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偉大なるマンネリをめざす

「何をしたらよいのかネタが尽きちゃって…」
時々相談されます。

「偉大なるマンネリをめざすのもテよ」
私はそう答えます。

もちろん、対象者の状態によりけりなので
一概には言えませんが
認知症のある方の場合
偉大なるマンネリが功奏することも多いのです。

だって、よーく考えてみて。

疾患特性として
ワーキングメモリや近時記憶が低下している方が多い
ということを。

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足し算で考え、引き算で対応

足し算で考え、引き算で対応「難しいなぁ…」の記事で書きましたが

対象者の方は、既に喪失体験で十分苦しんでいます。
現在の活動と過去の手続き記憶との照合も円滑にはできない
ワーキングメモリも低下している

「目に見えるモノを作り上げる」ということはホントに難しいんです。

臨床でよくあるパターンというのは
あるべき理想像を勝手にイメージして
そこから引き算で現状を考えて
「がんばってこうなろうね」って尻を叩くか
「○○能力低下」ってしたり顔でメモするとか(^^;

いやいや、「できるように援助する」のがOTの仕事です。
だから、たとえば、もっと段階付けに工夫をしてほしいな。

先の記事の「広告紙を半分に手で切る」を例にとって説明すると…

あらかじめ、OTのほうで下準備をしておきます。
半分にきっちり折り込みをつける
紙の端に切れ込みを少し入れておく…という下準備。
対象者の方には、両手で均等に引っ張り合いながら切る動作をしていただきます。
最初は硬めのハリ感のある材質の紙を選んだほうがラクです。

慣れてきたら今度は
OTの下準備は、半分にきっちり折り込みをつけることだけ。
紙の端の切れ込みは省略します。
対象者の方には、切れ込みを入れることと両手で均等に引っ張り合いながら切るの2動作をしていただきます。
ここでもハリ感のある材質を選びます。

さらに慣れてきたら次は
OTの下準備は、紙半分の折り込みの両端と真ん中の3カ所だけにとどめます。
紙の端の切れ込みも省略します。
対象者の方には、紙の端を揃えて半分に折ることと切れ込みを入れることと切ることの3動作をしていただきます。

次に何も折らずに紙をそのまま渡したり、材質もいろいろなハリ感の紙を混ぜたりします。

対象者の能力発揮を足し算で考え
こちらの対応は引き算で段階付けをしたり場面設定を工夫していきます。

言い換えるなら
OTがその場であれこれ助言というカタチで口を出すということは
対象者ーAct.ーOTの3者関係の中で、対象者に対応を迫るということです。
ただでさえ、困難な作業に取り組んでおられるのに
そこへもってきて、さらに、他者(OT)への対応まで求められたら大変です。
(善意の職員はこういうところがわかっていなかったりします)
そんな無謀な同時並行課題を求めたりしないで、対象者ーAct.の2者関係の中で、失敗せずに繰り返し挑戦ができるように、身体運動感覚のコツを身体が思い出せるように、2者の関係性を調整工夫していくような場面設定ができるということが重要だと考えています。

当然、2者の関係性を準備できるということは
対象者の能力と困難と特性の把握ができて初めて可能なことです。
少なくともアタリをつけておくことができなければなりません。
(こういうところがおろそかにされているように感じられてなりません)

「足し算で考え、引き算で対応」しているうちに
手続き記憶が引っ張り出されると、もう場面設定の工夫の必要性もなくなってきます。
そしたら、その時間とエネルギーを他に振り分けることができます。
いかがでしょうか?

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場の構造とAct. その3

私たち自身にとって
提供する「場」は、あまりにも自明のことなので

(リハはリハ室でする、病棟訓練は病棟でする)

リハの行われる「場」が対象者自身にとって
どんな風に受けとめられているのか
ということが抜け落ちてしまうかもしれません。

認知症のある方は
記憶の連続性が低下していて
場の見当識が低下していると
そもそも論としての前提である
提供したいリハの「内容」「Act.そのもの」以前に
それらが行われる「場」としての 意味が
認識できていないことが多々あります。
そこから毎回伝える必要のある方もいます。

どのように伝えたら
その方が理解しやすいのか
言葉で伝えるのか
視覚で伝えるのか

場の意味が理解できて
ようやく次に進むことができます。

ですので、「場」の意味の共有化というのは
対象者の方にとっては
とても大切な過程なんです。

OTとしては、
できるだけ早く「内容」を提供したいと
考えて焦ってしまうかもしれません。

でも、その前段階を共有化するということは
れっきとしたリハの過程でもあります。
(きちんと言語化して説明できれば)

あるいは「内容」を優先することが求められているのであれば
別の方法で「場」の認識の共有化を図るか
「場」そのものを変更する工夫も必要です。

白衣(ケーシー)という服装が
無自覚に喚起するイメージによって
「場」を伝える助けにもなっている病院では
あるいは、
前提条件について共有化の努力をしないですむような
知的にしっかりした対象者の方と
接することが多かった職員にとっては
提供する「内容」であるリハのことを
きちんと説明しているのに
どうして了解してもらえないのか
がわからないのかもしれません。

伝えたい「内容」がわからないのではなくて
暗黙の了解事項であるはずの
前提条件であるはずの
今、この「場」 が理解できていないのです。

逆に言えば
認知症のある方にとっての
場面設定を明確にしておくことができれば
対象者の方に余分な不安を喚起せずにスムーズに
内容であるAct.そのものに
集中してもらいやすくすることができます。

