Tag: リハビリテーション

診療参加型実習への移行2

診療参加型実習への移行に伴い
危惧することのふたつ目は
体験の質をどう考えるか。ということです。

実習指導者会議では
以前から「学生にたくさんの体験をさせてほしい」という要望を何回も聞いてきました。

「体験したことを理解する」という意味では
体験することの必要性はよくわかります。
でも、体験なんて働き出したらいくらでもできます。
体験すればするだけ良いと言えるほど簡単なことでもないでしょう。
じゃあ、何が大切なのか。

学生ができる体験を増やしていく
ということもよくわかりますが
一方で何のために。ということを忘れてはいけない。
本末転倒になってしまってはいけない。と考えています。

それは近年、養成校側からも実習指導者側からもよく聞く
「作業療法の楽しさを教えてほしい」
「作業療法の楽しさを伝えたい」
という言葉です。

前の記事にもちょこっとだけ書きましたが
卒前の養成過程と卒後の養成過程は否応もなくリンクしています。

学生が学生のうちにたくさんの体験をする
しかもたくさんの成功体験ができるように支援する
それは将来対象者の方に適切な作業療法を提供できるようになるための一過程として必要なのだということから離れてしまってはいけないのだと考えています。

対象者の立場にたてば
作業療法を協働して行ったからこそ、効果があった
と感じられるような実践ができる作業療法士を養成していかなければならない。

あちこちで私が例えとして提示するのが
飛行機のパイロットの養成過程です。

どのような状況下にあっても
目的地まで安全に離着陸・飛行できるようになるために
パイロットの養成過程において「楽しさ」が求められるものでしょうか?

作業療法士の養成過程において
もしもその素晴らしさを強調したいのであれば
まずは、作業療法としてのリスク管理、対象者に対して不適切なことをしないようにする過程を伝えるべきではないでしょうか。

一時期よく聞かれた他職種からの批判的な感想に対して
「作業療法はこんなに素晴らしい」
「作業療法はこんなに理解を得られにくい」
という声をよく聞きましたが
そこで答えるべきは
「作業が療法として有効に機能できるように
これだけのリスクマネジメントを踏まえて立案・実践し、効果を出しています」
という論理的な反証ではないでしょうか。

学生に対して
どのように体験することを組み立てていけば良いのか
作業療法が素晴らしいほど
どうしたら作業体験が対象者の方に対してマイナスに作用することを回避できるのか
そのリスクマネジメントを同時に伝えていかないと
とてもマズイことになりはしないかという危惧を抱いています。

世の中、片一方というものはない。
効果のあるものは、副作用も強い。
作用が強ければ、反作用だって強い。
メリットがあれば、デメリットもある。

「力は前向きにも後ろ向きにも働く。同時に両方向には働かない。」
これは、アーシュラ・K・ル=グウィンの
「西のはての年代記 ギフト」でグライが語った言葉ですが
本当にその通りだと感じています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4170

診療参加型実習への移行

2020年4月入学生より
実習は診療参加型実習が明確に推奨されるようになりました。

リハ職の実習とよく比較されるのが医師の実習形態ですが
医師の養成過程における実習は
研修医制度とセットになって行われています。
ところがリハ職の場合は研修医制度に該当するものはありません。
診療参加型実習、国試が終わるとすぐに入職して働くことになります。

従来のインターン実習が
研修医制度の位置付けとほぼ同じ意味があったのではないでしょうか。
いろいろな課題は抱えながらも。
それがなくなってしまう。

実習の諸々の課題をクリアするという意味で
あくまでも学生の学びの深化を支援するという位置付けを明確にしたのだと考えると
ある意味、実習指導者の負担も減るだろうと感じています。
(理念と制度、実践の矛盾が全て解消されていないにしても)

その分、今まで明文化されていないにしても
実習指導者と養成校が暗黙のうちに担ってきた部分を
これからは就職先が新規入職者に対して
指導者の元で実践的に学んでいく時期を担保することが求められてくると感じています。

つまり、卒後養成における就職先に求められる比重が結果として大きくなってくる。

もっと言うと、リハ職本人の向学心・自己研鑽が試される。
大人ですから、ある意味当たり前のこと、他人は他人、自分は自分だとは思いますが
問題は対象者の側に立ってこの現状をどう見るかということだと考えています。

どんな職業だって、ピンキリですが
診療報酬・介護報酬を請求できるセラピストの個人間の力量差が現状よりもさらに大きくなってくる可能性がある。
その一方で、報酬上はどのセラピストが実践しても一律請求となっています。

協会や厚労省は、この先をどこまで描いているのでしょう。

今回のカリキュラム変更は
養成校も実習地はもちろんですが、
実習地でないリハ職が勤務する就職先においても
対応が要請されていることを感じています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4166

評価とは何か@暮らしの支援4

ここにいていいんですか?

