利用されていた施設の職員やご家族でも再現できます。
ここで大切なことは、これらの現実が意味していることです。
つまり、重度の認知症のある方でも学習できる、学習しているのだという現実です。

食事の時に口を開けてくれない、舌で食塊を押し出してしまうという方が職員の介助に合わせて口を開けてスムーズに食べられるようになりました。
食べたくない、不快や不安なことがあってそうしているのではなくて、食べようとするとそのような食べ方しかできなかった。それに対して介助者が適切な対応ができなかった。なぜなら介助者がご本人の障害と能力をわからなかったからなのです。
ここで再確認をしておきたいと思います。
認知症というのは脳の病気です。
脳の病気によって起こる生活障害です。
脳卒中後遺症のある方に「褒めてあげる」「かまってあげる」「親切丁寧に接する」なんて考え方でリハやケアを提供している方はいないはずです。
同じ脳の病気なのに、なぜ認知症だけそうなってしまうのでしょう?
今、本当に求められているのは「BPSDをなくす方法論」ではなくて「BPSDというカタチであらわれている生活障害を障害構造として適切に把握し、不合理な現れ方をしている能力を、合理的な現れ方で活用できるように再学習を促す」という視点の変換なのではないでしょうか。

口を開けてくれない、舌で食塊を押し出す…という方は、協調性が低下していました。身体の唇、舌、顎を上手に連動させることが難しかったのです。
また、保続という症状もあったので不適切なパターンを自分では断ち切ることができずにいました。コップからの水分摂取はより適切なパターンで摂取できていたので、食べようとして不合理な食べ方になっている時には水分摂取をしてから食事を介助するようにしました。細かい過程をはしょって簡単に書いていますが、このような過程を経て適切に食べられるようになったのです。

もちろん再学習ですから新たな食べ方が定着するまでには時間がかかります。
途中必ずできたりできなかったりする過程があります。
変化の兆しが見えても一足飛びに変わるわけではないという認識を共有化しておくことが重要です。
そして、この間ご本人の気持ちを支えることも大切です。
それでいいのだと。このままで大丈夫なのだと。
直接言葉にしたり、言葉にならないもう一つの言葉で伝え続けることによって再学習の過程を支えることができます。
また、再学習の援助が適切に行えなければよけいに時間がかかるだけでなく逆戻りしてしまいます。まずは私たち職員が再学習の過程を妨げないことが第一優先なのです。

そのために私たち職員はもっと認知症という病気を勉強しなければなりません。
病気がわからなければ症状や障害を把握できない。
表面に現れている状態像に投影されている障害を把握することができません。障害を把握することができなければ、障害と表裏一体の能力を把握することもできません。不合理な現れ方をしている能力を合理的なアウトプットへと再学習を促すことができません。
表面的な大まかなBPSDとしての現れ方だけを見て、表面的に対応を考えるという非常に大雑把な現状だからこそ、適切な援助ができないだけなんだと考えています。(徘徊している方に対して、女性ならばタオルたたみをしていただく…というような在り方はもう終わりにすべきだと考えています)

私は現状を非難したくてこの文章を書いているわけではありません。
私たちが変われば、認知症のある方やご家族や職員が必要以上に困惑する現状を変えることができるということを伝えたいのです。
(モチロン、ゼロにはならないでしょうけれど、少なくとも今よりは良くなると確信しています)

「学問に王道なし」という言葉がありますが、認知症のある方に対して適切な援助ができるようになるための早くてラクな近道などはありません。

確認ですが、認知症という単一の疾患があるわけではありません。
認知症という状態像を引き起こすさまざまな疾患があります。
4大認知症と言われている疾患を挙げることができますか?
4大認知症と言われている疾患のそれぞれの症状を明言することができますか?
これができなければ適切な援助などできようはずもありません。
答えられなかった方は、まずは、最低限これら基礎知識から勉強しましょう。
脳卒中後遺症でどのような症状が出るのか知らずに、リハやケアに従事している人はいないと思います。同じように認知症の症状を知らずに適切なリハやケアができるわけがありません。
「認知症のある方へのリハやケアは難しい」という声をよく聞きますが、私に言わせれば知識がないからです。だったら知識を習得すればいいだけなのです。
図書の紹介は既にこちらのコンテンツでお示ししています。
「老年期認知症ナビゲーター」http://kana-ot.jp/wp/yosshi/261
講演の時にご紹介している本は「認知症テキストブック」中外医学社 です。
今からでも決して遅くはありません。是非お手にとっていただきたいと思います。

