意味の理解

非麻痺側のべた足歩き

以前にネットで
「立って食事介助する施設はおかしい」
という論調の記載を複数見かけたことがあります。

もちろん、対象者の為にも介助者の為にも
座って食事介助ができるのであれば
それに越したことはありません。

でも
立って食事介助することの何が問題なのか
その意味をどれだけの人が「本当に」認識しているのだろうか?
とも思ってしまいました。

上から目線で失礼だから?
敬意を表するために相手よりも下から介助したいから?

それって対人援助職として大切な心がけではあるけれど
あくまでも、こちらの意図であって
「相手にとって」の意義ではない。

食事という場面は生命に関わる場面でもあります。
立って食事介助すると
どうしてもスプーンを上に向かって引き上げやすい状況が生まれてしまうし
喉頭挙上の動きを目で見て確認することは難しい状況です。

たとえ、座って食事介助していたって
上の歯でこそげ落とすようなスプーン操作をしたり
スプーンを斜め上に引き抜いていれば
立っていようが、座っていようが、どちらも同じとても危険な行為です。
喉頭挙上の動きを目で見て確認しなければ誤嚥を起こす介助をしてしまいかねません。

「立って食事介助をしてはいけない」とスローガンを唱えるのではなくて
立って食事介助することの何が問題なのか
意味を明確に理解することの方がずっと重要です。

そうすれば
立って食事介助せざるを得ない状況でも
リスクを認識した上で最大限配慮した対応ができるし
座って食事介助していても
同じ意味のリスクは回避しようと工夫することができるようになります。

同じコトが違うカタチで起こっている

「立って食事介助をしてはいけない」
「認知症のある方には敬語を使いましょう」

志ある援助職の人の
心身を消耗させるような状況は変わって欲しい。

必要なのは
目の前にいる人に
その時その場のその状況において
適切な援助ができることであって
一律に唱えられたスローガンの実践ではないと思う。

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必然・相互関係

誤嚥性肺炎などで絶食期間があれば
経口摂取で必要水分・栄養量の最低限が担保されるまでは
最低、その絶食期間と同じ日数を考慮しています。

絶食前に
誤介助誤学習があれば、さらに能力復帰までには日数がかかってしまうし
脱水や低栄養、貧血などがあったり
経過において過度な離床で体力消耗があれば、さらに日数がかかってしまう。
(離床設定の問題については後日改めて)

何事も必然がある

現状は
現在の相互関係の結果であり
過去の相互関係の結果でもある

縦軸・横軸の輻輳した関係性の中に「イマ」がある

だから
「今」「私」が変わる「意義」がある

そのことの意味が本当にわかると
一見、その場では、大きな過誤が起こっていないように見えることでも
徒や疎かにはできなくなる。

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見極めの責任

ただし、ないものはない

能力が埋もれていて表面化していないだけなのか
それとも失われてしまったものなのか

その見極めは必要です

私が実習生の時にとても怖く感じたことです。
今も怖いです。

判断の責任を負うのだと

だからこそ
自分の評価の結果は必ず確認しています。

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結果として上がる

認知症のある方は生きている限り能力がある
常に能力を発揮しながら生きている

その能力をわかる人もいれば
見た目の不合理な言動しか見えない人もいる

より合理的に能力を発揮しやすいような環境(自らの対応を含めた)を
如何にして作れるか
私たちが知識と知恵を総動員して発揮することが求められているのだと感じています。

ADLは結果として上がる
上がるに叶った環境を作る
そうすれば結果としてADLは上がる

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上げる?上がる!

