できることのすごさ

私たちにとっては
なんでもないように、ごく簡単に、見えることでも
「できる」ためには、いくつものスモールステップをクリアしなければ
「できる」ようにはならない。

身の回りのことでも
何か作ったりすることでも

スモールステップが明確にわかるようになると
できることのすごさを実感する。
こんなに難しいことができているんだ。
その「できる」ということに感嘆する。

 

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できない?見えない?

目の前にいる方が本当にできなくなってしまったのか
あるいは、単に私がその方ができるところを見る機会がないだけなのか
本当に難しい。

だからこそ
聴いてみなければわからないし
それもたった一度ではなくて
聴き続けてみなければわからないときもある。

いったんできなくなってしまったように見えても
ふとした時にできている場面に遭遇することだって少なくない。

能力を喪失したことと
能力を発揮できないでいることと
発揮されている能力が見えていない
ということは、全然違う。

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事実の子7:座る練習→立ち上がれる

こちらのブログにも
何回も書いてきましたが
ウソみたいな本当のハナシ。

静かにそっと音がしないように座る練習をすると
一人でスッと立ち上がれるようになります。

立ち上がりの練習を
「はい、頑張って!」と努力して立たせることはしません。

立ち上がりは
1)完全に全介助で 2)ご本人には努力させずに
ただし、3)重心の移動方向にだけ気をつけて 行います。

座る時に、
1)音がしないように  2)ソッと  3)体幹の前傾を十分に保ちながら
場合によっては、4)体幹が伸展しないように腰や背中を支えながら 座っていただきます。

一人ではスッとスムーズに立ち上がれなくて
何回もお尻を持ち上げようと努力してようやく立ち上がれたり
何かにつかまって身体を引っ張り上げるようにしてようやく立てる
あるいは、どうしても一人では立ち上がれない
という人に対しては
立ち上がりの練習をするのではなくて
座る練習をした方が早く立ち上がれるようになります。

お試しあれ〜⭐︎

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事実の子6:?「一緒にやるから大丈夫」

前の記事と同じ意味ですが
「一緒にやるから大丈夫」
この言葉も注意が必要な言葉だと考えているので自戒しています。

励ましや気持ちを支えるために使ったのだとしても
構成障害のある方にとっては
「ここをこうしてこうやって」と
隣で説明されてもわからない。ということが多々あります。

わからない、できない方にやっていただこうとして
文字通り手をとって教えるような説明では
達成感は得られにくいと思いますし
なんだか「させてる」「作らせてる」ように感じませんか?

私たちの脳が対象者の方の手を動かさせている
そんなの、嫌です。

「一緒にやるから大丈夫」
この言葉を言う人に悪気があるわけではないと思います。
でも、結果としてでも
「やらされた感」を感じさせてしまわなかったかどうか
PDCAを回すことが大切なのではないかと考えています。

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事実の子5:?「ここをこうして」

ある時、ハッとしたことがあります。

何のActivityをしている時かは忘れてしまいましたが
「ここをこうしてこうやって」
私はそう言っていたんです。

「あっ!私の伝え方が悪いんだ」
そう思いました。

認知症という状態像を示す病気では、構成障害という障害が出る場合があります。
構成障害とは、全体と部分、部分と部分の位置関係を認識し再現する能力の障害です。

「ここをこうしてこうやって」という説明をしているときには
隣で認知症のある方が扱っているのと同じ品物を私も同じように取り扱って
目で見ていただきながら、その上で言葉でも説明しています。

構成障害のある方にとって
全体と部分、部分と部分の位置関係を認識することが難しければ
ご自身の作業と対象物と、私の作業と対象物とを
目で見て比較対照しながら理解するということは、とても難しい。
「ここをこうして」を理解するのは非常にハードルの高い言語説明なんです。

それまでは無自覚に使っていた言葉でしたが
以降は気をつけて言葉を選びながら伝えるようにしました。
構成障害があってもなくても
「ここをこうしてこうやって」ではなくて
できるだけ動詞と名詞、位置関係を明確に言語化するように気をつけました。
そして、明確な言語による説明だけでは
「位置関係を認識し再現する」という障害を補うことは難しいので
「対象そのものに工程を語らせる」という工夫をするようになりました。

「対象そのものに工程を語らせる」
このことについては
具体的に説明しないと伝わらないし、その説明は長くなるので
いずれまた、改めてこちらの記事に書くようにします。

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PDCAの落とし穴

どんなに知識が限定していたとしても
どんなに技術が乏しかったとしても
PDCAを回している限り
必ずや適切な対応ができるようになると思う。

でも、PDCAには落とし穴があることに最近気がつくようになりました。

この頃では
「G -PDCA」ということもあるそうですが
まず目標Goalがあって、計画Planを立て、やってみてDo、振り返りCheck、改善処置するAction
ここで一番大切なことは、Cの振り返りだと考えています。
大抵のリハスタッフは、悪い結果だったらなんとか良い結果が出るように修正対応をすると思う。
でも、良い結果が出た時に振り返りをしないケースもあるとよく聞きます。
良かった。これで良いんだとしてしまう。

本当は、良かった時に何がどう良かったのか確認することが大切。
もっと正確に言うと、方法論は状態像への適合の問題なので
何がどう適切で何がどう不適切だったのかと言うことを確認することが大切だと考えています。