私は、認知症のある方へのリハやケアがより良いものになっていくことを心から願っています。
キーワードは「能力を活用する」だということを実感しています。
重度の認知症のある方でも、生きている限り能力がある。能力を発揮して生きている。
ただ現れ方が不合理なだけだということを。
同時に、ないものねだりはできない。失われてしまったことを取り戻すことはできない。ということも痛感しています。
だからこそ、今できている能力を大切にしたい。埋もれていて表面に現れない、不合理な現れ方しかできない能力を見い出し、活用できるようになりたいと願っています。

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作業提供の考え方

作業提供の考え方以前にある研修会を聴講した時に、他職種の方から講師に対して「認知症のある方に作業選択をどのように考えたらいいのですか?」という質問がありました。
他職種でもこんなに真剣に本質を考えている人がいるのだということを知り、とても嬉しく思いました。
ただ、その時の講師の答えはおそらく質問者が納得するものではなかったように感じました。

私たちは作業療法士として、自分が提供している「作業療法」を説明することが求められています。
少なくとも「療法」をうたって報酬をいただいている以上は。
正解ではないかもしれない、多数の賛同を得られるものではないかもしれない、けれど自分が今何を考えて行っているのかくらいは説明責任があると考えています。

そこで私が認知症のある方に、作業提供するにあたっては、こんな風に考えていますよ。ということをご説明しようと思います。
どれだけ賛同をいただけるかはわかりませんが、少なくとも臨床的には役に立つ。学生や他職種に説明する時には役に立つ考え方だと思っています。

まず、認知症のある方の特性にそって、作業の傾向を選択します。
次に、今の能力で可能な能力にそって、作業の種目を選択します。
最後に、障害と困難に対しては、場面設定で配慮をします。

たとえば
作業を媒介にして他者との交流を楽しむ方には、工程が明確で反復する要素の高い手仕事系を選択します。
短期記憶も近時記憶も障害されているけれど手続き記憶が保持されているので、2工程で遂行可能で穴に糸を通す手続き記憶を活用できる毛糸モップを選択します。http://kana-ot.jp/wpm/tips/post/162
手仕事をしている他者との少人数グループを設定します。
高齢のため、視力が低下しているので作業をする時の机とハンガーと毛糸の色は同系色を使わずに明確に違いが認識できるように選択します。
また、高齢で手指の巧緻性も低下しているので、努力しなくても円滑に作業ができるように毛糸に一工夫をします。http://kana-ot.jp/wpm/tips/post/237
この方は、作業の手を休めることなく、同時にOTRともその場にいる他者とも笑顔で話しながら30分~40分ほど毛糸モップを行っていました。
「みんなと仲良く働かなくちゃね」とよくおっしゃっておられました。

たとえば
豊かで繊細な言語表現に秀でていた方であれば、言語表現の機会を提供します。
認知症が進行していて抽象思考力・言語操作能力は低下しているけれど、具体的な日常生活場面での感覚(視覚、触覚、温度感覚)なら言語化できる方の場合には、散歩という種目を選択します。
刺激が多すぎないように静かな場所を選び、マンツーマンで、OTRからの質問は短い文章で端的に行うようにします。
暴言暴力介護抵抗のある方ですが、散歩の場面では「一点の曇りもない青空」という言葉をスッと口に出されていました。
若い頃は国語と漢文が得意だったそうです。

もし、その方に対して不適切な作業提供を行えば、認知症のある方は作業を継続しようとはしません。
認知症のある方は日々の暮らしの中で、毎日毎日イヤというほど喪失体験・失敗体験に遭遇しているのです。
生きるだけでも精一杯なのに、何を好んで辛い思いをそれ以上にしなくてはいけないのでしょう。
そのかわり、適切な作業であれば、認知症のある方は没頭します。
「楽しかった」「おもしろかったわー」と満面の笑顔でおっしゃいます。
ただし、休息をとっていただいたり、途中で切り上げることが難しいので、疲労しないようにあらかじめ工夫が必要です。

