Category: 素朴な疑問 不思議なジョーシキ
リアルの世界でも、ネットの世界でも、よく遭遇する言葉です。
「そういうことはしないって約束したでしょう」
この言葉に遭遇するたびに、ヘーンなの!…って思っちゃいます。
だって、ケアやリハの場面で「約束」する時って
たいてい、通常の対応でどうにもならないから使われることが多いと思う。
つまり、どうしようもないから最後の印籠として登場する(^^;
だけど、どうしようもないものだから
結局、約束は破られ、対象者の方は二重に叱られる。
「待ってるって約束したでしょう」
「そういうことはしないって約束したでしょう」
「どうして約束したのに守らないの」
おいおい…(^^;
できもしないことをさせてるのはどっちなんだい?
しかも、対象者の尊厳を二重に損なってしまっているのに…
そもそも、約束って、自分で自分に誓うもの。
誰かにさせられるものじゃない。
「○○様」とか何とか言うより先に
対象者の方に対して約束なんかを持ち出さずにすむように
対応の工夫を私たちが考えるほうが先なんじゃないのかなー?
と思うのであります。
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認知症のある方への対応に苦慮した時ってどうしていますか?
多くの場合、「どうしたらいいのか」カンファなどの話し合いをすることになると思います。
でも、
どうする…という方法論が話し合われても
何が起こっていたのか…という「場」についての振り返りがなされることは、あんまり多くはありません。
ほとんどないかも…ですね(^^;
けれど、モノゴトは関係性の中で起こります。
どのような状況で
どのような言動に対して
どのようなことが起こったのか
私たちは、「観察」という名目で
認知症のある方のあれこれを言いますが
物理的にも心理的にも環境因子の1つである自分自身の言動に対して
案外無自覚でいることが多いように感じています。
たとえば、こんなケース。
「車いすを押しますよ」と声をかけてから押したのに
Gさんたらいきなり怒り出してまったく最近怒りっぽいんだから!
Gさんの易怒性に対してどう対応したらいいかしら?
確かに声はかけたかもしれませんが
Gさんは認知症があります。
もしも、Gさんが「車いすを押される=自分が動く」という言葉を結びつけて予測することが能力的に困難な方だとしたら
その声かけは適切だったと言えるのでしょうか?
「問題」なのは、Gさんの易怒性ではなくて
Gさんの能力に合わせた声かけができなかった職員のほうが「問題」なのではないでしょうか?
もしも、職員が「Gさん、動きますよ」と声をかけていたら、もしかしたらGさんは怒り出さずに済んだかもしれません。
「現実」は、さまざまなコトをあぶり出します。
認知症のある方の能力も困難も特性も
それだけではなくて
援助しようとする側の能力も困難も特性も
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なぜなんでしょう?
お年寄りの前から両手を引いて歩かせる職員がこんなにも多いのは…。
手引き歩行は
お年寄りにとっても職員にとっても、移動方向を視認することができずに危険です。
また、見た目歩いているように見えても、お年寄りの身体は前から引っ張られるために、作用に対する反作用で重心は後方へ変位しています。
外見的には歩いていても、歩くためのポイントである重心移動は後方へ移動している…お年寄りの脳の中では、「歩く体験=重心の後方移動」という回路が働いています。
また、心理的にも「歩く=誰かに先導される」という体験になってしまっています。
これでは、歩行介助するたびに、歩けなくなる要素の体験を積み重ねさせている…ということになってしまいます。
それなのに、ケアの現場でなぜこんなにも手引き歩行が横行しているのか…。
おそらく、実習や就職先で先輩たちが手引き歩行をしているのでしょう。
誰も言葉にしては、手引き歩行を奨励していなくても、みんながしているから、その意味を考えることもなく続けられているのだと思います。
手引き歩行は狭い場所で移動介助するには適した方法です。
ですが、そうでないなら、お年寄りの側方に立って腰と手を支えたほうがずっと理にかなっています。
お年寄りの状態にあわせて介助量を変更するのが容易ですし
前方と側方への重心移動を適切に介助できます。
心理的にも「共に歩む」体験です。
お年寄りも職員も移動方向を常に目で見て確認できます。
私はずいぶん前から手引き歩行撲滅作戦を発動しています。
この作戦に多くの方が参加され成功することを願っています^^
