Tag: 環境適応

技術のトレーニング

NHKの奇跡のレッスン「ハンス・オフト 答えはすべて基礎の中に」 を見ました。

以下、オフト語録です。

「シンプルにパスを出したらすぐフォロー」
「トライアングルを意識しながらフォロー」

「シンプルなプレー?わかっているよ。と言いつつも
本当は基礎の大切さをわかっていないことがある。」

  そうなんだよ〜
  「評価してるに決まってるじゃん」
  「観察だってちゃんとやってるし」
  と言う人は、もっと広くて深い評価や観察があることを
  知らないのです。

  私の講演を聞いたことのある人から
  「自分ではちゃんと評価してるつもりだったけど
   まだまだだと思った」
  という感想を寄せられることがよくあります。

  その度に
  伝えることができて良かったと思います。
  かつて、中井久夫は
  「医者が治せない病気はあるが、看護できない病気はない」
  という言葉を残しました。

  認知症は治すことができない病気ですが
  リ・ハビリス(再び適する)できない病気ではありません。

オフトの指導は、とても参考になりました。

サッカー以外のトランプでも特性を確認したり
基礎を説明した後に、実際に活用させる場面設定の工夫
狭い空間の中でのパス回しから広い場所、大人数でのパス回しへという段階づけ
混乱したら前の場面設定へ戻って再体験

意図が明確で子供たちをよく観てる。
場面設定に工夫があるから、
短時間でも頭と身体を使うハードトレーニングになってる。

常に状況を把握する。
状況を把握した上で判断・行動する。
ボールコントロールの技術があれば、それだけ注意を状況把握に向けることができる。
フェイントとかドリブルとか華麗なテクニックは注目されやすいけれど
基礎があってこそ有効に発揮される。
動きのある場面で発揮することが要請される能力は
動きのある場面でトレーニングしていく。
要素を分割して行うのではなく
実践の中で基礎能力を高められるように行う
そのための場面設定の工夫が本当に細やか。

状況は常に流動的だからこそ
状況を把握・判断・行動することをセットでトレーニングしていく。

変化が大前提になっているし
自らが変化の構成因子となることで局面を変化させていく
認知症のある方への対応にも通底すると感じました。

「時間がかかるでしょう。でもそれで良いのです。」
「自分で考えることが明日につながる。」
「シュートはパスと一緒なんだ。」

確かに「習得」には時間がかかるし
自分で考えなければ行動変容は起こらない。

  私がバリデーションを学んだのは
  ビッキー・デクラーク・ラビンというオランダ人だったけど
  (オフトもオランダ人だとのこと)
  受講者全員のバリデーションの実践をビデオで見あうという機会もあった。
  任意のテーマを異なる対象者に対して異なる受講者が実践するから
  現れ方は違ってもテーマの意味や目的を繰り返し観察することによって
  理解が深まることを体験学習したことを思い出しました。

卒業試験?としての意味もあったのでしょう。
番組では昨年負けた強豪校との試合が設定されていました。
前半で2得点。
後半は押されたけれど辛抱してもう一度自分たちのリズムを取り返していました。

たった1週間でもこんなに変わる。
そして、これからも変わり続けるのでしょう。
自分自身で常に状況判断・行動という基礎を体験学習できたのだから。。。

指導者によってこんなにも子供たちが変わるんだ。。。

  かつて、肢体不自由児施設で紀伊先生や古澤先生のデモンストレーションを
  見た時のことを思い出しました。

すごい技術とかすごい指導を見ると
本当に勇気づけられます。

 

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対応に困った時にすべきこと

認知症のある方の言動のあれこれに対して
どう対応したら良いのか
困ってしまうことってあると思います。

そんな時にどうしていますか?