作業体験(単に手工芸に限らず)は、認知症のある方にとって「私は私である」ことの再認識を体験を通してもたらすことができます。それが一番の強みであり、また認知症のある方から必要とされていることだと考えています。
認知症のある方は、記憶障害に伴い、本質的には「私が私でなくなっていく」ことへの不安を強く抱いています。
現段階では、慢性進行性の疾患である認知症という病気を治癒することはできません。
もちろん、進行を少しでも遅らせるための薬物療法や非薬物療法はありますが、「私が私でなくなっていく」不安に対して、実はあまりアプローチされていないのではないでしょうか。

認知症のある方に作業を提供することの意味は、何かさせることによって気を紛らわせ落ち着かせることではありません。
まったくその逆で、適切な作業があるから没頭できた結果として落ち着くのです。
没頭できる…日々の暮らしの中でさまざまな困難に遭遇しても「私は私である」ことを自分自身の体験を通して再確認できる…認知症のある方にとってその場がどれだけ貴重な場か想像に難くはありません。

ただし、本当にパワーのあるものは用い方を謝れば逆効果にもなるのは世の常です。
作業療法は、下手をすると効果がないならまだしも、単なる使役に陥り、認知症のある方にとってこれ以上ないほどの苦痛でしかない「場」を提供してしまうおそれを常に内在しています。
作業療法士は作業療法そのものが抱える両面性…光と闇に、誰よりも自覚的であってほしいと願っています。

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「認知症本人と家族介護者の語り」ディペックス・ジャパン

「認知症本人と家族介護者の語り」ディペックス・ジャパン「認知症本人と家族介護者の語り」ディペックス・ジャパン

NPO 健康と病いの語り ディペックス・ジャパンが運営するサイトをご紹介いたします。
認知症の家族介護者35名と7名の当事者のインタビューを動画で視聴することができます。
当事者の方が本当の気持ちを語ってくださる方がいるのは私たちにとってはとてもありがたいことです。
専門家と呼ばれる私たちが知っていることで、余分な困惑を少しでも少なくすることができるように、できうることなら少しでも有益なことが行えるように、日々努力を重ねたいと思います。
私たちの仕事は、審判することでも評論することでもなくて援助することなのですから。

サイトのURLはこちらです。
http://www.dipex-j.org/dementia/

こちらのサイトには
「前立腺がんの語り」
http://www.dipex-j.org/pc/
「乳がんの語り」
http://www.dipex-j.org/bc/
のコンテンツもあります。
トップページはこちらです。
http://www.dipex-j.org

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評価の進め方ー最初の挨拶

評価の進め方ー最初の挨拶認知症のある方に出会ったら…
「認知症」という診断名がすでにある方なら、まず最初にADLとコミュニケーションを評価しましょう。
ADLとコミュニケーションのそれぞれについて
何ができるか、できないか。
どこまでできて、どこからできないか。
どんな風にできて、どんな風にできないのか。
これで、その人の現状がおおまかに把握できると思います。

そこからさらに詳細に現状を把握するために個々の要素について絞り込んだ評価をしていけばよいと思います。
その過程で、診断疾患から生じる症状がどんな風に現れているか
診断疾患にはない症状の有無についても確認できればなお良いと思います。

ここで重要なことは、必ず状況とセットで評価する…ということです。
状況というのは自分を含めた環境のことです。
ここが臨床ではよく見落とされがちでそのために適切な評価ができずに困惑してしまうということが起こりがちなのです。

一番最初は、まず挨拶から始まりますよね?
最初の自己紹介とご挨拶で、言語的な意思疎通の可否と短期記憶の可否が確認できます。
「○○さんですね?リハビリのよっしーと申します。初めまして。」
「〇〇さんの下のお名前を教えていただけますか?」
「□□という下のお名前はどう書くんですか?」 
このように尋ねてどんな風に反応が返ってくるのか…それが評価の第一歩です。
最初の自己紹介と挨拶が同時にスクリーニングの場でもあります。
もしも、この時点で適切な答えが返ってこないのであれば、その後の評価を構成的面接(場面設定)で行うことは困難だという判断ができます。それは評価場面の選択ができるということで評価できないということではありません。観察主体の評価から始めてみようという判断ができるのです。
そして、適切な答えが言語的に返ってこなかったとしても何らかの「応答」があったはずです。
その「応答」を異なる場面でも確認します。

