Tag: 環境適応

対人援助の困難

関係性の中で能力が見出されていく

目の前にいる方の困りごとをなんとか手助けしたい。
その意志を支え、具現化するためには知識と技術が必要です。
 
そして手にした知識と技術は
「相手を変える、コントロールする」ためではなく
「相手を助ける」ために適用
するのだという認識こそが重要です。
ここが入れ替わってしまっている人に遭遇することも多々ありますが
対人援助職として、
いくら自戒しても自戒し過ぎることのない難しい側面なのだと感じています。

能力が見出される体験を重ねるたびに
援助という在り方を磨かされるように感じています。

認知症のある方も関係性を感受しています。
相手を変える、コントロールしようとする人に対する反応と
相手を助けようとしている人に対する反応と異なっていて当たり前です。

関係性の中で能力は発揮され、見出すことができる
その逆もあり得ます。

イチ臨床家として思うことは
普段の臨床にこんなにも直結することだから
学生や若手OTに対して
リスク対策として
臨床家として援助が的確に行えるように
対人援助職の厳しさと困難を伝えるべきなんじゃないかと考えています。

そうでないと
かつてある医師が
「作業療法は作業療法士によって潰される」
と言っていた未来が実現してしまいかねないと思っています。

その医師は、
作業療法のチカラを本当にわかっていたからこそ
作業療法士に期待していたからこそ
そう言っていたのだと思います。

その意味をわからない人たちが表面的に批判するという
なんとも言えない皮肉な様相が見られていました。。。

援助を具現化するためには
知識と技術が必要で
それらを適用する際には
援助の視点をぶらさない強さが求められるということの厳しさ
対人援助職の落とし穴、罠、表裏一体の困難
として
思いを深めるとともに
学生や若手OTにあらかじめ伝えておくことの必要性を強く感じています。

接遇とか理論とか客観性とかEBMとか
それらもいいけど
それらは、本質でも根本でもなくて
土台として、このことが分かった上での
接遇であり、理論であり、客観性であり。。。

何のための接遇か、理論か、客観性なのか、EBMなのか
ということをよく考えてみれば
あくまでも的確な援助をするための手段にしか過ぎない
ということがわかると思う。

何が本質で
何が手段なのか

混同していたら、的確な援助は難しくなります。

重要なことは
対人援助というのは
援助の名のもとに使役やコントロールに容易にすり替わり得る

ということを自分ごととして
きちんと自覚していることだと考えています。
 
ところが、現実には経験を重ねるごとに鈍感になっていく人も少なくないんですよね。。。
本来は経験を重ねるごとに、わかりかたが深まっていくはずなのに。。。

 

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口腔ケアも再認を活用

口腔ケアをする時に
「口を開けてくれない」
「歯で指を噛まれてしまう」
というケースは多々あります。

そうすると
たいていの人は
最初は丁寧に説明したり対応しても
最終的には強引に口の中に歯ブラシを入れたり
(だから十分なケアができない)
口腔ケアそのものを諦めてしまいがちです。

安易に
開口してくれない=Kポイント刺激して開口を促す
とパターン化した対応をしていると
指を噛まれてしまいます。

口腔ケアも食事介助と同じで
環境適応の再学習を口腔ケアという場面でおこなっている
という認識に立てば
認知症のある方がどのように説明を感受し認識し適用しようとしているのか
ということを観察・洞察しようという意識が働きます。

長い文章での説明は理解できなかったとしても
目の前で歯ブラシを見せ
歯ブラシを横に数回動かすという動作を見せて「歯磨き」を伝え
歯の一部を優しく数回ブラッシングするという体験を通して「歯磨き」を伝えると
「歯を磨いてもらう」ことを再認できるので開口してくれます。

体験を通して再認できるという能力を活用します。

歯磨きの再認が目的なので
あくまでも優しくそっとブラッシングを続け
だんだんと歯ブラシを奥歯に持っていき
奥歯の上から裏側へと歯ブラシを動かします。
ここまで受け入れてもらえれば
歯ブラシで歯の裏側をブラッシングさせてもらえます。

開口に協力してもらえるので
きちんと口腔内の確認もできます。

口腔ケアが手段の目的化で終わらないように
歯磨きや口腔内清拭をすることが目的ではなく
歯磨きや口腔内清拭をすることによって口腔内の衛生環境を保つことが目的
なのだということを忘れないようにしたいものです。

