Activityの提供:問題提起

認知症のある方へのActivity提供をめぐる現状には
さまざまなことが反映・錯綜していると感じています。

そのひとつが
Act.提供者側が認知症のある方がAct.遂行する時の個々の困難を
予測し難いからなんだと考えています。

私たちには意識せずとも発揮している能力がたくさんある。
できて当たり前なので、そもそもそのことに無自覚なものです。
遂行機能障害や構成障害という障害の本質を理解せずに
バッテリーだけとっていると
目の前で起こっている言動に反映されているそれらの障害を見落としてしまいます。

かつては
「その場の話ができる=認知症じゃない」
という誤解が蔓延していました。
流石にこれだけ認知症に関する啓蒙が進んできてるから
今、そんなことを言う人は少ないでしょう。

けれど
その誤解は氷塊したわけではなくて
根深く残っています。

「その場の話ができる=いろいろなことができる」
という誤解は対人援助職にも根深く残っているものです。

  過去の記事にも書いていますのでご参照ください。
  「輪ぐさりは難しい」
  「折り紙は難しい:身体面」
  「折り紙は難しい:認知面」

風船バレーって
飛んできた風船を打ち返すだけだから簡単
って思われてますけど
重度の認知症のある方には難しいものです。

周囲の様々な視覚的刺激の中から
動いている風船に注意を固定し続けることができないと
「飛んできた風船を打ち返す」ことができません。

そもそも
集団での風船バレーが成立するためには
「その場面に座り続けている」ことが最低限求められますが
これが難しい。。。
 
「その場面がどんな場面で何をする場面なのか」
理解し、理解を保持し、理解に合わせて言動をコントロールするのは
重度の認知症のある方では難しいものです。

そして
風船バレーなら簡単だからできるんじゃない?と考える人は
目の前にいる認知症のあるXさんにとって
風船バレーが意味するものは何なのかということに
あまりにも無頓着に過ぎると感じてしまいます。

そもそも
どのような人にどのようなActivityが提供されるべきなのか
そしてそれはなぜなのか
という大命題について、どのように考えたら良いのか
ということを教えてもらった作業療法士がどれだけいるでしょうか?

「やりたいことをやる」
というのは一見正しいようでいて
(事実、それで救われたたくさんの対象者も作業療法士もいる)
だからこそ余計に
結果として問題の本質を見誤り議論検討することを回避させてしまった
と私は考えています。

 このあたりは、「褒めてあげる」という
 本来不適切なことが一見適切なように流布されてきた経緯と
 同じコトが違うカタチで起こっている
 と感じています。
 詳細は過去記事「常識の罠」に記載してありますので、ご参照ください。

なぜ、やりたいことができると良いのでしょう?

私は、自分が自分で在ることの再体験・再確認ができる
からと考えています。

つまり
概念構造としては
自分が自分であることの再体験・再確認>やりたいことができた体験
であると考えています。

 

希望を尋ねることは必須だけれど
希望を表明できない方に対して
あるいは表明された希望を表面的に把握するのではなくて
周囲の言語化された希望を実現するのでもなくて
表現された希望を尊重しても迎合することなく
真のニーズ、自分が自分で在ることの再体験・再確認
を探り、掘り下げ、援助が可能なのが
言葉だけに頼らずに
言葉ではない「作業」を媒介できる作業療法士なのではないかと考えています。

 

例えば
「遠方にある実家のお墓参りに行きたい」
と身寄りのない一人暮らしの認知症のある方に言われたら
作業療法士としてどうしますか?

歩けるようになったとしても
ひとりでは実現困難で
でも、お金さえあれば実現できてしまうかもしれないニーズです。
それは病院・施設に勤務する作業療法士が関与できることでもありません。
だからといって、却下してしまって終わりですか?

希望を尋ねたときに表明されたということは
その方にとっては意義のあることに違いありません。

では、どうしたら良いのでしょうか?

