Tag: 環境適応

ADL介助はコミュニケーション

ADL介助はコミュニケーション

結果として起こっている
できる、できないを見て
できないところを介助してそれで終わってしまうのは
本当にもったいない。

ADL
食事にせよ、更衣にせよ、排泄にせよ
認知症のある方は、必ず環境を感受し、その方なりに認識し、関与しようとしている。
一見、不合理であったとしても。

その一連の過程を
私たちが把握することが叶えば
表面に見えなくなっていただけの、能力を観ることにつながる。

能力を把握できれば
私たちの介助も自然と変わる。

「親切に」「優しく」「怒らずに」
というスローガンを唱えずとも
認知症のある方の現状を把握できた結果として
自然と「親切に」「優しく」なり、「怒らない」ようになる。

コミュニケーションだから
双方向に影響をしあう。

たとえ
今すぐに認知症のある方の能力を観ることが出来ないにしても
観ようとしている意思があるということが大切。

コミュニケーションだから
その意思は伝わっている。

コミュニケーションが始まっている。

 

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食事介助はコミュニケーション

意思疎通困難な方で
食べることに困難を抱えていて
誤嚥性肺炎後のリカバリーに携わると
不思議なことに
食べられるようになるにつれ疎通も改善される
というケースを何例も経験しています。

それは本当に嬉しいことです。

食事を拒否していたり
口を開けてくれなかったり
言いたいことをうまく言葉にできなかった方の多くが
「どうもありがとう」
「気をつけて帰るんだよ」
と送り出していただいたことも何度もあります。
発語がみられるようになった
アイコンタクトがみられるようになった等は数知れず。

「食べる」という体験を協働するからこそ
そして、それらの過程が適切だったからこそ
プラスの方向に働いて能力発揮につながったのだと感じています。

食事介助は究極のノンバーバルコミュニケーション
食事介助の一連の過程はコミュニケーションそのもの

常々そう思っています。
私は食事介助の時には、基本的にはあんまり声をかけない。
声をかけるのは、必要と判断した最小限のことに留めています。

その分、言葉以外の
眼で観て、耳で聴いて、スプーン操作で問いかけています。

 

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ようやく言語化できるようになってきた

ようやく言語化できるようになってきた。

今まで考えてきたことが、もう一段深い理解が伴うと
スッキリと言語化できるようになる。

認知症のある方で
意思疎通困難な方は
言葉だけじゃなくて
身体と環境・介助への適用も困難になることが多い。

立ち上がり、然り
食事介助、然り

多くの人が経験してると思う。
立たせようとしても、うまく協力して立ち上がってくれない。
食べさせようとしても、うまくスプーンから食べてくれない。

でもそれは
見かけ上の混乱・低下であって
一時的な混乱・低下だから
如何に、その方が介助も含めた環境を明確に感受・認識できるようになるか
ということの援助がまず必要。
そこにプロとしての意義がある。

限定した環境下で能力を発揮できるようになると
感受・認識できる環境が広がっていく
より多様な環境下でも能力を発揮できるようになっていく

そういうことがわかっていないと
善意の元に、良かれと思って、あれこれと余分な声かけをして
認知症のある方の感受・認識の能力発揮を阻害してしまう
その結果、能力を発揮できないでいる状況を結果的に作ってしまう。
そして、そのことに無自覚でいると状況を打開できないし
本当に能力低下をきたしてしまう。。。

ハリー・スタック・サリヴァンの言った
「関与しながらの観察」って本当なんだとつくづく思う今日この頃です。

 

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筋力低下?身体の適応困難!

見た目、筋力低下を来しているように見えて
その実、筋力はMMTで言えば4/5はある
けれど、介助に協力して立ち上がったり、
手すりなどの環境を活用して立ち上がったりは
難しいというケースによく遭遇します。

歩けるけれど自分一人では立ち上がれない
平行棒に捕まって立ち上がれないけれど立位保持ならできる
平行棒に捕まって立ち上がれないけれど全介助なら立ち上がれる
という状態像の方に遭遇したことがあるのではないでしょうか?

