Tag: リハビリテーション

「頭の中がスッキリする」

言葉だけ聞いていると、まったく意味不明なことを話すような
意思疎通困難な方の言葉です。

「あんたと話してると頭の中がスッキリする」

ずいぶん前の体験ですが
何重もの意味で、すごく嬉しかったです。

この方は、(あんたに優しくされて褒められて嬉しかった)とは言っていません。

優しくされたり褒められたりしたかったわけじゃない。

「あんたと話してると頭の中がスッキリする」ということは
私と話していない時に、頭の中がスッキリしない。と言っています。

そして言外に
頭の中がスッキリしなくて困っていた、
嫌だった、
スッキリさせたかったけどできなかった、
というニュアンスを伝えています。

ということは
この方自身の中で前提として
自分の頭はもっとスッキリしているはず
という認識を持っていることを意味しています。

つまり
この前提を共有できている
(あんたは私の頭がスッキリしているはずということをわかってくれてる)
という信頼を共有した上で
(助けようとしてくれた)
(しかも的確に助けてくれたから本来の私でいられる)
ということまで伝えてくれているのです。

 

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= 話すことを援助 ≠ 話を聞く

認知症のある方への対応の誤解というのは
ヤマほどありますが、そのひとつが
認知症のある方の話を聞くのではなくて
認知症のある方が話すことを援助するということ

同じように思われるかもですが
似て非なることです。

力点は、あくまでも認知症のある方
ということなんです。

「私たちが」認知症のある方の話を聞く
のではなくて
「認知症のある方が」話すことを援助する・促す

つまり
私たちが認知症のある方の話を聞くのは
認知症のある方が話すことを促す、援助する「手段・方法」であって「目的」ではない
ということの違いを明確に認識することが大切なんだと考えています。

認知症のある方のout putが重要で
私たちのin putが目的ではない

ところが、いつの間にか、すり変わってしまう。。。
手段が目的化してしまう。。。

認知症のある方が言いたいことを言えるように
抑圧したり、忖度したり、不安になったりしないように援助できると
話をしている過程で認知症のある方自身が
ご自分の困難を解決されていくことも多々あります。
その場での解決ができなくても
認知症のある方が混乱の中で何が辛いのか双方にとって明確になり
認知症のある方自身の助けになりますし
私たちの助けにもなります。

「あんたと話してると頭の中がスッキリする」

認知症のある方は、それだけの能力を持っている。

 

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チームワーク:使う場所に情報提示

例えば
ポジショニングなどは
写真に撮ってポイントを書き込んだものを
使う場所に提示しておくようにしています。

今は電子カルテになったので
申し送りの時にカーデックスを使用することはなくなりましたが
カーデックスを使用していた時には
そこに同じものを挟み込んで情報提供
この目的は「ポジショニング設定をした」ということの共有化で
設定方法ではありません。

これで終わってしまうと
いざ、看護介護スタッフがポジショニングしようとした時に
「あれ?どうだっけ?」となってしまいます。
忙しいスタッフがわざわざスタッフルームまで戻って確認するのは申し訳ないし
ポジショニングをしながら細部まで確認しながら設定してもらうためには
「使う場所」にも情報を提示しておくことが大切だと考えています。

例えば
ベッド上のポジショニングならベッド周りに
車椅子上のポジショニングなら車椅子のバックレストのポケットに

情報を発信することは、こちらの責務
活用してもらいやすいカタチで発信することが大切だと考えています。

 

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信頼に足る行為の結果信頼される

いまだに言われているようでビックリですけど
「認知症のある方には毎朝挨拶して信頼関係を作る」とか。

いくら毎朝挨拶しても、それだけでは信頼されません。
もっと他にやるべきこと、やらねばならないことがあります。

なんとなく
ケアやリハの常識として伝えられていることを
自己検証することなく、そのまま言ってしまえる人もいるのかもしれませんが。。。

自分に置き換えて考えてみて。

毎日顔を合わせている同僚や上司を信頼できる?
信頼に足る上司や同僚だからこそ、信頼しているのであって
毎日会って挨拶を交わすからじゃないよね?

認知症のある方だって
信頼する人、気の合う人は、人それぞれです。

認知症のある方に信頼してほしいと望むのであれば
(もっとも私はそんなことを考えたことはなくて自分ができるようにと必死でしたが)
まずは自分が目の前にいる方の
信頼に足る行為ができるようにならなければ。

この人はちゃんと話を聞いてくれる
この人だったらなんとかしてくれる
この人はちゃんと向き合ってくれる
少なくともそう在ろうと努めている人だ

認知症のある方に適切な対応ができるようになりたいと心の底から願えば
認知症のある方に今何が起こっているのかを把握できるようになりたいと願うものだし
コントロールではなくて援助の姿勢で関与するように心がけるようになるものです。

そのような一連の過程は紛れもなく、伝わる
そしてその逆も

 

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チームワーク:対象者が変える

たった1人でも
自分だけでも
認知症のある方に、本当に適切なことができれば
どんなに重度の認知症のある方でも「変化」が起こります。

鋭敏な人、観察している人にはすぐわかってもらえる。

小さな変化が積み重なって
大きな変化となれば
否応もなく誰もが認めざるを得なくなります。
(それでも否定する人は、その人に問題があるのであってこちらの問題ではない)

対人援助職の人は
基本的には優しい人が多いから
相手が変われば変わったなりの対応をするようになります。

「人は環境の生きもの」「人は環境の子」と言われていますが、まさしく。
認知症のある方にとっても
職員にとっても

だから
たった1人でも
自分ひとりだけでも変わることの意味はある。
自分自身が適切な対応ができるようになることの意味はとても大きい。

適切な対応ができる人が増えれば増えるだけ
もっと有意義になってくる。
そのための連携、チームワークなんだと考えています。

 