自分の偏見に自分が苦しむ

ADLは上げるんじゃなくて上がるもの

「歩かないと歩けなくなっちゃいますよ」
という言葉は百害あって一利なしだと考えているし
「食べないとダメよ」
という言葉も百害あって一利なしだと考えています。

歩く、食べるに必要な能力を持っているのにしないという場合には
しないだけの必然性がある。
(原因や理由ではなくて)

無理矢理食べさせて誤嚥性肺炎になったら
元も子もないし、そんなの本末転倒

「上げないと上がらない」と考えている人は
実は認知症のある方の能力を過小評価しているんじゃないかな

認知症のある方の能力を信頼していれば
状態像を明確に把握していれば
「どのような状況下でならできる」
ということがわかるから
まずは、その環境作り(自らの対応を含めた)から着手すると思う。

ADLは結果として上がっていく

その過程を明確に認識ながら
その都度環境(介助方法を含めて)を対応させていくことが
「一人一人に寄り添ったケア」の実践だと考えています。

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講演@「芳徳の郷ほなみ」

昨日、2月28日(木)に
芳徳の郷ほなみさんにて
「認知症のある方の食事介助」をテーマにした研修会で講師を務めてきました。

勤務終了後のお疲れの中、熱心にお話を聞いてくださり
どうもありがとうございました。

窓口になってくださったTさん、お世話になりました。
ありがとうございました。

適切なスプーン操作ができて初めて
認知症のある方の食べ方を評価することが可能となります。

評価することができるから
どんな食形態を選択するか
どんな介助方法をするか
具体的に考えることが可能となるのです。

評価の前段階としての
適切なスプーン操作の基本
してはいけないスプーン操作
そして、その意味をお話いたしました。

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口腔ケアに再び協力ー「具体的に」

視覚的理解力は保たれている方が多いので
歯ブラシを見ていただくようにしています。

食後すぐに歯ブラシを見た方が理解しやすい方もいれば
時間を置いても歯ブラシを見れば理解できる方もいます。

その人の理解しやすい状況で
声かけをしてすぐに歯ブラシやスポンジを口腔内に入れるのではなくて
必ず口元で一旦手を止めて
歯ブラシを視覚的に見てもらってから声をかけます。

開口を促す声かけはいろいろです。
その人の理解力に応じて言葉を選びます。
「歯磨きしましょう」
「口を開けてください」
「〇〇さん、歯磨き」
「〇〇さん、あー!」

時々
「認知症のある方にも口を開けてくださいと言いましょう」
というようなスローガンを見かけますが
一律に声かけが規定されるなんておかしいと思います。
もちろん、通常のそういった声かけで理解できて協力できる方もたくさんいらっしゃいますが
そうでない方もまた多くいて、ケアする人も困って苦労しているのではないでしょうか。

認知症のある方の理解力は様々なのに
声かけを一律に規定してしまえば
「一人一人に寄り添ったケア」という理念の実践ではなくなってしまいます。
大切なことは、目の前にいる方のケアが介助を受ける人にとっても介助する人にとっても
スムーズに行えることではないでしょうか。
アセスメントを伴わない「〇〇すべき」論は、本末転倒だと考えています。

話を元に戻して。。。
声かけだけでは、開口が難しい場合には、Kポイントを刺激します。

声かけをする時には
感覚と感情に働きかける言葉を使います。
「虫歯にならないように歯磨きしましょう」ではなくて
「口の中がさっぱりします」
「今は気持ち悪いかもしれませんが、後が気持ち良くなるからこらえてください」
「口の中が綺麗にスッキリしますから、ご協力お願いします」
などと言います。

歯をブラッシングしている時も
歯のない方は口腔内を拭っている時にも
「口を閉じないで」「噛んじゃダメ」ではなくて
「もう少しで終わるから、こらえてください」
「気持ち悪いけど、頑張って」
「そうです。そのまま、口を開けていて」
という声かけを続けます。