 

いきなり難問だったかもしれません (^^;
でも、「やりたいこと」「希望」を尋ねた
その後が肝心ということはおわかりいただけたと思います。

「やりたいことをやる」「やりたいことの実現を援助する」という考えでは
必ず行き詰まってしまいます。
もうそういった現状にたくさんの作業療法士がぶち当たっているはずなんです。

次の記事から
もう少し現状を紐解いていきたいと思います。

 

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4555

Activityの提供:現状共有

認知症のある方に
Activityを提供する際には
さまざまな困難が伴います。

過去にもいろいろな記事を書いてきましたが
ここで一度総括してみようと思います。

長くなるので
シリーズとして連続記事で書いていきます。

まずは
認知症のある方へのActivity提供の現実モロモロの共有化から。

やりたいことの希望を聞いたけれど
・特にないと言われた
・私は何もできないと言われた
・言われたことが認知症のためにできなかった
・過去の趣味を提示したけれど、やりたがらなかったorできなかった

何を提供して良いかわからずにとりあえず
・折り紙を提示したけどできなかった
・塗り絵を提示したら怒られた
・風船バレーならできるかと思ったけどできなかった

他職種から
・徘徊しないように何かできることはない?
・立ち上がりが頻回で困るから何かやらせてほしい
と聞かれた

などなど、作業療法士あるあるではないでしょうか?

次の記事で
これらの表面的な事象に反映されている
本当の困難や意味について書いていきます。

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4554

観察・洞察から始める対応の工夫

ほとんど休眠状態だったこちらのサイトに
こんなにもたくさんのアクセスをいただき
ありがたく思うと同時に
再開への誓いを新たにしました。

個人のサイト(OT佐藤良枝のDcゼミナール)を立ち上げたこともあり
どのように使い分けをしていくかは
走りながら考えていこうと思っています。

ただ
再開にあたり考えたこともあります。
それは事実に即して記述していくということです。

そんなの、当たり前じゃん。って思われるかもしれませんが
多くの場合に、常識とされている慣習的対応や視点、考え方に
無自覚のうちに支配されていることって多々あります。

  例えば
  老年期のリハ場面で立ち上がりの練習をするセラピストは
  大勢いると思いますが
  同時に座る練習をするセラピストは多くありません。

  私は立ち上がりの練習をするよりも座る練習をした方が
  より安全に円滑に立ち上がれるようになると考えており
  第12回神奈川県作業療法学会のワークショップで発表もしましたし
  こちらのサイトでも「立ち上がり」で検索していただければ
  多数の記事がヒットすると思います。

「できることのでき方をよくしていく」
という考え方が私の根幹にあります。

実は
できていることにも
できていないことにも
同じように能力も障害も困難も反映されています。

セラピストは
表面的な「できていること」「できていないこと」を見るのではなくて
表面的な事象に反映されている
impairmentの能力・障害・困難を観ることが重要で
(ここまでは、当たり前と思われると思います)
「できていること」の中には、かなり代償を使って
特に粗大なPowerを使って代償している面があります。

  立ち上がりを例にとれば
  腰背部の筋力があるからこそ立ち上がれてしまう。
  疾患によって筋力が以前のように発揮できない状態に陥ると
  立ち上がれなくなる。 
 
  そこで、筋力強化→立ち上がりの練習
  というのが今の一般的な方法論だと思いますが
  そうではなくて
  せっかく筋力が発揮できない状態になることができたので
  本来の身体協調性を発揮して立ち上がれるように再学習する

  そのためには、立ち上がりの練習をすると
  どうしても脳内にインプットされている過去の回路が起動してしまうので
  新しい回路を作るために、座る練習という体験を通して
  筋力を過剰に使わずとも身体協調性を再学習し能力発揮する
  このような方法論で多数の老年期の方が立ち上がれるようになる
  という体験をしてきました。

  私に言わせれば
  立ち上がり100回!とか、大腿四頭筋の筋力増強訓練!とか
  生活期にある方に対してはとんでもない話で
  せっかくの再学習の機会を奪ってしまっているとしか思えません。

  抵抗と防衛のために
  慣習的視点、対応、方法論にセラピストも支配され
  脱却が困難になってしまっています。

「できることのでき方をよくしていく」
というのは、代償を使わず本来の能力発揮を援助する
能力がより合理的に発揮できるように援助する
という意味なのです。

同じコトが違うカタチで現れていることは
ヤマほどあります。

認知症のある方への食事介助しかり
対応の工夫しかり
「褒めてあげる」「なじみの関係」etc.
(こちらも過去の記事にありますので、検索してみてください)