さらに状態像が悪化というか増幅してしまったカタチで現れているのだろうというケースが
通常の全介助では身体に変な力が入って立ち上がれない、
だから立たせても足で支えられずに膝が崩れてしまう
という場合です。

表面だけ見ると、いかにも筋力が低下しているように見えるので
このような状態像の方に大腿四頭筋の筋力増強をしようと試みるかもしれませんが
言語指示が理解できないので、実施困難なことが多いと思います。

そうするとお手上げ状態になってしまうけれど
本当に起こっているのは
身体の使い方の問題であって筋力低下ではない。
でも適切な身体の使い方の再学習ができないと
動作機会がなくなり廃用が起こり本当に筋力低下をきたしてしまう
ということではないかと考えています。

認知症のある方の食べ方と介助の問題と
(誤介助によって誤学習が起こり食べられなくなっている。
結果として起こっている食べられないコトを見て能力低下と判断し問題視する)
まったく同じコトが違うカタチで起こっているのです。

本来、多様な環境にも適応できていた
ただし、誤介助(持っている能力の適切な発揮ではなく代償による過剰努力をさせていた)によって
初めは過剰適応できていたけれど
その結果、身体協調性が低下してしまったという状態は
多様な環境には適応できなくなっただけで
限定した環境であれば能力を的確に発揮できるということを意味しています。

私たちにすべきことは
見た目の結果だけ見て
原因をinpairmentな低下と判断して対応するのではなくて
本来の能力を発揮できるように
まずは限定した環境(介助者の介助方法や場面設定)を見出し提供することだと考えています。

どのような環境であっても生きている限り環境適応している。

認知症のある方にとっての、
物理的・心理的環境でもある介助者の具体的な介助と
その介助が依拠する在りようは
援助にも使役にもどちらにも転ぶ。

援助であれば、認知症のある方は正の学習が起こり能力をそのまま発揮することができる。
使役であれば、認知症のある方に誤学習が起こり能力の過剰代償が起こる。
そして、いずれは本当に能力低下をきたしてしまう。

介助って本当に奥が深い。
そしてこわい。

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評価とは何か@暮らしの支援4

ここにいていいんですか?

そのためには、常にPDCAを回し続ける
その中でも、最も重要なのは「C」なのだと考えています。

私たち専門家と呼ばれる人は、それなりの根拠と自負を持ってPlanし、Doしているはずです。
想定通りに適切だったか否かを確認することも大抵の人はしていると思います。

ただ、ここで落とし穴がふたつあって
ひとつには
現在の診療報酬の体制上
急性期、回復期、生活期といったそれぞれの期においては
多くの対象者の状態像をみることはできても
ひとりの対象者の「状態の変化」を継続的に長期的にみることは難しい現状があるという
暗黙の前提要件を自覚しにくいということがあります。

ふたつめには
「常識として定着しているものには異議を唱えづらい」
「常識として定着しているものには疑問を抱きにくい」
ものなので
目の前に厳然として存在している人よりも常識として提唱されているものに依拠してしまうと
「見れども観えず」
になってしまいがちです。

私は
立ち上がれるようになる、あるいは維持するためには
まずは座り方を練習することが重要だと考えていますが
そう提唱・実践している人に会ったことがありませんでした。

スプーン操作によって食べ方が変わる
食べ方は、介助者のスプーン操作と食形態の選択によって異なってくる。

認知症のある方の能力は
介助者が適切な声かけをすることによって見出されもするし
そうでなければ見過ごされてもしまう。

過剰代償による立ち上がり困難や食べ方の困難
生活障害やBPSDという場面にも能力が反映されていることがわからないと
たとえ善意の意思を持っていたとしても
能力を発揮させられないだけでなく
結果として、廃用や誤用にリハ職が関与することになってしまいます。

援助は関係性の中で行われる。
関係性の中で起こってくるコトを
関係性を吟味しないで対象者の状態像として切り取ってしまうという視点が
援助から使役へと反転させてしまうことの大きな要因だと考えていますが
その点に関して、検討がもっと必要なのではないでしょうか。

ハリー・スタック・サリヴァンの「関与しながらの観察」
スティーブ・ジョブズの「意図こそが重要」
彼らの言葉の重みを噛みしめています。

PDCAを回すときに
最も重要なのは「C」のCheckであり、また困難なのも「C」だと考えています。

「C」を行なっているようでも
表面的に陥りがちであり
「C」が的確に行えないと
「A」を有効に設定することもできなくなってしまいます。

つまり、自家撞着に陥ってしまう。
PDCAが機能しているように見えて機能していない。
自己検証が曖昧になっていることを自覚できなくなってしまう。

最初から誰でも「C」を的確にできるわけではないけれど
そうしようという「意図」を抱いていなければ習熟するようにはならない。
習熟するようになると、ますます「C」の重要性を否応でも認識するようになります。

より広く深く細やかに「C」ができるようになることで
評価の的確さを担保できる。

私が実習で感じた職業人としての怖さは
判断とその責任を負うということでした。
当時はこんな風に言語化できなかった。
もっと漠然とした曖昧な怖さで、何をどう気をつけたら良いのかわからなかった。

PDCAを回し続ける
「C」を機能させられるようになる。ということの重要性

「もののけ姫」の中でアシタカが言った
「曇りなき眼で見定め決める」
この言葉を言い切ったアシタカの強さを繰り返し思い出しています。

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評価とは何か@暮らしの支援3

ここにいていいんですか?

