Tag: リハビリテーション

介助は三項関係を意識する

認知症のある方は能力を発揮しながら暮らしている
という認識に立つと考えを新たにすることが多々ありました。

無自覚のうちにしていた援助を明確に見直すことができるようになりました。

たいていの人は
介助をする時には、介助者への協力を得るということを前提として考えています。

多分多くの人は違和感や疑問を感じないんじゃないかな。
私も前は何にも感じず考えずにもいたことです。
そこが実は対応の工夫を検討する上で問題になってくるところなんだと考えています。

認知症のある方は
環境を常に感受しています。
介助者の存在は環境を構成する1因子として認識しています。

でも
介助する側の人は、私の介助に抵抗しないで、協力してほしい
と暗黙のうちに考えその上で声をかけている。

認知症のある方は
認知機能障害が重度になればなるほど
同時並行的な対象の認識が困難になるから
対象と介助者と同時に認識して対応するのは難しいことなのです。

例えば
食事介助の時には、私は黒子役
食塊認識を明確に促すために、必要最小限の関与しかしません。
声かけも必要最小限。
私への反応がある時には応答する程度にとどめます。

服を着る時にも
感受・認識して欲しいのは、「服」であって「私」ではない。

認知症のある方にとって
今、すべきことの「対象」(食塊とか服とか)が主役で私は黒子役

三項関係を意識して
認知症のある方が対象を感受・認識・関与しやすいように
私が関わる

本質的なこと、
認知症のある方は能力が低下していると捉えるか、能力の不合理な発揮と捉えるか
この違いによって、引き起こされてくる在りようは非常に大きくて
じゃあどうしようという具体的な方法論はその次に成り立つことなんだけど
巷間、話題になるのは枝葉の部分ばかりのように感じられてなりません。

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実習で思い知ったこと

もう何十年も前のことですけれど
私も実習に励む学生でした。

実習で学んだことは数あれど
思い知らされたことは、責任の重さでした。

対象者の方を評価する

今は指導者がいて
教えてくれる、フォローしてくれる、間違いを正してくれるけれど
いずれは(そう遠くないうちに)こんな私が自分一人で
対象者の方を評価してその評価に則って治療をしなくてはいけない
その責任の重さにとても怖くなりました。

だからこそ、学ばねば。
自分の不出来のせいで対象者の方に不利益があってはいけない。

本当に必死でした。。。
「OTとはなんぞや?」なんて考える暇もない。

自分が納得できる、本当に効果のある考え方とそれに基づいた方法論を
自分の中で整理して言語化できるようになったのは、もっとずっと後のこと。

皮肉なもので
「OTとはなんぞや?」なんて考えたこともない私が
今では「OTとは何か」を明確に言葉にできるようになりました。

ま、当たり前といえば当たり前ですよね。
だって私はOTとして養成され仕事をしてきたわけで
それ以外の何者にもなれなかったのだと
今はわかります(^^;

卒業してからしばらくは
よくわかりもしない、出来もしないくせに
とりあえずはその場を取り繕うようなことしかできなかったし言えなかったし
そういった自分を心底情けなく思っていたし
色々な本を読み、研修に出かけ、でも自分にとっての手応えがなくて
本当に辛い時期が続きました。

自分の求めていることと違うということはわかるけど
どうしたら良いかがわからない。。。

でも、そこで諦めなくて本当に良かったと思っています。

諦めていたら
事実を事実として認識できず
自分が困らないように、事実を事実のままに認識できる人を否定するようになっていたと思う。

対象者の方に対しても
周囲の人に対しても
自分自身に対しても
誠実では在り得なかったと思う。

心の片隅で、葛藤を覚えていても知らぬふりをして
日々の安寧を優先していたと思う。

対象者の方に信頼されなくても
対象者の方を信頼することができなくても
そんな自分で平気なふりをするしかなくても
何にも感じないように不安や葛藤を抑圧していたと思う。

うわー今こうやって書いていても本当にイヤ!
そんな自分にならなくて、本当に良かった。。。

長くて遠い回り道でしたけれど
時間もかかったけれど、
私にとっては意味のあることで必然だったと思うし
無駄になんてなっていないと思ってはいるけれど
これからの未来を担う人たちに同じ苦労はしてほしくない。
その分の時間とエネルギーをより建設的な方向で使ってほしいと願っています。