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場の構造とAct. その2

今は診療報酬にしろ介護報酬にしろ
個別…という誘導が為されているから
OTと対象者の方とマンツーマンでやる「しか」ない
と考えるかも。ですが、「テ」はあります。

OTのいる「場」によりけりですし
使える「場」によりけりですが。

規定上、「個別」という「20分やる」という枠組みは
20分以下では認められませんが
20分以上「やってはいけない」ことを意味してはいません。

たとえば
対象者の方が1人ですることは報酬としては認められなくても
実は、とても意義あることですし
自立支援の観点からは推奨されることだと考えています。

(報酬として、リハの自主トレ加算があったら面白いのに
…と思っています)

広いスペースがあるなら
個別の時間はOTがいるからこそできることを行い
その後は対象者の方自身ができることをしていただく
という設定もできますし

リハ室以外のところで
対象者の方自身ができることを行ってもらう
のもいいのではないでしょうか。

自主トレが組める…ということは
対象者の方の能力と障害と特性が把握できて
なおかつ、対象者のいる「場」の把握ができて
初めて設定できることでもあります。

自主トレを適切に組めるように考えることは
OT自身のトレーニングにもなると考えています。

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場の構造とAct. その1

病院を含めた施設での生活というのは
物理的にも心理的にもスペースが限られています。
見知らぬ第三者との共同生活という「場」です。
さらにそこに職員という別の第三者も加わっています。

自分自身の「場」が担保しにくい。
物理的に「逃げ場」がない。のです。

穏やかな「場」であればまだしも
そうでないこともあります。

そのような時に没頭できるAct.があるということは
精神的な「逃げ場」、「精神的なパーソナルスペース」
を確保することにもつながります。

そのような「場」があるということが
認知症のある方の情緒安定にもつながってきます。

見た目は同じように見えるかもしれません。
たとえば
「徘徊しないように何かできることをさせる」
ということと
「その方に適切なAct.を設定した結果として集中できる」
ということとは
表面同じように見えて
提供者が考えたことと
対象者自身の内面で起こっていること
のベクトルは全く正反対なのです。

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効果と逆効果 続き

最近の卒前の養成過程がどのように行われているのか

私にはごくごく一部のことしかわかりませんが

作業療法の光と影の部分について

学生のうちにきちんと教えておく

必要があるように感じています。

これは、養成校が行うべきことなのか

あるいは、インターン実習で行うべきことなのか

議論の余地があるようには思いますが

いずれにしても、

就職する前にしっかりと感受しておいてほしい。

と願っています。

 

「作業療法はすばらしい」

「作業療法は人々の心身の健康に寄与できる」

 

本当にそう思います。

でも、それが対象者の立場にあって

具体的現実的に実現できるためには

作業療法士は相当苦労して学ばないと辿り着けない

(常に道の過程にあるだけで到達できないのかも…ですが)

 

作業療法のプラスのことばかり洗脳されて

用い方、扱い方に対する姿勢や方法論などを学んでこないと

臨床に出てから修正するのが困難なこともあります。

他職種が作業療法を誤解している…というのも

実は、

作業虜法士が実践していることと

言語化していることに乖離があって

その矛盾点を

「プロ」である看護師や介護職から指摘されているだけ

つまり「誤解」ではなくて「現実」である

というケースも実際にはあるのではないでしょうか。

誤解しているのは他職種ではなくて

作業療法士自身が現実を誤解している…という(^^;

 

作業療法の光と影

「影」は、自分と別個の特別のことではなくて

「作業療法」そのものと自分自身とが抱える

プラスと一対のもう1つの側面

ということを。

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効果と逆効果

本当に効果のあるものは使い方を誤った時の逆効果も大きい

と考えています。

 

車は便利だけど運転操作を誤ったら事故につながります。

薬は効果があるけど

服用方法を間違えたら大変なことになります。

 

車が悪いのでも

薬が悪いのでも

ありません。

悪いのは、方法。用い方。扱い方。なんです。

 

効果の高いものほど

扱い方、使い方を誤った時の逆効果も高く出る

 

作業療法はどうなんでしょう?

「療法」として位置づけられているからには

作業が人々の心身の健康に寄与する。はず。

でも本当に効果があるなら

同時に、逆効果に対する

リスク管理、リスクヘッジが必要なのでは?

(言うまでもないことですが、
ここで言うリスク管理とは対象者のことではなくて
提供するAct. に関するリスク管理のことです)

 

モノゴト、良いとこどり…なんて、ないもの。

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課題集団の扱いは要注意

実際の臨床の現場では

課題集団が圧倒的に多いように感じています。

みんなで体操をしたり

みんなでちぎり絵をしたり

 

課題集団の良いところは

構成メンバーが課題集団への参画を理解できていると

集団凝集性が高まり

共通する目的達成のために協力しあう…という

社会の良い面を活かすこともできます。

 

逆に、

案外、自覚されていないままに使われているように感じていますが

構成メンバーが課題集団への参画を

理解できていないままに実施すると

共通する目的達成を優先するために

個々の能力と特性よりも求められている行為に従う

…という面が色濃く出てきてしまいます。

 

段階付けとして、工程ごとに役割分担としておこなう

…という方法も多いようですが

基本的にはこれも同じだと感じています。

表面的には、役割分担として「できた」部分があったにしても

実際には、ご本人はしんどい思いをされていたりもします。

何故なら、周囲に合わせる…ということはさんざんしてこられたから

そして、自分自身のためではなくて

誰かのため、何かのために

努力してもできていたことができなくなってくる

喪失体験の渦中に今も尚生き続けているからです。

 

認知症のある方で

課題集団参画への理解が可能な方もいらっしゃるでしょうけれど

そうでない方にとっては

良かれと思っての提供が結果的にであったとしても

ご本人に辛い思いをさせてしまうことにもなりかねません。

 

課題集団として○○というAct.での場面での言動を評価する時には

提供したAct. という表面的な場面だけでなく

課題集団としての枠組みそのものが規定している「場」というものを

振り返ってみることも重要だと感じています。

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