口腔ケアは疎かになりやすい部分でもあります。
ケアの実行という意味でも
ケアの質の担保という意味でも。

口腔ケアを介助者が一方的にするのではなく
認知症のある方と協働して行っている人は
認知症のある方の能力をまざまざと感じていると思います。

 

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スプーン操作を見直すべき兆候

対象者の方に下記のような兆候が見られたら
それは介助者がスプーン操作を見直すべき兆候でもあります。

<開口した時>
・舌が奥に引っ込んでいる
・舌が硬くなっている

<食塊をとりこむ時>
・顎が上がっている
・上唇を丸めずに閉じている
・口角から食塊がこぼれ落ちる
・引き抜いたスプーンに食塊が残っている
・正面ではなく介助者の側に頭部を回旋している

<食塊が口腔内にある時>
・咀嚼・送り込みに時間がかかる

<食塊を嚥下する時>
・喉頭が完全挙上しない
・喉頭が複数回挙上する

これらは、見ようと思えば今すぐに誰にでも観察できることですが
たいていの場合に、上記兆候は観察されず
「見れども観えず」
視界に入っているはずなのに意識化されていません。

上記兆候は
介助する側の人の不適切なスプーン操作が原因となって
引き起こされたり、増悪されたりしている兆候です。

つまり、改善可能な状態像なのに
見落とされていて対処されていないのが現状です。
 
食事介助の時には
ムセの有無しか確認していない人がとても多いのが現状です。

しかも、
強く激しくムセるとすぐに食事中止を指示する職員がとても多いという問題もあります。

ですが、このような対処は合理的ではありません。
ムセとは何か?
身体の働きについて本質を知ることなく思い込みで対処しているだけです。

この問題については次の記事で。

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食具の工夫:介助

通常は普通のスプーンで介助しますが
場合によっては、全介助でも異なる食具を使うこともあります。

写真上の赤いスプーンのように
幅が狭くて浅いスプーンを使ったり
箸やシリンジで1ccずつ介助したこともあります。

認知症のある方や生活期にある方は
口腔内にちょっとした困難を抱えていることが多く
ちょっとした困難をちょっとした困難のまま
食べられるように維持していくことが大事だと考えています。

ところが、現実には、ちょっとした困難を観察・洞察できず
低栄養・脱水を回避するために結果として
「食べることの援助」ではなく「食べさせる」ことになりがちです。
そこから誤介助誤学習の悪循環に陥ってしまいがちです。

開口しない、ためこむ、抵抗するなど食べようとしなくなった場合に
単にスプーンでなんとか食べさせようと介助をすることは
ネガティブな体験の再認の強化になってしまい
食べることの再学習を阻害してしまいます。

誤介助誤学習の悪循環から抜け出すためには
まず、介助を変えることです。
その一つとして、スプーン、食具を変えます。


シリンジで液体の栄養補助食品を介助したり


液体の栄養補助食品をストローで摂取してもらったり


箸で栄養補助食品のゼリーやソフト食を介助します。

「ラクに食べられた」体験ができるということは
ポジティブな体験の再認の強化にもつながります。

重度の認知症のある方でも再認できる方は非常に多くいます。
ADLは体験を通して再認を促しやすい場面でもあり
特に「食べる」ことは究極の手続記憶ですから
毎回の食事介助が再認の促しの場面になっているとも言えます。

ここで気をつけていただきたいことは
再認はポジティブにもネガティブにもどちらにも働く
ということです。

現状では
善かれと思って
でも知識と技術が伴わない、観察と洞察が不十分な場合に
結果として毎回の食事介助でネガティブな再認の強化をしている
とも言えます。

この悪循環から抜け出すために
「ラクに食べられた」というポジティブな再認を促すために
食環境としての食具を変えます。

対応が適切であれば
そのうちに開口がスムーズになってきますから
その段階で通常のスプーンに切り替えていきます。

介入直後から食べ方の改善を実感できますが
どんな人にでも目に見えてわかるくらいに
食べ方が改善するには1〜2週間かかります。
その後通常の介助に移行できるまでに
もう2週間ほどかかることが多いです。

