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ウソみたいなホントの話:スポンジ解説編

 

手指の拘縮悪化予防のために
スポンジが絶大な効果があることを
前の記事「ウソみたいなホントの話」でお伝えしました。

スポンジは
100均でも入手できるし
加工は普通のハサミだけでできるし
失敗しても作成し直すことが容易です。
耐久性に欠けるのがやや難点ではありますが
すぐに作れる、安価、でも絶大な効果があるということで
費用対効果にとても優れています。

入手するスポンジは
フニャッと潰れてしまうものは向かないので
復元性、反発性の高いスポンジを選んでください。
使い勝手が良かったのは、ダイソーで購入したこちらのスポンジです。

私は100均のキッチンコーナーで選んでいますが
バスコーナーや車の洗車コーナーで販売されているスポンジも
選択肢に入れておくと良いかと思います。

さて
それでは、なぜスポンジという素材なのか
スプリントやタオルではなく
スポンジという素材を使う意味について説明していきます。

手には、縦・横・斜めのアーチがあります。
昔、学校で習ったでしょう?

力を抜いた状態でご自身の手指を見てみてください。
母指と示指、小指と手掌面が作っている空間の大きさに違いがありますよね?

次に、ギュウっと力を入れて手指を握ってみてください。
母指と示指、小指が作る円還の大きさにも違いがありますよね?

そして、いずれの場合でも
手指が作っている空間は円筒状ではなくて円錐に近い状態になっています。
縦・横・斜めの3つのアーチがあるからです。

よく、タオルやおしぼりを丸めて握ってもらっているかと思いますが
丸めた状態だと円筒形になっています。
円筒形のものを握らせるということは
小指側を過剰伸展させることになります。
 
小指に関与する筋といえば
小指対立筋・浅指屈筋・深指屈筋・総指伸筋・小指伸筋などで
多関節筋です。

  神奈川県作業療法士会>「いつでも何回でも再学習☆応援講座」
  >再学習・筋触診ー上肢編をご活用ください

多関節筋ですから
小指のMP・PIP・DIPの関節を過剰伸展させるということは
外力としてその時に強制的に伸展させることはできても
身体自身の必然として伸展していないので
代償として筋の近位部を収縮させることになります。

筋そのものがリラックスした結果として伸展しているのではなくて
他動的に強制的に筋の遠位部を伸展させれば
代償的に筋の近位部を収縮するしかない

伸展が過剰であればあるほど
代償としての収縮が強くなります。

その結果、善かれと思っての巻きタオルなのに
逆効果となり、拘縮をもっと悪化させてしまいます。

臥床時のポジショニングと
同じコトが違うカタチで起こっているだけです。

  臥床時には、股関節・膝関節を強制的に
  クッションで伸展・外転させて
  かえって骨盤の捻れを引き起こしたり
  屈曲拘縮を悪化させてしまいがちです。

強引でも伸展させないと拘縮がひどくなるという
知識のない善意による思い込みのために
結果として逆効果を招いてしまい
対象者の状態を悪化させてしまっているのです。

  「知は力なり」という言葉がありますが
  一時は「無知は力」だ。。。と思ったこともありました (^^;
  でも、やっぱり「知は力なり」なんだと考え直しました。

このような誤った対応の根幹にあるのは
「現状は悪いから、良くしてあげなければ」という
人体構造の解剖学的生理学的知識に基づいていない善意であり
因果関係論であるICIDHに依拠した考え方です。
そして、善意からなされているが故に
自覚・修正しにくいという問題があります。

現実には
人体というのは、解剖学的にも生理学的にも連続性があり
常に、環境との相互作用を営んでいます。

相互関係論であるICFに基づいたリハの実践をするというのは
人体の解剖学的生理学的可変性を良い方向に活用するということです。

  OTの人はよく理論が必要と言いますが
  理論を治療に活かすというのは、こういうことです。
  ICFという最も本質的な理論に依拠した実践なのかどうか
  どんなことでも常に
  理論と実践とを相互にフィードバックさせる、
  自身に問いかけながら実践を積み重ねるということです。

痙性の強い方でも
筋肉は常時一定の緊張度にあるわけではなく
その方なりの幅で筋緊張が変動しています。

スポンジは反発性がありますから
筋緊張が強い時には指尖と手掌面との接触を緩和し
筋緊張が弱まった時には本来の可動域に合わせてスポンジが広がってくれます。

つまり、スポンジは手指に合わせて収縮したり拡張したりしてくれる

ところが、巻きタオルやおしぼりやスプリント素材には反発性がありません。
巻きタオルは、人の手指がタオルに合わせることを要請しますが
スポンジは、人の手指にスポンジの方が合わせてくれる