「事実の子たれよ。
 理論の奴隷たるなかれ。」

この言葉は
内村鑑三の言葉で
私が大切にしている言葉でもあります。

理論というのは
まさしく〇〇理論、〇〇法も該当しますが
常識、慣習的対応という言葉に置き換えても該当すると考えています。

「事実の子たれよ。
 理論の奴隷たるなかれ。
 事実はことごとくこれを信ぜよ。
 その時には相衝突するがごとくに見ゆることあるとも、
 あえて心を痛ましむるなかれ。
 事実はついに相調和すべし。
 その宗教的なると科学的なると、
 哲学的なると事実的なるとにかかわらず、
 すべての事実はついに一大事実となりてあらわるべし。」 

後半のくだりは、まさしくその通りで
実際に認知症のある方と接していて何回膝を打ったことか。。。

科学は過去の知識の修正の上に成り立つ学問であり
まして作業療法は実践の科学です。
実践の科学であるからこそ
解剖学・運動学・症候学などの基礎知識を習得し、
知識を活用して観察・洞察できるようになることが
未来の作業療法に貢献することに他ならないと考えています。

「観察の重要性を知った」
「評価しているつもりだったが、まだまだだと思った」
私の講演を聞いた方から、そのような感想をいただくと本当に嬉しく思います。

ハウツー的思考回路から脱却し
uniqeな目の前の対象者の困りごとの場面そのものを
自身も含めた環境因子の中で
明確に観察・洞察・対処できるようになる人が
一人でも多くなることを願って
このサイトを再開させたいと思います。

 

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4548

精神科研修会のお知らせ

精神科分野にお勤め、あるいは興味のある方にお知らせします。

「共同創造の精神医療改革
 ベルギーのプロセスに学ぶ〜自分の人生を取り戻すために〜」

お申し込みは、上に掲載した図をクリックしてご参照ください。

 

 

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4544

「絵本でみる作業療法」解説しました

 

神奈川県作業療法士会の
「絵本でみる作業療法」シリーズ
「冬の麦わら帽子」の解説を担当しました。

よかったら是非お立ち寄りください。

 

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4539

ご家族に苦行させない

私は食事介助は本当に大切に考えています。
それにはさまざまな理由があるのですが、それはまた別の機会に書くとして。

食事介助は
特別の技術も知識もなしでも誰にでもできるだろうと
心のどこかで思われているのではないかと感じることが多々あります。
(親なら誰でも乳幼児には必ず食べさせる時期がありますものね)

とんでもない誤解です。
どうしたら食べやすくなるだろうか?
そして、その意味について考えながら実践を積んできましたから
安全に楽に美味しく食べられるように食事介助できる自信も
(逆に、決して実行しませんが)
全然美味しくなく辛く危険な介助をすることもできます。
(マイナスがわかるからこそプラスが実践できるという意味です)
そしてそれがどうしてなのか、具体的に言葉で明確に説明することもできます。
それだけの知識と技術を持っている自負があります。

職員同士で会話しながらの食事介助とか
嚥下5相を観察せずに介助するとか
喉頭挙上していないのに次の食塊を介助するとか
口の奥にスプーンを入れるとか
斜め上にスプーンを引き抜くとか
無理矢理口をこじ開けて食べさせるとか
覚醒が悪いのに介助するとか
。。。書いていて本当にイヤになってきますが
そんなことは決してしません。

その代わりに
身体の動き全体を含めた食べ方をよく観察します。
表情や視線をよく観察します。

言葉にならない、表情や行動という
もうひとつの言葉を聴こうと心を澄ませます。

食事介助は、どうやって「食べさせるか」ということではありません。

その方がどんな風に食事という場面に向き合っているのかを知り
その方なりの食べるという環境へのアウトプットを援助し
その方の環境感受・認識・対応という一連のループを
ループとして完結するように援助することです。

