結果として起こることの目的化

結果として起こることの目的化
これも臨床あるあるな気がする。。。

たとえば
大昔に、「寝たきり老人ゼロ作戦」なるものがあって
確かに寝たきりはなくなったけど、でも座りきりが増えた
ってことがあった。

今、「活動と参加」の旗が振られ
確かに、何かしているようにはなったけれど
でも、私たちの脳みそがお年寄りの手足を動かしている
そんなことにはならなければいいけれど。。。と危惧してしまう。

たぶん、デイとか「何かする」ことが
ひとつの提供すべきサービスとして求められている場において
切実に現場の職員は困っていたりするんじゃないかしら?

ありていに言えば
「今日は何をしてもらおうか?」
一歩進めて
「これってこの人にとってどういう意味があるんだろう?」
「この人に本当にこれでいいのだろうか?」

そう思った時に
どう考えたらよいのか、という道しるべのような考え方って
案外、教わっていない。

希望を尋ねればいいじゃない?
って言われるかもしれないけれど
それは、病状が進行した認知症のある方に接していないから
そんな風に言えるんだと思う。

病状が進行すると
かつて好きだったことや趣味活動を言葉で答えることが難しくなるし
仮に言うことができたとしても
かつて熱中して行えていたことが
今は病気のためにできなくなってしまっている。

そんな時に対人援助職が言ってしまいがちなのが
「一緒にやるから大丈夫」という言葉だけれど
実際、一緒にやってみて、まるで私たちの脳みそが認知症のある方の手を動かしているような
気持ちになったりしないだろうか?

確かに作品は何かできあがったかもしれないけれど
これは、本当に認知症のある方がoccupyした結果、できあがった作品だろうか?

結果として起こることの目的化

これって、いろんな場面で起こってる。

美味しく食べていただきたいと願っていながらも
結果としては食べさせてしまったり

拘縮予防のためのポジショニングと言いながら
単に肘や膝を伸ばそうとしていたり

食べられるようになるのは結果として起こる
肘や膝が伸びるのも結果として起こる

結果として起こるように援助するのではなくて
結果を表面的にさせてしまう。。。

「ちゃんと食べてね」という声かけは、その最たるものだと思う。

私たちの仕事は、「言う」ことや「させる」ことではなくて
できるように援助すること。

結果として起こることの目的化は
援助とは、真逆のことだと感じています。 

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