多関節筋だから
手指にスポンジを握っているだけでも
手指の筋の緊張が緩和すれば
前腕や上腕の筋緊張も緩和して
結果として手指や手関節、肘や肩の可動域が拡大します。
というよりも、
その方本来の可動域を目にすることができるようになるのです。

理想論や本来の肢位を基準として想定し
そこから差し引きマイナスで現状を判断し
基準に到達すべく、近づけるべく、修正・改善しようという
視点はICIDHに基づいた考え方であり
急性期には必要かもしれませんが、生活期にある方には適切とはいえません。

現状を否定せず
その方なりの埋もれている本来の能力を発揮できるように
(その場合の多くは、誤介助誤学習由来のものです)
援助するという視点こそがもっとも重要です。

スポンジを作る時には
その方の手指の最大可動域に合わせてはいけません。

最大可動域よりも小さめに作ります。
だから、こんなに小さく細いスポンジでも効果があります。

スポンジを装着する時には
向きを間違えないようにすることが大切です。

作成者が装着・脱着するのであれば問題ありませんが
看護介護へ装着を依頼する場合には
(夜間に装着し昼間は装着せずに動きを引き出したい場合など)
向きが的確に装着できているのかどうか
間違えないように明確に説明することと同時に確認しておくことも必要です。

写真を撮って説明入りの取り扱い説明書を作成し
使用する場所、つまりお部屋に掲示しておくことだけではなく
使う対象そのもの、つまりスポンジにも目印をしておくことが必要です。

ここに努力を惜しむと
深く考えずに、単に「つければ良い」と考えている人に
反対向きに装着されて
その結果、効果がない、やっても仕方ない、やらなくて良いと
誤認されてしまいがちです。
(こういうことは本当にしばしばよくよく起こります)

本来は
共有すべき情報を作成・提供するまでが
OTの仕事、分掌範囲だと考えますが
職場の状況によっては
拡散・共有化までを担当した方が良いこともあります。

「なんで私がそこまで?」と思うかもしれませんが
仕事はやったもの勝ち
必ず自身の地肉となって底力がついてきます。
でも、永遠に繰り返すだけでは
賽の河原の石積みのような気持ちになって
「もう、やってられない!」となりますから
実践力のある他部門の人を見つけておくことです。

本当に効果のあることをしていれば
必ず一人は見ていてくれる(観ることができる)人がいるものです。

時間はかかっても、そこから広げていく道ができてきます。
その人の職位や状況にもよりますが、将来的な希望が見えれば
頑張り続けることができます。

関連してあと何点かお伝えしておきます。

装着したスポンジが外れないように
ひもやゴム紐をつけたりします。

認知症のある方の場合には
ひもやゴム紐など目につく素材があることで注意を引き寄せることになり
それらを引っ張ってしまったり
外してしまったり、異食してしまうこともあります。

ひもやゴム紐があった方が良いのか
ない方が良いのか、その方の状態に合わせて判断します。

スポンジは消耗品ですので
反発性が弱まってきたら作成し直すことが必要です。

装着によって最大可動域が拡大することもよくあります。
拡大した可動域に応じてスポンジを大きく作り直すことも必要です。

その方の状態像をよく把握して
適切な環境を提供する一環としてのスポンジ作成
ということなのです。

 

< 関連記事 >

「拘縮悪化予防スポンジ」必見!OTのすご技・アイデア集
「拘縮悪化予防スポンジ」OT佐藤良枝のDCゼミナール
「スポンジでROM」OT佐藤良枝のDCゼミナール

 

 

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関与しながらの観察:よっしーver.

「関与しながらの観察」とは
精神科医 Harry Stack Sullivan (1892-1949)によって提唱されました。

「現代精神医学の概念」 中井久夫・山口隆訳   みすず書房

 

評価とは
関与しながら観察することによって為され
治療とは
観察しながら関与することによって為される
と考えています。

 

そのためには
自分が何を観察しようとしているのか明確化できている
観察できる場面設定を行える(除外すべき条件がわかる)
意図的に選択された対応が行える(言語・非言語ともに)
起こっている事象を洞察できるだけの知識がある

