Tag: リハビリテーション

事実の子5:?「ここをこうして」

ある時、ハッとしたことがあります。

何のActivityをしている時かは忘れてしまいましたが
「ここをこうしてこうやって」
私はそう言っていたんです。

「あっ!私の伝え方が悪いんだ」
そう思いました。

認知症という状態像を示す病気では、構成障害という障害が出る場合があります。
構成障害とは、全体と部分、部分と部分の位置関係を認識し再現する能力の障害です。

「ここをこうしてこうやって」という説明をしているときには
隣で認知症のある方が扱っているのと同じ品物を私も同じように取り扱って
目で見ていただきながら、その上で言葉でも説明しています。

構成障害のある方にとって
全体と部分、部分と部分の位置関係を認識することが難しければ
ご自身の作業と対象物と、私の作業と対象物とを
目で見て比較対照しながら理解するということは、とても難しい。
「ここをこうして」を理解するのは非常にハードルの高い言語説明なんです。

それまでは無自覚に使っていた言葉でしたが
以降は気をつけて言葉を選びながら伝えるようにしました。
構成障害があってもなくても
「ここをこうしてこうやって」ではなくて
できるだけ動詞と名詞、位置関係を明確に言語化するように気をつけました。
そして、明確な言語による説明だけでは
「位置関係を認識し再現する」という障害を補うことは難しいので
「対象そのものに工程を語らせる」という工夫をするようになりました。

「対象そのものに工程を語らせる」
このことについては
具体的に説明しないと伝わらないし、その説明は長くなるので
いずれまた、改めてこちらの記事に書くようにします。

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PDCAの落とし穴

どんなに知識が限定していたとしても
どんなに技術が乏しかったとしても
PDCAを回している限り
必ずや適切な対応ができるようになると思う。

でも、PDCAには落とし穴があることに最近気がつくようになりました。

この頃では
「G -PDCA」ということもあるそうですが
まず目標Goalがあって、計画Planを立て、やってみてDo、振り返りCheck、改善処置するAction
ここで一番大切なことは、Cの振り返りだと考えています。
大抵のリハスタッフは、悪い結果だったらなんとか良い結果が出るように修正対応をすると思う。
でも、良い結果が出た時に振り返りをしないケースもあるとよく聞きます。
良かった。これで良いんだとしてしまう。

本当は、良かった時に何がどう良かったのか確認することが大切。
もっと正確に言うと、方法論は状態像への適合の問題なので
何がどう適切で何がどう不適切だったのかと言うことを確認することが大切だと考えています。

そして、抽象化・一般化する。
そうすると、実践をより一層深めることができるようになるし
不適切さの意味を明確に認識した上で回避できるようになると感じています。

もうひとつ
PDCAを回す時には、意図こそが大切
何を意図しているのかということです。

リハやケアは関係性の中で行われる。
「援助」という意図を持って対していたはずなのに
いつの間にか「使役」にすり替わってしまうということがよくあります。

目の前にいる対象者の方の
「食べることの援助」をしたいと願っていながら
いつの間にか「食べさせる」ためにという視点にすり替わってしまっていた
「入浴することの援助」をしたいと願っていながら
いつの間にか「どうやったら入浴させる」ことができるか、という視点にすり替わってしまった
ということは枚挙にいとまがありません。

対人援助職はそういう宿命を持っている。
「意図こそが重要」ではあるけれど
援助と使役が紙一重ということを認識した上で
日々の実践において誠実に自覚し自己制御できるためには
単に「頑張る」といった宣誓ではなくて、もっと論理的に明確な意識化が必要とされると感じています。

もちろん、状況によっては、援助ではなくて使役が要求される場合だってあるでしょう。
災害時などの緊急時には、「避難させる」ことが最優先だと思います。

大切なことは、自分の中で「援助」なのか「使役」なのか
自分が何をしているのか、自覚しているということから始める。
そのくらい、関係性の中で行われるが故について回る宿命でもあるという認識がまず必要なのだと考えています。

そういう意味で
「G-PDCA」という考え方は
目標を明示するという点で「使役ではなく援助」なのだという視点を明確にして
「援助→使役」へのすり替え防止として有効だと考えています。

「対象者の」目標に依拠して実践し考える。
対象者の目標達成のためにPDCAを回すのだ。ということを明確にしています。

ただし、目標を目標というカタチで設定できる
目標を目的や方針、方法と混同しない
ということが担保されていれば。という条件付きではありますが。

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事実の子4:?「立って食事介助しない」

ネットで
「立って食事介助するなんて危ない」
という記載を見かけました。
その通りだと思います。
でも、「立って食事介助することの何がどう危ないのか」
理解していないと片手落ちになってしまいます。

立って食事介助すると
介助を受けている方の顎が上がってしまいます。
その姿勢は気道確保している姿勢と同じです。
つまり、食事介助しながら気道確保するという、とんでもないことをしていることになってしまう。

だとしたら
たとえ、立っていなくても、座って食事介助をしていても
顎が上がるような介助をしてはいけないということにもなります。

つまり
座って食事介助をしたとしても
対象者の上の歯を使って
スプーンで食塊をこそげ落とすような介助をしてはいけないのです。
このような介助は、立って食事介助をしているのと同じでとても危険な方法です。
ところが、現実には非常に多くの施設・病院でそうとは知らずに為されている方法でもあります。