その間、ご本人が余分な苦労をすることになってしまうので
「予防にまさるものなし」
問題が表面化する前の段階で
(食事介助に困難も負担も感じていない段階から)
適切なスプーン操作
喉頭の完全挙上を必ず視覚的に確認しながら
食事介助してほしいと切に願っています。

「口を開けてくれない」
「ためこんで飲み込んでくれない」
「食べるのを嫌がる」
というのは、結果として表面的に起こっている事象に過ぎません。
ここだけ切り取って「さて、どうしたら?」と考えても答えは出ません。
まずは、それらに反映されている食べ方をきちんと観察することです。

摂食・嚥下5相にそって
食べ方を観察・洞察すれば
目の前にいる方に何が起こっていたのかがわかる。

だから、どうしたら良いのか
どのような食形態・食具・介助方法・場面設定をしたら良いのか
がわかる。

それらは自然と浮かび上がってくるものです。

考えることではないのです。

観察・洞察の結果
必然として導き出されるものなので
明確に浮かび上がってきます。

明確化できない時には考えてはいけません。

何が起こっていたのか、という観察・洞察が曖昧だから
明確化できないのですから
どうしたら良いのか考えるのではなくて
目の前に起こっていることをもう一度観察し直すことに
立ち戻れば良いのです。

 

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観察・洞察から始める対応の工夫

ほとんど休眠状態だったこちらのサイトに
こんなにもたくさんのアクセスをいただき
ありがたく思うと同時に
再開への誓いを新たにしました。

個人のサイト(OT佐藤良枝のDcゼミナール)を立ち上げたこともあり
どのように使い分けをしていくかは
走りながら考えていこうと思っています。

ただ
再開にあたり考えたこともあります。
それは事実に即して記述していくということです。

そんなの、当たり前じゃん。って思われるかもしれませんが
多くの場合に、常識とされている慣習的対応や視点、考え方に
無自覚のうちに支配されていることって多々あります。

  例えば
  老年期のリハ場面で立ち上がりの練習をするセラピストは
  大勢いると思いますが
  同時に座る練習をするセラピストは多くありません。

  私は立ち上がりの練習をするよりも座る練習をした方が
  より安全に円滑に立ち上がれるようになると考えており
  第12回神奈川県作業療法学会のワークショップで発表もしましたし
  こちらのサイトでも「立ち上がり」で検索していただければ
  多数の記事がヒットすると思います。

「できることのでき方をよくしていく」
という考え方が私の根幹にあります。

実は
できていることにも
できていないことにも
同じように能力も障害も困難も反映されています。

セラピストは
表面的な「できていること」「できていないこと」を見るのではなくて
表面的な事象に反映されている
impairmentの能力・障害・困難を観ることが重要で
(ここまでは、当たり前と思われると思います)
「できていること」の中には、かなり代償を使って
特に粗大なPowerを使って代償している面があります。

  立ち上がりを例にとれば
  腰背部の筋力があるからこそ立ち上がれてしまう。
  疾患によって筋力が以前のように発揮できない状態に陥ると
  立ち上がれなくなる。 
 
  そこで、筋力強化→立ち上がりの練習
  というのが今の一般的な方法論だと思いますが
  そうではなくて
  せっかく筋力が発揮できない状態になることができたので
  本来の身体協調性を発揮して立ち上がれるように再学習する

  そのためには、立ち上がりの練習をすると
  どうしても脳内にインプットされている過去の回路が起動してしまうので
  新しい回路を作るために、座る練習という体験を通して
  筋力を過剰に使わずとも身体協調性を再学習し能力発揮する
  このような方法論で多数の老年期の方が立ち上がれるようになる
  という体験をしてきました。

  私に言わせれば
  立ち上がり100回!とか、大腿四頭筋の筋力増強訓練!とか
  生活期にある方に対してはとんでもない話で
  せっかくの再学習の機会を奪ってしまっているとしか思えません。

  抵抗と防衛のために
  慣習的視点、対応、方法論にセラピストも支配され
  脱却が困難になってしまっています。

「できることのでき方をよくしていく」
というのは、代償を使わず本来の能力発揮を援助する
能力がより合理的に発揮できるように援助する
という意味なのです。

同じコトが違うカタチで現れていることは
ヤマほどあります。

認知症のある方への食事介助しかり
対応の工夫しかり
「褒めてあげる」「なじみの関係」etc.
(こちらも過去の記事にありますので、検索してみてください)