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適切さ//目標

唯一絶対の、万人に効果的な方法などない。

ハウツーを当てはめるようなやり方では
目の前にいる固有のAさんの役に立つことは難しい。

その時その場のその状況において
「適切な」対応をとれること

私がずっと追い求めてきたこと

そして
「適切さ」の根拠は
誰かの承認、誰かの同意なんかではなくて
目の前にいる固有のAさんの目標に置いています。

 

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身体の働き>筋力低下

「NHKのくねくね体操」のことを記事に書きました。
https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4278

生活期にあるお年寄りの場合に
暮らしの困難とりわけ移動に関する困難が生じると
「筋力低下→筋力を落とさないように運動」という図式めいた考え方が一般的になっているように思われます。

でも、本当にそうなのかなぁ?という疑問はずっと抱いていました。

例えば
歩けてもスムーズには立ち上がれないというお年寄りはたくさんいらっしゃいます。
一般的には、大腿四頭筋の筋力強化をして、立ち上がりの練習をして。。。
という「リハメニュー」が提供されることが多いのではないでしょうか?

かつて老健に勤務している時に
入所の方でも通所の方でも
立ち上がれない方に対して、座る練習をしただけで
立ち上がれるようになった方が相当数いらっしゃいました。
こちらにも、その内容で何回も記事を書いています。

もしよろしければ
このページの一番上右側にある窓から「立ち上がり」で検索してみてください。
過去の立ち上がりに関する記事一覧を参照することができます。

私は
本当は筋力低下が起こっているのではなくて、身体のはたらきが低下している。
その結果として筋力低下も起こりえる。
と考えています。

だから座る練習で立ち上がれるようになったのだと。
正確に言うと、
座る練習で立つ・座ることの関する身体のはたらきを高めることができたので
立ち上がれるようになったのだと。

座る練習をする過程で積極的に的確に「援助」することが必要で
自立するためには、独力での動作練習を繰り返すだけでは実は効果的ではない。

身体のはたらきを高めるために、まずは的確な援助が必要で
身体のはたらきが高まった結果、独力でもできるようになるのだと。

そして
本来「援助」とは、何の援助でもそういうものなのではないか
と考えています。

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観える現実が異なる

認知症のある方への対応として
いろいろ言われていますが
職員がどんな視点で関与しているのかによって、観える現実が異なってくる
という前提に関する議論・検討が少ないように感じています。

能力が低下しているから
と観るか
能力によって代償・適応しようとしているか
と観るか

同じ現実に対して、異なる視点で異なる現実を見ている。
だから、どうしたらいいか、意見も違ってくる。

意見の違いは、はっきりわかりやすいから認識しやすいし
現実に必要と迫られていることも相まって、論点としてすり替えられがちです。

視点の違いは、認識しにくい。
そもそも自分がどんな視点を持って観察しているのかということに無自覚な場合が圧倒的に多いです。

「意図こそが重要」

これは、スティーブ・ジョブズの言葉ですが
正しく!
視点によって関与の在りよう、意図が決まってくる。

まずは
視点によって観える現実が異なっている
という本当は当たり前のことから始めると
問題設定の問題に対して、クリアに検討できるようになると考えています。

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カタチとハタラキ

様々な分野で
リハの知識と技術の蓄積が進んでいるのは本当に素晴らしいことだと思う。

たくさんの方の地道な日々の臨床の積み重ねの恩恵を
私も手にし、そして、次の世代へ手渡せる過程に関与できることに感謝しています。

同時に
蓄積と伝承が良い面だけで起こっているわけではないことを危惧しています。

私は認知症のある方を対象にして働いていて
食事をはじめとするADLやコミュニケーションについて
目の前の事実に対して観察と洞察と実践とその後の考察を重ねてきました。
その結果、確実に言えることがあります。

カタチにはハタラキが反映されている。

そのハタラキを観察し洞察することが治療的環境として作用する。

カタチだけを見て
正常から逸脱したカタチを問題として認識して
カタチを修正・正常化しようとするような関与の在りようは
たとえ、善意からであったとしても
結果的には反治療的環境として作用してしまいがちです。

