Category: 素朴な疑問 不思議なジョーシキ

ヘンな言葉「なじみの関係」

いまだに
「毎朝、挨拶に行って関係性を作る」
「なじみの関係を作る」
「信頼関係ができてからリハをする」
ということが言われているようですが。。。

おかしな言葉です。

第一に、時間がもったいないです。

認知症のある高齢者は
明日が確実にあるとは限りません。
基礎疾患を抱えている場合も少なくないし
突発的な体調変化は常に起こり得ます。

第二に
看護介護職員は
なじみの関係になっていようがいまいが
毎日のADLの援助をしなくてはいけません。
最初から大きな除外要件があるということは本質的ではないと考えています。

そしてこの言葉の最もヘンなことは
結果として起こることと目的を取り違えているということです。

普通に考えて
あなたは毎日会っている同僚や先輩や他職種をそれだけの理由で信頼していますか?
信頼している同僚や先輩や他職種の人は
あなたが信頼に足ると感じる何かがあるから信頼しているのではないですか?
毎日顔を合わせても信頼できない人っているでしょう?
言葉にしないだけで。

信頼関係は結果としてできる

大切なことは
自分が相手から信頼されるに足る人だと感じてもらえるような
援助ができることなのではないでしょうか。
その積み重ねで信頼してもらえる。

信頼してもらいたいのなら
まずは、こちらが相手を信頼しなければ。

どこかで
認知症のある方の能力を軽んじているから
毎日顔を合わせて挨拶するなんて発想を実行できるんじゃないかな?

「なじみの関係」という言葉から私が感じるのは
認知症のある方の能力を把握できていないんじゃないかな?
把握する術を知らないんじゃないかな?
ということです。
そんな方にオススメします。

「OT臨地実習ルートマップ」メジカルビュー社

この本の「認知症」のページは私が担当しました。
評価の進め方について記載してあります。
笑顔で「なじみの関係を作る」なと言いつつも
心のどこかで違和感を感じて
でも他にどうしようもないから違和感にフタをするしかなくて
そんな状況から抜け出したいと思っている人は読んでみてください。

そんなことはない!大丈夫!という人も
日本の各分野の第一人者がわかりやすく執筆しているので
若手作業療法士にも各分野の入門編としてオススメします。
本来は学生向けに企画された本ですが
いろいろな疾患・障害のある方を前にして
悩むことの多い若手作業療法士にとっても
実践的で臨床に役立つ良い本だと思います。

 

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ヘンな言葉「認知だから」

「認知だから」「認知の人」「認知のある方」

ギョーカイの人なら
あぁ、認知症のある方のことね。ってすぐにわかると思いますが
この言葉ってすごく変です。

実際、疑問に思われる一般の方もいました。
公民館に出向いて地域住民の方に
「認知症予防」のお話をした時のことです。
終わってからある人に声をかけられました。

「あの。。。ちょっといいですか?
今日の講演のことじゃないんですけど気になることがあって」

「『認知だから』『認知の人』って言葉をよく聞くんですけど
あれっておかしな言葉ですよね?」

その通りです。
日本語として成り立たない。
認知のある方って、認知があっていいじゃないですか。
認知、なければ困ります。

私はいつも
「認知症のある方」という言葉を使っています。
その時もいつもと同じように「認知症のある方」という言葉を使いました。
だから声をかけてくださったのだと思います。

「認知」
周囲が言っているから使っている
略して言うと専門家っぽく聞こえるから使う
と思っているのかな?

それこそ、メタ認知の観点からすれば
日本語として成り立たない言葉を使える人は
流行には敏感とか
周囲の状況に染まりやすいかもしれないけれど
物事をきちんと吟味・検討しているかどうかは別問題
ということを自分で世界に表明しているとも言えます。

気にしない人は全然気にしないでしょうけれど
きちんと検討している人からしたら
信頼の対象外と認識されてしまう恐れだってあります。

何よりも
末梢からの感覚・運動刺激の入力をコントロールすることで
中枢の機能の変革を仕事とするリハスタッフは
もっと言葉を吟味して扱う必要があるのではないでしょうか?

