Tag: 環境適応

Activityと構成障害「観察とは?」

作業に語らせる:輪くさり

構成障害はあるけど
一生懸命輪くさりを作ろうとして作れない方に対して
「一緒にやるから大丈夫」という言葉は適切ではない。
ということを前の記事で説明してきました。

じゃあ、どうしたら良いのか?

考え方として
1)介助の工夫:輪くさりを仕上げるためにどんな介助の工夫をするか
2)課題の変更:輪くさりではなく他のActivityに変更する
この2つがあります。

いずれにしても
どうしたら良いのか?という方法から考えるのではなくて
どんな風に作っているのかという作り方を観察します。

「観察なんてしてるよ」
と言われるかもしれませんが (^^;
その方が作っている過程を言語化できますか?

「最初はできてるけど途中からできなくなった」
確かにそうですけど (^^;
「作り方」の言語化にはなっていないですよー。

「How」「どんな風に」
の部分を言語化できるくらいに観察できると
この方の能力と困難と特性の洞察ができるようになります。

結果としての
この写真からだけでも
わかることはたくさんあります。

この方は
輪っかが繋がっていくということを表現したかったのだと思います。
単体として輪っかは作れる
でも輪っかと輪っかをつなぎ合わせることができない。
なんとか輪っかの繋がりを表現しようとして最後は混乱してしまいました。
(写真の左側から右側へと作業を進めていきました)
繋がりを表現しようとして紙をそのまま繋げています。

もっというと
立体の輪っかに平面の紙を通してから立体化させて輪っかにする
ということができない。

立体の対象Aと平面の対象Bを同時に認識し
平面の対象Bを立体の対象Aの中に通してから立体化させる

2つの対象を異なる形状として認識した後で
2つの対象を特定の方法で組み合わせてから
1つだけ形状を変化させるという認識と再現が難しい。

2つを繋げるんだという意図はある。
的確に繋げることはできなかったけれど。

こうやって文章にすると
輪くさりってものすごく難しい課題ですよね (^^;
たかが、輪くさり
されど、輪くさり

「輪くさりなら、簡単だからやってもらおう」
私は決してそんな風には思えません。

同時に
私たちが自然にできていることって
いくつもの能力の複合体。

私たちって
自覚していないだけで
本当にたくさんの能力を発揮しながら暮らしている
ということを実感します。。。

さて、
では、どうしたら良いのかについては次の記事で。

 

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観察と洞察のチカラを磨く

観察力・洞察力を磨く
普通の人には、わからないことでもわかるようになる

専門家として磨くのは本来そのチカラだったのだと思います。

ところが、その過程において
観察や洞察は、主観に偏っている・根拠が乏しいという批判があったのでしょう。
検査やEBMという考え方が大きく取り上げられるようになってきました。

観察や洞察がいけないのではなくて
中途半端で未熟な観察や洞察が悪いのだから
観察や洞察のチカラを磨き上げるようにするには
どうしたら良いのかという検討が為されるべきだったのだと考えています。

ところが
どうしたら良いのかという検討が具体的にできるためには
観察や洞察に秀でた専門家集団がいなければ始まらない。
少なくともそう在ろうとする専門家がいなければ実現できない。

だから
検査やEBMに流れてしまったのだろうと思っています。

もちろん
検査やEBMを否定はしません。
必要な検査はすべきだと考えています。
検査しなければわからないこともあるし
根拠のないことを提供するのはおかしなことだと考えています。
ただ、その根拠が何なのかということが問題だとは思いますけど。

同時に
検査やEBMの限界も認識しなければ。

嚥下造影検査で誤嚥性肺炎になり亡くなってしまうケースは本末転倒だし
検査を理解した上で対応できない人にどうしたら良いかという問題は残るし
90%の人に根拠があると言われても
目の前の方に適しているかどうかは確認しないとわからない

それらをどうするか
どう考えるか

観察・洞察は対象者を選ばない
選ばれるのは私たち援助者

だから逆に
検討の遡上に載せにくいのかな?と邪推してしまいます (^^;

観察力・洞察力は磨くことができる
その道は厳しく時間も必要で安易ではないだけで

 

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急性期のリハ概念≠生活期のリハ概念

急性期、特に整形外科疾患のリハ概念と
生活期のリハ概念は大きく異なるのだと考えています。

完全治癒する疾患では
まさしく「もとに戻る」ために
低下している機能を改善させることに焦点化することが優先される。
その過程において、どのような関与が
対象者の運動学習を効率化させるかという面はあるにせよ。