私たちは常に「関与しながら観察」しています。
傍観者として関与することも可能だし
こちらに合わせることを要請する者として関与することも可能だし
本来の意味での援助者として関与することも可能です。

そして、その「関与」の在りように応じて
対象者の方も応答するから
在りようというのは観察の入り口として
本来は、どれだけ重要視されてもおかしくないことです。

私が食事介助において
適切な食形態を選択することと
適切なスプーン操作をすることの重要性を言っているのは
それらができて初めて、対象者の方の本来の食べる能力を
観察するための入り口に立てるからなんです。

対人援助職は
意思として援助者として関与したいと願っていながらも
結果として、無自覚のうちに要請者として関与してしまっている、
そうすり替わってしまう危険性を内在している職種なのだということに対する警鐘が為されにくい

たとえば
食事介助に関して言えば
本来の食べる能力を観察する前に
何とかして食べさせよう、飲み込んでもらおうと考えてしまうことにすり替わってしまう。

すり替えは容易に起こりやすく自覚しにくい
ということが潜在する大きな問題だとも感じています。
このことについては、別の記事で考えをまとめてみるつもりでいます。
今は、カタチとハタラキに絞って書いていきます。

カタチには、その方の能力も障害も反映されている。

ところが、現実には目に見えるカタチを見て、正常なカタチと比較し
異なるカタチを正常化しようと取り組んではいるけれど
目に見える通常とは異なるカタチに反映されているその方の能力を観察・洞察し
その能力をより合理的に発揮できるように方法や環境を調整・適合・提供し
能力の発揮「過程」を観察・洞察しようとしている人は少ないと感じています。

立ち上がりができない方に
立ち上がりを練習させることはあっても
座り方を練習させるセラピストは少ない。

現実には
立ち上がりができない方は
往々にして、座り方も巧みにはできない場合が多い。

けれど、多くの場合に
立ち上がり方を見てはいても
その同じ場面で起こっている座り方は見れども観えずになってしまっている。

実は、その座り方に、そして立ち上がれないけれど立ち上がろうとしているそのハタラキにこそ
その方が立ち上がれるようになるための能力が反映されているのに。

認知症のある方が
口を開けてくれない、溜め込んでしまう、飲み込んでくれないという場合に
なんとか、口を開けてもらおう、飲み込んでもらおうという在りようで接してしまうと
そもそも、どのように食塊を認識し、こちらのスプーン操作に適応しているのか
見れども観えずになってしまい
食べる過程において、嚥下の機能解剖に沿った観察ができずに
口を開けてくれなさ、飲み込んでくれなさに現れている能力を
結果として、見落としてしまうことになってしまいます。

口腔ケアで
開口に協力してもらえないと
ケアを断念してしまうか、無理やりケアをしようとするか、可能な範囲にとどめておくか
にとどまってしまい
協力してもらえなさに反映されている、その方の能力と障害を見れども観えずになってしまって
次へ進めるはずのステップに踏み出せなくなってしまう。

同じコトが違うカタチで現れている。

皮肉なことに
知識と技術の蓄積が進むほど
本来、その蓄積を支えてきたはずの観察・洞察という過程が抜け落ち
表面的なハウツーというカタチでの伝承になってしまう。。。

「〇〇という状態像の方がいるんですけれど、どうしたらいいでしょうか」
このような問いというカタチは、そのような思考過程で臨床に臨んでいるというハタラキの表れでもあります。

カタチにはハタラキが反映されている

ハタラキを知るためにカタチを観察・洞察する

対象者の方にとっても
私たち対人援助職にとっても

私たちは常に相互関係の場に存在している。
だからこそ、ICFという相互関係論に依拠した実践によって
相互にハタラキを変え
結果として、カタチすら変わることが可能なんだと考えています。

 

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食事介助で意思疎通が改善

意思疎通困難な方によくあるのが
食事介助のスプーンに、うまく協力しながら食べ物を取り込むことが難しかったり
立ち上がり介助の時に、介助者に協力しながら動くことが難しかったりする
というケースです。

