Tag: リハビリテーション

身体の働き>筋力低下

「NHKのくねくね体操」のことを記事に書きました。
https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4278

生活期にあるお年寄りの場合に
暮らしの困難とりわけ移動に関する困難が生じると
「筋力低下→筋力を落とさないように運動」という図式めいた考え方が一般的になっているように思われます。

でも、本当にそうなのかなぁ?という疑問はずっと抱いていました。

例えば
歩けてもスムーズには立ち上がれないというお年寄りはたくさんいらっしゃいます。
一般的には、大腿四頭筋の筋力強化をして、立ち上がりの練習をして。。。
という「リハメニュー」が提供されることが多いのではないでしょうか?

かつて老健に勤務している時に
入所の方でも通所の方でも
立ち上がれない方に対して、座る練習をしただけで
立ち上がれるようになった方が相当数いらっしゃいました。
こちらにも、その内容で何回も記事を書いています。

もしよろしければ
このページの一番上右側にある窓から「立ち上がり」で検索してみてください。
過去の立ち上がりに関する記事一覧を参照することができます。

私は
本当は筋力低下が起こっているのではなくて、身体のはたらきが低下している。
その結果として筋力低下も起こりえる。
と考えています。

だから座る練習で立ち上がれるようになったのだと。
正確に言うと、
座る練習で立つ・座ることの関する身体のはたらきを高めることができたので
立ち上がれるようになったのだと。

座る練習をする過程で積極的に的確に「援助」することが必要で
自立するためには、独力での動作練習を繰り返すだけでは実は効果的ではない。

身体のはたらきを高めるために、まずは的確な援助が必要で
身体のはたらきが高まった結果、独力でもできるようになるのだと。

そして
本来「援助」とは、何の援助でもそういうものなのではないか
と考えています。

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観える現実が異なる

認知症のある方への対応として
いろいろ言われていますが
職員がどんな視点で関与しているのかによって、観える現実が異なってくる
という前提に関する議論・検討が少ないように感じています。

能力が低下しているから
と観るか
能力によって代償・適応しようとしているか
と観るか

同じ現実に対して、異なる視点で異なる現実を見ている。
だから、どうしたらいいか、意見も違ってくる。

意見の違いは、はっきりわかりやすいから認識しやすいし
現実に必要と迫られていることも相まって、論点としてすり替えられがちです。

視点の違いは、認識しにくい。
そもそも自分がどんな視点を持って観察しているのかということに無自覚な場合が圧倒的に多いです。

「意図こそが重要」

これは、スティーブ・ジョブズの言葉ですが
正しく!
視点によって関与の在りよう、意図が決まってくる。

まずは
視点によって観える現実が異なっている
という本当は当たり前のことから始めると
問題設定の問題に対して、クリアに検討できるようになると考えています。

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カタチとハタラキ

様々な分野で
リハの知識と技術の蓄積が進んでいるのは本当に素晴らしいことだと思う。

たくさんの方の地道な日々の臨床の積み重ねの恩恵を
私も手にし、そして、次の世代へ手渡せる過程に関与できることに感謝しています。

同時に
蓄積と伝承が良い面だけで起こっているわけではないことを危惧しています。

私は認知症のある方を対象にして働いていて
食事をはじめとするADLやコミュニケーションについて
目の前の事実に対して観察と洞察と実践とその後の考察を重ねてきました。
その結果、確実に言えることがあります。

カタチにはハタラキが反映されている。

そのハタラキを観察し洞察することが治療的環境として作用する。

カタチだけを見て
正常から逸脱したカタチを問題として認識して
カタチを修正・正常化しようとするような関与の在りようは
たとえ、善意からであったとしても
結果的には反治療的環境として作用してしまいがちです。

私たちは常に「関与しながら観察」しています。
傍観者として関与することも可能だし
こちらに合わせることを要請する者として関与することも可能だし
本来の意味での援助者として関与することも可能です。

そして、その「関与」の在りように応じて
対象者の方も応答するから
在りようというのは観察の入り口として
本来は、どれだけ重要視されてもおかしくないことです。

私が食事介助において
適切な食形態を選択することと
適切なスプーン操作をすることの重要性を言っているのは
それらができて初めて、対象者の方の本来の食べる能力を
観察するための入り口に立てるからなんです。