言葉を吟味して適切に扱うというトレーニングをすることで
普段のリハ場面でも場面設定や自らの言動に
もっとsensitiveになれる
もっと広く深く鋭敏になれるのではないでしょうか。

 

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ヘンな言葉

認知症のある方への対応について
よくよく考えるとすごくおかしいのに
昔から言われているからと
吟味検討もせずに
そのまま伝えられている言葉がいくつもあります。

言葉は概念を現します。

適切に言葉を扱えないということは
適切に概念を扱えていない
つまり実践の根幹を成す概念が疎かになっているということは
実践そのものが疑われてしまいかねないということを意味しています。

実際に
言葉の不適切さについて疑問を呈した方もいます。
(後述します)

ご家族の中には
一般企業で丁寧にお仕事に向き合っていられる方も大勢いらっしゃいます。
論理的思考についてものすごくトレーニングされている方も大勢いらっしゃいます。

面と向かっては言わないだけで
ケアやリハで飛び交う言葉に疑問を抱いている方だっていらっしゃるのではないでしょうか?

 

 

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常識の罠

常識の罠「褒めてあげる?ともに喜ぶ!」

の記事で、現行よく言われている「褒めてあげる」という言葉への違和感を書きました。
1年以上前の記事ですが、最近になってその違和感を振り返れるようになってきたので、改めてとりあげてみたいと思いました。

そもそも、「褒める」ことは目上の人が目下の人に向かってすることで目下の人が目上の人に対してすることではない。だとすると、お年寄りに対して「褒める」ことを励行する時点で非常に失礼なのではないかと感じていました。また「寄り添って」「その人らしさを尊重して」という言葉の真意としての「尊敬」という概念と矛盾するのではないかとも思いました。
人間が生きていくうえでさまざまな矛盾を抱えているのは、この年になればさすがにわかりますけれど(^^; よりよいサービスを提供する…ということを考える時に、最低限考えられる限りは整合性のあるものを提供して初めて矛盾ある生に向き合えると考えていますので、現行よく言われている「褒めてあげることが大事」というスローガンはおかしい。と思っています。

また、神奈川県作業療法士会ニュース147号
http://kana-ot.jp/wpm/news/files/2011/07/147.pdf
の8-9ページに掲載されているインタビューで失敗談として取り上げていますが、私たち職員がどんなに褒めても、ご本人自身が落ち込んだ気持ちは変わらなかった…という体験をしています。

「褒めてあげることが大事」とよく言われているけれど、それは違う。
でも、概念としては違っている言葉が、何故こんなに流行しているのか。
こんなに流行しているのは、何かしらの意味があるから出回っているのではないだろうか…と考えました。
本当によくない言葉なら、みんな使わないだろう…とも思ったのです。
人口に膾炙するからには、それだけの理由があるはず。
もしかしたら、この言葉のどこかに何か重要な本当に大事なことが含まれていて、たまたま褒めるということと似ている概念があってそれがすり替えられて言い伝えられているのではないか。と思い至りました。

そこで思いついたのが「確認」です。
「それでいいんだ」と伝えること。

認知症のある方は記憶の連続性が低下しているので、自分の言動の根拠を過去の記憶と照合することが困難になります。
果たしてこれで本当によいのかどうか、自信がない。
自分だけでは判断するべき「根拠」がわからない。
だから、誰かにそれでよいのだと言われて安心する。
とりわけ、確証が得られやすいのが、褒められる…ということだったのではないかと。
だとしたら、尊敬するということと矛盾しません。

言葉に敏感になる…ということは概念に明敏になるということだと考えています。
言葉の限界はあるけれど、だからこそ言葉を意図的に明確に扱えるようになりたいと考えています。