そのためには、常にPDCAを回し続ける
その中でも、最も重要なのは「C」なのだと考えています。

私たち専門家と呼ばれる人は、それなりの根拠と自負を持ってPlanし、Doしているはずです。
想定通りに適切だったか否かを確認することも大抵の人はしていると思います。

ただ、ここで落とし穴がふたつあって
ひとつには
現在の診療報酬の体制上
急性期、回復期、生活期といったそれぞれの期においては
多くの対象者の状態像をみることはできても
ひとりの対象者の「状態の変化」を継続的に長期的にみることは難しい現状があるという
暗黙の前提要件を自覚しにくいということがあります。

ふたつめには
「常識として定着しているものには異議を唱えづらい」
「常識として定着しているものには疑問を抱きにくい」
ものなので
目の前に厳然として存在している人よりも常識として提唱されているものに依拠してしまうと
「見れども観えず」
になってしまいがちです。

私は
立ち上がれるようになる、あるいは維持するためには
まずは座り方を練習することが重要だと考えていますが
そう提唱・実践している人に会ったことがありませんでした。

スプーン操作によって食べ方が変わる
食べ方は、介助者のスプーン操作と食形態の選択によって異なってくる。

認知症のある方の能力は
介助者が適切な声かけをすることによって見出されもするし
そうでなければ見過ごされてもしまう。

過剰代償による立ち上がり困難や食べ方の困難
生活障害やBPSDという場面にも能力が反映されていることがわからないと
たとえ善意の意思を持っていたとしても
能力を発揮させられないだけでなく
結果として、廃用や誤用にリハ職が関与することになってしまいます。

援助は関係性の中で行われる。
関係性の中で起こってくるコトを
関係性を吟味しないで対象者の状態像として切り取ってしまうという視点が
援助から使役へと反転させてしまうことの大きな要因だと考えていますが
その点に関して、検討がもっと必要なのではないでしょうか。

ハリー・スタック・サリヴァンの「関与しながらの観察」
スティーブ・ジョブズの「意図こそが重要」
彼らの言葉の重みを噛みしめています。

PDCAを回すときに
最も重要なのは「C」のCheckであり、また困難なのも「C」だと考えています。

「C」を行なっているようでも
表面的に陥りがちであり
「C」が的確に行えないと
「A」を有効に設定することもできなくなってしまいます。

つまり、自家撞着に陥ってしまう。
PDCAが機能しているように見えて機能していない。
自己検証が曖昧になっていることを自覚できなくなってしまう。

最初から誰でも「C」を的確にできるわけではないけれど
そうしようという「意図」を抱いていなければ習熟するようにはならない。
習熟するようになると、ますます「C」の重要性を否応でも認識するようになります。

より広く深く細やかに「C」ができるようになることで
評価の的確さを担保できる。

私が実習で感じた職業人としての怖さは
判断とその責任を負うということでした。
当時はこんな風に言語化できなかった。
もっと漠然とした曖昧な怖さで、何をどう気をつけたら良いのかわからなかった。

PDCAを回し続ける
「C」を機能させられるようになる。ということの重要性

「もののけ姫」の中でアシタカが言った
「曇りなき眼で見定め決める」
この言葉を言い切ったアシタカの強さを繰り返し思い出しています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4155

評価とは何か@暮らしの支援3

ここにいていいんですか?

同じコトが違うカタチで現れている。

例えば
高齢者によくある「立ち上がり問題」
こちらのブログでも過去に何度か記載してきましたが
片麻痺のある方、整形疾患などのある方で生活期で暮らしの困難を抱えている方や高齢者では
歩けるけれど自分ではなかなか即座に立ち上がれない
立ってしまえば立てるけれど自分では立ち上がりができない
という方がとても多くいらっしゃいます。

現状では
低運動→筋力低下→立ち上がり困難 という判断がなされ
筋力強化→筋力復活→立ち上がり可能 という仮説に依拠して
足腰の筋力強化や立ち上がり100回 という方法でのトレーニングが提供されている
ということがよくあるパターンだと思います。

私は、この考え方と方法論にはずっと違和感がありました。
なぜ、赤ちゃんは歩けなくても立ち上がれるのに
お年寄りや身体障害のある方は、歩けるのに立ち上がれないのだろう?
赤ちゃんは筋力強化をしなくても立ち上がれているのに。

私は長く老健に勤務していましたが
老健では積極的な離床と活動的な生活を提供しています。
さらにその上で専門家による個別のリハも提供しています。
それなのに、今まで立ち上がれていた方が立ち上がれなくなってしまう。
こういった現実に対し、為すべきことをしているにもかかわらず
低下してしまったのだから「本人の老化、能力低下」という判断が為されがちです。