また、言語的な意思疎通と短期記憶が可であれば、直接尋ねることができます。
「○○さん調子はいかがですか?」
「○○さんの暮らしの困りごとを一緒に解決していくのが私の仕事なんです。」
「〇〇さんのことをいろいろと教えてください。」

そして相手が答えたことに対して、質問をふくらませていく。
相手が答えていないことを尋ねる時には、答えなくてもよいという留保をつけながら尋ねます。

これらの評価をすすめる過程でその方の対応のパターンというものが滲み出てきます。
そのパターンから生活歴を類推することが重要です。

最初の評価ですべてを確認しようなどと思わなくてよいのです。
評価をしぼりこんでいく、回を重ねるごとに評価を深めていく、評価の精度を高めていくという姿勢が重要なのだと考えています。

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11時30分になるところ…ということは

11時30分になるところ…ということはいわゆる暴言、介護抵抗があるAさんとお散歩に行きました。
そろそろ昼食の時間になるので
(Aさん、もうじき11時30分になるところですから、そろそろ戻りましょうか?)
と私が尋ねた時のAさんのお答えが
「11時30分になるところ…ということは、まだ少し余裕があるということですよね」
私が(そうですね。それじゃあもう少しここにいましょうか)と言うと
Aさんは間髪置かずに「ええ」と答えたのです。

Aさんは、暴言や介護抵抗というBPSDがあり、HDSーRをとればおそらく5点以下と推測される方です。
それでも、婉曲な言語表現を理解し、婉曲で細やかな言語表現で応答する。
重度なBPSDがあっても中核症状が重度だったとしても
Aさんがこれほどの言語能力をもっているという現実も変わらない。
Aさんは、お散歩の時に自ら周囲の景色を見渡して
風にそよぐ緑の綺麗な若葉を見れば
「青々としている」
「押したり引いたりしているみたい」
と観察したことを言葉にして現すこともできる方です。
もしかしたら、これだけ細やかな観察力と言語能力があるから「こそ」
周囲のいろいろな状況を見て、聞いていることを敏感に受けとめていたかもしれない。

私たちがよくしてしまうことの1つに言葉と行動の乖離があります。
例えば、食事が終わった方の食器を下げようとして
「お下げしてもよろしいですか?」と言葉では言っているけれど、手はすでに食器を持ち上げているという… (^^;
言葉は質問のカタチをとってはいるけれど、実はほんとうの意味では相手に尋ねてはいないという。。。

職員が慌ただしく動いている中では場面はあっという間に過ぎ去ってしまいます。
その場で違和感を感じたことに対して表明しようとしても、場面の切り替わりが早すぎれば違和感だけが積み重なって言葉にできなかった感情がBPSDというカタチをとって表現されているかもしれません。

冒頭のAさんの言葉はもう少しこの場にいたい…という気持ちを間接的に表現しています。
認知症の中核症状が進行している方でもこのような言葉がすっと出てくる方というのは
長い人生、多分にそのような対応をしてこられた方だという推測が成り立ちます。
繊細で豊かな言語表現をする方には、私たちも同等の対応ができるようになって初めてAさんと同じ土俵に立つことができます。

暴言、介護抵抗がある方に対しては「どうしたら抵抗少なく介護に応じてもらえるだろうか」という観点で対応が話し合われることはあっても、その暴言や介護抵抗が示している認知症のある方の能力の適切な把握やそのような状況を結果として引き起こしてしまったかもしれない私たちの言葉遣いや動作そのものについての検討が少ないように感じています。

もしかしたら
Aさんの暴言、介護抵抗というカタチで現れていることの少なくない部分に、私たちが扱う語彙の貧弱さや対応への嘆きが含まれていたのかもしれません。

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