Activityの提供:現状分析

認知症のある方にActivityを提供しようとすると
いくつもの難関が待ち構えています。

  それらの難関を乗り越えて
  どうしたら適切なActivityを的確に提供できるのか
  ということは後日改めて記載していきますが
  その前に現状について明確に理解する必要があると考えます。

希望を尋ねても
希望を言えなかったり
述べた希望が認知症のために遂行困難だったり
そもそも意思疎通が困難だったり

 身体障害であれば
 遂行方法を変更することでできるようになることはありますが
 認知症の場合、難しいものです。
 例えば、調理困難な方に対して
 道具を工夫することで片手でも調理ができるようになることはあっても
 認知症のある方に異なる使い方をする道具を提示すると
 その道具の意味することがわからなくて使いこなせない
 ということはよくあります。
 同じことを違う方法では行えないので
 その方の手続き記憶やイメージを大切にする必要があります。

また「一緒にやるから大丈夫」
という言葉は遂行機能障害や構成障害のある方には
通用しない言葉です。
詳細は下記の記事をご参照ください。
 「中身の連携:Act.の選択」
 「結果として起こることの目的化」

バッテリーや検査をしても
それらの障害の本質を理解できていないと
目の前にいる認知症のある方の言動に反映されている
それらの障害と、
にもかかわらず、なんとか対処しようとしている努力をも
見れども観えず
見過ごしてしまったり、見誤ったりしかねません。

Activityを実施できたとしても
「セラピストの脳が認知症のある方の手を動かしている」
という状態を
自覚して葛藤を覚えた人だっているでしょう。

しているのか
やらせているのか
見た目同じように見えても
セラピストの関与のベクトルは真逆です。

「何もしないと認知症が進行してしまう」
というのも大いなる誤解で
「何かさせることによって
 できない、わからない体験をさせれば認知症のBPSDは悪化する」
ことだって起こり得ます。

例え、善意からであったとしても
「できない」「わからない」「不安」「心配」な体験を
わざわざリハビリテーションとして提供する必要はありません。

認知症のある方は
暮らす、生活する、だけで
たくさんのできなさ、わからなさ、不安、心配に
直面し続けています。

「する」からには
 認知症のある方にとってのプラスの体験・意義がなければ。

それらの意義を
私たちがわからなければ。

ところが
現実には「意義」よりも「できること」が模索されがちです。
それだけ「できること」が限定されているとも言えるでしょう。
 本当にあったこと1
 本当にあったこと2
 本当にあったこと3
 本当にあったこと4

できることを優先すると
「意義」を見失うことが往々にして起こります。

できないことを提供すれば
一緒に手伝ったとしても
(現実には手伝うことにならないことが多々生じる)
ネガティブな感情を惹起させてしまいます。

ここに認知症のある方への
Activity提供の難しさがあります。

だからといって
本人のニーズを探索するよりも
周囲の要請にそって行うという考え方が適切だとは
私にはどうしても思えません。

周囲の要請への配慮は必要なのはいうまでもないことですが
本人のニーズに合致したActivityは
結果として周囲への要請にも合致する
という方向性を模索すべきだと考えていますし
実際に現実的に可能でもあります。

その実践への第一歩は
認知症のある方へのActivity提供の難しさを
明確に自覚することであり
「第一に患者を傷つけないこと」
というヒポクラテスの誓いから外れずに実践するという決心だと考えています。

一発で最適なActivityを提供する。などという無謀な道は諦めて (^^;
外さないという姿勢で臨んでいます。

認知症のある方とのやりとりを通じて最適なActivityを探っています。
その結果として、1〜2回の探索で
ご本人も集中でき、周囲への要請にも合致し、特性も反映されている
Activityを提供できるようになってきたと感じています。

 

 

 

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