Category: 素朴な疑問 不思議なジョーシキ
結果として起こっていることなのですが…(^^;
「入院すると認知症がひどくなる」
これもよく聞く言葉です。 入院生活は刺激がなくて単調だから…と環境の問題にされがちです。 けれど、果たして本当にそうでしょうか?
入院生活というのは、日課がきちんと決められています。 医師や看護師の言語指示を聞き取り、理解し、記憶し、従うことが求められます。 また、病棟全体の中で病室やトイレの位置関係を相対的に把握し、行動できることも求められます。
このようなことは、アルツハイマー型認知症のある方にとっては、とても難しいことなのです。
もともと、認知症の中核症状はあったけれど、 なじみのある自宅という場でマイペースに暮らしていたから 症状が目立たなかった。 それが、入院というきっかけで、新たな場で新たな事柄に対応することが求められるという場面において表面化した。
入院生活という環境がよくないから入院すると認知症がひどくなる …というのではなくて 入院生活に適応できないくらいに 既に認知症が進行していたということが表面化した …のではないでしょうか。
環境適応能力が限られてしまう…ということは 認知症のある方が、身体疾患を発症した時に生じる課題の1つでもあります。
その課題にきちんと対応できるようになるためにも 結果として起こっていることと原因との混同なく 状態像の把握ができるようにならないと、対策も後手後手になってしまうように感じています。
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よくよく聞くヘンな言葉 「ケアの統一をしましょう」
だって、お年寄りの状態がさまざまなのに ケアを統一して、どうしていいことができると思うんだろう?
その時その場のその関係性において 適切な関わり方ができるかどうかこそが問われているのに
たとえば トイレ動作の自立を目標にがんばっている方がいるとして その方が「おしっこもれそうだから手伝って」と言っているのに 「自分でできるように練習しているんだから手伝えないの」 「みんなでそう決めたのよ」 って、そんなのってどうかと思う。
論理のすりかえ。だよねー。 結果として、起こるはずのことを 方法論として、用いている
どんな時どんな場どんな関係性においても ステレオタイプな対応をするのではなくて その時その場のその関係性において 適切な対応をすることで 結果として、 どのような時どのような場どのような関係性においても 能力を発揮できるようになっていく…だよね。
「あの人は人を見るからさー」 いやいや…(^^; 人を見る能力があるのは、イイコトで…。
もしも、人を見て、ある動作をやったりやらなかったりするのだとしたら それは、依存的等という言葉でくくられるのではなくて その人にとっては、「やらされ感」があって 本当はやりたくない、やりづらい…ということを態度で示しているのではないでしょうか。
だとしたら、私たちが考えるべきことは 「やればできるんだから、がんばってやって!」 などという言葉で動作を「させる」のではなくて 「どうしたら、やりやすくなるのだろう」 「本人にとってのやることのメリットって何なのだろう」 ということなんじゃないのかしら。
日々の臨床の場では すぐに答えが出ないこともたくさんあります。 その時には、答えらしきものに飛びつくのではなくて お互いしんどくても 今は答えがない…でも、この方向性で考え続けよう という態度を持ち続けることなのではないでしょうか。
少なくとも 答えらしきものに飛びつくことで お年寄りをよぶんに傷つけることは避けられるのですから。
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「あーなるほど!」と思ったことがあります。
Hさんの食事のしかたをみて
看護師さんが「箸が使えるね」と言いました。
でも、私はその時「箸が使えていない」と思っていたのです。
どういうことかというと
看護師は
Hさんが箸を使って食べこぼしなく介助もなく自分で食事していたから
「Hさんは箸を使える」と思ったのです。
私は
Hさんが握り箸で箸をスプーンのようにして食べていたので
「Hさんは箸を持って食べられるけれど箸を箸として扱えない」
と判断したのです。
こういうことって、ものすっごくたくさんあります。
視点の違いで同じ現実を見ているのに違う事実と認識する
でも、そのことに自覚のある人はそんなに多くいるわけではありません。
モノゴトの前提が違うのに
前提を抜きにして、結果だけをああだこうだ言ってる…(苦笑)
自分の視点とか前提って
自分にとっては、あまりにも自明のことだから自覚しにくいけれど
異なる前提を放置して
結果だけをすりあわせようとしても
うまくいくはずがない…(^^;
Hさんの例では
箸の使用可否について結果だけを議論しても平行線で終わってしまいます。
「箸は持ってこぼさず食べられるけれど握り箸で箸としての操作はできていない」
という起こったことそのままを共有すること
Hさんにとっての優先事項を確認しあって
それを根拠にして箸の扱いをどうするか
ということではないでしょうか。
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リアルの世界でも、ネットの世界でも、よく遭遇する言葉です。
「そういうことはしないって約束したでしょう」
この言葉に遭遇するたびに、ヘーンなの!…って思っちゃいます。
だって、ケアやリハの場面で「約束」する時って
たいてい、通常の対応でどうにもならないから使われることが多いと思う。
つまり、どうしようもないから最後の印籠として登場する(^^;
だけど、どうしようもないものだから
結局、約束は破られ、対象者の方は二重に叱られる。
「待ってるって約束したでしょう」
「そういうことはしないって約束したでしょう」
「どうして約束したのに守らないの」
おいおい…(^^;
できもしないことをさせてるのはどっちなんだい?
しかも、対象者の尊厳を二重に損なってしまっているのに…
そもそも、約束って、自分で自分に誓うもの。
誰かにさせられるものじゃない。
「○○様」とか何とか言うより先に
対象者の方に対して約束なんかを持ち出さずにすむように
対応の工夫を私たちが考えるほうが先なんじゃないのかなー?