ここって、ものすごく誤解が多いところです。

ひとつは
どうしたら良いのか、考えたり話し合ったりすること

  きちんと観察・洞察ができていれば
  どうしたら良いのかは自然と浮かび上がってくるものです。

もうひとつは
認知症のある方の困りごとではなく
私たちスタッフの困りごとを改善しようとすること

  根本的なところで、すり替えが起こっているのです。

私は
認知症のある方が困っている場面そのものの観察に立ち返ります。
自身の関与も観察しなおします。

 自身の観察に自信がなければ言語化・文章化する
 いったん、自分の頭の中を外に出して(まさしく)見える化すると
 良いと思います。

不思議なもので(まさにだからこそ、と言うべきか)
一から観察し直してみると、見落としていた箇所に気がつけて
そこからブレークスルーの道が開けてきます。
後になってわかるのですが
実は、ポイントほど見落としていたり、見間違えているものなのです。。。

認知症のある方のBPSDや生活障害は
認知症のある方ご自身にとっても
ご家族やスタッフにとっても困りごとではありますが
同時にその困りごとそのものに解決へのヒントが存在しています。

一見、困りごとというカタチで表れる事象には
障害や症状や困難だけではなくて、同時に、能力も反映されているからです。

反映されている障害、症状、困難と能力を観察するのです。
(そのために知識の習得・概念の本質の理解が必要なのです)

そうすると
私の言語・非言語の関与も含めた環境に対して
認知症のある方がどのように感受し、判断し、応じていたのかを洞察することができます。

ここまでできれば
じゃあ、どうしたら認知症のある方と私たちが
お互いに困ることなく
能力を発揮しあって
イマ、ココという「場」で過ごせるのか
ということは自然と浮かび上がってくるものなのです。

対応の工夫は、考えることではないのです。

イマ、ココで何がその方に起こっているのか は
同じ方でもその時々で異なります。
言葉にして聞いてみないとわからないこともある一方で
言葉では表せないことや
言葉によって迎合や追従を無自覚に要請してしまうこともあります。

観察って
カンタンに思われているし
科学的ではないと思われていて
蔑ろにされがちですが
観察ほど、観察者の能力が求められるものはありません。
観察者の静かでかつ能動的な関与が求められるからです。
知識がなければ、見落としたり見間違えたりしてしまいます。
自身の言動に無自覚であったりコントロールできなければ
認知症のある方の能力を引き出すことは難しくなります。

同じ場面でも観察者が異なれば、得られる情報の量も深みも異なります。

観察は「客観性に欠ける」「科学的ではない」と言われがちですが
本当にそうでしょうか?
認知症のある方の状態はその時々で変動します。

検査やバッテリーをとった時といつも同じ状態ではありません。
検査やバッテリーは、確かに施行時の障害を明確に示してはいますが
施行時以外の状態像の異なる他の場面に検査結果を適用・援用することのほうが
現実的な根拠に欠けるのではありませんか?
 

実際には、検査・バッテリーは実施はしても、
その結果を対応に活用することは少ない。
検査・バッテリーはすべきことだからしているだけで
検査は検査、実践は実践と乖離している。
実践に活かすための検査とはなっていない。
例えば、
HDS-Rはとっても
その結果を対応に活かしてはいない
五角形模写課題はしたけれど
その結果をどう対応に活かすかは考えていない
というパターンだって多いのではありませんか?

私たちは評論家ではない
援助職なのに。。。

おそらく
無自覚には本当は感じている、わかっているのだと思います。
観察・洞察の有効性と実践の困難さを。
だからこそ否定する。

きちんと観察することの重要性や
観察するに値する知識の習得、本質の理解の必要性
自身の言動が無自覚に伝えてしまうことの意識化の重要性も
そのためには日々の地道な努力の蓄積が必要なことも

本当はわかっているけれど
大変なことだから、努力が必要なことだから、無意識に回避しているのでは?

観察が客観性や科学性に欠けるのではなく
欠けると言っている人の観察力が客観性や科学性に劣っているのであって
観察そのものが客観性や科学性に劣るものではないのです。
精度の高い観察を知らなかったり実践できない人が否定しているのです。

  いわゆる、抵抗と防衛です。

人文科学としての作業療法は
検査やバッテリーをとることで科学的であろうとするのではなくて
長い職業人生を賭けて
観察・洞察の確かさ、客観性、科学性を磨いていくのが本筋なのではないでしょうか?