本当は
「褒めてあげることが大事」
なのではなくて
「それでいいんだと伝えることが大事」
だったのではないでしょうか。
今はそう考えています。

でも、私の経験では
認知症のある方ができなかったことができるようになった時
褒める…なんて心理的距離のあることじゃなくて
本当にうれしいから、ともに喜ぶ!感じなんですけどね。
その人自身の能力と特性が
その人自身の日々の暮らしの困難を乗り越えていく
その過程をともにした者としては、まずうれしい!とにかくうれしい!本当にうれしい!
…のです。

だから、今は
過程において、それでいいのだと伝える。
結果において、ともに喜ぶ。
そう考えています。

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舌の動きが見落とされている

舌の動きが見落とされている食事介助において
看護介護職員が重点を置いてみているのは
ムセないかどうか…ということです。
これはとても大切なことです。
でも、ムセなければ食べ方がOKということにはなりません。
ところが、ムセないから大丈夫…という判断が下されがちで、案外、舌の動きが見落とされてしまいがちです。
つまり、ムセないから嚥下は大丈夫、他はわからないけど…ではなくて
ムセないから食べること全般も大丈夫…という判断になってしまう傾向が高いのです。

たいていの施設、病院において
対象者の食べ方の能力よりも高い食形態が選択されがちな傾向があるのは、このような背景があるからではないかと考えています。

食事を介助していれば、口腔内に食塊が残っているかどうか、食塊が残りやすい部位があるのかどうか…ということはわかります。
少なくとも、食事後の口腔ケアの時に、口腔内に食塊が残っていることは確認しているはずなのです。
口の中に食塊が残っている…ということは、舌の動き=本来の意味の咀嚼が不十分なことを意味しています。
それなのに、食形態の変更について検討されていないことが多いようで不思議に思います。

食べこぼしがひどかった方や
食事を食べようとしなかった方
食事中に手を口の中につっこみ手づかみ食べをしていた方が
食形態を落としたことにより、スムーズに食べられるようになった…というケースは枚挙にいとまがありません。

見た目にも美味しくお食事していただきたい…という気持ちはわかりますが
対象者の食べる能力よりも高すぎる食形態の選択は、不適切な環境への不適切な学習をさせてしまうおそれがあります。
「生活リハ」という言葉が誤解されているのではないかと感じています。
むしろ、適切な食形態で十分に「食べる」ことの再学習ができると、1ランク上の食形態でも食べられるようになることのほうが多いのです。
(認知症のある方への「学習」については、誤解されていることが多々あると感じているので、そのことはいずれまた記事にするつもりでいます)

ムセの有無だけではなくて、食べ方をちゃんと把握してほしい。
少なくとも、口腔ケアのときに食塊が残っているという事実に気がついたら、単にその場で口の中をきれいにするということだけではなくて、何が起こっているのか、その事実が示している意味について考えをめぐらせてほしいと思っています。

食事は生命に直結した場面ですし、最後まで残るADLでもあります。
食形態の選択、食事介助の方法の選択が、対象者の「食べる」能力と障害について、適切に把握したうえでの選択になっていきますように…。
心から願っています。

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良い姿勢?

良い姿勢?食事の姿勢のことです。
食事をする時には、良い姿勢で食べましょう。
股関節90度、膝関節90度屈曲位が正しい姿勢です。
…ということで、振り子式車いすにかろうじて座っている人も食事中に起こされて食べにくそうにしている人をよくみかけます。