ということが前提要件として求められます。

作業療法士の業界の一部では
検査と評価の混同や
目標を目標として設定できない
という臨床能力の育成に関して根本的な問題があると考えています。

多くの先達の努力のおかげで臨床知見の相当な蓄積が為されている昨今
そのメリットもあればデメリットもあって
該当障害の対象者に対しては
為すべきとみなされた検査項目を行い
為すべきとみなされた治療項目を行う
この過程において詳しく多数の検査項目を知っていることが優れた作業療法士である
というような誤解があるように感じられてなりません。
この間提唱されたEBMが誤解に拍車をかけたようにも感じています。
つまり標準化された作業療法の実践が本来の目的達成のために用いられるのではなくて手段の目的化に過ぎなくなってしまっているということです。
だから知見の集積の乏しい認知症という分野において
「どうしたら良いかわからない」「認知症は難しい」という訴えとなって現れているに過ぎないと考えています。

また
目標を目標というカタチで設定できず
方針や目的との混同が多々みられており
しかもそのことに自覚がないというケースにたびたび遭遇しています。
養成校の作業療法学科教授でも目的なのに目標として設定しているケースに複数遭遇しています。
受け取るリハサマリーでも目的を目標として設定されているケースも少なくありません。
 
このような現状では自家撞着に陥り自己修正ができようはずもありません。
だから「作業療法は説明するのが難しい」「作業療法は理解してもらいにくい」などと自己憐憫に陥るか、真逆の方向に「作業療法は素晴らしい」と自画自賛することで目の前の現実に向き合うことから逃避しているのではないかと勘ぐりたくなってしまいます。

現状改善への提案の一環として
目標設定に関しては
作業療法総合研究所において研修会で講師を務めました。

良い作業療法士になるために−目標を目標として設定できる

対象者の方と協働して良い目標が設定できる作業療法士になろう!

良い目標が設定できる作業療法士になろう!−概念編

認知症のある方への対応、作業療法の実践に関しては
作業療法学会で発表したり
各種研修会講師を務めたり
依頼された原稿を寄稿したり
こちらのブログで情報発信をしてきましたが
それらの集大成として「OT佐藤良枝のDCゼミナール」を作成・公開しました。

作業療法は実践の科学なのですから
最も重要なことは日々の臨床において結果を出すことです。
結果を出すということは対象者の方が良くなることです。
対象者の方が良くなるということは目標を達成できることです。
だからこそ、目標を目標というカタチで設定できなければならない意味がここにあります。
目標を目標というカタチで設定できずに、目的や方針や治療プログラムと混同していれば結果が出たかどうかがわからないということを意味しています。

結果を出せるためには
いろいろな検査ができることでもなく
いろいろな理論を知っていることでもなく
大学院を卒業しているとか、論文をどれだけ読んだり発表しているとか、それなりの職位にあるとか、ましてや経験年数の多寡とは何の関係もありません。
目の前で起こっている事象をプロとしてきちんと観察できることから始まります。

ところが
知識がなければ、プロとしての観察が行えません。

食事介助において
「口を開けてくれない」
「飲み込んでくれない」

ちゃんと声をかけたのに
突然怒り出すなんて怒りのスイッチがわからない

といった、表面的なことしか見ることができないのであれば
近所のおじさんおばさんと何の違いがあるのでしょうか?

口を開けてくれない、飲み込んでくれない
突然怒り出した
といった表面的な事象には
認知症のある方の困難(症状や障害)とともに能力も反映されています。
その、反映されている困難や能力を観察することができるから、プロなのです。

そして
その表面的な事象は
その時その場の状況や相対した作業療法士の関与も大きく影響しています。
その影響についても観察でき、影響の意味が洞察でき、影響をプラスの方向にコントロールできるから、プロなのです。

関与しながらの観察という言葉、概念は
昨今では、あまり教えられていないようで
学生や若手作業療法士に尋ねても
「教わらなかった」という答えが返ってくることが多くなってしまいました。

かく言う私も学生の頃に言葉として聞いたことはありましたが
その意味の理解ができていたかと言うと、やっぱりわかっていなかったと思うし
当然、実践もできてはいませんでしたが
知っているということはモノゴトのスタートになります。
(もちろん、知っていることと理解できることと実践できるということそれぞれの隔たりの大きさは十分わかっていますけれど)

観察する時には、何らかのカタチでの関与を必ずしています。
そしてその関与の在りように応じて観察の視点も広さも深度も変わってきます。

対象者を自身の意向に従わせようとしているのか
対象者の困りごとを少なくしようとしているのか
対象者は何もわからないと仮定しているのか
対象者は何とかしようと努力していると仮定しているのか
自身の関わりを吟味・検討せずに無自覚な声かけをしているのか
自身の関わりを吟味・検討した結果、意図的な声かけをしているのか

同じ事象を観察しても
人によって異なる観察結果が生じる所以です。
だから観察結果の相違を論じても仕方ない
前提となっている無自覚の関与の相違をこそ、論じるべきだと考えています。

