Category: 素朴な疑問 不思議なジョーシキ

Activityの提供:本当にあったこと2

ずいぶん昔の話ですけど
私が毛糸を巻き取っていたら
ある人に
「それならXさんでもできそうだから、やらせてみたら?」
と言われたことがあります。

Xさんは、90歳代の男性で長く農業を営んでいた方です。
確かにXさんなら動作的にはできそうです。
でも。。。

今でこそ、男女同権(に近い)。
夫婦揃ってお買い物したり
男性が出勤途中にゴミ出ししたり
家族のためにご飯を作ったり
といったことは珍しくありませんが
私が子供の頃には、ほぼありえないことでした。
(良いか悪いかはともかくとして)
「男子厨房に入るべからず」
という言葉だってあったくらいです。

毛糸を巻き取るという行為は
昔は女子供(昔はこの言葉が使われていました)の仕事でした。

Xさんが生きてきた時代と
今の若い人たちが生きている時代は
明らかに違っているのです。

Xさんは確かに認知症は進行していて
何かを作ることは難しそうです。
でも、できれば良い。毛糸の巻き取りで良い。
とは私は考えていませんでした。
尊厳の問題です。

「Xさんに毛糸巻きを提示する」
ということは
「あなたには、これがふさわしいと(私が)考えている」
ということを言葉にはしなくても伝えることを意味します。

私は
「できる」ことよりも「特性に合致しているか」
ということを重要視しています。
その理由と展開の仕方は「Activity選択の考え方」をご参照ください。

ちなみに
私がXさんに提供したのは
他の方がそれぞれ各自のAct.を行なっている並行集団に入ってもらい
「監督」の役割を担ってもらうことでした。

Xさんは、それぞれの方に
優しく労いの言葉をかけ
褒め称え
時には冗談を言って場を盛り上げ
お一人お一人の様子を気にかけ
優しく鷹揚に年長者として場を取りまとめてくださっていました。

お若い頃のちょっとした集まりの時にも
こんなふうに和やかな場づくりを意識されていたんじゃないかな
と感じました。

Activityを提供する時に
その方にとっての意義を第一に考えるということは
( 意味ではなくて意義 )
とても重要だと考えています。

 

 

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Activityの提供:本当にあったこと1

実際に私が遭遇したことです。

例えば
下記のような塗り絵の下絵を
認知症のある方に提供されていました。

これらの下絵のどこがマズイかというと。。。
1)幼稚な印象を与える
2)単純化されているので誤認しやすい

認知症のある方は
よくご自身のことを「頭がバカになった」と言われますが
決してそんなことはありません。

通常、作業療法士やその他の対人援助職が認知症のある方に出会った時点で
既に認知症のある方は普段の暮らしの中で
相当な困難、できなくなった、わからなくなった体験を積み重ねています。

そのような方に対して
幼稚な印象を受ける下絵を提供すれば
そんなつもりはなくても
やっぱり自分がバカだからこんな程度しかできないと思われているんだ
と感じさせてしまう恐れがあります。

かつて
デイの利用を拒否していた方が
「『あんなところに行ったって
 チーチーパッパ幼稚園みたいなことさせられるんだろう?』
と思っていたけど
全然違った。こんなことならもっと早く来れば良かった」
と言われたことがあります。

その方の誤解もあったかもしれませんが
まったく何もなければ誤解も生まれません。

現に、このような塗り絵の下絵には
私自身が異なる複数の場で遭遇しています。

塗り絵に限らずですけれど
「あなたの両親、学校の校長先生、病院・施設のトップに
 自信をもって提供できるActivityなのか?」
と自問することは大切なんじゃないかと思っています。

また
提供者側がこのような幼稚な下絵を提供するには
それなりの理由があるからとも考えています。
それは「単純化された下絵の方がわかりやすいだろう」
という誤解があるのではないかということです。

でも
それはまったくの誤解で
単純化された下絵はかえって誤認を生じさせやすいのです。

例えば
左側の下絵では
私たちは「ウサギが雪空を見上げている」と認識しますが
認知症のある方は
ウサギの顔を赤く塗り、背景を青く塗りました。
ウサギの顔だけに注意が固着されてしまい
ウサギを金魚、雪を水の中の空気の泡と誤認したのです。