そういった本当に地道な努力の蓄積よりも
各種の検査やバッテリーを数多く行うことのほうが
簡単だし、カッコ良いし、最先端をいってるように見えるし。。。
とか。。。?

認知症のある方の対応に困った時
結果として、表面的に現れる生活障害やBPSD
例えば、「歩けないのに立ち上がる」「帰宅要求が激しい」といった表現では
観察しているとは言えないのです。

観察とは
「歩けないのに立ち上がる」「帰宅要求が激しい」のは
どのような環境で
何をしようとしているのか
スタッフの関与はどのような非言語で
どういった言葉で関与したのか
を踏まえて
それらの言動に反映されている、
記憶や見当識やコミュニケーション能力、遂行機能などの障害や能力や特性を
まさしく観て察することです。

多くの人は、この過程をすっ飛ばしています。

表面的な事象への対処、つまり、
「どうしたら、立ち上がらなくなるか、帰宅要求がなくなるのか」を
考えています。

その時、その場での、その関係性の中での認知症のある方 を観察せずに
スタッフの困りごとをなくそうとして考えるのです。
だから、ハウツー的対処がはびこります。。。

「帰宅要求があったら、タオルたたみをさせる」
「お茶を飲ませる」etc。。。

これらは、気をそらせる対処にすぎません。
確かに、気をそらせた結果、帰宅要求を忘れてしまい、帰宅要求がなくなる
というケースはあるでしょう。

でも、こういった方法論に走ると
「いかに気をそらせるか」ということを
無自覚のうちに目的とするようになり
どれだけ上手に気をそらせるかを考えるようになり
上手に相手を騙すことや言いくるめることが良いケアということになってしまいます。
そんなバカなことがあるはずがありません。

認知症のある方に寄り添ったケアという理念の真逆の対応を追求することになり
非常に大きな矛盾した働き方をスタッフに要請することになります。
誠実で良心的なスタッフほど、辛い日々を送ることになります。。。

あちこちの現場で起こっていることではありませんか?

このような対応は
リハやケアの本質ではありません。
ただし、暮らしに近い場面ほど
時間稼ぎとして、その場しのぎとして
一時的に用いざるを得ない場面は出てきます。
時間稼ぎ、その場しのぎの引き出しを多く持っているにこしたことはありません。
ただ、やる方が
「今は本質的な対応はできない」
「時間稼ぎとして、お茶をにごすことをしている」
「本質的な対応ではなく、しのいでいる」
という自覚を持ってその場しのぎをすべきです。

ところが
いつの間にか、その場しのぎと本質とを混同したりすり替えている。。。
関与するスタッフ自身が何をしているのかわからなくなってしまっているのが
1番の問題だと思います。

ピンチはチャンス

対応に困った時ほど
実は、自らの成長の機会でもあります。

今までの自分の在り方をもう一段高め深めるチャンスなんです。

観察・洞察は技術です。
技術であれば習得可能です。
技術であるから「感受」が関与しますが、

「伝達」も可能ですし「指導」もすべきです。
ただし、その技術が凄ければ凄いほど、習得には時間がかかります。
習得までの過程でイヤというほど自身のできなさに直面させられるでしょう。
でも、その先があるのです。

生活障害やBPSDというカタチの現れを
認知症のある方が
能力をより合理的に発揮できるようになった結果として解消されていく時には
認知症のある方だけでなく
必ず、スタッフの側にも行動変容が起こります。

そうやって、職業人として鍛えられ、高められていきます。

 

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履物なら「あゆみシリーズ」

介護シューズで選ぶなら、「あゆみシリーズ」がオススメです!