関与の在りように応じた観察をしている

このことは、どんなに強調しても強調しすぎることはないと感じています。

「 ゲド戦記 IV 帰還 」のコケばばの言葉のように
「だけど、わしの方に見る目がなかったら、相手に目があるかどうかは言ってくれなきゃわからない。」記事「深きは深きを知るもので」より)
ということになっているのではないでしょうか。

 

だから
研修会で、観察と評価の重要性を説明しているにもかかわらず
「〇〇という人がいるんですけど、どうしたらいいんでしょうか?」
というカタチの質問があちこちの研修会で繰り返し起こるのだと感じています。
思考過程がもうガチガチにハウツー(思考ですらない)に染まっている証左なんだと感じています。

認知症のある方にどうしたらよいのか、
わからない時には評価に立ち返る
評価が曖昧な時には観察に立ち返る
観察する時には、認知症のある方を援助するという立ち位置に繰り返し立ち戻る

「関与しながらの観察」
この言葉に込められた意味は
とてつもなく広く深く
対人援助の実践に直結している
と感じています。

 

 

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観察力を磨くトレーニング

観察・洞察の重要性については
このサイトはもちろん、色々なところで繰り返し述べています。

でも「よし、わかった!観察力を磨こう!」と思っても
思うだけでは観察力を磨くことはできません。

小さな子どもが注意された時に
「これから気をつけます」
と答えるのと一緒です(苦笑)
気をつけようという気持ちはあっても
どこをどう修正するのか具体的に明確になっていないと
行動を修正することは難しい
ものです。

じゃあ、どうしたら良いのか

答えは日々の臨床にあります。
カルテにその日の記録をする時に
形容詞・副詞を使わずに記録するように心がけます。

転倒などのインシデント・アクシデントレポートを書くときに
転倒を発見した時の肢位を記載しようと思って
「あれ?どっちの手だっけ?」
「あれ?四肢はどんな風だっけ?」と
書けそうで書けない体験をしたことがあると思います。
「書けない」んじゃなくて「見れども観えず」だから
結果として書けない。
書くに値するほど観察できていないんです。

書くことで
観察できていないことを自覚し
具体的に観察し損ねていた部分を明確化できるので
結果として観察力を磨くことになります。

そして、この時にポイントがあります。

それは、形容詞・副詞は使わず
名詞と動詞中心に記録することです。

形容詞・副詞を使うと
なんとなくわかってるような、できてるような気分にはなっても
曖昧だから伝わらないし
現実問題として、自分自身が明確化できていない時に
形容詞・副詞を使いたくなるものなんです。
「きちんと記録できるようにしっかり観察します」とか。

現場あるあるなのが
「ムセないようにゆっくり食事介助する」
という文言です。

「気をつけて食事介助をします」という気持ちはわかりますが(苦笑)
ゆっくりとは何に照らしてゆっくりなのか
どのくらいのゆっくりさが適正なのか
どこをゆっくりするのが良いのか
全然わかりません(苦笑)

実際、そういう人は気持ちはあるのでしょうが
実践として、行動としては、適切な食事介助はできていないものです。

何を判断根拠とするのか明示されないと
どこをどう観察して判断するのかわからないから
自己判断・自己修正ができないからです。

「ムセないようにゆっくり食事介助する」
ではなくて
「2回目の喉頭挙上を確認してから次の食塊を介助する」
これなら、誰にでも観察すべきポイント、
どういう状態になったら次の介助をするのかということが明確に伝わります。

これって、カタチを変えていろいろなところで散見される状況ではないですか?
その他にも「優しく接する」「丁寧に接する」
ヤマほどありますよね?

明確化するのに
一番適しているのは言語化することです。
 
言語化する時に、形容詞・副詞を使わないように気をつけることで
抽象論・総論から脱却し、具体的・個別的に明確化するように
思考と観察力を磨くことができるようになります。

高いお金を払ってセミナーなんかに行かずとも
たった一人でも、今すぐに、始めることができます。

やってみると
今までいかに自分が
「わかったつもり」「やっているつもり」になっていたのか
わかるようになると思います。

私が実習生の時のデイリーノートには
対象者ごとに詳しく記録をするように求められていました。
主観と客観を区別して書くように指導されていました。

最近の実習では
デイリーノートの簡素化が進み
技術の体験に比重が置かれるようになりました。

実習の過剰な負担を減らすことは必要かもしれませんが
「書く」ことによって、「思考や観察の曖昧さを自覚させる」
というトレーニングにはなっていたと思います。
そのトレーニングの機会がなくなってしまいました。