と思うのであります。
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認知症のある方への対応に苦慮した時ってどうしていますか?
多くの場合、「どうしたらいいのか」カンファなどの話し合いをすることになると思います。
でも、
どうする…という方法論が話し合われても
何が起こっていたのか…という「場」についての振り返りがなされることは、あんまり多くはありません。
ほとんどないかも…ですね(^^;
けれど、モノゴトは関係性の中で起こります。
どのような状況で
どのような言動に対して
どのようなことが起こったのか
私たちは、「観察」という名目で
認知症のある方のあれこれを言いますが
物理的にも心理的にも環境因子の1つである自分自身の言動に対して
案外無自覚でいることが多いように感じています。
たとえば、こんなケース。
「車いすを押しますよ」と声をかけてから押したのに
Gさんたらいきなり怒り出してまったく最近怒りっぽいんだから!
Gさんの易怒性に対してどう対応したらいいかしら?
確かに声はかけたかもしれませんが
Gさんは認知症があります。
もしも、Gさんが「車いすを押される=自分が動く」という言葉を結びつけて予測することが能力的に困難な方だとしたら
その声かけは適切だったと言えるのでしょうか?
「問題」なのは、Gさんの易怒性ではなくて
Gさんの能力に合わせた声かけができなかった職員のほうが「問題」なのではないでしょうか?
もしも、職員が「Gさん、動きますよ」と声をかけていたら、もしかしたらGさんは怒り出さずに済んだかもしれません。
「現実」は、さまざまなコトをあぶり出します。
認知症のある方の能力も困難も特性も
それだけではなくて
援助しようとする側の能力も困難も特性も
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なぜなんでしょう?
お年寄りの前から両手を引いて歩かせる職員がこんなにも多いのは…。
手引き歩行は
お年寄りにとっても職員にとっても、移動方向を視認することができずに危険です。
また、見た目歩いているように見えても、お年寄りの身体は前から引っ張られるために、作用に対する反作用で重心は後方へ変位しています。
外見的には歩いていても、歩くためのポイントである重心移動は後方へ移動している…お年寄りの脳の中では、「歩く体験=重心の後方移動」という回路が働いています。
また、心理的にも「歩く=誰かに先導される」という体験になってしまっています。
これでは、歩行介助するたびに、歩けなくなる要素の体験を積み重ねさせている…ということになってしまいます。
それなのに、ケアの現場でなぜこんなにも手引き歩行が横行しているのか…。
おそらく、実習や就職先で先輩たちが手引き歩行をしているのでしょう。
誰も言葉にしては、手引き歩行を奨励していなくても、みんながしているから、その意味を考えることもなく続けられているのだと思います。
手引き歩行は狭い場所で移動介助するには適した方法です。
ですが、そうでないなら、お年寄りの側方に立って腰と手を支えたほうがずっと理にかなっています。
お年寄りの状態にあわせて介助量を変更するのが容易ですし
前方と側方への重心移動を適切に介助できます。
心理的にも「共に歩む」体験です。
お年寄りも職員も移動方向を常に目で見て確認できます。
私はずいぶん前から手引き歩行撲滅作戦を発動しています。
この作戦に多くの方が参加され成功することを願っています^^
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よく聞く言葉。
「私は誰?」
「この人、誰?」
「わかる?」
悪気があって言うわけではないことはわかるのですが…
でも、認知症のある方に
そんな聞き方をしないでいただきたいと思うのです。
大切な人だからこそ
心配しているからこそ
つい、確認したくなってしまうのかもしれません…。
でも、認知症のある方の中には
誰だかわからない…人物の見当識が低下してしまう方も大勢います。
聞かれて答えられない
答えたら相手ががっかりした顔をした
そのような体験は、日々喪失体験を重ねている認知症のある方にとっては
さらに、「できなかった」という失敗体験、喪失体験を反復し強調してしまうことになってしまいます。
気持ちの安定性をそこなわれ、BPSDの増悪をきたしかねません。
ですので、もし、確認したい…と思われるならば
「私は誰?」って聞くかわりに次のような対応をおすすめしたいと思います。
「私は○○の□□です。」
って、名乗ってください。
もし、認知症のある方がそれでわかれば(思い出すことができれば)
「あぁ、□□ちゃん」
「うれしい」
などと言うでしょうし
もし、わからない時には
怪訝な顔をしたり、「□□…?」などと考え込んだり
といった対応の様子で、わかったかわからないのかの確認ができると思います。
「私は誰?わかる?」って聞かなくても
知りたかった答えを得ることができます。
これからは
「私は誰?」
「この人、誰?わかる?」
とは聞かないで、こちらから名乗ってみてくださいね!
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ときどき、見かけるこの言葉。
「認知症の作業療法」
うーん???
ヘンなの。
認知症のある方へ作業療法をすることはできるけど
認知症というコトへ対して作業療法なんてできないんだけど(^^;
そんなわけで私は
講演の依頼を受ける時に
こっそりパワーポイントのタイトルを変更することもあれば(^^;
依頼者にきちんとお話をして講演のタイトルそのものを変更していただくこともあります。
こういうことって、実は何でもないことのようでいて、とっても重要な問題だと感じています。
何気なく使っている言葉に概念の根本が投影されてしまう…。
私たちは、言葉を意識化することで概念に明敏になることができます。
それって、リハビリテーションの依って立つ根拠でもありますよね?
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