Tag: 環境適応

偉大なるマンネリの効用2

作業に語らせる:輪くさり

認知症のある方は
作品作りでもゲームでも
ADLではない、何らかの余暇活動をする時には
「やり方を聞いて・理解して・覚えて・その通りに実行する」という
近時記憶が低下している方には至難の技を要求されます。

毎回毎回、異なる余暇活動に参加して
「楽しい」と感じることができるのは
「プラスの刺激」として楽しめるのは
かなり余力のある方だと思います。

やり方を聞いても理解できない
聞いたはずのやり方を覚えられない
実行しようとしても違うことはわかるけど、ちゃんとはできない

このような状態であれば
楽しいどころか、辛いだけです。

マンネリであったとしても
同じ活動を繰り返すことのメリットは
認知症のある方に再認を促しやすい
ということです。

そして
私たち援助者の側にしてみれば
同じ活動を繰り返すことで
認知症のある方の変化がわかりやすい
小さな変化も見逃さずに捉えやすい
ということもあります。

やたら怒りっぽい、多動になる
というような言動が見られた時に
実は発熱などの前兆だったということも多々あります。

マンネリは良くない
というのは、単なる私たちの思い込みです。

マンネリという状態には
プラスもマイナスもなく、ただ事実があるだけ
その事実をプラスの方向性に活かせるかどうか
それは、私たち次第なのだと考えています。

 

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Activityと構成障害「工夫の考え方2」

作業に語らせる:輪くさり

もう一つの工夫の考え方です。

輪くさりではなくて
違うActivityを検討する場合

輪っか単体を作ることはできる。
ということは
1つの対象で
1つの工程であれば
平面から立体を形作ることはできる
ということを意味します。

だとしたら
できることはたくさんあります。

輪っか単体を
端と端をきちんと重ねてのり付けできるということは
両手の協応が可能ということを意味します。

例えば
あんでるせん手芸の紙巻き作り
最初にまとめて紙巻を作り
次に出来上がった紙巻をティッシュペーパーの空き箱につけて
小物入れを作ります。

冒頭の写真のように
なんとか輪くさりを作ろうとこれだけ試行錯誤した、
試行錯誤できるということは
それだけ集中できるということを表しています。

案の定、紙巻を上手に集中して作り続けることができました。

いろいろなActivityを知っていることは悪いことではありません。
ですが、Activityに対象者を合わせるのではなくて
対象者にActivityを合わせるのです。

対象者の良いところを良い方向に発揮できるように
Activityの場面設定を工夫したり
Activityの種目を選択します。

それぞれのActivityには、遂行に必要なActivityそのものが要求する能力があります。
この段階では、要求される能力にプラスもマイナスも意味づけはありません。

ところが、今、目の前にいる対象者にとって
選択されたActivityはプラスにもマイナスにも変わり得ます。

誰にでもいつでも「使える」Activity
万人に有効なActivityなどあり得ません。

マイナスに作用することがないように
できればプラスに作用するように
どのように考え、どのように工夫するのか
きっちりと言語化して説明できることと
(少なくとも自分の中で言語化できていること)
きっちりと実行して結果を出せることが
とりわけ、作業療法士には求められていると感じています。

作業療法士で他職種への説明の必要性を唱える人は多いけど
結果を出す、実行できることの重要性を強調する人が少ないのが
私にしては本当に不思議なことですが。。。

なぜなら
ピンチはチャンス
結果が出せない時こそ
出せない必然がある。

自分の認識をもう一段深めたり広げたりするチャンス
自分に必要な知識と技術を習得するチャンスでもあるからです。

 

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Activityと構成障害「工夫の考え方1」

作業に語らせる:輪くさり

この方の作り方から
輪っか単体を作ることはできるけど
「輪の中に紙を通す」ことができない
ということがわかりました。

机の上という平面で
立体と平面の異なる2つの対象の操作が難しい

構成障害があるから
隣で見て真似をするということも難しい

もしも
声かけや場面設定という介助の工夫を考えるならば
「優しく声をかける」「何回も繰り返し説明する」ではなくて

こんな風に
輪くさりを棒にぶら下げて
「立体」であることを「空間の中で」強調して
視覚的に提示します。

その上で
「輪っかの真ん中に通して」という声かけをします。
紙を通すことができれば
輪っか単体を作ることはできます。

声かけだけに頼らない
対象者にとっての「対象」をより明確に視覚的に認識しやすいように
「場面」という環境設定を工夫します。
声かけは端的に。

もちろん
このようなケースは臨床あるある。だとは思いますが
人により時期により、状態像はさまざまです。
この方の場合にはこの方法でできるようになった
できるようになる環境設定への考え方を説明しました。