対人援助職は
意思として援助者として関与したいと願っていながらも
結果として、無自覚のうちに要請者として関与してしまっている、
そうすり替わってしまう危険性を内在している職種なのだということに対する警鐘が為されにくい

たとえば
食事介助に関して言えば
本来の食べる能力を観察する前に
何とかして食べさせよう、飲み込んでもらおうと考えてしまうことにすり替わってしまう。

すり替えは容易に起こりやすく自覚しにくい
ということが潜在する大きな問題だとも感じています。
このことについては、別の記事で考えをまとめてみるつもりでいます。
今は、カタチとハタラキに絞って書いていきます。

カタチには、その方の能力も障害も反映されている。

ところが、現実には目に見えるカタチを見て、正常なカタチと比較し
異なるカタチを正常化しようと取り組んではいるけれど
目に見える通常とは異なるカタチに反映されているその方の能力を観察・洞察し
その能力をより合理的に発揮できるように方法や環境を調整・適合・提供し
能力の発揮「過程」を観察・洞察しようとしている人は少ないと感じています。

立ち上がりができない方に
立ち上がりを練習させることはあっても
座り方を練習させるセラピストは少ない。

現実には
立ち上がりができない方は
往々にして、座り方も巧みにはできない場合が多い。

けれど、多くの場合に
立ち上がり方を見てはいても
その同じ場面で起こっている座り方は見れども観えずになってしまっている。

実は、その座り方に、そして立ち上がれないけれど立ち上がろうとしているそのハタラキにこそ
その方が立ち上がれるようになるための能力が反映されているのに。

認知症のある方が
口を開けてくれない、溜め込んでしまう、飲み込んでくれないという場合に
なんとか、口を開けてもらおう、飲み込んでもらおうという在りようで接してしまうと
そもそも、どのように食塊を認識し、こちらのスプーン操作に適応しているのか
見れども観えずになってしまい
食べる過程において、嚥下の機能解剖に沿った観察ができずに
口を開けてくれなさ、飲み込んでくれなさに現れている能力を
結果として、見落としてしまうことになってしまいます。

口腔ケアで
開口に協力してもらえないと
ケアを断念してしまうか、無理やりケアをしようとするか、可能な範囲にとどめておくか
にとどまってしまい
協力してもらえなさに反映されている、その方の能力と障害を見れども観えずになってしまって
次へ進めるはずのステップに踏み出せなくなってしまう。

同じコトが違うカタチで現れている。

皮肉なことに
知識と技術の蓄積が進むほど
本来、その蓄積を支えてきたはずの観察・洞察という過程が抜け落ち
表面的なハウツーというカタチでの伝承になってしまう。。。

「〇〇という状態像の方がいるんですけれど、どうしたらいいでしょうか」
このような問いというカタチは、そのような思考過程で臨床に臨んでいるというハタラキの表れでもあります。

カタチにはハタラキが反映されている

ハタラキを知るためにカタチを観察・洞察する

対象者の方にとっても
私たち対人援助職にとっても

私たちは常に相互関係の場に存在している。
だからこそ、ICFという相互関係論に依拠した実践によって
相互にハタラキを変え
結果として、カタチすら変わることが可能なんだと考えています。

 

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食事介助で意思疎通が改善

意思疎通困難な方によくあるのが
食事介助のスプーンに、うまく協力しながら食べ物を取り込むことが難しかったり
立ち上がり介助の時に、介助者に協力しながら動くことが難しかったりする
というケースです。

口を閉じるタイミングがズレたり
立ち上がる時に車椅子のアームレストにしがみついたり
多分、誰もが一度や二度は、そういう場面に遭遇していると思う。

結局のところ、同じコトが違うカタチで現れているだけなんだと実感しています。

相手やスプーンという対象や環境に
自らの身体をうまく適合させる
ということが難しい。

このような場合に
通常の方法をどれだけ繰り返してもできるようにはならない
「ちゃんと食べてね」と言ったり
「ちゃんと立ってね」と言ったりすることは
善意からの発言であったとしても、結果的には、むしろ逆効果になってしまうと感じています。

混乱せずに入力しやすいように
刺激の量と質を調整させながら環境調整する(声かけや介助方法を工夫する)
ことが肝要だと考えています。

食事介助をして
食べられなかった方が食べられるようになると
意思疎通も改善されていく
口腔ケアをして
ケアに協力できるようになると
意思疎通も改善されていく
というケースをたくさん経験していますが
同じコトが違うカタチで起こっているだけなんだと感じています。

