スポンジでROM維持

私は老健で勤務している時には
スポンジやゴムといった収縮性や反発性のある素材を
さまざまな場面で活用していました。

今は精神科病院の認知症治療病棟で勤務していますが
対象患者さんは身体に障害のある方
例えば、脳血管性障害後遺症で身体に麻痺のある方もいます。

認知症治療病棟ですから
身体面のリハの実施はメインではありませんが
もともと入院している患者さんが転倒骨折をした場合も含めて
身体面のリハも行います。

その時に心がけているのは
今ここでのリハで完結することをベースにリハ実施を行うのではなくて
退院して次の施設での継続したリハが展開できるように
どのような場面設定や対応の工夫をすれば
リハが進展しやすいのかということを明確化しながら行っています。

BPSDが落ち着いていれば
老健に移行すれば、より充実したリハが行えます。
他に優先すべき事情があって老健には移行できないとなれば
退院先の施設で可能な代案を提案することも考えます。

ポジショニングもまだまだ誤解が多いのと同じように
ROM訓練にも誤解が多いのが現状で
知識と技術が伴わないと善かれと思ってやったことが
結果として逆効果になることもままあります。

脳血管性障害後遺症片麻痺によって
手指が拘縮してしまう方は大勢います。
そのような生活期の方に対して
漫然としたROM訓練が提供され、結果として逆効果になることを防ぐには
ROM訓練は行わずに、きちんとフィットしたスポンジを装着することで
ROM訓練の代替として拘縮予防・改善をすることが可能です。

リハスタッフがいない施設へ退院する場合に
比較的安全に対象者のためになることを提案できます。

正確に言うと
生活期にある方の場合に
関節を他動的に動かす時には
筋緊張を緩和しないと本来の可動域を明らかにすることができません。

適切に調整されたスポンジは
筋緊張の緩和にとても役立ちます。
筋緊張の緩和にかかる時間とエネルギーを省いて
次の段階のリハを提供しやすくなりますし
スポンジを装着するだけでも関節の可動域を維持するために役立ちます。

もちろん、前段階として適切なポジショニングは大切ですが
ポジショニングだけではできないこともあります。

スポンジ装着は
筋緊張を緩和し、拘縮を予防するだけでなく
できてしまった拘縮の悪化を予防し
拘縮による外傷を予防することもできます。
(手指を硬く握り込んでしまうことによって
 手掌に爪が食い込んでしまう等よくあります)

こんなふうにごく細い薄いスポンジでも効果があります。

タオルを巻いて握らせたり
ガーゼをはさみこむのなら
私はスポンジをお勧めします。

スポンジだから加工も容易です。

その方の手指の状態に合わせて
今の状態を否定せずに
今がより楽になるように

手指がタオルやガーゼに合わせるのではなくて
スポンジが手指に合わせてくれます。

スポンジという反発性のある素材によって
手指に力が入ってしまっている時には縮んで
手指の力が抜けた時には、膨らんで
常に手指にそって形を変えてくれます。

タオルを巻いて握ってもらうにしても
ポジショニングでも
よくあるのが、無理矢理伸ばしてるだけで
外したとたんに、ぎゅっと肘や膝や手指が屈曲してしまう
というケース。
これは百害あって一利もないので
今すぐにでもやめていただきたいものです。

適切に調整されたスポンジであれば
外しても、手指がリラックスして伸びていますし
手指に装着しただけなのに、手関節や肘関節まで緩んできます。

ウソみたいなホントの話です。
ウソだと思ったらぜひ試してみてください。
ただし、手指の最大可動域まで広げた大きさに作らないこと
そして、スポンジ装着によって手指を伸展させても
近位の手関節や肘関節を代償的に屈曲を引き起こすことのないように
スポンジを大きく作りすぎないことがポイントとなります。

作り方は、こちらをご参照ください。

また作成上の注意点は、こちらをご参照ください。

スポンジは
力を入れて潰れてしまうものだとちょっと弱いです。
ピンクのスポンジは、ダイソーさんのキッチンスポンジで作りました。
私のお気に入りのキッチンスポンジはこちら。

もし該当商品が陳列されていない時には
他の商品をちょっと触らせてもらって
しっかり反発性のある素材を探してみてください。
キッチンスポンジだけでなく、バススポンジや、洗車スポンジにも
良いものがあるかもしれません。

 