同じコトが違うカタチで現れている。

例えば
高齢者によくある「立ち上がり問題」
こちらのブログでも過去に何度か記載してきましたが
片麻痺のある方、整形疾患などのある方で生活期で暮らしの困難を抱えている方や高齢者では
歩けるけれど自分ではなかなか即座に立ち上がれない
立ってしまえば立てるけれど自分では立ち上がりができない
という方がとても多くいらっしゃいます。

現状では
低運動→筋力低下→立ち上がり困難 という判断がなされ
筋力強化→筋力復活→立ち上がり可能 という仮説に依拠して
足腰の筋力強化や立ち上がり100回 という方法でのトレーニングが提供されている
ということがよくあるパターンだと思います。

私は、この考え方と方法論にはずっと違和感がありました。
なぜ、赤ちゃんは歩けなくても立ち上がれるのに
お年寄りや身体障害のある方は、歩けるのに立ち上がれないのだろう?
赤ちゃんは筋力強化をしなくても立ち上がれているのに。

私は長く老健に勤務していましたが
老健では積極的な離床と活動的な生活を提供しています。
さらにその上で専門家による個別のリハも提供しています。
それなのに、今まで立ち上がれていた方が立ち上がれなくなってしまう。
こういった現実に対し、為すべきことをしているにもかかわらず
低下してしまったのだから「本人の老化、能力低下」という判断が為されがちです。

ところが、
筋力強化をしても自力で立ち上がりができなかった方が
座る練習をしただけで自力で立ち上がれるようになった方がたくさんいらっしゃいます。

本人の能力低下ではない。ですよね?
再び立ち上がれるようになったのですから。

変わったのは、リハだけです。
ということは、リハの判断と方法論が不適切だった。ということになります。

これらの事実が示している新たな判断は
筋力低下によって立ち上がり困難になったかもしれないが
それは原因ではなくて、きっかけだったのではないか
ということです。

きっかけがなくなれば
立ち上がり困難という状態像も表面化しなくなる
という意味で筋力強化が有効だったケースもあるでしょう。
それを因果関係論であるICIDHの観点に立ったまま
一般化してしまった、そしてPDCAを回し検証されることなく
継承してしまい、適合させてしまった
というところに問題があると考えています。

相互関係論であるICFの観点に立てば
1)本人の病気・障害そのもの:老化による筋の弱化
2)能力による過剰代償:使える筋(主に背筋群)
3)不適切な介助への過剰適応:介助者や手すりを使用した引っ張り上げに呼応した背筋群の過剰使用
という悪循環が過去から長い間の蓄積として生じていて
表面的には「立ち上がれる」状態であったとしても
1)〜3)のバランスが崩れるほんのちょっとしたきっかけによって
「立てなくなってしまう」状態に陥ってしまう。

なんにせよ、「できない」よりは「できる」ほうが良いでしょうけれど
「できれば良い」というわけではありません。

筋力強化や立ち上がりのリハを行ったとしても
その方法論が上記の2)や3)を増長させるような「やり方」であったとしたら
結果的に、立ち上がりができなくなることにリハ職が関与してしまうことにもなってしまいます。

「できる」ようになったら
将来を見越して、より安全によりラクにできる異なる方法でも「できる」ように

それは
Re-Habilis 再び適する:リハビリテーションの理念そのものの具現化ではないでしょうか。

対象者の適応、つまり心身の働き、使い方
脳の回路の多様性を信頼し援助する。
ということなのだと考えています。

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ICFで対応する

対象者は
現在の横軸
過去からの縦軸
輻輳した関係性の中に「在る」

だからこそ
相互関係論である
ICFで評価・アセスメント・見立てをし
ICFにのって対応するということが必要なのだと考えています。

VFやVEによって
嚥下の状態を明確に把握できる機会が増えたということはとても良いことだと感じています。
ただ、「今、そうだ」ということは言えても
原因なのか、結果なのか
的確に判断することが必要だと考えています。

脳血管障害のようなエピソードがあれば原因と判断できても
特段のエピソードがない、高齢者や認知症のある方の場合には
原因ではなくて、結果であることが非常に多いという体験をしています。