うーん…

上体はムリに起こさなくても大丈夫。
それよりも、頸部の角度が誤嚥防止には重要なのです。

上体をムリやり起こして良い姿勢を作ったとしても
頸部後屈してしまっていたら
それこそ、誤嚥一直線(> <) ふだん、ただ座るだけでも、ちゃんと座ることができない方が 座る+食べることを両立しておこなえるでしょうか? 食事というのは楽しみであると同時に生命に直結した行為です。 まず、安全に食べられることが何よりも大事です。 看護学の教科書にも90度の常識が書かれているそうですが だからこそ、実際の現場で 頸部の角度確認の重要性を声を大にして訴えていかねば…! 「良い姿勢」「正しい姿勢」もいいですが 目の前の方にとって「より適切」な姿勢を担保することが 第一優先なんじゃないかしら…と思うのであります。 そして、その時にその姿勢が「適切」かどうかの判断根拠は 何を為すための姿勢か…ということ。 目的とする行為が何なのか…ということだと考えています。

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入院すると認知症がひどくなる?

入院すると認知症がひどくなる?結果として起こっていることなのですが…(^^;

「入院すると認知症がひどくなる」

これもよく聞く言葉です。 入院生活は刺激がなくて単調だから…と環境の問題にされがちです。 けれど、果たして本当にそうでしょうか?

入院生活というのは、日課がきちんと決められています。 医師や看護師の言語指示を聞き取り、理解し、記憶し、従うことが求められます。 また、病棟全体の中で病室やトイレの位置関係を相対的に把握し、行動できることも求められます。

このようなことは、アルツハイマー型認知症のある方にとっては、とても難しいことなのです。

もともと、認知症の中核症状はあったけれど、 なじみのある自宅という場でマイペースに暮らしていたから 症状が目立たなかった。 それが、入院というきっかけで、新たな場で新たな事柄に対応することが求められるという場面において表面化した。

入院生活という環境がよくないから入院すると認知症がひどくなる …というのではなくて 入院生活に適応できないくらいに 既に認知症が進行していたということが表面化した …のではないでしょうか。

環境適応能力が限られてしまう…ということは 認知症のある方が、身体疾患を発症した時に生じる課題の1つでもあります。

その課題にきちんと対応できるようになるためにも 結果として起こっていることと原因との混同なく 状態像の把握ができるようにならないと、対策も後手後手になってしまうように感じています。

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ケアの統一

ケアの統一よくよく聞くヘンな言葉 「ケアの統一をしましょう」

だって、お年寄りの状態がさまざまなのに ケアを統一して、どうしていいことができると思うんだろう?

その時その場のその関係性において 適切な関わり方ができるかどうかこそが問われているのに

たとえば トイレ動作の自立を目標にがんばっている方がいるとして その方が「おしっこもれそうだから手伝って」と言っているのに 「自分でできるように練習しているんだから手伝えないの」 「みんなでそう決めたのよ」 って、そんなのってどうかと思う。

論理のすりかえ。だよねー。 結果として、起こるはずのことを 方法論として、用いている

どんな時どんな場どんな関係性においても ステレオタイプな対応をするのではなくて その時その場のその関係性において 適切な対応をすることで 結果として、 どのような時どのような場どのような関係性においても 能力を発揮できるようになっていく…だよね。

「あの人は人を見るからさー」 いやいや…(^^; 人を見る能力があるのは、イイコトで…。

もしも、人を見て、ある動作をやったりやらなかったりするのだとしたら それは、依存的等という言葉でくくられるのではなくて その人にとっては、「やらされ感」があって 本当はやりたくない、やりづらい…ということを態度で示しているのではないでしょうか。

だとしたら、私たちが考えるべきことは 「やればできるんだから、がんばってやって!」 などという言葉で動作を「させる」のではなくて 「どうしたら、やりやすくなるのだろう」 「本人にとってのやることのメリットって何なのだろう」 ということなんじゃないのかしら。

日々の臨床の場では すぐに答えが出ないこともたくさんあります。 その時には、答えらしきものに飛びつくのではなくて お互いしんどくても 今は答えがない…でも、この方向性で考え続けよう という態度を持ち続けることなのではないでしょうか。

少なくとも 答えらしきものに飛びつくことで お年寄りをよぶんに傷つけることは避けられるのですから。

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