生活期においては
疾患特性を踏まえた上で
むしろ、環境との相互作用が身体能力に大きく関与してくる
ということは、強調してもしすぎることはないと考えています。
とりわけ、介助量が多ければ多いほど。

食事介助しかり
移乗動作しかり

ADLの場面に影響するだけでなく
機能そのものにさえ影響を与えてしまいます。

・・・口腔機能しかり
・・・骨盤の可動性と体幹の機能しかり

だからこそ
対象者の問題点として認識されてしまうのでしょうけれど
「問題」は対象者の能力と障害、誤学習を見誤った側にあります。

そして
介助、関与とは環境との相互作用そのものであり
善意からの関与であったとしても
結果として過剰代償を要請する関与であれば
適応しようという意思により
粗大なパワーで過剰代償するしかないということが起こっている。

相互作用のマイナスの面を十分に認識し自戒しながら
プラスを積み重ねていくような関与ができれば
過剰代償することなく能力の合理的な発揮に寄与することができるようになる。

だからこそ
重度の認知症のある方でも
その方の能力に応じて
食べる能力が改善し
口腔機能がその方の能力に応じて復活し
移乗動作が改善し
骨盤の動きや体幹の動きがその方の能力に応じて復活するのだろうと考えています。

鍵は
観察力・洞察力を磨くことだと考えています。

客観的な検査やEBMは必要だけれど
万能ではなく限界もある。

これについては、続きの記事で。

 

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ICFだからこそ関与に意味がある

リハの世界では
ICIDHではなくてICFを用いるようになって久しいですが
その実、臨床現場での思考過程はまだまだICIDHに染まっている
ICFに切り替えられていないと感じることが多々あります。

「BPSDには原因があるから、その原因を探索しましょう」
というような切り口は、正しく因果関係論であるICIDHそのものです。

BPSDの「きっかけ」に過ぎないものを「原因」と認識しようとするから
解決できずに大勢の人が悩んでいるのではないでしょうか?

人は
過去から現在そして未来へと続く、「時間」という縦糸と
現在の様々な「場面」という横糸との
複合した関係性の中に存在しています。

まさしく、
華厳経の縁起そのもの
相互関係論というICFそのものです。

対象が
機械や物質であれば、ICIDHに依拠した考え方は正当でしょう。

けれど
対象が人なのですから、対人援助の考え方にICIDHが合致するわけではない。
急性的な症状などICIDHを包含することはあっても。

人の生命活動の営みは解明され尽くしたわけではないのですから
今現在も、これからも、発見・再発見が続いていくことでしょう。

今は、原因と判断されていることも
将来、実は結果だったと判断され直すことだって起こり得ます。

人の暮らしの困難において
唯一絶対の「原因」があるわけではありません。

様々な「要因」が相互に関与しあって変化しています。

その変化が急激に起こるか、緩徐に起こるかという違いはあっても

だからこそ、援助という関与の追加に意味があるし
関与の仕方によっては、変化を良い方向にも悪い方向にも動かすことになってしまう。

私は若い時には
自身の関与に自信がなかったから
本当に怖かった。

せめて
私の関与によって悪くしないようにしなければ
できれば
私の関与によって良くなってもらいたい
良くなることが叶うならば、より早くより確実に良くなってもらいたい

本当に必死だった。

目の前にいる方の
障害なのか、能力低下なのか、能力の過剰代償なのか
区別がつけられるような観察力と洞察力を
これからも磨き続けていきたいと思っています。

 

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立ち上がり時の感覚

生活期にある方で
立ち上がりに介助が必要なケースでは
腰に力は入るけど
下後方へ引っ張られるように力が入る抵抗感を感じる場合が圧倒的に多いと思います。

腰や膝が崩れ落ちるようになってしまうケースは
あるけれども少ない。

筋力低下なら、
立ち上がりの介助をした時に
崩れ落ちるようになってしまうと思います。

でも現実には、
抵抗感を感じる、力は入るんです。
正確に言うと、力が入ってしまうんです。

ちゃんと立ち上がろうとしているのに
ちゃんと立ち上がろうとしているが故に

CVA後遺症や骨折などの既往があって
生活期で立ち上がりに介助が必要だと
「廃用→筋力低下」と言う図式が最初にあって
その図式に沿って現実を見るから
抵抗感を感じているにもかかわらず
見れども観えずになって
筋力強化を立案してしまうのではないだろうか?

