入り口に立つ

今、目の前にいる方に
何が起こっているのかを知るためには
聴こうとすることが入り口に立つことになる。

一見不合理に見える言動を
表面的に何とかしようとして対応しようとしてしまうと
相手の「本来の意図」を受け止める以前に
「本来の意図」を否定するという変換されたカタチで
伝わってしまうことになる。

そりゃ怒られますよね。

でも、だからといって
不合理な言動を介護者側が我慢する、受け入れる
というだけでは、適切なケアのあり方として違うと思う。

今、本当に求められているのは
結果として起こってしまっているコミュニケーション不全の健全化だと考えています。

そのためには
「聴いてみないとわからない」のだから
聴こうとすることだと考えています。

聴こうとすることが入り口に立つことになる。

そして
入り口の扉を開けるためには
相手に届くカタチで聴くことができるようになることが必要で
届くカタチで聴けないために
扉が開けられなくて困ってしまっている人が多いのではないでしょうか。

このような現実に無自覚だと
自分が届かないカタチで聴いているから
扉が開けられないだけなのに
認知症のある方の病状のせいにされたりしてしまう。

本当は
届くカタチと届かないカタチがあるのだから
届くカタチで聴けばいい。

「認知症だから何もわからない」という風潮から
一気に真逆の
「認知症でもできることはたくさんある」という風潮に変わり
全か無か、まるで全否定から全肯定というような極端な抽象論は語られても
目の前にいる人に対しての
具体的な理解の仕方の根本にある、有効な考え方については
明確化されてきていないから
真摯な人ほど、実は内心戸惑ってしまうと思うし
そこでまた、有効な考え方がないから
ハウツーやその場しのぎに引き戻されてしまうような現状に
なってしまっているのではないでしょうか。

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これから

切実に困っているからこそ
口ではどうこう言ってはいても、
結局のところハウツーやその場しのぎが求められてしまうのだろうと思う。
気持ちとしてはわかるけれど
それは逆効果にしかならないんですよね。。。

認知症のある方にとっても
ケアする対人援助職自身にとっても

本当に
「認知症のある方ひとりひとりに寄り添ったケア」を実践したいと願うならば
まず必要なことは
知識の習得と現実に起こっている事象の観察と洞察

つまり
「目の前にいる方に何が起こっているのかを知る」ということです。
「目の前で起こったことをどうしたらなくせるか」ではなくて。

技術と理論はその次に要請されるものだし
ハウツーやその場をしのぐことは、
まったく別の次元として現実的な要請から為されているものです。
なのに、ごっちゃにしてモノ言う人が大勢いる。

問題はごっちゃにしていても、今、すぐに
そのマイナスがマイナスとして目立ちにくいことにあると感じています。
だから論理的整合性のなさがわかりにくい。
目立たないからといって、ないわけじゃないのですが。。。

そういうことがわからない人はヤマほどいる。

感情記憶は残るから、陰性感情、信頼感の低下として蓄積していかないはずがない。

食事介助のスプーン操作において
不適切な操作をしたって、今すぐその場には、生命に直結するような問題が現れるわけじゃない。
でも、確実に誤介助誤学習としてのマイナスが積み重なっていく。

同じことが違うカタチで現れているだけ。

声高に叫ばれる理念と乖離する実践との狭間で
苦しんでいる対人援助職の人は少なくないだろうと思う。

私は理念を語るのではなく、実践を通して具現化できるようになりたい。
そして困っている実践者の役に立つように
ひいては認知症のある方とご家族の余分な困難を少しでも少なくできるように
抽象化・一般化・言語化できるようになりたい。

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研修@小田原市社協

先週の木曜日
2019年2月7日に小田原医療総合福祉会館にて開催された
「介護に関する入門研修」で
「認知症の基本的理解」「認知症のある方への関わり方」の講師を務めてきました。

神奈川県社会福祉協議会から地域福祉の人材育成のために
委託された事業とのことです。

担当してくださったTさんHさん
お世話になりました。
ありがとうございました。

参加された皆様
どうもありがとうございました。
お疲れさまでした。

たとえ、認知症になったとしても
その人らしさが損なわれることは決してない
一見不合理な言動にこそ、能力も特性も現れている
目で見て言葉にして「聴いて」みなければわからない

最初が肝心。
ハウツーは、着想のヒントとして活用するには良いし
しのぐことも時には必要だけど、しのぐという自覚の元に為されるべきだと考えています。

大切なのは
知識・観察・洞察

どんな分野で働く人でも
相手がどんな人でも
共通して大切なことは変わらない。

本質は
普遍的でシンプルなもの

 

 

 

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見れども誤解している

障害と能力の知識がなかったり
観察力と洞察力を磨いていないと
目の前にいる方が何をどうしているのか
「自分に観えない」ために
結果として現前する「能力低下」しか観ることができなくなってしまいます。