ところが、
筋力強化をしても自力で立ち上がりができなかった方が
座る練習をしただけで自力で立ち上がれるようになった方がたくさんいらっしゃいます。

本人の能力低下ではない。ですよね?
再び立ち上がれるようになったのですから。

変わったのは、リハだけです。
ということは、リハの判断と方法論が不適切だった。ということになります。

これらの事実が示している新たな判断は
筋力低下によって立ち上がり困難になったかもしれないが
それは原因ではなくて、きっかけだったのではないか
ということです。

きっかけがなくなれば
立ち上がり困難という状態像も表面化しなくなる
という意味で筋力強化が有効だったケースもあるでしょう。
それを因果関係論であるICIDHの観点に立ったまま
一般化してしまった、そしてPDCAを回し検証されることなく
継承してしまい、適合させてしまった
というところに問題があると考えています。

相互関係論であるICFの観点に立てば
1)本人の病気・障害そのもの:老化による筋の弱化
2)能力による過剰代償:使える筋(主に背筋群)
3)不適切な介助への過剰適応:介助者や手すりを使用した引っ張り上げに呼応した背筋群の過剰使用
という悪循環が過去から長い間の蓄積として生じていて
表面的には「立ち上がれる」状態であったとしても
1)〜3)のバランスが崩れるほんのちょっとしたきっかけによって
「立てなくなってしまう」状態に陥ってしまう。

なんにせよ、「できない」よりは「できる」ほうが良いでしょうけれど
「できれば良い」というわけではありません。

筋力強化や立ち上がりのリハを行ったとしても
その方法論が上記の2)や3)を増長させるような「やり方」であったとしたら
結果的に、立ち上がりができなくなることにリハ職が関与してしまうことにもなってしまいます。

「できる」ようになったら
将来を見越して、より安全によりラクにできる異なる方法でも「できる」ように

それは
Re-Habilis 再び適する:リハビリテーションの理念そのものの具現化ではないでしょうか。

対象者の適応、つまり心身の働き、使い方
脳の回路の多様性を信頼し援助する。
ということなのだと考えています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4151

評価とは何か@暮らしの支援2

ここにいていいんですか?

評価について
「検査=評価」という誤解が多いと感じています。
(この問題については改めて触れていきたいと考えています)

検査は一連の評価過程の一部に過ぎず
検査結果は評価に統合されるべきものです。

評価とは何か
今の状態像を明確化することであり
それは、単に病気や障害を原因として正常からの低下と「みなす」
ということではないと考えています。

複合したカタチで現れている現実の合理的あるいは不合理な言動から
1)病気や障害そのものによる困難
2)困難を能力発揮して代償しようとした結果
3)過去から現在において周囲の関係性との中で起こる過剰適応の結果
の区別を明確にすることであり
とりわけ「能力」を見出すことがポイントになると考えています。

多くの場合に
認知症のある方の生活障害は
1)病気や障害そのものによる困難と考えられていますが
実際には
2)困難を能力発揮して代償しようとした結果
によって起こっていることもたくさんあります。

認知症という状態像は
慢性・進行性の疾患によって引き起こされるので
1)病気や障害そのものによる困難 は改善することが難しい。
けれど
2)困難を能力発揮して代償しようとした結果
3)過去から現在において周囲の関係性との中で起こる過剰適応の結果
については
能力の不合理な方向への発揮の結果なので
能力を合理的な方向へ発揮することの援助は可能だと考えています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4150

評価とは何か@暮らしの支援

ここにいていいんですか?

暮らしの支援をするという視点で
評価とは何か。ということがようやく明確に言語化できるようになってきました。

生活障害や BPSDはあっても
能力を能力として
特性を特性として
発揮しながら暮らしている。

見た目の不合理な言動というカタチで現れる困難は
ひとくくりにされて「認知症」という病気のせい、能力低下のため
と認識されてしまって、そこから如何に行動修正するかという視点に立って
対応の工夫が考えられる。。。という思考過程を踏んでいることが多いように感じています。

実は、見た目の不合理な言動というカタチで現れる困難には
次の3つが複合して反映されていると考えています。
1)病気や障害そのものによる困難
2)困難を能力発揮して代償しようとした結果
3)過去から現在において周囲の関係性との中で起こる過剰適応の結果

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4147

ICFで対応する

対象者は
現在の横軸
過去からの縦軸
輻輳した関係性の中に「在る」

だからこそ
相互関係論である
ICFで評価・アセスメント・見立てをし
ICFにのって対応するということが必要なのだと考えています。

VFやVEによって
嚥下の状態を明確に把握できる機会が増えたということはとても良いことだと感じています。
ただ、「今、そうだ」ということは言えても
原因なのか、結果なのか
的確に判断することが必要だと考えています。