「事実の子たれよ。
 理論の奴隷たるなかれ。」

この言葉は
内村鑑三の言葉で
私が大切にしている言葉でもあります。

理論というのは
まさしく〇〇理論、〇〇法も該当しますが
常識、慣習的対応という言葉に置き換えても該当すると考えています。

「事実の子たれよ。
 理論の奴隷たるなかれ。
 事実はことごとくこれを信ぜよ。
 その時には相衝突するがごとくに見ゆることあるとも、
 あえて心を痛ましむるなかれ。
 事実はついに相調和すべし。
 その宗教的なると科学的なると、
 哲学的なると事実的なるとにかかわらず、
 すべての事実はついに一大事実となりてあらわるべし。」 

後半のくだりは、まさしくその通りで
実際に認知症のある方と接していて何回膝を打ったことか。。。

科学は過去の知識の修正の上に成り立つ学問であり
まして作業療法は実践の科学です。
実践の科学であるからこそ
解剖学・運動学・症候学などの基礎知識を習得し、
知識を活用して観察・洞察できるようになることが
未来の作業療法に貢献することに他ならないと考えています。

「観察の重要性を知った」
「評価しているつもりだったが、まだまだだと思った」
私の講演を聞いた方から、そのような感想をいただくと本当に嬉しく思います。

ハウツー的思考回路から脱却し
uniqeな目の前の対象者の困りごとの場面そのものを
自身も含めた環境因子の中で
明確に観察・洞察・対処できるようになる人が
一人でも多くなることを願って
このサイトを再開させたいと思います。

 

 

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食べ方は連続性の中にある

人間の身体は
解剖学的にも生理学的にも連続しています。

食べるということは
摂食・嚥下5相の一連の流れの中にあり
相互に影響しあっています。

つながっているから

決して
咽頭期だけの問題などではありません。

VFやVEで咽頭期の機能が目に見えるようになったことは
良いことではありますが
それが全てではありません。

咽頭期は口腔期の影響を受けますし
口腔期は準備期の影響を受けています。

だからこそ
準備期(=スプーン操作)を変えることに意味があります。

シュレディンガーは言いました。
「大切なことは誰もが見ていることの中に
誰も考えたことがないことを考えること」

私は意図していたわけではありませんが
結果として誰もが見ていることの中に
誰も考えたことがないことを考えていました。

それは私の頭の中だけで生じたわけではなくて
目の前にいる方の食べ方をありのままに観察したことによって生じたものなのです。

 

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食事介助は相互関係の中にある

文字通り
食事介助は食べようとする方と介助する人との相互関係の中に成り立ちます。

たとえ
意識しようとしまいと

特に
準備期は食べようとする方に
介助する人のスプーン操作が直接影響します。

どんなに
重度の認知症のある方だとしても
適切なスプーン操作には適切に反応し正の学習が生じ
不適切なスプーン操作にも適切に反応し誤学習が生じます。

クリスティーン・ブライデン氏の
「異常な環境には異常な反応が正常だ」
というわけです。

本当に根深い誤解として
認知症のある方の食べ方を100%認知症のある方のせいにしてしまう
とりわけ咽頭期の問題に集約してしまう傾向がありますが
それは、ICIDHにまだまだ囚われていて脱却・卒業できていない
ということを意味していると感じています。

 

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対象者から始める

食事介助に関する相談で
「『自分が』うまく食べさせられない」という視点はあるけど
「対象者の食べ方が心配」という視点が少ないなーと感じています。

実は
非常に重要な視点の相違です。

たぶん、日本全国あるあるなのが
食べ方を観察せずに介助してしまう
その介助の過程において対象者の食べ方を観察していない
ムセの有無は気にするけど
というものです。

だから
相談の文言が
「口を開けて『くれない』」
「なかなか飲み込んで『くれない』」となっているのだと思います。

「口を開けようとしない」
「飲み込もうとしない」
ではなくて。

言葉は意思を表す
声は感情を表す

常々そう感じていますが
本当にそうだなー。。。

でも
『くれない』という言葉を使っているということは
前提として、介助者の介助に適応して『くれる』ものだと思っている
ということを意味してもいるということでもあります。

認識としては真逆ではありますが
(私たちが対象者の食べ方に合わせるのが本来の姿だと考えています)
根本的には、どこかで相互関係として把握しているということでもある。。。?

 

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