臨床家として、最も基本的・本質的であり、かつ重要な資質なのに。

負担を減らすというメリットを得た代わりに
臨床家としての基本的・本質的・重要なトレーニングを代替させる場について
どれだけ議論と対応が為されてきたのか疑問に感じています。

「ちゃんと書く」「ちゃんと観察する」のは
誰でもできることではありません。
きちんとトレーニングが必要です。

「ちゃんと書く」「ちゃんと観察する」のは
願えば誰でもできるようになることではありません。
気をつけようと思えば、気をつけられるものではありません。
実践としてのトレーニングが必要です。

もしも指導者がそのことを身に染みてわかっていないのであれば
残念ながら、その人は抽象的総論的曖昧な実践しかしてこなかった
ということを意味しています。

だから
自身の未熟を対象者のせいにして
「認知症だから仕方ない」
「認知症だから希望は聞かない」
「認知症だから。。。云々」
と言えてしまうんじゃないでしょうか?

 

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開口したまま介助を待っている方

認知症のある方で
食事場面で口を開けたまま食塊を入れてもらうのを
待っているような方の場合
頚部後屈していることが多いものです。

このような時に
介助しにくいからといって
決して上の歯でこそげ落とすような介助をしてはいけません。

その場では
ムセることがないからと問題視することができないかもしれませんが
「カタチとハタラキ」の記事でも説明したように
食べ方というカタチには
食べる能力と困難というハタラキが反映されているものです。

  食事介助ではムセの有無しか気にしていない人も多いのですが
  ムセの有無しか気にしていないと
  食べ方というカタチすら見ていないので
  ハタラキも観ることができようはずもありません。

この時点で
ハタラキには大きな問題が生じています。
にもかかわらず、上の歯でこそげ落とすような介助をすれば
食べ方の問題を増悪させてしまいます。

たとえ、その場ではムセていないとしても。

開口したまま待っているような方というのは
その前段階として、必ずそのような食べ方を
引き起こしてしまう不適切な介助があったはずです。
つまり、
上の歯で食塊をこそげ落としたり
口の奥にスプーンを入れたり
斜め上に引き抜くようなスプーン操作をしたり。。。

誤介助誤学習が起こっているのです。
不適切な介助にすら、適応しようとして
自らの食べ方を低下させてしまったのです。

自らのスプーン操作を振り返る介助者は少ない。
ぜひ、「スプーン操作を見直すべき兆候」をご確認いただきたいと思います。

口を開けたまま食塊が入ってくるのを待っているような方に
「口を閉じて」と言葉でいくら言ったとしても
開口するしかない介助(例えば、上の歯でこそげ落とす)を
介助者が行動として行なっていれば
自身の身体に直接作用する介助者の行動に対する応答を優先し
口を閉じることはないでしょう。
 
その表面的な表れだけを見て
「口を閉じてって言っても認知症だから口を閉じて食べてくれない」
「どうしたら良いだろう?」
などと問題設定をするのは、本末転倒でしかありません。

じゃあ、どうしたら良いのか

今を否定せず
より良い食べ方を促します。

口を開けたまま待っている状態を否定せずに
口を開けたまま待っている状態でも
より安全に食べられるように
箸を使って食塊を歯もしくは歯ぐきの上に置きます。

そうすれば、自然と口唇閉鎖しますから
タイミングを見計らって頚部前屈を動作介助します。

食べるという一連の動作の中で
自然と頚部前屈を伴う口唇閉鎖を促します。

ここでのポイントは
頚部前屈というハタラキを促すことで
頚部前屈というカタチに至らなくても良いということです。

頚部前屈というハタラキが出てくれば
口唇閉鎖というカタチが容易に現れるようになります。

箸を使った介助で口唇閉鎖が出てくれば
食塊をとりこむ時に口唇閉鎖を促せる食具と介助方法を導入します。

ここは、その方のそれぞれの状態に応じることになります。
すぐに、スプーンで下唇や前舌を押すだけで口唇閉鎖を促せる方もいれば
いったん、ストローを使って口唇閉鎖の強調体験をした方が
次のスプーンへの適応がスムーズに進む方もいます。

そこはきちんと観察・洞察して決定します。

不適切な介助への合理的適応の結果としての
不適切な食べ方をしていた期間が短ければ短いほど
行動変容はより容易により短期間で起こります。

逆に言えば
そのような期間が長ければ長いほど
適切な介助ができる人と遭遇できなかった場合には
誤嚥性肺炎になってしまったり
食べ方がわからなくなってしまって
食べる能力を持っていながらも
本当に食べられなくなってしまうことも起こり得るのです。

食事介助は本当に怖い

 