・・・・  2021/12/26追記・・・・・・・

使用する時には、ケースによっては
ガーゼでスポンジを包んで手背に固定することもありますが
衛生面を考慮して、スポンジを洗って乾燥させる時用に
すぐに置いてすぐに取り出せるように
100均で購入したものを使っています。
元々はスポンジ置きではなくて、他の何かだったと思います。
確認しました。
「ステンレス棒掛けボトルホルダー」でした。

私が欲しかったのは
1)通気性・換気性が良いもの
2)置く場所は流しの上と決まっているからそこに吊るせるもの
3)置いたり、取り出したりが1工程ですぐにできること
OTだからこそ、商品本来の使い道に限定して探すのではなく
使用時のイメージに合うものを幅広く探していくと
良いモノに巡り会えます (^^)

あと、ちょっとしたことですが
洗い替え用に予備も必ず作って看護介護スタッフに提供しますが
その時に破損や紛失を見込んで
自分用に予備を1つ作って保管しておくと
万が一、破損や紛失をした時にもすぐに追加で作り直すことができます。
自分用の予備がないと、状態確認〜大きさ決定に時間が必要です。
自分の予定と対象者の方の都合が合わないと
それだけ作成までに時間がかかってしまいますが
手元に予備があれば、予備に合わせてすぐに追加作成できます。

当然のことですが
適合させてしばらくは
装着中、装着後の手指の状態確認は必須です。
また、適合に問題がなくても、
装着して1ヶ月もすれば、効果が出て
上肢の筋緊張が緩んで当初作成したスポンジでは
良い意味で合わない=小さすぎる
ということも起こってきますので
その場合には、近位の関節の状態を確認しながら
スポンジを一回り大きく再作成することも必要となります。

 

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Activityの提供:考え方の提案

認知症のある方にActivityを提供しようとすると
いくつもの難関が待ち構えています。

それらの難関を乗り越えて
どうしたら適切なActivityを的確に提供できるのか

希望を尋ねても
希望を言えなかったり
述べた希望が認知症のために遂行困難だったり
かつての趣味活動を認知症のために行えなくなっている
ということは、よくあることです。

つまり
尋ねた希望をそのままActivityに導入することは難しい
というケースが多々あります。

認知症のある方に
希望を尋ねる意義は
その方にとって大切にしていることや
その方の特性を確認することができる
ということであって
希望を実現するだけが意義あることではない
実現するために希望を尋ねるのではないと考えています。

  ここには
  「褒めてあげることが大事」「なじみの関係」と言った
  流布している定着している考えが吟味検討不十分なまま
  導入されやすいという現状、概念の混同による誤認があると考えています。
  具体的には「常識の罠」に書きましたのでご参照ください。

希望を尋ねたら
身寄りのない一人暮らしの認知症のある方が
「遠方の実家にあるお墓参りに行きたい」
と答えた時にどうするのか?
という問いを提起しました。

現実的に病院・施設に勤務する作業療法士が
関与できることではありません。

ただし、そのように答えた
というところにその方の意義があります。
そこをもう一段さらに尋ね返すことはできます。

なぜ今お墓参りに行きたいのか
過去のお墓参りをどのようにしてきたのか
実家を離れて暮らしてきたことをどのように感じているのか

「お墓参りに行きたい」という言語化された希望の裏にある
背景・経過・状況を語れる範囲で語っていただくことで
その方の理解が深まります。

  場合によっては
  語ったことを通して
  ( 聴き手が聴き上手な場合に限定されますが )
  「お墓参りに行きたい」という希望が叶えられなくても
  納得されることもあります。

何を大切にしているのか
ものごとにどのように対処する人なのか
そこをActivity選択の検討材料にすることができます。

希望を尋ねて
実現援助可能であれば希望に沿ったActivity検討をするのもいいでしょう。
仮に実現援助不可能であったとしても希望を尋ねる意義はあります。
尋ねた希望を対応に活用する。

実現するために希望を尋ねると考えた尋ね方をするのではなくて
「あなたがあなたであることの再体験を援助するために
希望を教えてください」
という考え方の方がスッキリすると思います。
たとえ、重度の認知症があっても、答えられなかったとしても
必ず希望を尋ねることの意義を
作業療法士自身が自覚し明確にすることができます。
そして、尋ねた希望の答えを治療・対応に活用することができます。

 

それでは具体的に。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ その方の特性を把握する      :Act.の傾向を決める      ・
・    ↓                            ・
・ 今の能力でできることを探す    :Act.の種目を決める       ・
・    ↓                                 ・
・ 今の障害から必要な配慮を明確にする:Act.の場面設定を工夫する    ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Activityには傾向があります。
仕事的な要素が強い、表現系、他者との協働という要素etc.
ご本人の特性もあります。
お一人で没頭したい方、他者との交流を好む方、交流のパターンetc.