真ん中の下絵は
私たちは「クリスマスのチキンがお皿に載っている」と認識しますが
認知症のある方は
チキンとお皿を黄色やピンクで塗り
添え物の野菜と持ち手の飾りを赤く塗りました。
チキンと野菜とお皿を「帽子」と誤認したようです。

右側の下絵は
私たちは「節分の時に玄関に飾るもの」
「鰯の頭をヒイラギに刺したもの」と認識しますが
認知症のある方は
鰯の頭を赤で塗り、ヒイラギの葉を緑で塗りました。
チューリップと誤認したようです。

「認知症だから変な色を塗る」
「認知症だからこんなこともわからない」
のではなくて
構成障害があったり、図と地の判別がしにくい方もいるし
近時記憶障害があれば、最初に塗り絵のテーマを説明しても
時間が経てば説明されたテーマも忘れてしまいます。

そういった病状特性を踏まえて
誤認しやすい下絵を回避するのは
作業療法士として大切なリスク管理の一つだと考えています。

ヒポクラテスの誓いは
「まず第一に患者を傷つけないこと」
で始まると日野原重明氏の本で読んだことがあります。

幼稚な下絵を提供することもリスク管理の一環として
回避する必要があると考えています。

シンプルな下絵の場合には
ちょっとひと工夫すると幼稚に見えなくなります。
「塗り絵の工夫:幼稚に見せない」をご参照ください。

 

 

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Activityの提供:問題提起

認知症のある方へのActivity提供をめぐる現状には
さまざまなことが反映・錯綜していると感じています。

そのひとつが
Act.提供者側が認知症のある方がAct.遂行する時の個々の困難を
予測し難いからなんだと考えています。

私たちには意識せずとも発揮している能力がたくさんある。
できて当たり前なので、そもそもそのことに無自覚なものです。
遂行機能障害や構成障害という障害の本質を理解せずに
バッテリーだけとっていると
目の前で起こっている言動に反映されているそれらの障害を見落としてしまいます。

かつては
「その場の話ができる=認知症じゃない」
という誤解が蔓延していました。
流石にこれだけ認知症に関する啓蒙が進んできてるから
今、そんなことを言う人は少ないでしょう。

けれど
その誤解は氷塊したわけではなくて
根深く残っています。

「その場の話ができる=いろいろなことができる」
という誤解は対人援助職にも根深く残っているものです。

  過去の記事にも書いていますのでご参照ください。
  「輪ぐさりは難しい」
  「折り紙は難しい:身体面」
  「折り紙は難しい:認知面」

風船バレーって
飛んできた風船を打ち返すだけだから簡単
って思われてますけど
重度の認知症のある方には難しいものです。

周囲の様々な視覚的刺激の中から
動いている風船に注意を固定し続けることができないと
「飛んできた風船を打ち返す」ことができません。

そもそも
集団での風船バレーが成立するためには
「その場面に座り続けている」ことが最低限求められますが
これが難しい。。。
 
「その場面がどんな場面で何をする場面なのか」
理解し、理解を保持し、理解に合わせて言動をコントロールするのは
重度の認知症のある方では難しいものです。

そして
風船バレーなら簡単だからできるんじゃない?と考える人は
目の前にいる認知症のあるXさんにとって
風船バレーが意味するものは何なのかということに
あまりにも無頓着に過ぎると感じてしまいます。

そもそも
どのような人にどのようなActivityが提供されるべきなのか
そしてそれはなぜなのか
という大命題について、どのように考えたら良いのか
ということを教えてもらった作業療法士がどれだけいるでしょうか?

「やりたいことをやる」
というのは一見正しいようでいて
(事実、それで救われたたくさんの対象者も作業療法士もいる)
だからこそ余計に
結果として問題の本質を見誤り議論検討することを回避させてしまった
と私は考えています。

 このあたりは、「褒めてあげる」という
 本来不適切なことが一見適切なように流布されてきた経緯と
 同じコトが違うカタチで起こっている
 と感じています。
 詳細は過去記事「常識の罠」に記載してありますので、ご参照ください。

なぜ、やりたいことができると良いのでしょう?