食事介助や口腔ケアは
工程がシンプルで結果が明白だから
自分の関与のフィードバックが得られやすい
何がどう良くて、何がどう悪いのか、PDCAを回しやすい

過程において
特性も能力も把握しやすい

この方は
こっちの奥歯で噛むから
Kポイントは反対側を使おう
口腔ケアのブラッシングは奥歯の上面をブラッシングすると開口しやすい
といったことをこちらが把握できているというのは、多分、相手にも伝わっている

把握した上で介助しているのと
把握せずに介助しているのとでは全然違う。

普通に話していても
こちらの話を深く理解して聞いてくれているのか、そうでないのか
って、かなりわかるんじゃないかな。
それと同じだと思う。

口腔ケアという場面での
介助する・されるという相互体験・相互作用を経た上で
「歯磨きします。口を開けてください」という声かけで
スムーズに開口してくださるようになったのだと思う。

「こうすれば開口スムーズ」というハウツーではなくて
その場面において、相手の状態を把握し援助するという「体験」は
目に見えるのは「口腔ケア」だけれど
まさしく、ノンバーバルコミュニケーションの過程そのもの

ADLは、カタチとしての項目の下支えとしてノンバーバルコミュニケーションがある
二重構造になっている。

認知症のある方に
その人らしさを発揮してもらおうと
何か、Activityに取り組んでもらうのも良いけれど
特別なことをしなくても
ADLそのものを援助することが、同時にその人らしさを発揮してもらうことにもなっていると感じています。

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関与できたことしか観察できない

ハリー・スタック・サリヴァンという精神科医の言葉で
「関与しながらの観察」という言葉があります。

この言葉の重みを感じる今日この頃ですが
最近、意味をもう一段深く理解できるような体験が続いています。

関与できたことしか観察できない
関与できないことは観察できない
関与できるから観察できる
だから関与しながらの観察が重要

例えば
認知症で意思疎通曖昧な方の口腔ケアを行う時に
その方の能力がわからないと適切な関わり方ができないので
口腔ケアを行うことがとても難しくなってしまいます。

仮に
開口してもらえたとして
硬口蓋(舌先で触れる上の顎の部分)に
白色の乾いた痰が付着していることが見えたとしても
実際に口腔ケアをしてみると
上の歯の裏側には茶褐色に変色した乾いた痰を拭い取れたりする。

口の中を見ることができなければ
硬口蓋に付着した白色の乾いた痰が付着していることを見られない
実際に口腔ケアができなければ
歯の裏側に付着した茶褐色の乾いた痰が付着していることを見られない

開口してもらえるような関わり方ができて初めて
硬口蓋に付着した痰を見ることができる

例え、開口してもらえたとしても
口腔ケアに協力してもらえるような関わり方ができなければ
硬口蓋に付着した痰を見ることができても
歯の裏側に付着した痰を見る、存在を知ることができない

実際には存在しているけれど、自分が知らない、見えないのと
実際に存在していないのとでは、全く違う

自分の関わり方、知識と技術の深度に応じて
その方の状態の見え方が異なってくる

口腔ケアは、
結果が明白だから、とてもわかりやすいけれど
同じことが違うカタチでいろいろな場面で現れているのだと実感しています。

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自己効力感

自己効力感とは
カナダ人の心理学者アルバート・バンデューラによって
「自分が行為の主体であると確信していること
自分の行為について自分がきちんと統制しているという信念
自分が外部からの要請にきちんと対応しているという確信」として
自己に対する信頼感や有能感のことだと提唱されたそうです。

介助、とりわけ食事介助って
自己効力感を高めもするし、結果として低めてしまう恐れもあるのだと感じることがあります。

臨床あるあるなのが
なんとか食事を自力摂取している方だと
全量は食べられずに少し残してしまうこともあると思います。
その時にどうするか。

あと少しだから。。。と介助することってありませんか?
気持ちは本当によくわかります。
そうしたくなりますよね。

でも
意思表示をきっぱりと明確にできる方が
自分の意思で「もういらない」と言ったのに
(もう少し食べられる?)と言われてしまうというのは
どのように受け止められているのかな。。。

普通に考えて
家族と一緒にご飯を食べていて
「もういらない」って言われた時に
「あとちょっとだから食べてよ」って言うのかな?
あんまり量が食べられなくて
「もういらない」って言われたら
「もう少し食べたら?」って言うんじゃなくて
「どうしたの?具合悪いの?」って心配するのが先なんじゃないかな?