認知症のある方の
能力低下が原因ではなくて
私たちの不適切なスプーン操作の結果として起こっている。
だからこそ、私たちが介助を変えれば
認知症のある方の食べ方も変わる。

主治医が「この方の大脳新皮質はコピー用紙1枚の厚さしかない」と言う方でも
食事介助の場面だけで食べ方が変わる。

誤嚥性肺炎を再燃せずに
摂取時間も大幅に短縮し
食べこぼしもなく
対象者の方も
介助する人も
お互いラクに行えるようになる。

このことは、もっとたくさんの方に知っていただきたいことですし
もっと重要なことは
「不適切な環境へ適応しようとした結果として起こる。過剰代償の結果として起こる」
ということが食事介助の場面でだけ起こっているわけではない
同じコトが違うカタチで現れていることがたくさんある。
ということを知っていただきたいと思っています。

どんなに良心的な職員でも
知識がないために
あるいはケアの常識に囚われてしまうと
「見れども観えず」になってしまっていることがたくさんあります。

観るポイントがわからなければ観ることはできません。
観ることができるように
このブログに具体的なポイントを記載していきますし
講演の時にはもっと明確にお伝えすることができます。
私の本の中にも記載してあります。

周囲にかけられたメガネを外して
目の前にいる人をまっすぐに観ることから始めれば
新たな発見がたくさんある。
常識として言われていたことは新たな概念のごく一部だった。
つまり今までの常識をさらに包含するような新たな概念を発見できることだってあります。

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パワーによる代償:全介助

食事全介助の方でも
同じコトが違うカタチで起こっています。

開口した時に舌が後の方に丸まってしまっていたり
口角から食塊が溢れたり
舌をスプーンの背で押した時に硬い抵抗感があったり
嚥下していないのに開口したり
これらは、対象者の方の能力低下ではありません。
適切なスプーン操作をするだけで解消される状態像です。

単に「食べさせる」「口の中に入れる」介助をしているだけでは
このような状態像を見過ごしてしまいますが
全介助の方でも食べ方は本当にいろいろです。
どんな風に食べているのか、観察することが重要で
観察もせずに「ゆっくり時間をかけた介助」が良いわけではありません。

たとえ時間をかけたとしても、
「何を確認しながら介助しているのか」自分の中でわかっていなければ
「見れども観えず」
自己修正が効きません。
大切なポイントを見過ごしているという意味では
時間をかけない介助と同じ結果になってしまいます。
「意味の理解」で書いたことと
同じコトが違うカタチで起こっているだけだと感じています。

クリスティーン・ブライデンが言ったように
「異常な環境には異常な反応が正常だ」

私たちは
認知症があろうがなかろうが
身体障害があろうがなかろうが
常に総体として環境適応しています。

養成課程において明確に学ぶ機会がなかったために
結果として職員が不適切なスプーン操作をしていれば
対象者の食べ方の巧みさ、細かな筋肉の多い口腔内の筋の協調はすぐに低下してしまう。
低下した協調を補おうとしてパワーで代償する。
舌の柔軟な動きが発揮できなくなってしまう。
代償が効いている間は不適切なスプーン操作にも適応できているが
代償では応じきれなくなり、結果として誤嚥が起こり、肺炎に至ってしまう。

特に
舌をスプーンの背で押した時に感じる「堅さ」「抵抗感」については
舌の過剰筋緊張が考えられます。

上の歯でこそげ落としたり
食べようとしている、そのタイミングに合わせて舌を押せなかったり
といった不適切なスプーン操作が行われれば
「食べにくい」と感じて
口腔内の筋の協調が低下した状態で
食べようとするならば、頑張ってパワーで代償するしかない
その結果として、舌が硬くなってしまう
そうすると、ますます、不適切な介助を引き起こし、
ますます口腔内の筋の協調が低下し
ますます、パワーで代償し。。。
悪循環が起こり、結果として、誤嚥性肺炎になってしまう。。。

だとしたら
回避すべき不適切なスプーン操作とは何か
望ましいスプーン操作の基本は何かを
明確に学ぶ機会がありさえすれば現実は変えられる。
認知症のある方は、ラクに安全に食べられるようになるし
介助する人は、ラクにスムーズに安全に早く介助ができるようになります。
誤嚥性肺炎は確実に減らせると確信しています。

変えようと思えば今すぐにでも変えられることです。
そして今まで知ることもなかった
認知症のある方の能力に触れる入り口になることを強調したいと思います。

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