私は、自分が自分で在ることの再体験・再確認ができる
からと考えています。

つまり
概念構造としては
自分が自分であることの再体験・再確認>やりたいことができた体験
であると考えています。

 

希望を尋ねることは必須だけれど
希望を表明できない方に対して
あるいは表明された希望を表面的に把握するのではなくて
周囲の言語化された希望を実現するのでもなくて
表現された希望を尊重しても迎合することなく
真のニーズ、自分が自分で在ることの再体験・再確認
を探り、掘り下げ、援助が可能なのが
言葉だけに頼らずに
言葉ではない「作業」を媒介できる作業療法士なのではないかと考えています。

 

例えば
「遠方にある実家のお墓参りに行きたい」
と身寄りのない一人暮らしの認知症のある方に言われたら
作業療法士としてどうしますか?

歩けるようになったとしても
ひとりでは実現困難で
でも、お金さえあれば実現できてしまうかもしれないニーズです。
それは病院・施設に勤務する作業療法士が関与できることでもありません。
だからといって、却下してしまって終わりですか?

希望を尋ねたときに表明されたということは
その方にとっては意義のあることに違いありません。

では、どうしたら良いのでしょうか?

 

いきなり難問だったかもしれません (^^;
でも、「やりたいこと」「希望」を尋ねた
その後が肝心ということはおわかりいただけたと思います。

「やりたいことをやる」「やりたいことの実現を援助する」という考えでは
必ず行き詰まってしまいます。
もうそういった現状にたくさんの作業療法士がぶち当たっているはずなんです。

次の記事から
もう少し現状を紐解いていきたいと思います。

 

 

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Activityの提供:現状共有

認知症のある方に
Activityを提供する際には
さまざまな困難が伴います。

過去にもいろいろな記事を書いてきましたが
ここで一度総括してみようと思います。

長くなるので
シリーズとして連続記事で書いていきます。

まずは
認知症のある方へのActivity提供の現実モロモロの共有化から。

やりたいことの希望を聞いたけれど
・特にないと言われた
・私は何もできないと言われた
・言われたことが認知症のためにできなかった
・過去の趣味を提示したけれど、やりたがらなかったorできなかった

何を提供して良いかわからずにとりあえず
・折り紙を提示したけどできなかった
・塗り絵を提示したら怒られた
・風船バレーならできるかと思ったけどできなかった

他職種から
・徘徊しないように何かできることはない?
・立ち上がりが頻回で困るから何かやらせてほしい
と聞かれた

などなど、作業療法士あるあるではないでしょうか?

次の記事で
これらの表面的な事象に反映されている
本当の困難や意味について書いていきます。

 

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観察・洞察から始める対応の工夫

ほとんど休眠状態だったこちらのサイトに
こんなにもたくさんのアクセスをいただき
ありがたく思うと同時に
再開への誓いを新たにしました。

個人のサイト(OT佐藤良枝のDcゼミナール)を立ち上げたこともあり
どのように使い分けをしていくかは
走りながら考えていこうと思っています。

ただ
再開にあたり考えたこともあります。
それは事実に即して記述していくということです。

そんなの、当たり前じゃん。って思われるかもしれませんが
多くの場合に、常識とされている慣習的対応や視点、考え方に
無自覚のうちに支配されていることって多々あります。

  例えば
  老年期のリハ場面で立ち上がりの練習をするセラピストは
  大勢いると思いますが
  同時に座る練習をするセラピストは多くありません。

  私は立ち上がりの練習をするよりも座る練習をした方が
  より安全に円滑に立ち上がれるようになると考えており
  第12回神奈川県作業療法学会のワークショップで発表もしましたし
  こちらのサイトでも「立ち上がり」で検索していただければ
  多数の記事がヒットすると思います。

「できることのでき方をよくしていく」
という考え方が私の根幹にあります。

実は
できていることにも
できていないことにも
同じように能力も障害も困難も反映されています。

セラピストは
表面的な「できていること」「できていないこと」を見るのではなくて
表面的な事象に反映されている
impairmentの能力・障害・困難を観ることが重要で
(ここまでは、当たり前と思われると思います)
「できていること」の中には、かなり代償を使って
特に粗大なPowerを使って代償している面があります。

  立ち上がりを例にとれば
  腰背部の筋力があるからこそ立ち上がれてしまう。
  疾患によって筋力が以前のように発揮できない状態に陥ると
  立ち上がれなくなる。 
 
  そこで、筋力強化→立ち上がりの練習
  というのが今の一般的な方法論だと思いますが
  そうではなくて
  せっかく筋力が発揮できない状態になることができたので
  本来の身体協調性を発揮して立ち上がれるように再学習する