ここを外さないことが肝要です。
ここを外さなければ修正を繰り返してより的確に
という試行錯誤が成立します。

希望を尋ねることの意義は
Activityの傾向を決定する段階に反映されます。

次に今できること
あまり人の手を借りずに
作業療法士の援助なしでもできることを模索します。

援助が必要なAct.を提供する場合には
援助が必要な意義を(できないから手伝うレベルの話ではなくて)
作業療法士自身が自覚・明確化している必要があります。
  例えば、補助自我的に関与することの明確化・象徴としての援助等

その過程で
必然的に障害を考慮して場面設定に配慮することになります。

詳細は
「Activity選択の考え方」をご参照ください。

 

 

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帰宅要求への対応

リハ中に帰宅要求のある方へ対して
どのように考え対処すると良いのか。という提案です。

まず、多くの人が
どうやって帰宅要求から気を逸らして
リハに集中してもらえるか考えるようですが
そうすると逆効果になってしまって
認知症のある方にも悪いし
自分自身も辛くなったりしませんか?

私は
まず、再認可否について確認しています。
その確認は、困った場面に遭遇してから行うのではなくて
普段のいろいろな関わりの中で自然に行えますから
近時記憶の連続性とか再認可否については
意図的な質問やポイントを見逃さずに
あらかじめ確認しておくと対応の幅が広がります。

さて
実際の対応ですが、下記のように
状態像によって対応を変えています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   ・
・                           ・
・ 1)    再認可能な方              ・
・ 2−1)再認困難だが、私との疎通を自覚できる方 ・
・ 2−2)再認困難で、私との疎通を自覚できない方 ・
・                           ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1)    再認可能な方
HDS-Rが1桁の方でも再認可能な方は少なくありません。
再認可能な方には、きちんと事実を説明するようにしています。
再認可能なので説明された事実を受け入れてもらえます。
「帰宅要求のある方に対して(1)」

注意点としては、受け入れやすい説明を心がける
ということでしょうか。
特に声の大きさや口調といったノンバーバルな表現に
こちらの感情が反映されやすく
また認知症のある方も反応しやすいので
少なくとも自覚的であるべきであり
できれば意識的にコントロールできると良いと思います。

 

2−1)再認困難だが、私との疎通を自覚できる方
再認困難でもきちんと私との疎通を自覚できている方には
その方にとっての切実な裏付けとなっている感情表出を
妨げないように話を聴きます。
始めは表出することに精一杯です。
表出に精一杯な時にはまず表出してもらうことを優先します。
そのうち、変化が生じます。
ちゃんと聴けていれば必ず変化を感じるものです。
表情や口調や身体の動きなどノンバーバルなところに現れます。
その変化を逃さずに「介入」をします。
どんな介入をどんな風にというところは、
その時その方の変化に応じて異なります。
関与しながら観察していれば、
その時その状況のその関係性において
どうしたら良いのかという答えを感受することができます。

 その方から「お話しちゃってごめんなさいね」と言われれば
 すぐにリハの場面を伝え何をどんな風にするのか伝えますし
 (それで済んでしまうことも多々あります)
 幾多の人生の困難を乗り越えてきたその方法を尋ねて
 答えてもらうこともあります。
 (あなたは困りごとを乗り越えてきたと暗に伝える意味がある)

 これらのやりとりを通して
 信頼「感」が醸成されることはよくあります。
 私が誰でどういう仕事かは忘れられてしまっても
 なんとなくでも頼りになる人だと思っていただける。
 いい加減なことを言ったりしたりする人ではないと思っていただける。
 それは本当に困った時に、頼るよすがとなるものでもあります。
 お互いに。

 もっと言うと
 いつか病状が進行して別の困難に遭遇した時に
 その方が別の場所で別の誰かを信頼しようとするかどうかにも
 関わってくることなのだと感じています。

 

2−2)再認困難で、私との疎通を自覚できない方
あまりにも訴えが切迫していて
こちらの声かけが耳に入らないような状態も起こり得ます。
そのような時には言動を否定すると火に油を注ぐようなことになって
逆効果となってしまいます。
認知症のある方の言動を否定せず、安全確保を最優先にして見守ります。
関与しながら観察していると必ず変化を感受することができます。
その変化を見逃さず「介入」します。
その方が感じているだろう感覚を言語化することによって
私との疎通を図ります。
こちらに注目を向けることができれば
その感覚に対応する行動に繋げます。
「イマ、ココ」という現実に戻っていただくために
感覚の表現と表現された感覚に基づく行動をきっかけにします。
ここで応じていただければ、焦らなければ
リハの場面へ誘導することが可能となります。