履物は市販品にも安くて良いものがあります。
↓ こちらは、シュープラザで ¥1,280で購入できました。

ただ、市販品だと商品入れ替えもあるから
常に在庫があるかどうかはわかりません。
「あゆみシリーズ」なら
むくみのある方や足幅の広い方、装具を履いている方にも履けるように
足囲が9Eまで選べる商品もあるし
片足のみ注文やベルト延長、名前入れサービス、補高対応など
屋内用、屋外用ともに幅広い商品展開が魅力です。

昔は、リハビリシューズの選択肢も限られていたし
ご家族もバレーシューズを購入される方が多かったけれど
そんなの、「今は昔」になりましたね。。。
最近は介護用品店も大手スーパーやドラッグストアの介護用品コーナーも
ずっと身近になってきたので
入院当初から様々な履き物を購入される方が増えてきました。

選択肢が増えた分、ご本人の状態と商品とのマッチングが大切になってきたし
知らないことによる不利益もあります。
履物の選び方や留意点などの詳細は、
あちこちで記事を書いていますので検索してみてください。

covid-19の感染対策でずっと行っていなかったけど
今年は、HCR 国際福祉機器展 に行こうかな?

履物って履いてみないとわからないこともあるし。
業者さんと情報交換できるのも意味があるし。
 
今年のHCRのリアル展示は、
9月27日(水) ~ 29日(金) 10:00~17:00(最終日は16:00まで)
とのことです。

 

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グループワークの功罪

グループワークには、グループワークの良さがあるし
「三人寄れば文殊の知恵」もあるとは思います。

他者の視点や考え方を知り
自身の思考を再構築することにもなりますし
協働作業を通して課題を達成するという体験も貴重です。

でも、それはベースに
参加メンバーに知識が教授・共有されているという前提があってこそ
成り立つ話だと思います。

以前にあるところで
認知症に関する一般の入門者向けの研修で
徘徊している方への対応をグループワークで検討させるように
みたいなほんわかとした依頼があって
その時は、依頼先におかしなことだと意見提出したことがあります。

一般の入門者向けの研修なんだから
きちんとした知識を提供することが最優先だということ
「徘徊している方」といっても、その方なりの徘徊する必然は千差万別で
話しかけ方とかも千差万別でひとくくりにはできないこと
適切な対応は自然と浮かび上がってくるもの
どうしたら良いのかは本来考えるものではない。
どうしたら良いのかわからない時は観察に立ち戻る
こちらが勝手に「あぁなのかな?」「こうなのかな?」と
勝手に推測するのは一番やってはいけないことだと。

グループワークって、偽の達成感を味あわせることもできてしまうんですよね。

達成すべき課題が明確で
ファシリテーターが優秀であれば
有意義なグループワークも可能
ですが
やってみたらわかるけど、案外難しいものです。
そうでないことも多々あります。。。

ましてや入門者同士が何を話し合えるというのでしょう?
知らない人同士が楽しく会話できてなんとなく達成感があって。とか
日頃の愚痴や不安を共有できた。とか
というパターンもあるのか、グループワークは楽しい!なんて人もいますが
達成すべき課題の達成度はどうだったのでしょう?
成果物は抽象論にとどまり明確には出せなかったけど
いろんな人と話せて楽しかったなんて本末転倒です。

たぶん、根本的な問題は
教えるべきことを教えられないという現状があるのだと思う。

そこには、二つの問題があって
認知症は脳の病気なんだから、
本来は、まず知識と技術で解決すべきことを解決しなければ
その人に寄り添うなんて大それたことはできないということが理解できていない。
だから、心意気、真心、優しさなんて
よくわからない、曖昧な、でも耳障りの良いことで対応できると思われている。
 