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観察から始まる「寄り添ったケア」

認知症のある方の食事介助でも生活障害でもBPSDでも
困った時に「どうしたら良いのか」を考えることって
たぶんたくさんあると思います。

ケースカンファをしたり
誰かに相談したり

本当は
対応を話し合って考えることをしてはいけないんです。
どうしたら良いのかは考えることではなくて
今、そこで、その方に何が起こっているのか 」
ということを確認し合う
べきなんです。

例えば
私の本の中
食事中の大声という状態像の方が3人出てきます。

「食事中の大声がある方にどうしたら良いのか」
を考えても不毛です。
大声というのは、結果として起こっているに過ぎない
表面的な事象なので
大声に反映されている本質的な課題=何が起こっているのか
大声に反映されている能力と困難について
確認することが課題解決のスタートラインに立つことなんです。

実際問題として
三者三様の状態像があって
それぞれにまったく異なる取り組みをして
3人とも大声が改善
して退院できたのです。

状態像が異なるのですから
対応が異なって当たり前です。

状態像=その時その場をどう感受し認識し対応しようとしていたのか
そこをこそ、きちんと観察することが大事で
観察に基づいて、どのような能力とどのような障害・困難が反映されているのか
そこをこそ、洞察すれば
どうしたら良いのかは自ずから浮かび上がってきます。
まさしく、その方それぞれに、オーダーメイドで対応の工夫をすることになるのです。

詳細は
「 認知症のある方でも食べられるようになるスプーンテクニック 」
をご参照いただければと思います。
そうすれば、
「観察するとはこういうことか」
「観察しているつもりだったけど全然足りていなかった」
ということがはっきりとお分かりいただけると思います。

そして、食事介助の場面で起こっていることは
他の生活障害やBPSDの場面でも
カタチこそ違えど、まったく同じコトが起こっているんです。

困った時には、
どうしたら良いのかを考えるのではなくて
まず、その時その場でその方に起こっていることを観察します。
 
多くの場合、「見れども観えず」になっていて観察し損ねています。
自身が見たいように見ているだけの人も少なくありません。
「この病気は〇〇という症状が出るから」
「前に似た状態の人にこうしてみたらうまくいったから」
「優しくすれば言うことを聞いてくれるから」etc.etc.

そうではなくて
まず虚心に観察することです。
判断を留保して観察します。

その時に、援助の視点を揺るがせにしないことが最も肝要です。
認知症のある方に
言い聞かせようとする、コントロールしようとするような意思があると
その意思は、必ず自身の言動に反映されるものです。
そして、認知症のある方に感受されています。

  その上で、こちらに合わせてくれたり、
  従わざるをえなかったということもあり得ます。
  短期的には表面的に問題行動は修正されたように見えて

  その実、長期的には一層大きな問題となって表面化します。

表面的にどうしたら良いのかを考えるということは
寄り添ったケアという理念から遊離してしまいます。
そして、援助と強制、使役のすり替えに陥るリスクを増大させてしまうのです。

もし、私が他の人より優れている面があるとしたら、
援助と強制、使役のすり替えに自覚的であることと
観察・洞察の力だと思います。

その時その場において、観察・洞察するということが
寄り添ったケアという理念の実践のスタートラインです。

「あなた、どうしてそんなに私のことがわかるの?」
そう問われたこともありました。

私がわかるんじゃなくて
その方がちゃんと表現しているということなんです。

言葉にならない、行動というもう一つの言葉で。

 

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「食べる」再学習:食具

中核症状とBPSD

自力摂取している方に
スプーンの工夫もしますが
 
介助が必要な方に食具を選択することも
食べる能力を発揮していただくためには重要です。

「何を」「どんな風に」
の部分で言えば、「何を」という食形態に関して検討されても
「どんな風に」の介助方法の部分は意外と疎かにされがちです。

スプーン操作の基本を知らない人はとても多くいます。
「スプーン操作を見直すべき兆候」をご覧ください。
これらの兆候ひとつひとつを
「私はしていない」と言明できる人がどれだけいるでしょうか?
「そんなところ見ていなかった」という人の方が圧倒的に多いはずです。
ぜひ修正していただきたいと思います。
そうすれば認知症のある方や生活期にある方が
どれだけ食べるチカラを持っているのか
どれだけ誤学習を起こしているのか
どれだけ誤学習から正の学習へ切り替える能力を持っているのか
ということがはっきりとわかるようになると思います。

