Tag: リハビリテーション
向こう側が透けて見えるカンナ屑
どれほどの技術があったら、こんな風に削れるのでしょうか。
新神戸駅近くにある竹中大工道具館で展示されています。
写真撮影OKの博物館です。
鉋、鑿など、たくさんの種類が展示されていました。
対象と用途に応じて道具を使い分けていることを感じ入りました。
さて、本題です。
前の記事で
食事後に指にスプーンの跡がクッキリと残ってしまった方に
スポンジを差し込んだスプーンを使っていただきました。
スプーンの把持の仕方が異なっています。
食事後に指にスプーンの跡が残ることもありませんでした。
身体能力としての巧みさが発揮できるためには
道具を含めた相応の環境が必要だし
道具を使いこなせるためには身体能力としての巧みさがどの程度あるのかという判断が必要です。
大工さんが
たくさんの道具を揃える一方で
道具を使いこなせるための身体能力を育むための修行期間が必要で
その期間の長短よりも実際にできるようになることが大切だという記載を
宮大工さんの本で読んだことがあります。
認知症やその他の障害があると
今までできていた身体能力を発揮しにくくなるから
身体能力に合わせた環境としての道具の工夫が求められるのだと思うし
仮にその環境整備が為されない時には
自らの能力として使えるパワー、力任せに頼った能力を発揮してでも
頑張って「食べる」という行為遂行しているのだと思う。
末梢の過剰な筋収縮が
近位の筋の過剰収縮をも引き起こすことによって
肘周囲の筋の過剰代償の結果として、口元までのリーチがおろそかになってしまったり
首周囲の筋の過剰代償の結果として、誤嚥を招きやすくなってしまっている
といった可能性は十分にあります。
だとすると
「今」自力摂取できているからといって安易に「問題なし」という判断をするのではなくて
将来を見越して
「より長く」自力摂取できるように
「より安全に」食べられるように
パワーによる代償をせずに、
持っている巧緻性・協調性を発揮しながら食べられるように
「今」スプーンの工夫をすることが必要なのだと考えています。
施設にしても病院にしても
道具を含めた多様な環境整備には限界がある。
現実として多様性をどこまで整備できるのかは施設によりけりでしょうけれど
少なくとも、その暗黙の前提要件を抜きにして
一方的に、安易に、対象者のせい…「高齢だから」「認知症だから」「能力低下してるから」
にしてはいけない。
抽象的に曖昧な認識のまま対象者の状態像のせいにしてしまうことではなくて
物理的現実的に今すぐの対応が難しいのだという
現実を直視した認識ができることだと考えています。
また、「適切な」道具選択という意味でも
自力摂取の評価・アセスメント・見立てができる職種として
作業療法士の関与が求められていると感じています。
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まずは、食事を自力摂取できている方から説明していきます。
認知症があってもなくても同じコトが起こっていると感じています。
さて、本題に戻って。。。
食事を自力摂取している方は
往々にして手指の巧緻性や協調性の低下を
抹消や上肢の中枢部の過剰筋緊張によって補おうとして頑張りすぎて食べている。
最初は「問題」がなくても
パワーによる代償は将来の上肢の各関節間の協調を低下させてしまう。
そういうケースが非常によくみられています。
一人の対象者の方を長くみている方は経験があるはずです。
最初は自力摂取できていたのに、特別なエピソードがあったわけでもないのに
いつの間にか、食べこぼしが多くなり、口元へ運べなくなり、全介助になり、ムセるようになり。。。
多くの場合に
対象者の「老化」「能力低下」のせいにされてしまいます。
でも本当にそうなのかな?
ちょっと食べこぼしがあったり、摂取に時間はかかっても
自力摂取できていると、その人がどんな風にスプーンを把持しているかということは案外見過ごされてしまいがちです。
実際には、ものすごい把持の仕方をしている方がたくさんいらっしゃいます。
自力摂取できているからといって対応しないでいると
そう遠くない将来に全介助になってしまうリスクの高い方達でもあります。
つまり
スプーンで自力摂取の可否だけを観るのではなくて
どんな風に、というHowの部分を観る
ノーマルかアブノーマルかという視点ではなくて
過剰代償していないか、頑張り過ぎていないか、という視点で観察することの重要性を強く感じています。
よくあるのが
お食事後に手指を見ると
スプーンの跡がくっきりと指に残っているという方。
とてもたくさんいらっしゃいます。
つまり、スプーンを「持つ」のではなくて、指にグッと力を入れて「握って」います。
身体は総体として働いている
環境との相互作用を行なっている
私たちの身体は無意識にも機能しています。
試しに親指と人差し指、親指と中指で丸を作るように指先をつけた状態で
指先にぐーっと力を入れてみてください。
意識的に力を入れているのは指先であっても
肘の周りの筋肉や首に勝手に力が入っているのを感じることができると思います。
極論すると
こんな風にしてでも食べているということになります。
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食事が自力摂取できる方でも
全介助の方でも
パワーで補わなくて済むように
食環境の整備とご自身の協調性や柔軟性を保つことが大切だと考えています。
協調性と柔軟性が低下してきても
日々の暮らしの困難、とりわけ、自分で食べ続けられるように
大抵の方は文句を言うこともなく
ご自身の身体の使い方を工夫して頑張っていらっしゃいます。
ううん、正確に言えば、頑張り過ぎてしまう。
能力低下とみなしがちな現実は
実は能力による過剰代償の結果というコトが多い
同じコトが違うカタチで起こっている
食事に限らず
認知症のある方の対応について
高齢者のリハについて
誤解が非常に多いと感じています。
目の前に起こる現実をまっすぐに観ている人は気がついていると思う。
ただ、明確に言語化できないから違和感として抱えているだけで
言葉にできない人が少なくないんじゃないかと思います。
食事は観ようと思えば容易に観ることができるし
食べられたか食べられないか結果が明白だから
食事について取り上げてみます。
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以前にネットで
「立って食事介助する施設はおかしい」
という論調の記載を複数見かけたことがあります。
もちろん、対象者の為にも介助者の為にも
座って食事介助ができるのであれば
それに越したことはありません。
でも
立って食事介助することの何が問題なのか
その意味をどれだけの人が「本当に」認識しているのだろうか?