もう一つは
普段、現場でハウツー的対応しかしていないから
抽象化・言語化できないので他者に的確に伝達できないし
その自覚もできていないこと

徘徊している見知らぬ人に遭遇したら
警察通報の一択です。
警察官が来るまでの間、安全なところで待っていただけるように
余計な不安感を抱かせないように
してはいけないことは明確にあります。
望ましい対応は、その方その方によって異なりますから
それは会話をしながら探らなくちゃいけない。
その探り方は、基本の実践ができた次の段階で学ぶものです。
よく知りもしない人同士が話し合うようなことではないんです。。。
例えて言うならば、
道路で倒れている人がいました。
どうしたら良いのかを教えるのではなくて
どうしたら良いのかを考えましょうというグループワークを
救命救急の初心者コースを受講しにきた人にやらせるようなものです。
怖い、怖い。。。

対人援助職を養成する立場にいる人が監修していた部分でしたが
こういう人に教えてもらうんじゃ、学生も本質を理解することができなくて当然
現場に出てから困るだろうな。。。と思いました。

ずいぶん昔ですが
老健に実習に来た介護学生に
学校で認知症のことをどんな風に教わったのか尋ねたところ
「否定しちゃいけないって教わりました」と言われました。
そのほかは?って尋ねたけど
「それだけです」って。 
  
(まぁ、学生の言うことですから教えてもらっても
 咄嗟には答えられなかったということもあるかも知れませんので
 いくつか確認しました。)
近時記憶障害とは?
4大認知症とは?
ということも教えてもらっていなかったということがありました。
それじゃあ、現場に出てから困るよね。
どうして良いかわからなくて当然だと思いました。

OTだけじゃなくて、
ポジショニングも、食事介助もそうですけど
対人援助職の養成・教育・伝達の問題って本当に大きいと思います。

このことに関連して最近見つけたサイト
ふくしま国語塾の「指導」には
はっきりと書かれています。

  昨今の教育界では、「教えない教育」なるものが流行っています。
  知識・技術を与えない。しかし個性は求める。
  その結果、たとえば感想文を書かせれば、
  面白かったです、悲しかったです、など
  没個性の文章ばかりになる。
 
  知識・常識。型・技術・方法。
  これがあればこそ、
  自己表現と他者理解が可能になります。
  表現力や読解力を身につけさせたければ、
  まず、知識・技術を与えること。
  与えることをためらわない。
  その先でこそ、個性は輝きだすのです。

分野は違えど
知識・技術を教えることの必要性は共通しています。
知識と技術がないのに、どうやってちゃんと対応しろと言えるのか
本当に理解できません。。。

「認知症のある方に少しでも力になりたい」と
願うならば、その願いを支えるに足る知識と技術がなければ
役に立てるどころか、逆効果や迷惑になることすら起こり得ます。

  昔だったら
  実習の時に、
  「気持ちだけじゃダメなんだ」「知識と技術がなければダメなんだ」
  と自分の未熟さを痛切に体験・実感させられたものです。
  今は学生に成功体験を求められ求めさせるから
  学生はかりそめの成功体験を学んでしまう。。。
  就職して社会人として、一人の職業人として
  初めて自身の未熟さに向き合うことになり
  それはその人にとっても、周囲にとっても大変なことだと思います。

脳卒中後遺症のある方に少しでも力になりたいと
願う人がいくら願ったとしても、知識と技術がなければ逆効果になります。
かつては、過剰に安静をとらせて寝たきりになってしまった。
その反動もあって、過剰にがんばらせすぎて今度は痛みや拘縮を起こしてしまった。
寝たきりがいけないからと離床が推奨され、今度は座らせきりという問題が起きた。
それらを踏まえて、適切なリハが提供できるように
専門家としてのリハ職が要請されるようになった。

同じ脳の病気である認知症にも同様のことが起こっています。
昔は「恍惚の人」が代表するような時代もあった。
その反省も踏まえて、反動のように、優しく否定しないような対応が推奨された。
それだけでは対応しきれないということがわかってきていて
適切な対応とは何か?ということが問われるようになってきている。
 
今はまだ水面下での動きに留まっていて表面化してはいないけれど
「優しい対応をしてもそれだけでは認知症の問題は解決できない」
ことが誰の目にも明らかになってきているのではないでしょうか?
本当の専門家としての対応が要請されるようになってきている。

歴史から学ぶことって、とても大切なのではないでしょうか?