そして、抽象化・一般化する。
そうすると、実践をより一層深めることができるようになるし
不適切さの意味を明確に認識した上で回避できるようになると感じています。

もうひとつ
PDCAを回す時には、意図こそが大切
何を意図しているのかということです。

リハやケアは関係性の中で行われる。
「援助」という意図を持って対していたはずなのに
いつの間にか「使役」にすり替わってしまうということがよくあります。

目の前にいる対象者の方の
「食べることの援助」をしたいと願っていながら
いつの間にか「食べさせる」ためにという視点にすり替わってしまっていた
「入浴することの援助」をしたいと願っていながら
いつの間にか「どうやったら入浴させる」ことができるか、という視点にすり替わってしまった
ということは枚挙にいとまがありません。

対人援助職はそういう宿命を持っている。
「意図こそが重要」ではあるけれど
援助と使役が紙一重ということを認識した上で
日々の実践において誠実に自覚し自己制御できるためには
単に「頑張る」といった宣誓ではなくて、もっと論理的に明確な意識化が必要とされると感じています。

もちろん、状況によっては、援助ではなくて使役が要求される場合だってあるでしょう。
災害時などの緊急時には、「避難させる」ことが最優先だと思います。

大切なことは、自分の中で「援助」なのか「使役」なのか
自分が何をしているのか、自覚しているということから始める。
そのくらい、関係性の中で行われるが故について回る宿命でもあるという認識がまず必要なのだと考えています。

そういう意味で
「G-PDCA」という考え方は
目標を明示するという点で「使役ではなく援助」なのだという視点を明確にして
「援助→使役」へのすり替え防止として有効だと考えています。

「対象者の」目標に依拠して実践し考える。
対象者の目標達成のためにPDCAを回すのだ。ということを明確にしています。

ただし、目標を目標というカタチで設定できる
目標を目的や方針、方法と混同しない
ということが担保されていれば。という条件付きではありますが。

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事実の子4:?「立って食事介助しない」

ネットで
「立って食事介助するなんて危ない」
という記載を見かけました。
その通りだと思います。
でも、「立って食事介助することの何がどう危ないのか」
理解していないと片手落ちになってしまいます。

立って食事介助すると
介助を受けている方の顎が上がってしまいます。
その姿勢は気道確保している姿勢と同じです。
つまり、食事介助しながら気道確保するという、とんでもないことをしていることになってしまう。

だとしたら
たとえ、立っていなくても、座って食事介助をしていても
顎が上がるような介助をしてはいけないということにもなります。

つまり
座って食事介助をしたとしても
対象者の上の歯を使って
スプーンで食塊をこそげ落とすような介助をしてはいけないのです。
このような介助は、立って食事介助をしているのと同じでとても危険な方法です。
ところが、現実には非常に多くの施設・病院でそうとは知らずに為されている方法でもあります。

諸般の事情で立って食事介助するしかない場合だって起こり得ます。
その時に大切なことは、立って行う食事介助を禁止することではなくて
立って食事介助していても安全に介助するにはどうしたら良いのか
ということを実践できることだと考えています。
(もちろん、座って食事介助できる方がより望ましいと思っています)

カタチが意味するハタラキを理解する

カタチだけ伝える、受け取る、のではなくて
その意味をも理解しないと本末転倒になってしまいます。

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事実の子3:「関係性の中で評価する」

ICFという言葉は、リハやケアの世界に定着はしていますが
思考回路としてはまだまだ定着しているとは言い難い現状にあると感じています。

先に挙げた
「口腔期の易疲労によって二次的に咽頭期に問題が引き起こされる」
というケースは、観察・洞察・評価して初めて認識できる事実です。

ところが、現実には
目の前で見える、結果として起こっている、咽頭期の問題そのものだけを
問題として設定してしまいがちです。

いわば、
「私たちは、太陽や月や星が動いているのを見ているから、天が動いているのだと考える」
のように天動説を唱えていた人たちと同じ認識になってしまっています。
じゃあ、なぜ、月食が起こるのでしょうか?

本当に
「事実の子たれよ。理論の奴隷たるなかれ。」なんです。
事実と事実が食い違うことがある。
その時には事実を説明する理論の方が間違っている。
事実は厳然として現前しているからです。
異なる説明には視点と考え方を変えることが要請されます。
その要請に抵抗が起こってくることがとても多い。
事実に即した、でも新たな視点と考え方に依拠した説明をする人が糾弾されてしまう。
それでも後世に糾弾された人の方が正しかったことが証明される。
まさに地動説を唱えたガリレオや
ハンセン氏病の感染の低さと隔離政策の不適切さを訴えた小笠原登のように。

ICFは、相互関係論です。
ICIDHは、因果関係論です。
因果関係論によって確かに科学は進歩してきた。

けれど、
認知症のある方にとっての明らかな唯一絶対の「原因」となることはない。
「きっかけ」となることはあったとしても。
過去・現在・未来の時間軸という縦軸と
複数の心理的・物理的環境という横軸との中で暮らしている認知症のある方には
「必然」はあっても、「原因」はない。

食べ方の問題もそう、対応の工夫も同様です。
だからこそ、私たち介助者が関与できる余地があります。

現実には
ICIDHの因果関係論は根深く私たちの思考回路にこびりついている。

逆に言えば
ICFを本当に実践に位置付けることによって
新たな実践の科学としての視座を提示することも可能なのだと感じています。

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