  ただし、ここでリハの場面設定「 何をどうするか 」が曖昧だと
  また混乱に戻ってしまうことも起こり得ます。

混乱しないで場面の切り替えに応じてもらえるためには
認知症のある方にとって明確な場面であることが必須で
ここに状態像把握が必須
能力の活用が必須という意味があります。
「帰宅要求のある方に対して(2)」

 

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Activityの提供:現状分析

認知症のある方にActivityを提供しようとすると
いくつもの難関が待ち構えています。

  それらの難関を乗り越えて
  どうしたら適切なActivityを的確に提供できるのか
  ということは後日改めて記載していきますが
  その前に現状について明確に理解する必要があると考えます。

希望を尋ねても
希望を言えなかったり
述べた希望が認知症のために遂行困難だったり
そもそも意思疎通が困難だったり

 身体障害であれば
 遂行方法を変更することでできるようになることはありますが
 認知症の場合、難しいものです。
 例えば、調理困難な方に対して
 道具を工夫することで片手でも調理ができるようになることはあっても
 認知症のある方に異なる使い方をする道具を提示すると
 その道具の意味することがわからなくて使いこなせない
 ということはよくあります。
 同じことを違う方法では行えないので
 その方の手続き記憶やイメージを大切にする必要があります。

また「一緒にやるから大丈夫」
という言葉は遂行機能障害や構成障害のある方には
通用しない言葉です。
詳細は下記の記事をご参照ください。
 「中身の連携:Act.の選択」
 「結果として起こることの目的化」

バッテリーや検査をしても
それらの障害の本質を理解できていないと
目の前にいる認知症のある方の言動に反映されている
それらの障害と、
にもかかわらず、なんとか対処しようとしている努力をも
見れども観えず
見過ごしてしまったり、見誤ったりしかねません。

Activityを実施できたとしても
「セラピストの脳が認知症のある方の手を動かしている」
という状態を
自覚して葛藤を覚えた人だっているでしょう。

しているのか
やらせているのか
見た目同じように見えても
セラピストの関与のベクトルは真逆です。

「何もしないと認知症が進行してしまう」
というのも大いなる誤解で
「何かさせることによって
 できない、わからない体験をさせれば認知症のBPSDは悪化する」
ことだって起こり得ます。

例え、善意からであったとしても
「できない」「わからない」「不安」「心配」な体験を
わざわざリハビリテーションとして提供する必要はありません。

認知症のある方は
暮らす、生活する、だけで
たくさんのできなさ、わからなさ、不安、心配に
直面し続けています。

「する」からには
 認知症のある方にとってのプラスの体験・意義がなければ。

それらの意義を
私たちがわからなければ。

ところが
現実には「意義」よりも「できること」が模索されがちです。
それだけ「できること」が限定されているとも言えるでしょう。
 本当にあったこと1
 本当にあったこと2
 本当にあったこと3
 本当にあったこと4

できることを優先すると
「意義」を見失うことが往々にして起こります。

できないことを提供すれば
一緒に手伝ったとしても
(現実には手伝うことにならないことが多々生じる)
ネガティブな感情を惹起させてしまいます。

ここに認知症のある方への
Activity提供の難しさがあります。

だからといって
本人のニーズを探索するよりも
周囲の要請にそって行うという考え方が適切だとは
私にはどうしても思えません。

周囲の要請への配慮は必要なのはいうまでもないことですが
本人のニーズに合致したActivityは
結果として周囲への要請にも合致する
という方向性を模索すべきだと考えていますし
実際に現実的に可能でもあります。

その実践への第一歩は
認知症のある方へのActivity提供の難しさを
明確に自覚することであり
「第一に患者を傷つけないこと」
というヒポクラテスの誓いから外れずに実践するという決心だと考えています。

一発で最適なActivityを提供する。などという無謀な道は諦めて (^^;
外さないという姿勢で臨んでいます。

認知症のある方とのやりとりを通じて最適なActivityを探っています。
その結果として、1〜2回の探索で
ご本人も集中でき、周囲への要請にも合致し、特性も反映されている
Activityを提供できるようになってきたと感じています。

 

 