 

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ポジショニング設定の思考過程

生活期にある方に対して
ポジショニングを設定する場合に
どのように考え対応しているのか、お伝えします。

まず、最初にポジショニングを設定していない状態での
全身のアライメントを確認します。

そこで初めてポジショニングを設定する際の
優先事項が明確化される場合もあるし
最初に優先事項が決定していることもあります。

例えば
手指の拘縮が強くてハンドケアが行えないとか
頚部後屈が強くて誤嚥のリスクが高いとか
褥瘡治療のためとか

身体は解剖学的にも生理学的にも連続性があります。
身体は繋がっているので
必ず全身のアライメントを確認します。

その上で
判断・決定・合意・共有化された優先事項に則って
ポジショニングを行います。

現場あるあるなのが
設定する人が気になっているところだけ見てしまい
全身の関係性へ配慮なく設定してしまうことです。

  よくあるのが、
  膝関節の屈曲拘縮を予防しようとして
  頑張って過剰にクッションを入れて膝を伸ばしてしまうとか。
  あるいは、
  股関節の内転を予防しようとして両足の間に過剰にクッションを入れて
  足を広げてしまうとか。

  手指の拘縮が強いと、手指だけ見てなんとかしようとしてしまうとか。

クッションを外すと一気に元の姿勢以上に
手足がギューッと屈曲してしまうとか。

「だからクッションでちゃんと足を広げて伸ばさないと
 もっと拘縮がひどくなっちゃう」と誤認されていますが
事実は反対で私たちの対応がよくないのです。

誤ったポジショニングがなぜ漫然と行われてしまうのか。
原因は概念や知識の本質を理解した上で活用する
ということが為されていないと考えています。

筋の起始停止を思い出してください。

上肢も下肢も2関節筋はたくさんあります。
筋をリラックスさせずに
2関節筋の遠位部を無理やり伸ばせば近位部は逆に収縮するしかありません。

良肢位保持と唱えながら逆に関節拘縮を悪化させてしまうのです。
「身体が硬くてオムツ交換が大変」と言いながら
自分たちでオムツ交換が大変な身体にしているのです。

姿勢とは身体の働きが反映されています。
身体の働きが改善された結果として良い姿勢になるのであって
外力的に無理やり良い姿勢を作ると
効果がないどころか逆効果になってしまいます。 
(ポジショニングだけでなくROM訓練でも同じことが起こっています)
(目的と手段の混同、すり替えがここでも起こっています)

軽度の状態では、悪手の結果をすぐに見ることがないかもしれませんが
後になって悪手の蓄積のツケを対象者も周囲の人も払わされる。。。
食事介助の不適切なスプーン操作とまったく同じことが
違うカタチで起こっています。

介護老人福祉施設で働く人たちは
ものすごい拘縮を起こしてしまっている人たちを
たくさん見ているのではないでしょうか。

でも
私たちの対応が悪いのだとしたら
私たちの対応を変えれば良いだけです。
ここに希望もあります。

一見、強直かと思うような状態像でも
まだまだ筋の過剰収縮であって改善可能性がある方はたくさんいます。

手指の拘縮が強く、なかなか手指を広げることができず
上肢も下肢も伸展位で空中に突っ張ってしまうほど筋緊張亢進が顕著な方でも
全身のポジショニングをきちんと設定してから
手指にスポンジを装着すると上肢も下肢も手指も筋緊張が緩和され
股関節も膝関節の屈曲も容易になり
上腕を外転させることも容易となり
手指を開排させることも容易となった方がいらっしゃいます。

ポジショニングを設定する時には
必ず個々の対象者にとってのキーポイントがあります。
人によって
股関節の屈曲位確保だったり
側臥位設定だったり。。。
そこを明確化し、外さないようにします。