脳血管障害のようなエピソードがあれば原因と判断できても
特段のエピソードがない、高齢者や認知症のある方の場合には
原因ではなくて、結果であることが非常に多いという体験をしています。

認知症のある方の
能力低下が原因ではなくて
私たちの不適切なスプーン操作の結果として起こっている。
だからこそ、私たちが介助を変えれば
認知症のある方の食べ方も変わる。

主治医が「この方の大脳新皮質はコピー用紙1枚の厚さしかない」と言う方でも
食事介助の場面だけで食べ方が変わる。

誤嚥性肺炎を再燃せずに
摂取時間も大幅に短縮し
食べこぼしもなく
対象者の方も
介助する人も
お互いラクに行えるようになる。

このことは、もっとたくさんの方に知っていただきたいことですし
もっと重要なことは
「不適切な環境へ適応しようとした結果として起こる。過剰代償の結果として起こる」
ということが食事介助の場面でだけ起こっているわけではない
同じコトが違うカタチで現れていることがたくさんある。
ということを知っていただきたいと思っています。

どんなに良心的な職員でも
知識がないために
あるいはケアの常識に囚われてしまうと
「見れども観えず」になってしまっていることがたくさんあります。

観るポイントがわからなければ観ることはできません。
観ることができるように
このブログに具体的なポイントを記載していきますし
講演の時にはもっと明確にお伝えすることができます。
私の本の中にも記載してあります。

周囲にかけられたメガネを外して
目の前にいる人をまっすぐに観ることから始めれば
新たな発見がたくさんある。
常識として言われていたことは新たな概念のごく一部だった。
つまり今までの常識をさらに包含するような新たな概念を発見できることだってあります。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4137

パワーによる代償:全介助

食事全介助の方でも
同じコトが違うカタチで起こっています。

開口した時に舌が後の方に丸まってしまっていたり
口角から食塊が溢れたり
舌をスプーンの背で押した時に硬い抵抗感があったり
嚥下していないのに開口したり
これらは、対象者の方の能力低下ではありません。
適切なスプーン操作をするだけで解消される状態像です。

単に「食べさせる」「口の中に入れる」介助をしているだけでは
このような状態像を見過ごしてしまいますが
全介助の方でも食べ方は本当にいろいろです。
どんな風に食べているのか、観察することが重要で
観察もせずに「ゆっくり時間をかけた介助」が良いわけではありません。

たとえ時間をかけたとしても、
「何を確認しながら介助しているのか」自分の中でわかっていなければ
「見れども観えず」
自己修正が効きません。
大切なポイントを見過ごしているという意味では
時間をかけない介助と同じ結果になってしまいます。
「意味の理解」で書いたことと
同じコトが違うカタチで起こっているだけだと感じています。

クリスティーン・ブライデンが言ったように
「異常な環境には異常な反応が正常だ」

私たちは
認知症があろうがなかろうが
身体障害があろうがなかろうが
常に総体として環境適応しています。

養成課程において明確に学ぶ機会がなかったために
結果として職員が不適切なスプーン操作をしていれば
対象者の食べ方の巧みさ、細かな筋肉の多い口腔内の筋の協調はすぐに低下してしまう。
低下した協調を補おうとしてパワーで代償する。
舌の柔軟な動きが発揮できなくなってしまう。
代償が効いている間は不適切なスプーン操作にも適応できているが
代償では応じきれなくなり、結果として誤嚥が起こり、肺炎に至ってしまう。

特に
舌をスプーンの背で押した時に感じる「堅さ」「抵抗感」については
舌の過剰筋緊張が考えられます。

上の歯でこそげ落としたり
食べようとしている、そのタイミングに合わせて舌を押せなかったり
といった不適切なスプーン操作が行われれば
「食べにくい」と感じて
口腔内の筋の協調が低下した状態で
食べようとするならば、頑張ってパワーで代償するしかない
その結果として、舌が硬くなってしまう
そうすると、ますます、不適切な介助を引き起こし、
ますます口腔内の筋の協調が低下し
ますます、パワーで代償し。。。
悪循環が起こり、結果として、誤嚥性肺炎になってしまう。。。

だとしたら
回避すべき不適切なスプーン操作とは何か
望ましいスプーン操作の基本は何かを
明確に学ぶ機会がありさえすれば現実は変えられる。
認知症のある方は、ラクに安全に食べられるようになるし
介助する人は、ラクにスムーズに安全に早く介助ができるようになります。
誤嚥性肺炎は確実に減らせると確信しています。

変えようと思えば今すぐにでも変えられることです。
そして今まで知ることもなかった
認知症のある方の能力に触れる入り口になることを強調したいと思います。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4136