  そのためには、立ち上がりの練習をすると
  どうしても脳内にインプットされている過去の回路が起動してしまうので
  新しい回路を作るために、座る練習という体験を通して
  筋力を過剰に使わずとも身体協調性を再学習し能力発揮する
  このような方法論で多数の老年期の方が立ち上がれるようになる
  という体験をしてきました。

  私に言わせれば
  立ち上がり100回!とか、大腿四頭筋の筋力増強訓練!とか
  生活期にある方に対してはとんでもない話で
  せっかくの再学習の機会を奪ってしまっているとしか思えません。

  抵抗と防衛のために
  慣習的視点、対応、方法論にセラピストも支配され
  脱却が困難になってしまっています。

「できることのでき方をよくしていく」
というのは、代償を使わず本来の能力発揮を援助する
能力がより合理的に発揮できるように援助する
という意味なのです。

同じコトが違うカタチで現れていることは
ヤマほどあります。

認知症のある方への食事介助しかり
対応の工夫しかり
「褒めてあげる」「なじみの関係」etc.
(こちらも過去の記事にありますので、検索してみてください)

「事実の子たれよ。
 理論の奴隷たるなかれ。」

この言葉は
内村鑑三の言葉で
私が大切にしている言葉でもあります。

理論というのは
まさしく〇〇理論、〇〇法も該当しますが
常識、慣習的対応という言葉に置き換えても該当すると考えています。

「事実の子たれよ。
 理論の奴隷たるなかれ。
 事実はことごとくこれを信ぜよ。
 その時には相衝突するがごとくに見ゆることあるとも、
 あえて心を痛ましむるなかれ。
 事実はついに相調和すべし。
 その宗教的なると科学的なると、
 哲学的なると事実的なるとにかかわらず、
 すべての事実はついに一大事実となりてあらわるべし。」 

後半のくだりは、まさしくその通りで
実際に認知症のある方と接していて何回膝を打ったことか。。。

科学は過去の知識の修正の上に成り立つ学問であり
まして作業療法は実践の科学です。
実践の科学であるからこそ
解剖学・運動学・症候学などの基礎知識を習得し、
知識を活用して観察・洞察できるようになることが
未来の作業療法に貢献することに他ならないと考えています。

「観察の重要性を知った」
「評価しているつもりだったが、まだまだだと思った」
私の講演を聞いた方から、そのような感想をいただくと本当に嬉しく思います。

ハウツー的思考回路から脱却し
uniqeな目の前の対象者の困りごとの場面そのものを
自身も含めた環境因子の中で
明確に観察・洞察・対処できるようになる人が
一人でも多くなることを願って
このサイトを再開させたいと思います。

 

 

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ヘンな言葉「立って食事介助してはいけない2」

立って食事介助してはいけない理由
1)上唇での食塊取り込みを阻害してしまう
  上の歯でこそげ落としたり、スプーンを斜め上に引き上げてしまいやすいから
2)喉頭挙上の動きを目で見て確認しにくい
  喉頭の不完全挙上や複数回挙上を見落とす恐れがある

生命に直結するリスクのある介助となってしまいます。

食事介助をする時に
上の歯でこそげ落としたり、
スプーンを引き抜く時に斜め上に引き上げていたら
立って食事介助をしようが、座って食事介助をしようが
どちらでも危険な介助であることに変わりはありません。

「食事中にムセたから食事は中止」するよりも
(これだっておかしなことですが)
上記のような危険な介助をしている場合には
結果としてムセているので
まずは、きちんとしたスプーン操作ができるようにすることが先です。

手段の目的化に陥ったり
表面的に言動を規制することしかできないと
実際には対象者の方に対して不適切な介助をしているのに
表面は良いと言われた言動をしているので
かえって介助の自己確認・自己修正が効きにくいという
大きなデメリットがあります。

ハウツー思考の弊害
「〇〇という時には△△する」
「□□の時には✖️✖️してはいけない」
というだけの対応では
たまたま「当たる」ことはあっても
普遍・本質的な在り方ではなく
自己修正を阻害することもあるので
良くないどころか、かえって悪い、逆効果になることすら起こり得ます。

 

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ヘンな言葉「立って食事介助してはいけない」

ネットを見ていると
手段の目的化にたくさん遭遇します。

先日は、こんな書き込みを見かけました。
「立って食事介助してはいけない」
「立って食事介助してる施設はよくない」
etc.