肺炎後の回復過程において
いきなり全量摂取は目指さずに
その方の意思表示に従って「いらない」「もうたくさん」と言われたら必ず終了する
という対応をすることはよくあります。
1/3しか食べられなくても、あと一口で食べ終わる時でも
「はい。じゃあ終わりましょう」ときっぱり終わりにします。
それでもだんだんと摂取量は増えていく場合がほとんどです。

増えない場合には、他の要因がある。
食べさせないから食べられなくなる。わけじゃないし
食べさせれば食べられるようになる。わけでもなくて
食べることの援助をするから食べられるようになる。

その方が
「食事」という対象に対して
関わって、感じて、どうするか判断して、表現する
一連の過程を1つのループとして完結するように援助する。

無理やりループを大きく広げるのが援助ではなくて
どんなに小さくても、ループがループであるように援助する。

食事で感じられる、満腹感、空腹感、美味しさ、満足って
とても根源的なものだから
自己効力感と密接に関与しているんじゃないかな
と感じる今日この頃です。

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誤嚥性肺炎後回復の対応と考え方

認知症のある方や生活期にある方で
誤嚥性肺炎になってしまった後のリカバリーについて書いてみます。

1)不顕性誤嚥の予防ー口腔ケアの徹底
2)体力勝負ー焦らず・疲れず・食べる
3)食形態の選択
4)食事介助の工夫

ポイントはこの4つだと考えています。

そして、最も重要なことは、
どんな風に食べているのか、その食べ方に反映されている能力と障害・困難と特性を把握できる
つまり、アセスメント・評価・状態把握であり
アセスメント・評価・状態把握ができるためには
食べることと認知症の両方の知識に基づいた観察ができることだと考えています。

 

1)不顕性誤嚥の予防ー口腔ケアの徹底

誤嚥性肺炎肺炎の治療で
禁食にする場合とそうでない場合があるかと思いますが
禁食にした場合でも大切なのは口腔ケアです。

痰の自己喀出ができる方も
吸引をしてもらっている方も
たとえ経口摂取していなくても口腔ケアが必要です。

口腔内の清潔と湿潤を保持するために
歯のある方は必ず歯をブラッシングする
舌苔がある方は除去する
痰が硬口蓋(上顎)にこびりついていれば除去する

口腔ケアは、どうしても後回しになりがちではありますが
誤嚥性肺炎後、体力が低下していると不顕性誤嚥に罹患しやすいので
体力が戻ってきたら、ある程度大雑把でも不顕性誤嚥にならずに済みますが
(もちろん、どんな時でも口腔ケアは必須ではありますけれど)
体力が低下している時に、口腔ケアが不十分で口腔内が汚いと唾液が汚染されてしまいます。
その唾液を誤嚥してしまえば、どんなに抗生物質を点滴しても、吸引しても
イタチごっこになってしまって、なかなか治癒できないという状態になってしまいます。
いったん、解熱したのに、また熱発してしまうということも起こり得ます。

その意味で、食べた後だけではなくて食べる前の口腔ケアも必要です。
特に口腔内の粘調痰は誤嚥を引き起こしやすいので
必ず除去してから食べていただくようにしてください。

意思疎通が困難な方には
言葉だけに頼らずに、視覚情報を明確に提示することが有効です。
例えば、歯ブラシを目の前できちんと見せる。歯ブラシを左右に動かしながら「歯磨き」と言う。
実際には、総入れ歯の方の口腔ケアなどで歯ブラシを使わない方であっても
「歯ブラシ→歯磨き→開口する」ことをイメージしやすくなる場合も多いです。
口腔ケア用のスポンジを目の前で提示すると「飴」と誤認されやすく
舐めたり吸われたりしてしまってかえって開口しにくくなってしまう場合もあります。

また、いろいろな工夫をしても、
どうしても口腔ケアに協力していただけない場合もあるかと思います。
そのような時には殺菌作用があると言われている緑茶や紅茶を食後に摂取していただきながら
ケアに協力してもらえるように、どのようにしたら可能になるのかを探っていきます。