 

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身体の使い方の再学習を

前の記事で
私がお伝えしたケースは
決してレアケースではありません。

歩けるけれど
あるいは
身体を引っ張り上げるようにして立ち上がれるけれど
座る時には、静かにゆっくり座ることができずに
ドシンと後方にひっくり返りそうに座る方は大勢います。

リハで立ち上がりを指導しても
座り方の練習・指導をするセラピストが少ないことを非常に残念に思っています。

座り方の練習は
身体の動きの再学習をするうえで非常に重要です。
もうこのブログでも何回も書いてきていますので
ぜひ、このブログの一番上にある検索窓から検索して読んでいただければと思います。

筋力低下と思い込まれている方の多くが
筋力はあるけれど合理的に発揮できないだけだった
というケースは本当に多いのに
「見れども観えず」という状態になっているのは本当にもったいないと感じています。

老化によって筋力は落ちても
身体の使い方を再習得できれば
日常生活が送れるようになります。
立ち、座りなどの日常生活がラクに送れるから
移動が億劫にならずに結果として活動量が増えていきさらに筋力も維持できます。

合理的に能力を発揮できるように
身体の使い方を援助・協働してくれるセラピストを待っている対象者が大勢います。

一番近道なのは障害と能力のプロとして養成されたリハスタッフだと考えていますが
リハスタッフであれば誰でも援助・協働できるわけではなく
他の職種であったとしても観察力を磨き知識と技術を習得すれば
的確に援助・協働できるようになるとも考えています。

 

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本当に筋力低下?

認知症があってもなくても
生活期にある方の場合に
立ち上がりが困難な方は少なくありません。

立ち上がれない
自分で膝を伸ばせない
という「見た目」から
見ただけで「筋力低下」「足の力がない」という判断をされがちです。

ところが実際には
「膝を伸ばそうとしても伸ばせない」
という方が大勢いらっしゃいます。

そのような方の場合に
実際に立ち上がりの場面で確認してみると
股関節が屈曲してしまい、重心が後方へ変位してしまっているので、膝を伸ばしようがない
ということが多々あります。

そして大抵の場合
対象者の方は立ち上がろうとして力を入れています。
逆方向に。
力がないわけじゃない。
力の発揮の仕方が不合理になってしまっています。

端座位を確認してみると
骨盤と下部体幹が分離した動きができない
というケースが圧倒的に多くみられています。

端座位になってもらうと
姿勢保持できずにコロンと後方にひっくり返ってしまう
というのは、
座ろうとする意思がないためではなくて
座る筋力がないためでもなくて
骨盤の可動性が限定されているために起こ流ことが非常に多い。

まず
動ける骨盤にしなければ
骨盤の動きを引き出さなければ
骨盤の動きを活用した動作の再学習を促さなければ

漫然と徒手で「大腿四頭筋の筋力増強」などと語るよりも
今すぐにでも行うべきプログラムだと考えています。

骨盤の可動性が増すだけで
膝も腰も伸展できるようになり
立ち上がりや移乗動作の自立度が増します。

動作の再学習・再習得には
誤学習に費やしたなりの時間がかかりますが
介助量軽減は即効性があります。

 

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ROM-Ex.が逆効果になることも

生活期にある方の場合に
ポジショニングを適切に行い
リラクゼーションを実施して
それからP-ROM-Ex.をするように心がけています。

意外に知られていないようですが
可動域制限がある方に対して表面的にP-ROM-Ex.をするだけだと
逆効果になってしまう場合が多々あります。

急性期と異なり、生活期にある方は
どのような障害があったとしても
必ず持っている能力を使って暮らしています。

問題は
身体の適切な使い方を指導される機会が少なく
暮らしの必要性に迫られて
「する」「できる」ことを
必死になって実行しようとして
過剰代償に陥っていることも多く
その結果、能力が不合理に発揮されてしまっている場合が少なくありません。

障害と能力のプロであるリハスタッフは
養成過程から
見た目のできないことと、能力の過剰代償によるできなさとの
区別をつけられるような観察と洞察が可能になる
一番近道にいる職種だと考えています。

 

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