確かに立って食事介助するよりは座って食事介助した方が良いです。
でも、座って食事介助すれば良いというわけでもありません。

大切なことは
立って介助してはいけない理由は何か
座って介助した方が良い理由は何か
ということを明確に認識できているかどうかということです。

理由を認識せずに
「立って介助してはいけない」と言われたから
座って介助しているだけでは
結局立って介助しているのと同じことをしてしまう場合もあります。
もしも
「自分は座って食事介助してるから良い介助をしている」
と思い込んでいるとしたら
いくら座って介助していても、かえって立って介助するよりたちが悪いとも言えます。

逆に
立って介助していても
座って介助できないからこそ
いつもより意識して介助しているのならば
それは立派な介助だとも言えます。

立って食事介助してはいけない理由は何でしょう?

上から見下ろした介助は相手に失礼?
相手の顔が見えない?

それもあるかもしれません。
心理社会的な意味だけでなく
生命に関わるリスクもあるのです。

(続く)

 

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ヘンな言葉「なじみの関係」2

リハやケアの分野で
常識のように言われ為されていることでも
吟味・検討すると、とてもおかしなことがあると記載しました。

その一つが
「なじみの関係」

認知症のある方を担当したら
毎朝部屋を訪問して挨拶に行く。とか
信頼関係を作ってからリハをする。とか

でも
私たちは毎朝顔を合わせているから
なじみの関係だから
相手を信頼しているわけではありません。

相手の言動や志など
信頼に値すると感じた何かに共鳴して信頼するわけで。

つまり、信頼関係は結果としてできるので
結果と目的を混同させるのは
現場あるあるですが、やっちゃいけないことでもあります。

ただし
本当はおかしなことなのに
ある分野で長く言い伝えられてしまっているには
相応の理由があるとも考えています。

その多くは、おそらく
部分的に効果があった体験がそれなりの数の蓄積があり
その体験が意味する本当の概念を知らずにいたために
誤認が起こってしまった。と考えています。

その概念の誤認を説きおこし
正確な知識をもとに本当の概念を明示することが必要
だと考えています。

そこで本題

「なじみの関係」は「再認+プラスの感情記憶」

この人といると
楽しい・安心できる・癒される。。。など
プラスの感情が湧き起こる。
感情記憶は残るし
「誰か」ということを再生できなくても
顔を見たり、名前を言われたりすれば
「この人だ!」と再認することができる。

人によってプラスの感情が湧き起こりやすい方向は異なります。
Aさんは楽しさに
Bさんは安心に
Cさんは癒しに。。。

再認しやすいきっかけは
人により時期により状況によっても異なります。

目の前にいる認知症のある方が
どんなコトにマイナスの感情を抱きやすく
どんなコトにプラスの感情を抱きやすいのか
評価・アセスメント・状態把握することが最優先で行うべきことであると考えています。

毎朝挨拶をしようがしまいが、本当は無関係で
たまたま毎朝の挨拶がその時の相手のキモだった
そしてそういうケースがある程度あった。。。ということだったのではないかしら?

だって
重度の認知症のある方でも
礼節保持されている方はとても多いし
それなのに認知症というだけで、ぞんざいな対応をするスタッフもまだまだいるし

そもそも
テレビで何らかの事件が起こった時に
被害者であれ加害者であれ
「ちゃんと挨拶する人」というコメントが必ずと言っていいほど流れるのは
それだけ私たちの社会の根底に「挨拶」が大切とすり込まれているのではないかしら?

だから
余計に
目の前にいる方にどうしたら良いのか
何もわからない、できない時に
すぐにできることとして「挨拶」が取り上げられてしまった

そして
部分的にでも効果的な体験の蓄積があり
現場では効果的な対応が切実に求められていたために
概念と実践のすり合わせを行う過程で「間に合わせ」が生じてしまった。。。
のではないかしら?

ハインリッヒの法則は
事故だけに限らずに適用されるように感じています。

事故は起きる必然がある
だからこそ、予防できる事故もある

ヘンな常識は伝わる必然がある
だからこそ、バージョンアップできる
正当な常識として生まれ変わらせられるものもある
そう考えています。

 

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