Kポイントを利用して開口を促すことも行いますが
「口を開けさせる」ためにKポイントを使うのではなくて
「開口のきっかけ」としてKポイントを活用すると考えています。
できるだけKポイントを使わなくても開口維持してもらえるように関与していきます。

認知症の状態が進行していれば
理屈ではなくて感情・感覚に働きかける声かけをします。
例えば
「歯磨きをしないと虫歯になっちゃいますよ」ではなくて
「歯磨きをすると口の中がスッキリさっぱりしますよ」と言うようにしています。

 

2)体力勝負ー焦らず・疲れず・食べる

誤嚥性肺炎後は体力が低下しているので
最初は数口食べるだけでも疲れてしまうこともあります。
疲れ切ってしまえば、意欲が低下してしまったり、この次に食べる体力がなくなってしまいます。

食べることも、筋肉が働いた結果として可能になることなので
食べることはエネルギーを摂取するというインプットの反面、
全身の運動というエネルギーのアウトプットでもあります。

食べていただきたいのはヤマヤマですが
その時に介助者の側が焦らずに
食べられる分を無理し過ぎずに食べていただくことが大切です。

1回量を把握しながら
少しずつ増えていけるように
想定より少なくても「頑張って食べた」ことを喜びあえるように励ましてください。

ふだん臥床しているお部屋から出て食堂などの異なる環境で食べることも
心理面では良い刺激にはなりますが、一方でいきなり長時間の離床は
食べる体力・気力までも低下させてしまいかねませんので注意が必要です。

病院に勤務していれば血液検査の結果を確認しながら関与できます。
特に、炎症反応を示すCRP、総蛋白TP、アルブミンALBの値は必ず参照していますし
易疲労にならないように、適正な1回量を把握するためにも
顔色・表情・活気・声量や声のハリについて注意深く観察をしています。

食べさせるのではなくて
今の状態でも、ラクにスムーズに食べられる形態と量そして離床・臥床のバランスについて検討しつつ関与していきます。

 

3)食形態の選択

食べやすい形態は様々です。
その方の食べ方をよく観察して食形態を選択することが一番のポイントとなります。

一見、咽頭期の低下に見えて、
実は口腔期の易疲労が主要問題で咽頭期は二次的に引っ張られて低下している
という状態像の方は、とても多くいらっしゃいます。
「ムセたらトロミ」という安易な発想からは卒業しましょう。

後述しますが、
「どんなものなら食べられるのか?」という問いを立てるのではなくて
「どんな風に食べているのか」を嚥下の機能解剖の知識に沿って観察することから始めます。
観察できれば必然的に「今はこの形態なら食べやすい」「この形態では食べにくい」「この形態では危険だ」という判断が伴ってきます。

誤嚥性肺炎後は体力低下していますし、禁食期間があれば内蔵に負担をかけないように
いきなり食形態を元に戻すのではなくて段階的に食形態を上げていくことが望ましいと考えています。
(断食後には段階的に食事内容を元に戻していきますよね)

今は液体の栄養補助食品も個体の栄養補助食品も様々なものが販売されています。
施設環境によって、用意できる栄養補助食品は限られてしまうかもしれませんが
食感というテクスチャーと栄養の両面から食形態を選択できるように
栄養士さんとの情報交換・連携が求められると考えていますし
また、栄養士さんとの情報交換がスムーズに進められるように
最低限の情報はこちらも知っておいたほうが良いと考えています。

 

4)食事介助の工夫

必要であれば、最初にシリンジを使用することもあります。

液体の栄養補助食品をこのシリンジを使って
一口量を1cc・2ccから始めたケースもありました。

易疲労が顕著な時や身体の環境適応が混乱している時には
上唇で取り込まなくても食べられるように
ゼリー状の栄養補助食品を箸で臼歯の上に載せて食べていただくこともあります。

大切なことは、嚥下の機能解剖の知識をもとに
目の前にいる方の食べ方をよく観察することです。
観察できれば、今、その方がどんな風に食べているのかがわかります。

どのような障害・困難があって
でも、能力をどんな風に発揮して頑張って食べているのか
食べにくい、食べようとしないという状態には必然があります。
同時に、「限定した」環境(場面・食形態・食事介助)であれば食べられる
ということを意味します。