通常使っているスプーンにとらわれることなく
必要であれば、Kスプーンとまでいかずとも
小さな平らなスプーンも使いますし、箸も使います。

幼児用のマグカップを使用したこともあれば
ストローを使うこともあれば
シリンジを使ったこともあります。

食具の選択には大きな意味があります。

準備期に直接的な影響を及ぼします。
つまり、
食具の選択は、準備期の能力を把握しているからこそできるのです。

臨床現場あるあるなのが
不適切なスプーン操作にも適応しようとして誤学習を起こすと
「食べる」協調性が低下してしまうことです。

協調性が低下した結果としての食べにくさを
表面的に捉えて問題視するような方法論は
あまり効果的ではありません。

むしろ、今の能力でラクに食べられるような
食形態と食具と介助方法を選択して
食べ方の再学習を図る方が効果的です。

協調性が低下したとしても
能力はさまざまに発揮されています。

上唇を丸めて取り込めないけれど
口唇閉鎖だけはできる。ということも多々あります。

体力低下していると
上唇を丸めてとりこむだけのパワーがない
ということも多々あります。

そのような時には
箸を使って介助した方がラクに食べられ
再学習が進展しやすい

ということがよくあります。

開口しなかった方が
開口してくれるようになると
それだけでホッとして(気持ちはわかりますが)
食べ方の観察・洞察なしに
スプーンでどんどん介助してしまうということも
食事介助の現場あるあるです。

食べ方をきちんと観察していれば
確かに開口はするけど上唇のとりこみが見られずに
上の歯でこそげるようなとりこみを代償として用いていることに
気がつくこともあるでしょう。

このような代償も誤介助誤学習の結果なのですが
そのことに気がつけずに漫然とした食事介助を続けていると
今は開口して食べられていても
早晩送りこめなくなってため込んだり、
また開口しなくなったり、
という状態になってしまいます。

食べ方の観察・洞察ができないと
今、表面的に結果として起こっている事象
しかも介助者にとっての不都合な事象しか見ていないために
短期的なメリットを追求し、かえって長期的な困難を惹起する
ということが食事介助の現場で起こっていることです。

摂食・嚥下5相の知識に基づいた観察をしながら介助することの重要性を
どんなに強調しても強調しすぎることはないと感じています。

 

準備期の能力発揮には段階がある・・・・・・・・・・・・・・・・

・上唇を丸めてとりこめる
・上唇を丸めてとりこめないが、とりこもうとする形にはなる
・上唇でとりこもうとする形もみられないが、口唇閉鎖はできる
・口唇閉鎖も不十分

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

これらの段階が
誤学習なのか、自身の代償も含んでいるのか
食塊の認識がどの程度可能なのか
といった観察・洞察のもとに
通常スプーンを使用するのか
小さくて平らなスプーンを使用するのか
箸を使用するのかを判断します。
水分摂取に関しても
ストローが良いのか、スプーンが良いのか、コップが良いのか
判断していきます。

脱水や低栄養で体力低下していると
通常のスプーンで「食べる」ことで
摂取するエネルギー、栄養補給、インプットよりも
消費するエネルギー、アウトプットの方が多くなり
体力消耗
してしまいがちです。

そのような時にも身体の負担の少ない
液体の栄養補助食品を使用したり
上唇でのとりこみをせずとも食べられるように箸を使用したりします。

食べ方や飲み方の改善に伴い、食具も切り替えていきます。

準備期=食塊のとりこみ=食事介助
というのは、本当に怖い

経験を重ねるにつれ
認知症のある方の「食べる」チカラの凄さを知るとともに
食事介助の怖さを思い知らされています。

 

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食べる再学習:食形態

中核症状とBPSD

前の記事で
今の能力でラクに食べられる食形態
と言いました。

能力とは機能を意味しません。
機能はあっても誤介助のために能力として発揮しきれない場合や
機能はあっても協調性が低下してしまって能力が発揮しきれないことも
臨床あるあるです。

私の実践は機能を上げることを目的とはしていないので
間接訓練は基本的には行なっていません。

本来の機能を能力として発揮できるように
直接訓練として実際の食事場面や水分補給の場面で実践しています。

「食べる」ことは認知症のある方と介助者との協働作業ですから
「何を」「どのように」食べるのか、援助するのか
ということが問われます。

「何を」という面では
食形態は本当に選択肢が増えました。

当院では
ゼリー食・ミキサーペースト食・ミキサーソフト食・長刻み食・荒刻み食・軟菜と選べます。
お粥も全粥・ミキサー粥が選べます。

ゼリー食の中で
よく使うのが液体の栄養補助食品、ネスレ「アイソカル100」です。
(もちろん必要に応じてその他の栄養補助食品も使っています)