その上で
身体と身体、身体とベッドの隙間を無くすように
クッションや古タオルなどを設置します。
つまり、身体の姿勢・肢位保持する筋の機能を代償するのです。
そうすると筋の過剰収縮を防ぐことができ
結果としてリラックスした姿勢を設定できるようになります。

最後に手指にスポンジを装着すると
手指の筋緊張緩和も為され
そのことが同時に筋の近位部である上肢帯の筋緊張緩和にもなり
悪循環を脱却し、良循環が始まっていきます。

  ただし、全身のアライメントをきちんと観察することができないと
  適切なポジショニングは設定できません。
  ポジショニングが難しいのではなく
  アライメントを観察できていないのです。
  観察の眼を養うしかありません。
  近くに良い先達がいれば
  その人のワザをよく見て学んでください。
  良い先達がいなければ
  覚悟を決めて対象者の方から学んでください。

生活期の方のポジショニングとは
よく為されているように
良い姿勢を作るために
無理矢理足を広げたり伸ばしたりすることではありません。

その方の本来の可動域、本来の随意性が出現しやすいように
余分な筋緊張を緩和させること
ラクな姿勢を作ることなのです。

つまり
ここでも、改善・修正するのではなく援助する
という視点に依拠した対応をしています。

 

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ADLは再認を強化しやすい場面

ADLは
特定の場面で特定の行動を繰り返し行う
再認を強化しやすい場面でもあります。

また
食べる・立ち上がる・歩く
といった行動は、誰でも赤ちゃんの時から
繰り返し行ってきた究極の手続き記憶でもあります。

ここに
認知症のある方とリハビリテーションの可能性があります。

ただし、
再認は

ポジティブにもネガティブにも働きます。

立ち上がりや食事介助、口腔ケアなどの場面で拒否がある場合に
対象者にとっての必然として拒否があるのですが
その必然を観察・洞察せずに
表面的に、「拒否されないように介助しよう」という視点では
対象者のネガティブな再認を強化することになってしまいます。

「拒否されないように介助しよう」という視点は
私たち介助する側の視点であって
認知症のある方の視点ではないからです。

逆に言えば
強い拒否をする方でも
拒否の必然を洞察できれば
本来のその方の能力と特性を引き出し
結果として、拒否の改善・消失に結びつけられることが多々あります。

拒否の強い方は
過去の不適切な介助を再認した結果の意思表示
ということが多々あります。

だからこそ
今、適切な介助を、体験を通して
ポジティブな再認の蓄積を図る
意味があります。

ピンチはチャンス!

 

 

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拒否は情報収集のチャンス

認知症のある方へ対応しようとして
暴言や暴力や介護抵抗があると
正直、しんどいですよね。

そうすると
無意識の自己防衛から
「どうしたら暴言や暴力や介護抵抗を受けずに済むだろうか」
という観点に立って物事を考えようとしてしまいます。

でも、そうじゃない。
気持ちはよくわかるけど。

そのような観点に立って
為されたことが効果があるわけがない。
(だって、自己防衛の観点で対象者の観点ではないもの)
仮に短期的に効果があったとしても
長期的にはむしろ逆効果にしかならない。

ここで、私は決して
介助者が我慢すべき。などといっているわけではありません。

我慢することではないけれど
拒否された、その時その場にいる人が
一番よく状況をわかるのです。

どのような場面で
どのような状態像の方に
どんな関与をしたら
拒否されたのか

ここは、情報収集のチャンスなんです。

拒否は表面的な言動であって
必ず、拒否というカタチに現れている障害と能力があります。

そこを観察・洞察すれば
本質的な改善のミチがひらけてきます。

検査はするけど
貴重な情報収集の機会を逃している人って大勢います。
情報収集せずに「どうしたら良いか?」考えても
適切な介入方法が得られるわけがありません。

私たちは
客観性や科学的であるということを誤解させられてきたと思う。

人文科学に寄与する私たち対人援助職がすべきことは
科学的・論理的・合理的な観察ができるように
観察の精度を高めることであって
観察を否定することではない。
 
検査には検査の意義があるけれど
観察より検査の方が価値が高いわけではない。

観察とは
「ちゃんと関わっているのに拒否する」
といった表面的な言動ではなく
認知症のある方にとっての
環境の一因子としての私たち自身の言動も含めた「場」と
拒否という言動に反映されている能力と障害と特性を把握することです。

