いろいろなことをすると良い刺激になる?

作業に語らせる:輪くさり

ヒポクラテスの誓いは
「まず第一に患者を傷つけないこと」
と言う言葉から始まると聞いたことがあります。

私は医師ではありませんが
対人援助職として、この言葉は肝に銘じています。

良いことをしようとするよりも
悪いことをしないようにする

認知症のある方に対して
多様なActivityを提供することには疑問を抱いています。

MCIの方には通用することもあるかもしれませんが
重度になればなるほど現実には難しい。。。
その方ができることは限定的になってきますし
日々暮らすだけでその都度一生懸命どうしようかと考えています。

「私、カラオケは大好きよ。
だって、考えなくていいんだもの。」

この言葉を聞いた時の衝撃を忘れることはありません。

考えなくても楽しめること
新しいことを覚えなくてもできること
嫌いなことや苦手なことを頑張らなくてもいいこと

余暇活動は楽しんでリフレッシュできることの方が大事だと思いますし
治療的な意味合いを考えても
失われてしまった能力は努力してもできるようにはならないのだから
潜在している能力や不合理な現れに反映されている能力を見出し
より合理的に発揮してもらえるような援助を考えることの方が大事だと思います。

普通に考えて、大の大人が
文系の人に「数学は論理的思考のトレーニングに役立つから毎日やりなさい」
理系の人に「漢文は文学的素養を高めるために役立つから毎日やりなさい」
と言われてできますか?

子どもは自分自身でも何が適しているのか分からないから
さまざまな体験をすることに意義があるし
ネガティブな体験からもポジティブな体験からも学んで
自身の成長に役立てるようにする意義もあると思います。

でも
高齢者は?
まして重度の認知症のある方は?

説明された工程を理解し、覚えて、実践する
新しいことを覚えることは
近時記憶障害のある方にとって最も苦手なことです。
まして、自分の不得意な分野のことは。

私たちが認知症のある方に接する以前に
既に認知症のある方は暮らしの場面で
さまざまな失敗体験・喪失体験を重ねています。

余暇活動において
まして治療的な場面において
余分な失敗体験・苦手な体験をすることの意義が
私には理解できません。

目の前にいる方には
長年の人生経験で培ってきた特性がある
たとえ重度の方でも生きている限りできることがある。

いろいろなことを提供する
と言うことは、つまり、そのかたの特性も能力も把握できていないから
という側面があるのではないでしょうか?

認知症のある方が
今、楽しめること、特性と能力を発揮できること
それが何なのかを具体的に提供できることが
本当の作業療法士なのだと考えています。

  

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