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よく聞く言葉。
「私は誰?」
「この人、誰?」
「わかる?」
悪気があって言うわけではないことはわかるのですが…
でも、認知症のある方に
そんな聞き方をしないでいただきたいと思うのです。
大切な人だからこそ
心配しているからこそ
つい、確認したくなってしまうのかもしれません…。
でも、認知症のある方の中には
誰だかわからない…人物の見当識が低下してしまう方も大勢います。
聞かれて答えられない
答えたら相手ががっかりした顔をした
そのような体験は、日々喪失体験を重ねている認知症のある方にとっては
さらに、「できなかった」という失敗体験、喪失体験を反復し強調してしまうことになってしまいます。
気持ちの安定性をそこなわれ、BPSDの増悪をきたしかねません。
ですので、もし、確認したい…と思われるならば
「私は誰?」って聞くかわりに次のような対応をおすすめしたいと思います。
「私は○○の□□です。」
って、名乗ってください。
もし、認知症のある方がそれでわかれば(思い出すことができれば)
「あぁ、□□ちゃん」
「うれしい」
などと言うでしょうし
もし、わからない時には
怪訝な顔をしたり、「□□…?」などと考え込んだり
といった対応の様子で、わかったかわからないのかの確認ができると思います。
「私は誰?わかる?」って聞かなくても
知りたかった答えを得ることができます。
これからは
「私は誰?」
「この人、誰?わかる?」
とは聞かないで、こちらから名乗ってみてくださいね!
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ときどき、見かけるこの言葉。
「認知症の作業療法」
うーん???
ヘンなの。
認知症のある方へ作業療法をすることはできるけど
認知症というコトへ対して作業療法なんてできないんだけど(^^;
そんなわけで私は
講演の依頼を受ける時に
こっそりパワーポイントのタイトルを変更することもあれば(^^;
依頼者にきちんとお話をして講演のタイトルそのものを変更していただくこともあります。
こういうことって、実は何でもないことのようでいて、とっても重要な問題だと感じています。
何気なく使っている言葉に概念の根本が投影されてしまう…。
私たちは、言葉を意識化することで概念に明敏になることができます。
それって、リハビリテーションの依って立つ根拠でもありますよね?
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最近、よく耳にするこの言葉。
「認知の人、認知のある方」
うーん…???
認知症のある方のことを指して言っているのはわかりますが(^^;
ヘンな言葉です。
だって、日本語として考えれば、
いいじゃありませんか。
認知があって。
なのに
言ってる言葉と意味している言葉とで意味が真逆になるのに使われている(^^;
私は、時々、地域の公民館などで地元の方を対象として、
認知症予防や認知症のある方への対応について
お話をさせていただく機会があります。
以前、講演後に参加者の方に言われたことがあります。
「認知の人って言葉を聞きますが、あれってヘンな言葉ですよね」
適切に言葉を扱えないと
そのギョーカイの概念の扱い方まで疑われてしまいかねません。
「認知症の人、認知症のある方」
言葉は正しく扱いたいものです。
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認知症のある方への対応について、当たり前のように言われている言葉があります。
「褒めることが大事」「褒めてあげるといいよ」
でも、私はその言葉にずっと違和感を抱いていました。
ある日、その違和感の原因に思い至りました。
「褒めるって、目上の人が目下の人にむかってすることだ!」
たとえば、会社の社長がヒラの社員を褒めることはあっても、ヒラ社員が社長を褒める…なんてことはあり得ませんよね?
私が出会う認知症のある方は、たいてい私より年上です。
(これも年々、そうでなくなる可能性が高くなっているのですが…(^^; )
私が年上の方を褒めてあげる…なんて、すっごくヘン!
褒める…じゃなくて、ともに喜ぶ…じゃないのかなぁ?
「あなたができたことがあなたはうれしい。」
「あなたができたことが私もうれしい。」
これって、
「あなたができたことはえらいと思う。すごいね。」
とは、似て非なるもの。だと思います。
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