多分、意外に多くの人が見落としているのが終わり方だと思います。

「終わりよければ全て良し」「新近効果」という言葉もありますが
私は終わり方には気をつけています。

大声を出し続けたり、歯を食いしばったり、指を噛もうとして
力を入れ続けたままで口腔ケアを終えることがないように
最後に歯茎や歯の表面をゆっくりそっと拭うと
大抵の方の力がふっと抜けます。
力が抜けたことを確認してから
「これで終わりです」
「もう嫌なことはしません」
「はい、終わり」
「ご協力ありがとうございました」
「おしまい。嫌なことしてごめんなさい。堪忍ね」
などという言葉を使います。

私が対象としている重度の認知症のある方でも
オーラルジスキネジアがあったり
噛もうとし続けたり
Kポイントの刺激で指が痛くなったりするような方でも
ほとんどの場合、ふっと力を抜いて終えることができます。

私は大切なことだと感じているから実践しています。

食事介助で無理やり口の中に食塊を突っ込んでも
食べられるようにはならないのと同じように
口腔ケアでも無理矢理介助をしても
ケアに協力してくれるようにはならない

それは
認知症のある方がわからないから。ではなくて
認知症のある方の能力を介助する側がわからない。からなんだと思う。

だとしたら
私たちが認知症のある方の能力を
把握、評価、アセスメントすることができさえすれば
状況は確実に変わる。

食事介助が変わり
口腔ケアが変われば
誤嚥性肺炎は確実に減らすことができる
呼吸が苦しくて辛い思いをする方を減らすことができる
私は確信しています。

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口腔ケアに再び協力ー「PDCA」

重度の認知症のある方で
口腔ケアの時に
開口を維持するのが難しくて
介助者の指を噛んでしまうような方に対して
細心の注意を払ってケアしていると思う。

Kポイントを使って
開口を維持して
手早く口腔ケアして
その間も大声を出されたり指を噛もうとしているから
終わり次第、さっと指を抜くしかない
という場合も多いかもしれません。

オーラルバイトもあるけど
虫歯のある箇所で使ってしまうと
歯が折れて誤嚥してしまう恐れもあるから
安易に使用せずに、使用前にはグラグラしている歯の有無は確認しておく必要もあります。

ただ
前の記事で書いたように
本当に重度の方で開口保持するのが難しい方が(状態像の詳細は書けませんが)
再び意図的に開口しようという能力を発揮できるようになるということの意味を考えると
「食事介助で起こっていることと同じコトが違うカタチで起こっている」だけだと感じます。

場面に対して不適切言動が起こる時には必然性がある

認知症という脳の病気によって起こる
状況理解力の低下(低下であって喪失ではない)という本人が抱える課題

認知症のある方に対して
能力にどう働きかけるかという工夫ではなくて
優しく丁寧に快適にといった心理社会的な抽象的な方策にとどまってしまっている
という介助者側が抱える課題

これらが輻輳して「口腔ケアの困難」という現れ方をしている
と考えています。
食事介助で起こっているコトとまったく同じ。

食事介助において
不適切なスプーン操作に適切に適応しようとした結果不適切な食べ方を学習する。
いわば、「誤介助誤学習」が非常に多く散見されている。
だからこそ、適切なスプーン操作に対しては適切に適応しようとして適切な食べ方の再学習が起こる。
「正の介助に対して正の学習」が起こった結果として、重度の認知症のある方でも食べ方が変わる。

口腔ケアに対しても
感覚の最も鋭敏な口腔内のケア時に
「認知症だから」「わからないから」と考えて
通じやすい説明を工夫したり、ラクな方法を工夫したりすることがなければ
そりゃあ、当然、抵抗も起こると思う。

口腔ケアの時に
口を開けてくれない、指を噛まれる、大声を出す
じゃあ、どうしたらいいの?
と考えるのではなくて
認知症のある方は、能力は低下していても喪失しているわけじゃないのだから
どんな能力があるか
その能力を活用するにはどうしたら良いのか
こちらがどう伝えたら理解しやすくなるのか

私たちの思考回路を変えること

大切なのは、その方の状態把握、評価、アセスメント。だと思う。

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