水分と栄養を同時に摂取できるのが良いところですし
大きさもコンパクトなので見た目の圧迫感もありません。
複数の味から選ぶことができます。

食べる困難を抱えている方に対して
液体の栄養補助食品はあまり選択されないようですが
現実には、
咽頭期に本質的な問題がある方は少なく、
口腔期に本質的な問題がある方の方が圧倒的に多いので
私は液体の栄養補助食品を多用しています。

このあたりの考え方は、
摂食・嚥下ピラミッドとは考え方が一部異なりますが
そもそも摂食・嚥下ピラミッドは
生活期の方ではなく急性期の障害の方に対して考案されたものですので、
状態像が異なる方に対して異なる考え方をして当然だと思っています。

また、
液体の栄養補助食品よりも
もう一段前の段階として活用しているのが
グリコの「アイスの実」です。
こちらもいろいろな味があります。

 

直径1.5センチほどの1粒を1/3〜1/4にカットして使ったこともありました。
上顎に押し付けると表面がすぐに押しつぶされて
じんわりと中身が溶けるのがとっても使い勝手が良いのです。

1粒そのままを咀嚼し送り込み嚥下できるようになると
相当、口腔期の能力が戻ってきていることの証左となります。

それから
小袋4つで発売されている「かっぱえびせん」
通常の味もありますし
塩分控えめの「1才からのかっぱえびせん」もあります。
(4連で¥100円くらいだったと思う)

食べ方の改善に合わせ
食形態も変化させていきます。

控室には、いつでも使えるように
かっぱえびせんとアイスの実が常備してあります (^^)

 

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「食べる」再学習:基本

中核症状とBPSD

認知症がある方で「食べる」困難のある方でも
多くの場合、もう一度食べられるようになります。

なぜならば
「口を開けてくれない」
「ためこんで飲み込んでくれない」
「吹き出すほどムセる」
などの「食べる」困難は
多くの場合に、認知症という状態のせいではなくて
不適切な介助にすら的確に適応しようとして誤学習を起こした結果だからです。

クリスティーン・ブライデン氏は
「異常な環境には異常な反応が正常だ」
と言いましたが、まさに!

誤介助によって引き起こされた誤学習なので
正の介助ができれば正の学習が起こります。

 正の介助ができるためには
 摂食・嚥下5相の知識があり
 認知症の知識があり
 それらの知識に基づいた「食べ方」の観察ができ
 「食べ方」に反映されている能力と困難を洞察することができる
 ことが前提要件その1です。

 前提要件その2は
 スプーン操作をはじめとする
 的確な食事介助を行える技術を持っていることです。

 現実には
 (残念なことですが)
 2つの前提要件をクリアできている人って
 そんなにいるものではありません。

 つまり、
 今、私たちが見ている

 認知症のある方の食べる困難は
 前提要件を満たしてない人が介助した結果の姿です。
 
 そして、
 前提要件を満たしていない人は

 前提要件を満たすこととの違いを
 説明されてもわからないということは往々にしてあることです。

 でも、この現実は裏を返せば
 2つの前提要件をクリアしさえすれば
 認知症のある方や生活期にある方の「食べる」困難を激減させることは
 可能だということを意味しています。
 (この問題については、別の記事で詳述します)

話を元に戻すと
正の介助、正の学習のために
イマ、ラクに、食べられるように食環境を調整します。

多くの場合に
いったんは、食形態を下げる必要があります。
再学習が起こりやすいように
今の能力でラクに食べられるように
「食べる」失敗体験をしないように。

このようなお話をすると
難色を示す人が大勢います。

たぶん
食形態を落とすともう二度と今までの形態が食べられなくなる
と心配するのではないかと推測します。

でも
そのような心配が起こるのは
「食べられなくなったのは認知症のせい」という考えが潜んでいるからです。
現実は違います。
「食事介助を受けている方が食べる」とは
認知症のある方と介助者との協働作業に他なりません。

「食べる」再学習が進みやすいように
いったんは食形態を落とし
適切な食事介助が行えれば
その方の能力に応じて
もう一度以前の食形態で食べられるようになる方の方が
圧倒的に多いのです。
 
「食べられなくなったのは誤介助誤学習のせい」と知れば
食形態を落とすことへの心配よりも
自身の介助の適切さへの心配の方が先立つはずです。
そのような方は
「認知症のある方も食べられるようになるスプーンテクニック」
をぜひ読んでみてください。
具体的に明確に介助において気をつけるべきポイントを説明してあります。

それでは
食形態と介助する食具を工夫することで
より適切な食環境を段階づけしながら提供できる
ということについて次からの記事でご説明していきます。

 

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