目の前の方のやり方、でき方、できなさを
きちんと観察することから始めます。

きちんと観察する。。。というのは
言語化できるくらいに観察する。ということです。

その言語化された表現だけに絞って
その通りに実行して再現できるかどうかを自己確認します。
言語化された表現だけに従って実行した時に再現できなければ
その部分が観察し損ねた部分です。
観察力を磨こうとする人におすすめする方法です。
この方法はActivityはもちろんADLなどすべての行為に応用できます。

では、次の記事で
もう一つの工夫。
輪くさり以外の課題に変える場合について記載します。

 

 

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Activityと構成障害「観察とは?」

作業に語らせる:輪くさり

構成障害はあるけど
一生懸命輪くさりを作ろうとして作れない方に対して
「一緒にやるから大丈夫」という言葉は適切ではない。
ということを前の記事で説明してきました。

じゃあ、どうしたら良いのか?

考え方として
1)介助の工夫:輪くさりを仕上げるためにどんな介助の工夫をするか
2)課題の変更:輪くさりではなく他のActivityに変更する
この2つがあります。

いずれにしても
どうしたら良いのか?という方法から考えるのではなくて
どんな風に作っているのかという作り方を観察します。

「観察なんてしてるよ」
と言われるかもしれませんが (^^;
その方が作っている過程を言語化できますか?

「最初はできてるけど途中からできなくなった」
確かにそうですけど (^^;
「作り方」の言語化にはなっていないですよー。

「How」「どんな風に」
の部分を言語化できるくらいに観察できると
この方の能力と困難と特性の洞察ができるようになります。

結果としての
この写真からだけでも
わかることはたくさんあります。

この方は
輪っかが繋がっていくということを表現したかったのだと思います。
単体として輪っかは作れる
でも輪っかと輪っかをつなぎ合わせることができない。
なんとか輪っかの繋がりを表現しようとして最後は混乱してしまいました。
(写真の左側から右側へと作業を進めていきました)
繋がりを表現しようとして紙をそのまま繋げています。

もっというと
立体の輪っかに平面の紙を通してから立体化させて輪っかにする
ということができない。

立体の対象Aと平面の対象Bを同時に認識し
平面の対象Bを立体の対象Aの中に通してから立体化させる

2つの対象を異なる形状として認識した後で
2つの対象を特定の方法で組み合わせてから
1つだけ形状を変化させるという認識と再現が難しい。

2つを繋げるんだという意図はある。
的確に繋げることはできなかったけれど。

こうやって文章にすると
輪くさりってものすごく難しい課題ですよね (^^;
たかが、輪くさり
されど、輪くさり

「輪くさりなら、簡単だからやってもらおう」
私は決してそんな風には思えません。

同時に
私たちが自然にできていることって
いくつもの能力の複合体。

私たちって
自覚していないだけで
本当にたくさんの能力を発揮しながら暮らしている
ということを実感します。。。

さて、
では、どうしたら良いのかについては次の記事で。

 

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観察と洞察のチカラを磨く

観察力・洞察力を磨く
普通の人には、わからないことでもわかるようになる

専門家として磨くのは本来そのチカラだったのだと思います。

ところが、その過程において
観察や洞察は、主観に偏っている・根拠が乏しいという批判があったのでしょう。
検査やEBMという考え方が大きく取り上げられるようになってきました。

観察や洞察がいけないのではなくて
中途半端で未熟な観察や洞察が悪いのだから
観察や洞察のチカラを磨き上げるようにするには
どうしたら良いのかという検討が為されるべきだったのだと考えています。

ところが
どうしたら良いのかという検討が具体的にできるためには
観察や洞察に秀でた専門家集団がいなければ始まらない。
少なくともそう在ろうとする専門家がいなければ実現できない。

だから
検査やEBMに流れてしまったのだろうと思っています。

もちろん
検査やEBMを否定はしません。
必要な検査はすべきだと考えています。
検査しなければわからないこともあるし
根拠のないことを提供するのはおかしなことだと考えています。
ただ、その根拠が何なのかということが問題だとは思いますけど。

同時に
検査やEBMの限界も認識しなければ。

嚥下造影検査で誤嚥性肺炎になり亡くなってしまうケースは本末転倒だし
検査を理解した上で対応できない人にどうしたら良いかという問題は残るし
90%の人に根拠があると言われても
目の前の方に適しているかどうかは確認しないとわからない

それらをどうするか
どう考えるか

観察・洞察は対象者を選ばない
選ばれるのは私たち援助者

だから逆に
検討の遡上に載せにくいのかな?と邪推してしまいます (^^;

観察力・洞察力は磨くことができる
その道は厳しく時間も必要で安易ではないだけで

 