そして多くの場合に
認知症のある方のほうから
「私はこうしてこうしようと思ったのだけれど何をどうして良いかわからなくなってしまった」
と言葉にして、ご自分の行為を説明してくれることはありません。

そしてまた多くの場合に
スタッフも認知症のある方に対して
「ここをこうしようと思って困っていたのですか?」
と言葉にして尋ねる人も滅多にいないものです。

現に目の前で起こっていることを
見れども観えず、どころか
見れどもわからず、という自覚すらなく
見れども誤解している。になってしまっています。

認知症のある方の立場にたてば
不当な判断・認識・対応をされている
ということになってしまいます。

そのような現状に対して
「認知症のある方の言動を否定しない」「優しく親切に接する」
というスローガンだけでは方向修正が効きにくいと感じています。

現状に対して
何かどこか違う。という違和感を感じている人は
たくさんいるんじゃないかと思う。

現状突破の切り口は
障害と能力の知識を習得する
その知識を活用して観察力と洞察力を磨く努力をする
ことにあると確信しています。

作業療法士であれば誰でもできるとは思いませんし
(私だってまだまだですし)
作業療法士以外の職種の人だってできるようになるとも思っていますが
養成の特性上、作業療法士が一番近道にいることもまた感じています。

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特性が能力の足を引っ張る

私たちが日々安寧に暮らしている。ということは、
山の細い尾根を歩いている。ということにも似ている。
と実感することが時々あります。

特性が能力の足を引っ張ることもある
からなんです。

認知症のある方の
遂行機能障害には、様々な要素が組み合わされて
目に見える障害となって現前しますが
障害となるきっかけがその方自身の特性だったりすることが
とても多いのです。

例えば
何かモノゴトを為そうとして
手順を考える時に
丁寧にきっちりとやろうと工夫したが故に
動作干渉として作用してしまい
当初意図した手順を忘れてしまう

こういうことって
実は、とても多くみられている事象です。

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能力と特性が見えない状況

その人らしさが損なわれることは決してない。

見えなくなることはあっても。

見えない状況があるだけ
だから、見えるようになる状況を作れば良いのだと思う。

ただ、そこには大きなギャップがある

私たちは無自覚のうちに
いろいろなことができているから
能力がスモールステップのクリアの蓄積として発揮されていることを認識しにくい。

例えば
毛糸モップは、多様な方が作れるActivityではありますが
それでも認知症のある方には難しい面もあります。
構成障害や遂行機能障害のある方には
工夫が必要だったり、工夫しても難しかったりします。
そういうことがわからない人には、ものすごくあっさりと
「これなら簡単だから〇〇さんにやってもらえば」と言われたりします。

〇〇さんにやってもらうと
工程を説明しても
毛糸の端に毛糸を結びつけてしまったりします。
そこでさらに「ここをこうして」と説明すると怒り出してしまったりします。
「ここをこうして」の説明の難しさは以前の記事をご参照ください)

そこだけ見ると
「こんな簡単なこともできない」
「できていないから丁寧に説明してるのに何で怒られなきゃいけないの」
と思われるかもしれませんが。。。

実は、認知症のある方にとっては
酷なことをしているし、小さな親切大きなお世話をしているし
善意からの関わりだから余計に自らの関わりの不適切さに自覚がない
ということにもなってしまっているのです。

なのに
「〇〇さんはすぐ怒る」というレッテルを貼られてしまったり。。。

でも
異なるActivityを行うと
〇〇さんは怒ることもなく集中してものすごく丁寧に
しかも自分が作業しやすいようにちょっとした工夫もしながら
能力と特性を発揮して行うことができたりします。

〇〇さんは、確かに困難なことを抱えているけれど
能力と特性を発揮できないわけじゃない。

〇〇さんにはできないことだったから
能力と特性が見えない状況だったというだけ
ということになります。

だったら
能力と特性が見える状況を作れば良いのだと考えています。

認知症があろうが、なかろうが
誰だって、できないことはできない。
ある任意の事柄ができなくたって
他のことでできることはいっぱいある。
そんなの当たり前のことだもの。

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特性は消えない

声を大にして言える。

その人らしさは消えない。
損なわれることはない。

一時的に見えなくなることはあっても
見えないだけで、なくなるわけじゃない。

たとえ
表面には見えなくても
その片鱗は必ず現前している。

その人に届くように聴き
受け取れるように観察し
現前した事実に基づいて洞察する。

ここで依拠するのは理論ではなくて、あくまでも事実なんです。

 

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わかるからこそできなくなる

認知症のある方を見ていて思うのは
「できないことは単に能力低下してできないわけじゃない」
ということ。

わかるからこそ
きっちりやろうとするからこそ
丁寧にやろうとするからこそ
その工夫をしようとしたからこそ
できなくなってしまうということ。

特性が裏目に出てしまう。。。

だから
「できる」ことを目的化して
「お手伝い」してしまうのも良し悪しなんだよね。
結果としてであったとしても
その方の特性を反故にしてしまうことになりかねないから。

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