とも思ってしまいました。
上から目線で失礼だから?
敬意を表するために相手よりも下から介助したいから?
それって対人援助職として大切な心がけではあるけれど
あくまでも、こちらの意図であって
「相手にとって」の意義ではない。
食事という場面は生命に関わる場面でもあります。
立って食事介助すると
どうしてもスプーンを上に向かって引き上げやすい状況が生まれてしまうし
喉頭挙上の動きを目で見て確認することは難しい状況です。
たとえ、座って食事介助していたって
上の歯でこそげ落とすようなスプーン操作をしたり
スプーンを斜め上に引き抜いていれば
立っていようが、座っていようが、どちらも同じとても危険な行為です。
喉頭挙上の動きを目で見て確認しなければ誤嚥を起こす介助をしてしまいかねません。
「立って食事介助をしてはいけない」とスローガンを唱えるのではなくて
立って食事介助することの何が問題なのか
意味を明確に理解することの方がずっと重要です。
そうすれば
立って食事介助せざるを得ない状況でも
リスクを認識した上で最大限配慮した対応ができるし
座って食事介助していても
同じ意味のリスクは回避しようと工夫することができるようになります。
同じコトが違うカタチで起こっている
「立って食事介助をしてはいけない」
「認知症のある方には敬語を使いましょう」
志ある援助職の人の
心身を消耗させるような状況は変わって欲しい。
必要なのは
目の前にいる人に
その時その場のその状況において
適切な援助ができることであって
一律に唱えられたスローガンの実践ではないと思う。
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誤嚥性肺炎などで絶食期間があれば
経口摂取で必要水分・栄養量の最低限が担保されるまでは
最低、その絶食期間と同じ日数を考慮しています。
絶食前に
誤介助誤学習があれば、さらに能力復帰までには日数がかかってしまうし
脱水や低栄養、貧血などがあったり
経過において過度な離床で体力消耗があれば、さらに日数がかかってしまう。
(離床設定の問題については後日改めて)
何事も必然がある
現状は
現在の相互関係の結果であり
過去の相互関係の結果でもある
縦軸・横軸の輻輳した関係性の中に「イマ」がある
だから
「今」「私」が変わる「意義」がある
そのことの意味が本当にわかると
一見、その場では、大きな過誤が起こっていないように見えることでも
徒や疎かにはできなくなる。
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ただし、ないものはない
能力が埋もれていて表面化していないだけなのか
それとも失われてしまったものなのか
その見極めは必要です
私が実習生の時にとても怖く感じたことです。
今も怖いです。
判断の責任を負うのだと
だからこそ
自分の評価の結果は必ず確認しています。
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認知症のある方は生きている限り能力がある
常に能力を発揮しながら生きている
その能力をわかる人もいれば
見た目の不合理な言動しか見えない人もいる
より合理的に能力を発揮しやすいような環境(自らの対応を含めた)を
如何にして作れるか
私たちが知識と知恵を総動員して発揮することが求められているのだと感じています。
ADLは結果として上がる
上がるに叶った環境を作る
そうすれば結果としてADLは上がる
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ADLは上げるんじゃなくて上がるもの
「歩かないと歩けなくなっちゃいますよ」
という言葉は百害あって一利なしだと考えているし
「食べないとダメよ」
という言葉も百害あって一利なしだと考えています。
歩く、食べるに必要な能力を持っているのにしないという場合には
しないだけの必然性がある。
(原因や理由ではなくて)
無理矢理食べさせて誤嚥性肺炎になったら
元も子もないし、そんなの本末転倒
「上げないと上がらない」と考えている人は
実は認知症のある方の能力を過小評価しているんじゃないかな
認知症のある方の能力を信頼していれば
状態像を明確に把握していれば
「どのような状況下でならできる」
ということがわかるから
まずは、その環境作り(自らの対応を含めた)から着手すると思う。
ADLは結果として上がっていく
その過程を明確に認識ながら
その都度環境(介助方法を含めて)を対応させていくことが
「一人一人に寄り添ったケア」の実践だと考えています。
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