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急性期のリハ概念≠生活期のリハ概念

急性期、特に整形外科疾患のリハ概念と
生活期のリハ概念は大きく異なるのだと考えています。

完全治癒する疾患では
まさしく「もとに戻る」ために
低下している機能を改善させることに焦点化することが優先される。
その過程において、どのような関与が
対象者の運動学習を効率化させるかという面はあるにせよ。

生活期においては
疾患特性を踏まえた上で
むしろ、環境との相互作用が身体能力に大きく関与してくる
ということは、強調してもしすぎることはないと考えています。
とりわけ、介助量が多ければ多いほど。

食事介助しかり
移乗動作しかり

ADLの場面に影響するだけでなく
機能そのものにさえ影響を与えてしまいます。

・・・口腔機能しかり
・・・骨盤の可動性と体幹の機能しかり

だからこそ
対象者の問題点として認識されてしまうのでしょうけれど
「問題」は対象者の能力と障害、誤学習を見誤った側にあります。

そして
介助、関与とは環境との相互作用そのものであり
善意からの関与であったとしても
結果として過剰代償を要請する関与であれば
適応しようという意思により
粗大なパワーで過剰代償するしかないということが起こっている。

相互作用のマイナスの面を十分に認識し自戒しながら
プラスを積み重ねていくような関与ができれば
過剰代償することなく能力の合理的な発揮に寄与することができるようになる。

だからこそ
重度の認知症のある方でも
その方の能力に応じて
食べる能力が改善し
口腔機能がその方の能力に応じて復活し
移乗動作が改善し
骨盤の動きや体幹の動きがその方の能力に応じて復活するのだろうと考えています。

鍵は
観察力・洞察力を磨くことだと考えています。

客観的な検査やEBMは必要だけれど
万能ではなく限界もある。

これについては、続きの記事で。

 

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ICFだからこそ関与に意味がある

リハの世界では
ICIDHではなくてICFを用いるようになって久しいですが
その実、臨床現場での思考過程はまだまだICIDHに染まっている
ICFに切り替えられていないと感じることが多々あります。

「BPSDには原因があるから、その原因を探索しましょう」
というような切り口は、正しく因果関係論であるICIDHそのものです。

BPSDの「きっかけ」に過ぎないものを「原因」と認識しようとするから
解決できずに大勢の人が悩んでいるのではないでしょうか?

人は
過去から現在そして未来へと続く、「時間」という縦糸と
現在の様々な「場面」という横糸との
複合した関係性の中に存在しています。

まさしく、
華厳経の縁起そのもの
相互関係論というICFそのものです。

対象が
機械や物質であれば、ICIDHに依拠した考え方は正当でしょう。

けれど
対象が人なのですから、対人援助の考え方にICIDHが合致するわけではない。
急性的な症状などICIDHを包含することはあっても。

人の生命活動の営みは解明され尽くしたわけではないのですから
今現在も、これからも、発見・再発見が続いていくことでしょう。

今は、原因と判断されていることも
将来、実は結果だったと判断され直すことだって起こり得ます。

人の暮らしの困難において
唯一絶対の「原因」があるわけではありません。

様々な「要因」が相互に関与しあって変化しています。

その変化が急激に起こるか、緩徐に起こるかという違いはあっても

だからこそ、援助という関与の追加に意味があるし
関与の仕方によっては、変化を良い方向にも悪い方向にも動かすことになってしまう。

私は若い時には
自身の関与に自信がなかったから
本当に怖かった。

せめて
私の関与によって悪くしないようにしなければ
できれば
私の関与によって良くなってもらいたい
良くなることが叶うならば、より早くより確実に良くなってもらいたい

本当に必死だった。

目の前にいる方の
障害なのか、能力低下なのか、能力の過剰代償なのか
区別がつけられるような観察力と洞察力を
これからも磨き続けていきたいと思っています。

 

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立ち上がり時の感覚

生活期にある方で
立ち上がりに介助が必要なケースでは
腰に力は入るけど
下後方へ引っ張られるように力が入る抵抗感を感じる場合が圧倒的に多いと思います。

腰や膝が崩れ落ちるようになってしまうケースは
あるけれども少ない。

筋力低下なら、
立ち上がりの介助をした時に
崩れ落ちるようになってしまうと思います。

でも現実には、
抵抗感を感じる、力は入るんです。
正確に言うと、力が入ってしまうんです。

ちゃんと立ち上がろうとしているのに
ちゃんと立ち上がろうとしているが故に

CVA後遺症や骨折などの既往があって
生活期で立ち上がりに介助が必要だと
「廃用→筋力低下」と言う図式が最初にあって
その図式に沿って現実を見るから
抵抗感を感じているにもかかわらず
見れども観えずになって
筋力強化を立案してしまうのではないだろうか?

 

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