口を閉じるタイミングがズレたり
立ち上がる時に車椅子のアームレストにしがみついたり
多分、誰もが一度や二度は、そういう場面に遭遇していると思う。

結局のところ、同じコトが違うカタチで現れているだけなんだと実感しています。

相手やスプーンという対象や環境に
自らの身体をうまく適合させる
ということが難しい。

このような場合に
通常の方法をどれだけ繰り返してもできるようにはならない
「ちゃんと食べてね」と言ったり
「ちゃんと立ってね」と言ったりすることは
善意からの発言であったとしても、結果的には、むしろ逆効果になってしまうと感じています。

混乱せずに入力しやすいように
刺激の量と質を調整させながら環境調整する(声かけや介助方法を工夫する)
ことが肝要だと考えています。

食事介助をして
食べられなかった方が食べられるようになると
意思疎通も改善されていく
口腔ケアをして
ケアに協力できるようになると
意思疎通も改善されていく
というケースをたくさん経験していますが
同じコトが違うカタチで起こっているだけなんだと感じています。

食事介助や口腔ケアは
工程がシンプルで結果が明白だから
自分の関与のフィードバックが得られやすい
何がどう良くて、何がどう悪いのか、PDCAを回しやすい

過程において
特性も能力も把握しやすい

この方は
こっちの奥歯で噛むから
Kポイントは反対側を使おう
口腔ケアのブラッシングは奥歯の上面をブラッシングすると開口しやすい
といったことをこちらが把握できているというのは、多分、相手にも伝わっている

把握した上で介助しているのと
把握せずに介助しているのとでは全然違う。

普通に話していても
こちらの話を深く理解して聞いてくれているのか、そうでないのか
って、かなりわかるんじゃないかな。
それと同じだと思う。

口腔ケアという場面での
介助する・されるという相互体験・相互作用を経た上で
「歯磨きします。口を開けてください」という声かけで
スムーズに開口してくださるようになったのだと思う。

「こうすれば開口スムーズ」というハウツーではなくて
その場面において、相手の状態を把握し援助するという「体験」は
目に見えるのは「口腔ケア」だけれど
まさしく、ノンバーバルコミュニケーションの過程そのもの

ADLは、カタチとしての項目の下支えとしてノンバーバルコミュニケーションがある
二重構造になっている。

認知症のある方に
その人らしさを発揮してもらおうと
何か、Activityに取り組んでもらうのも良いけれど
特別なことをしなくても
ADLそのものを援助することが、同時にその人らしさを発揮してもらうことにもなっていると感じています。

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関与できたことしか観察できない

ハリー・スタック・サリヴァンという精神科医の言葉で
「関与しながらの観察」という言葉があります。

この言葉の重みを感じる今日この頃ですが
最近、意味をもう一段深く理解できるような体験が続いています。

関与できたことしか観察できない
関与できないことは観察できない
関与できるから観察できる
だから関与しながらの観察が重要

例えば
認知症で意思疎通曖昧な方の口腔ケアを行う時に
その方の能力がわからないと適切な関わり方ができないので
口腔ケアを行うことがとても難しくなってしまいます。

仮に
開口してもらえたとして
硬口蓋(舌先で触れる上の顎の部分)に
白色の乾いた痰が付着していることが見えたとしても
実際に口腔ケアをしてみると
上の歯の裏側には茶褐色に変色した乾いた痰を拭い取れたりする。

口の中を見ることができなければ
硬口蓋に付着した白色の乾いた痰が付着していることを見られない
実際に口腔ケアができなければ
歯の裏側に付着した茶褐色の乾いた痰が付着していることを見られない

開口してもらえるような関わり方ができて初めて
硬口蓋に付着した痰を見ることができる

例え、開口してもらえたとしても
口腔ケアに協力してもらえるような関わり方ができなければ
硬口蓋に付着した痰を見ることができても
歯の裏側に付着した痰を見る、存在を知ることができない

実際には存在しているけれど、自分が知らない、見えないのと
実際に存在していないのとでは、全く違う

自分の関わり方、知識と技術の深度に応じて
その方の状態の見え方が異なってくる

口腔ケアは、
結果が明白だから、とてもわかりやすいけれど
同じことが違うカタチでいろいろな場面で現れているのだと実感しています。

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