例え、
ループが小さなループであっても、歪な形であっても
その方のループがループとして完結できるように援助することです。

例え、
表面的には食べていたとしても
ループがちぎれた形であれば
援助ではなくて従属の要請になってしまいます。

とりわけ
ご家族は、職業として介助に従事しているわけではありません。
大切なご家族だからご家族としてできることをするので
ご家族に苦行をさせるような「指導」を対人援助職はすべきではないと考えています。

「ちゃんと食べさせないと体が弱っちゃうからしっかり食べさせて」
「ちゃんと水分を摂らせないと脱水になっちゃうからしっかり飲ませて」

ご家族にそんな風に「言う」のではなくて
ご家族が「ちゃんと」できるように「なる」ためには
どこをどうしたらいいのかをまずやってみせられる
そして具体的に明確に言葉で伝える
ことが対人援助職の仕事なんじゃないかな。

職業として関わっている自分ができないことを
ご家族に「させる」のはおかしなことだと思う。

ご家族は、ご家族としてそばにいるだけで
対象者の方の支えになっている。

「うまく食べさせられなくてごめんね」
「無理矢理食べさせてごめんね」と思わせながらご家族に介助させるのは
対象者の心の支えを剥奪してしまうことになりかねないと思います。

今よりもずっと過酷な時代を生き抜いてこられ
人生の総まとめの時期にあるお年寄りにとって
食べられないなら食べられないなりに
食べようとしているなら食べるチカラに合わせて
介助していく方法とその姿勢を伝えて
食事介助という場面に
対象者がどんな風に向き合っているのかを理解すると
まるで、その方自身の生き様が浮かび上がってくるように感じられます。
かつてのその方を彷彿とするような類似したエピソードを
ご家族が思い出すことができれば
例え、食べられても食べられなくても
その方とご家族との絆をもう一度再構築することになる。

「ちゃんと食べさせる」ことを最優先するように仕向けられたご家族は
必死なご家族ほど、対象者の言動を感受観察する機会に目をつぶらされ
その事によって絆を再構築する機会を失ってしまう。

対象者は自身の尊厳をご家族によって損なわれるという体験をする事になってしまう。

私たち人間は、食べる機械じゃない。

ご家族は、介助「要員」ではない。

介助は仕事であってもご家族がしても
大変だけれども
介助したからこそ、介助という体験そのものから得られることもあるのだから。。。

年の瀬に新たな決意をしました。
がんばるぞー!

今年はどなたも大変な年だったと思います。
お身体にはくれぐれもお気をつけて。。。
良いお年をお迎えください m(_ _)m

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4529

アスクルでも自助スプーンが注文できる!

いやー、盲点でした。
つい最近まで知りませんでした。

アスクルで
フセ企画の「かるまげまげ」スプーンフォーク兼用(小)を購入できました。
合わせて、スポンジハンドル(楕円型)も。

施設で出入りの業者さんがない場合に便利です (^^)
注文から1週間もしないうちに届きました。

こちらが
「かるまげまげ スプーンフォーク兼用(小)」税込¥888円

ポイント高いのが
1)なんといっても、軽い!
2)柄の部分が自由自在に曲げられるのでフィット性が高い
3)先割れスプーンなので、食塊が引っかかりやすくて操作性が高い
4)購入しやすい価格

そして
たいていの場合に、ペアで一緒に購入するのが
こちらの「スポンジハンドル S-2」税込¥660円

スポンジの形状が楕円形になっていて
手のアーチを保ちやすいのがポイントです。
欲を言えば、もっと軽ければさらに嬉しい。。。

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4524

活用「アイスの実」

食べ始めの方
食べる練習をする方によく使うのが
「アイスの実」

唾液でむせなければ
アイスの実1粒を箸で1/4〜1/3に切ってから
お口の中に入れます。
歯のある方には前歯か犬歯の隣の歯の上
歯のない方には舌の前に箸で置きます。

味がはっきりしているのと
1口量の調整、段階付けが容易だし
スーパーやコンビニで売っているので入手も楽です。

歯があってもなくても
咀嚼〜送り込み〜飲み込みの練習になります。

 

 

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/4517