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チームワーク:1人でも実践

まずは自分が適切な実践をできるようになること
たった1人でもいいから

自分ひとりが頑張ったって
って思ってる人がいるかもだけど
そうじゃない。

たった1人でも
適切な実践ができているなら
それは認知症のある方にとって大きな意味がある。

認知症のある方は
「自分はバカだから」
「私は何もわからないから」
「パーになっちゃった」
とおっしゃいます。

軽度の方はもちろん、BPSDの激しい方やすぐに忘れてしまう重度の方でもおっしゃいます。
異食をする方や大声で叫ぶ方でもおっしゃいます。
いろいろな状態像方がそうおっしゃるのを聞いてきました。
現在進行形でも聞いています。

「認知症のある方は病識がない」って言われていますが
それは違うと感じ考えています。
(これについてもまた別の記事で書いていきます)

認知症のある方が
自身のできなさ、わからなさへの困惑や不安の言葉を聞いたことがないのなら
それは認知症のある方があなたの状況を慮ってくれているか
(忙しそうだから親切なこの人を困らせるようなことを言ってはいけない)
あるいは、その真逆
(この人に言っても仕方ない、この人には言いたくない)
と思われているのだと思います。

私たちだってそうだと思う。
自分が信頼している人に相談したい、話を聞いて欲しいと思っても
目の前で忙しそうにして大変そうにしていたら
また別の機会にしようって考えるでしょう?

逆に
一見話を聞いてくれてるようで実は上の空で聞いてるフリだけしてて
話を聞いてもらえてる実感がなかったり
いい加減にあしらわれてると感じるような人には
本当に大切なことは話そうとは思わないでしょう?

多分
このブログを読んでくださっている方は
「認知症のある方は本当に職員をよく観ている」
って感じたことのある人だと思います。

これから書くこともそういうことかって思ってもらえるんじゃないかな。

もしも
自分が本当に認知症のある方に適切な対応ができたら
認知症のある方は間違いなくそのことを感受する。
そして、できなかった、ダメだった、うまくいかないのは
自分じゃなくて、できない・ダメな・うまくいかない相手との関係性のせいで
自分のせいじゃない。
自分はちゃんとできる、こんなにもできるんだって感じることができます。

それはとてもとても大きなことで
適切な対応ができる人が1人いるのと、1人もいないのとでは
認知症のある方の世界が180度変わります。

まずは
自分が最初の1人になること

それを観て
2人目になろうとする人が必ず現れる
本当に適切な対応であれば。

周りを変えるのではなくて
まずは、自分が最初の1人になること
自分のでき方を30%、50%、70%、90%と精度を上げていくこと

チームワークは
認知症のある方により有益なことができるようになる手段・方法であって
目的ではない。

誤解のないように補足すると
もちろん、チームワークが有効に機能すればそれに越したことはない
連携を否定しているわけではありません。

でも、その連携の土台となる最も重要なことを抜きにして
連携を唱えられても疑問にしか思えない。
30%しかできていない人たちが集まって「方法の統一」なんかされたら
認知症のある方は、苦しくて辛くてたまらないんじゃないかと思ってしまいます。

たった1人でも実践することの意味は
もうひとつあります。
それは次の記事で。

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チームワーク:手段の目的化

私が学生のウン10年も前から言われていた
チームワークの大切さと困難さ
古くて新しい課題

認知症のある方への対応について
他の人や他の職種とも連携して関わっていきたいという願いは正当と考えますが
でも、連携は手段であって目的ではありません。

「対応の統一」という言葉を聞いたことのない人の方が多いでしょうけど
私は「方針の統一は必要だけど、対応の統一は、かえって有害」と考えています。
(このことはまた別の記事に)

なぜチームワークが大切なのか
認知症のある方へ適切な対応ができる人が1人よりも2人、2人よりも3人いた方が
認知症のある方にとって有益だからです。

適切な対応ができる人を増やしていくことが目的として重要。

手段・方法と目的のすり替えは
あちらこちらで散見されていることですが
チームワークが目的化してしまっては本末転倒です。

認知症のある方へ適切な対応ができる人を1人ずつ増やしていく
この過程はもどかしいように感じられるかもしれませんが
この過程は認知症のある方にとっても意味があります。

それは明日また。

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チームワーク:前提の共有

講演後の質問で必ずといっていいくらい聞かれるのが
「他の人や職種の人に伝えるのにどうしたらいいでしょうか?」
「先生の話はよくわかるけど他の人は理解がない人もいるんです」
といった質問です。

気持ちはよくわかります。
私の話を聞いて理解してくれたからこそ
みんなに伝え実践して認知症のある方に寄与できるようになりたい
という志は本当に嬉しく心強く思います。

でも
「知る」≠「わかる」≠「できる」

私の話を聞いてわかっても、同じように実践できるとは限らない。

実践を伴わない言葉には、チカラがない。

まずは、自分が実践できるように。

認知症のある方は
関わり方によって変わってくるんだ
という体験を共有することが必要。

自分の関わりと、あの人との関わりとでは
認知症のある方の言動が違ってくるんだ
という異なる現実、もう一つの現実があるんだという
「どうしたら良いのか」という検討の前提要件を共有することが非常に重要だと考えています。

異なる前提、異なる体験を自覚せずに共有しなければ
検討のための意見が異なって当たり前です。

まずは、自分が認知症のある方の能力を80%引き出せるようになる。
実践してみせられるようになる。

そっちが先でそっちが重要
といつもお答えしています。

その理由は、もうひとつあります。
それは次回に。

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