私たちができることは「限定した環境」を見出し、援助すること。
そうすると、重度の認知症のある方でも、能力がありさえすれば、体力を消耗しすぎていなければ
限定した環境から、だんだんと多様性のある環境にも適応できるようになっていく。
つまり、食形態を上げられるようになっていきます。

意思疎通困難、食事介助困難と思われていた方でも
食事介助を通して、意思疎通も改善されるというケースにも数多く遭遇しています。

誤嚥性肺炎後にもう一度口から安全に食べられるようになるためには
あるいは誤嚥性肺炎に罹患しないように予防しながら口から食べていただくためには
アセスメント・評価・状態把握こそが重要です。

impairmentの評価は必要ですが
人間の身体は形態的にも機能的にも連続性があります。
脳血管障害などの具体的なアクシンデトがない認知症のある方や生活期の方においては
咽頭期の問題は咽頭期固有のものではない場合もあります。

嚥下5相の中での関係性
身体と口腔器官との関係性
対象者本人と介助者との関係性
その時その場のその関係性において
能力を発揮しながら食べています。

口腔嚥下リハは、できるに越したことはありませんが
もっと重要なのは、食事場面そのものです。

私たちが上の歯で食塊をこそげ落とすようなスプーン操作をしていれば
認知症のある方、生活期にある方その方の本来の食べ方を見ることすら叶いません。
適切なスプーン操作をできるということは
認知症のある方、生活期にある方の食べ方を観察することができるようになるための入り口です。

このあたりについては
「食べられるようになるスプーンテクニック」(日総研出版)に記載しました。
喉頭の複数回挙上によって完全嚥下している方も多いのですが
この本にあるQRコードから動画を確認することもできます。
詳細はご参照ください。

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思考回路を変えるー観察の重要性

銀杏

どんなテーマの研修会でも私が必ず言うことがあります。

「どうしたら良いのかわからない時には評価に立ち戻る」
「結果として起こっていることだけを見て対応を考えずに
今何が起こっているのかを観察する」
「〇〇という状態像だけを切り取って、どうしたら良いのか考えても
良い解決策は出てこない」

研修会で上記の言葉を伝えて
具体的に事例を提示して思考過程も説明して対応も伝えているにもかかわらず
研修会終了後のアンケートや質問で必ず問う人が出てきます。
「〇〇という状態の人にどうしたら良いでしょうか?」

。。。

それだけ、切実に困っているんだろうな。とは思いますが
そう考えるから困る状態から脱却できないんだって言ったんだけど。。。(^^;

まず評価をする
評価できるための観察をする
一足飛びにはいかなくても、地道に着実に観察という情報収取をすることから始める

このような一連の過程のトレーニングが不十分なんだろうなと感じています。

ある意味、リハやケアの知識と技術の蓄積ができているという事実の表れでもあるとも思います。
だから、〇〇という状態像の人には△△という対応をすると良い
という情報が出回っているからこそ、そのような情報を探す思考回路ができてくるんだろうと考えてもいます。

でも、
Aという状態像の人に有効だった方法論AAが
A”という状態像の人に有効だとは限らない。

Aという状態像には、固有の疾患・障害・内科的状況・能力・特性が反映されていて
A”という状態像にも、固有の疾患・障害・内科的状況・能力・特性が反映されている

大きなくくりでの似たような状態像はあるから
パターンは結果として出てくるけれど
パターンを当てはめたって有効とは限らない

パターン的思考回路で対応していると
自分の思考過程や実践を言語的に論理的に表現できず
一般化・抽象化もしにくいので経験が経験として蓄積しにくくなってしまう。
それは本当にもったいないことだと感じています。

大切なことは観察です。
観察ができるためには知識と技術が必要です。

知識と技術に基づいた実践に比例して
観察も深まっていきます。

自分が実践していないことは観察できない

「見れども観えず」になってしまう

「評価している、できていると思っていたけれど、まだ全然だった」
「全然観察できていないことがわかった」
私の話を聞いた人から、このような感想をいただくと、とても嬉しく思います。

その人の可能性に、その人自身が気づいたから。なんです。

今の未熟は未来の可能性です。

安易な迎合や表面的な肯定は、未来の可能性を潰してしまうことでもあります。

違いに気づく
違いを知る

学ぶということの出発点だと考えています。

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