拒否されたら
メゲてしまうかもですが
そんなことを言っていたら勿体無い!
情報収集のチャンスをつかまねば。

ここで情報収集ができれば
回避すべき場面を明確に具体的に設定することができるようになります。

 

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ウソみたいなホントの話:食事介助編

声を大にして言いたいのは
重度の認知症のある方の食べ方も
介助を含めた環境との相互作用の結果であるということです。

だから
介助が変われば食べ方も変わる
 
喉頭完全挙上できなかった方ができるようになったり
頚部後屈して食べていた方が
頚部前屈を伴う上唇での取り込みができるようになったり
開口してくれなかった方が開口できるようになったり
ためこんでしまい食事に時間がかかっていた方が
スムーズに送り込めるようになり
結果として食事摂取時間が短縮されるようになったり
板のようにガチガチだった舌が柔らかくなったり
食べられるようになる(舌の動きが改善される)ことで発語ができたり

食事介助を変えるだけで
疎通困難な重度の認知症のある方でも
食べ方は変わります。

どれもみんな本当のことです。
日々、感動しています。
認知症のある方の能力に。
ここまでわかってるんだということに。

「食事介助」=「何を」✖️「どうやって」 食べていただくか

「何を」という食形態の工夫については、ものすごく発展してきたと思います。
一方で、「どうやって」という私たちの介助については
まだまだ発展の余地があるように感じています。

ムセの有無しか気に留めていない介助者はまだまだたくさんいるはずです。

特別に嚥下リハをしなくても食事介助だけで変わります
というか、むしろ認知症のある方には嚥下リハはせずに
(そもそもできない)
実際の食事場面での介助方法に気をつけた方が良いのです。

もちろん、できる方にはした方がより効果的です。
でも、嚥下リハをすることで混乱したり不安になったり
できなかったりする方には、しない方が良いのです。
「できない」「わからない」というネガティブな感情を惹起させる体験は
マイナスにしかなりません。

食べ方は介助者によって良くも悪くも変わります。
ものすっごく流動的です。

食事介助というのは、対象者と介助者との協働作業です。

全員が適切な介助ができなかったとしても
たった一人でも的確に介助ができれば確実に変わります。
自分一人がちゃんとしたって。。。と感じてしまうこともあるかもですが
絶対に効果はあるから諦めないでほしい。

認知症だから誤嚥性肺炎は仕方ない
なんてとんでもない誤解です。
確実に誤嚥性肺炎を減らすことができます。

ポイントは
対象者の食べ方を摂食・嚥下5相にそって観察することです。

そして
食べ方を修正しようとする、のではなくて
無理なく食べられるように援助する、という視点から介助することです。
この修正ではなく援助するという立ち位置が最も重要です。

なぜなら
先の記事で紹介した「立ち上がり」と同様に
「食べる」ことについても身体協調性の低下が起こっているからです。
 
認知症のある方の食べ方の困難の多くは
私たち介助者の不適切な介助に原因があり
不適切な介助にも適応しようとして誤学習が起こっています。

確かに
認知症のある方に、食べることに関するウイークポイントはあります。
歯がない、オーラルジスキネジアがある。。。
でも、それらを拡大再生産してしまっているのは私たちなんです。

それなのに
必死に食べようとしていることに気づかずに
「問題点」として状況を悪化させてしまっている。。。

だからこそ
認知症のある方の食べ方は変わる可能性があります。
たくさんの方が変わっていきます。

修正すべきは、むしろ、私たち介助者の側にあります。

 

 

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