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Activityの提供:本当にあったこと4

前に利用していた施設では徘徊がひどくて
でも「塗り絵は好き」で塗り絵をしている時は徘徊をしなかった
という方がいました。

お話してみると
意味不明な発言もありながら
どうも塗り絵が好きというイメージがありません。
人が好きで、お世話をすることを厭わない感じで、働き者で。。。
という印象の方でした。

静かに座って塗り絵という表現活動を好む
という印象ではないのですが
情報として「塗り絵が好き」とあったので
まずは塗り絵を提供しました。

そこではっきりわかったことがあります。

塗り絵が好き
なのではなくて、塗り絵を媒介とした対人交流が好き
だったのです。

下絵の線からはみ出してしまったり
下絵の意味がわからない状態でした。

「どこを塗ればいいの?」
「塗り終わったわ。次はどこ?」
とその都度私に確認を求めてきました。
(確かにその間徘徊することはありませんでした。)

この方にお話を聞いたところ
兄弟が多くて自分は長女だから下の子をおぶって
近所の子達と遊んだことや
ご両親はお仕事で忙しかったから
おじいちゃんおばあちゃんのお手伝いをしていたことを
語ってくれました。

その時に
私の指示に従って塗り絵をするという今の活動は
祖父母のお手伝いをするという昔の思い出を再現している
という意義があったのだと感じました。

だとしたら
その意義を再現できれば「塗り絵」にこだわる必要はない
むしろ「塗り絵」よりももっとこの方に適切なAct.があると
考えました。

そこで
スタッフとは、テーブル拭きなどのお手伝いを
私は小集団で風船バレーをしました。

他の方が打ち損ねた風船も
素早くダッシュして風船が落ちないようにフォローしたり
参加者みんなに風船が行き渡るように風船を回してくれたり
私のお手伝いというだけではなく
みんなに目を配ってみんなが楽しめるように
長女気質を発揮して笑顔で参加していました。

なんて良い人なんだろうと思ったものです。

Activityを通して
いろいろな方のいろいろな人生の一旦を
垣間見せていただくことが叶う

同時に
認知症のある方も自身の来し方をカタチを変えて再体験している
だからこそ、「私は私で変わりない」という体験ができる
のだと感じています。

 

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Activityの提供:本当にあったこと3

近時記憶が著明に低下している方がいました。
毎日リハ室に来ているけれど
来室時には毎回「私こんなところ来るのは初めて」とおっしゃっていました。

その方には
集団でのリハで、終わりの挨拶をお願いしていました。

いつも遠慮なさるのですが
そこを是非にというと
皆さんの方を向き直り、ご挨拶してくださっていました。

近時記憶が低下してしまうと
同じ内容の話を同じ言語表現でお話される方が少なくありませんが
この方は毎回その都度違う内容を異なる言語表現でお話されていました。

なんてすごい方なんだろうと感じ入りました。

お若い頃には、ある活動のリーダーを為さっていたとのこと。
きっと毎回毎回参加者全員の様子をきめ細やかに確認しながら
為さっていたんだろうな。。。と思いました。

認知症のある方の場合
「ないものはない」
「してこなかったことは、できるようにはならない」
代わりに
「してきたことは明確に現れる」
「特性は明確に反映される」
ものです。

これだけ近時記憶が低下しているのに
一度も同じ内容でお話されたことはない。
その方の在りように感銘を受けたものです。

 

 

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Activityの提供:本当にあったこと2

ずいぶん昔の話ですけど
私が毛糸を巻き取っていたら
ある人に
「それならXさんでもできそうだから、やらせてみたら?」
と言われたことがあります。

Xさんは、90歳代の男性で長く農業を営んでいた方です。
確かにXさんなら動作的にはできそうです。
でも。。。

今でこそ、男女同権(に近い)。
夫婦揃ってお買い物したり
男性が出勤途中にゴミ出ししたり
家族のためにご飯を作ったり
といったことは珍しくありませんが
私が子供の頃には、ほぼありえないことでした。
(良いか悪いかはともかくとして)
「男子厨房に入るべからず」
という言葉だってあったくらいです。

毛糸を巻き取るという行為は
昔は女子供(昔はこの言葉が使われていました)の仕事でした。

Xさんが生きてきた時代と
今の若い人たちが生きている時代は
明らかに違っているのです。

Xさんは確かに認知症は進行していて
何かを作ることは難しそうです。
でも、できれば良い。毛糸の巻き取りで良い。
とは私は考えていませんでした。
尊厳の問題です。

「Xさんに毛糸巻きを提示する」
ということは
「あなたには、これがふさわしいと(私が)考えている」
ということを言葉にはしなくても伝えることを意味します。

私は
「できる」ことよりも「特性に合致しているか」
ということを重要視しています。
その理由と展開の仕方は「Activity選択の考え方」をご参照ください。

ちなみに
私がXさんに提供したのは
他の方がそれぞれ各自のAct.を行なっている並行集団に入ってもらい
「監督」の役割を担ってもらうことでした。

Xさんは、それぞれの方に
優しく労いの言葉をかけ
褒め称え
時には冗談を言って場を盛り上げ
お一人お一人の様子を気にかけ
優しく鷹揚に年長者として場を取りまとめてくださっていました。

お若い頃のちょっとした集まりの時にも
こんなふうに和やかな場づくりを意識されていたんじゃないかな
と感じました。

Activityを提供する時に
その方にとっての意義を第一に考えるということは
( 意味ではなくて意義 )
とても重要だと考えています。

 

 

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Activityの提供:本当にあったこと1

実際に私が遭遇したことです。

例えば
下記のような塗り絵の下絵を
認知症のある方に提供されていました。

これらの下絵のどこがマズイかというと。。。
1)幼稚な印象を与える
2)単純化されているので誤認しやすい

認知症のある方は
よくご自身のことを「頭がバカになった」と言われますが
決してそんなことはありません。

通常、作業療法士やその他の対人援助職が認知症のある方に出会った時点で
既に認知症のある方は普段の暮らしの中で
相当な困難、できなくなった、わからなくなった体験を積み重ねています。

そのような方に対して
幼稚な印象を受ける下絵を提供すれば
そんなつもりはなくても
やっぱり自分がバカだからこんな程度しかできないと思われているんだ
と感じさせてしまう恐れがあります。

かつて
デイの利用を拒否していた方が
「『あんなところに行ったって
 チーチーパッパ幼稚園みたいなことさせられるんだろう?』
と思っていたけど
全然違った。こんなことならもっと早く来れば良かった」
と言われたことがあります。

その方の誤解もあったかもしれませんが
まったく何もなければ誤解も生まれません。

現に、このような塗り絵の下絵には
私自身が異なる複数の場で遭遇しています。

塗り絵に限らずですけれど
「あなたの両親、学校の校長先生、病院・施設のトップに
 自信をもって提供できるActivityなのか?」
と自問することは大切なんじゃないかと思っています。

また
提供者側がこのような幼稚な下絵を提供するには
それなりの理由があるからとも考えています。
それは「単純化された下絵の方がわかりやすいだろう」
という誤解があるのではないかということです。

でも
それはまったくの誤解で
単純化された下絵はかえって誤認を生じさせやすいのです。

例えば
左側の下絵では
私たちは「ウサギが雪空を見上げている」と認識しますが
認知症のある方は
ウサギの顔を赤く塗り、背景を青く塗りました。
ウサギの顔だけに注意が固着されてしまい
ウサギを金魚、雪を水の中の空気の泡と誤認したのです。

真ん中の下絵は
私たちは「クリスマスのチキンがお皿に載っている」と認識しますが
認知症のある方は
チキンとお皿を黄色やピンクで塗り
添え物の野菜と持ち手の飾りを赤く塗りました。
チキンと野菜とお皿を「帽子」と誤認したようです。

右側の下絵は
私たちは「節分の時に玄関に飾るもの」
「鰯の頭をヒイラギに刺したもの」と認識しますが
認知症のある方は
鰯の頭を赤で塗り、ヒイラギの葉を緑で塗りました。
チューリップと誤認したようです。

「認知症だから変な色を塗る」
「認知症だからこんなこともわからない」
のではなくて
構成障害があったり、図と地の判別がしにくい方もいるし
近時記憶障害があれば、最初に塗り絵のテーマを説明しても
時間が経てば説明されたテーマも忘れてしまいます。

そういった病状特性を踏まえて
誤認しやすい下絵を回避するのは
作業療法士として大切なリスク管理の一つだと考えています。

ヒポクラテスの誓いは
「まず第一に患者を傷つけないこと」
で始まると日野原重明氏の本で読んだことがあります。

幼稚な下絵を提供することもリスク管理の一環として
回避する必要があると考えています。

シンプルな下絵の場合には
ちょっとひと工夫すると幼稚に見えなくなります。
「塗り絵の工夫:幼稚に見せない」をご参照ください。

 

 

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