諸般の事情で立って食事介助するしかない場合だって起こり得ます。
その時に大切なことは、立って行う食事介助を禁止することではなくて
立って食事介助していても安全に介助するにはどうしたら良いのか
ということを実践できることだと考えています。
(もちろん、座って食事介助できる方がより望ましいと思っています)

カタチが意味するハタラキを理解する

カタチだけ伝える、受け取る、のではなくて
その意味をも理解しないと本末転倒になってしまいます。

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事実の子3:「関係性の中で評価する」

ICFという言葉は、リハやケアの世界に定着はしていますが
思考回路としてはまだまだ定着しているとは言い難い現状にあると感じています。

先に挙げた
「口腔期の易疲労によって二次的に咽頭期に問題が引き起こされる」
というケースは、観察・洞察・評価して初めて認識できる事実です。

ところが、現実には
目の前で見える、結果として起こっている、咽頭期の問題そのものだけを
問題として設定してしまいがちです。

いわば、
「私たちは、太陽や月や星が動いているのを見ているから、天が動いているのだと考える」
のように天動説を唱えていた人たちと同じ認識になってしまっています。
じゃあ、なぜ、月食が起こるのでしょうか?

本当に
「事実の子たれよ。理論の奴隷たるなかれ。」なんです。
事実と事実が食い違うことがある。
その時には事実を説明する理論の方が間違っている。
事実は厳然として現前しているからです。
異なる説明には視点と考え方を変えることが要請されます。
その要請に抵抗が起こってくることがとても多い。
事実に即した、でも新たな視点と考え方に依拠した説明をする人が糾弾されてしまう。
それでも後世に糾弾された人の方が正しかったことが証明される。
まさに地動説を唱えたガリレオや
ハンセン氏病の感染の低さと隔離政策の不適切さを訴えた小笠原登のように。

ICFは、相互関係論です。
ICIDHは、因果関係論です。
因果関係論によって確かに科学は進歩してきた。

けれど、
認知症のある方にとっての明らかな唯一絶対の「原因」となることはない。
「きっかけ」となることはあったとしても。
過去・現在・未来の時間軸という縦軸と
複数の心理的・物理的環境という横軸との中で暮らしている認知症のある方には
「必然」はあっても、「原因」はない。

食べ方の問題もそう、対応の工夫も同様です。
だからこそ、私たち介助者が関与できる余地があります。

現実には
ICIDHの因果関係論は根深く私たちの思考回路にこびりついている。

逆に言えば
ICFを本当に実践に位置付けることによって
新たな実践の科学としての視座を提示することも可能なのだと感じています。

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「事実の子たれよ」

知人から内村鑑三の言葉を教えてもらいました。

「事実の子たれよ。
理論の奴隷たるなかれ。
事実はことごとくこれを信ぜよ。
その時には相衝突するがごとくに見ゆることあるとも、あえて心を痛ましむるなかれ。
事実はついに相調和すべし。
その宗教的なると科学的なると、哲学的なると事実的なるとにかかわらず、すべての事実はついに一大事実となりてあらわるべし。」

本当にその通りだと思いました。
こんなに明確に言語化していた人がいたんですね。

理論とか常識というメガネをかけて見てはいけない。
メガネを外して事実そのままを観るように心がける。
事実が理論や常識として言われていることと反することや
事実同士が矛盾するように見えることでも
必ず見落としていた、隠れていた、一片のピースが見つかり
整合性のある事実としてもう一度現前し直す。
こういうことには、よくよく遭遇しています。

リハやケアの常識として語られていることも
事実の子たる在りようによって
異なる現実として現前し直す。

科学は過去の知識の修正の上に成り立つ学問だし
ましてや、作業療法は実践の科学です。
目の前の対象者こそ最前線。

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適切な声かけが評価の入り口

適切なスプーン操作が評価の入り口であるのと同じように
適切な声かけが評価の入り口
適切な声かけができて初めて認知症のある方の能力がわかる。

適切な声かけができないと
対象者の状態像を見誤ってしまいます。

求められているのは
唯一絶対の正しい声かけではなくて
その時その場のその関係性において適切な声かけ
なんだと考えています。

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環境との相互作用

人は環境の中にいる。

いろいろな構造物に囲まれているし
いろいろな人間関係に囲まれている。

自覚的にも無自覚にも甘受している情報はたくさんある。

アフォーダンスとは
環境の中に実在する行為の資源 と定義されている。

私たちは対人援助職として
対象者に対峙するけれど
同時に認知症のある方の側に立ってみれば
無数の環境の中の構成因子でもある。

認知症のある方は
私たちの言動を手掛かりの一つとして
環境認識し対応しようとする。

だからこそ
私たちの言動の意図がcontrolであれば、
通常は誰だって嫌がるものではないだろうか。

その表れが
ネガティブなパターンだと
表れ方だけを見て否定的な判断を下されがちだけど
そこだけ切り取ってしまえるものなのだろうか?

それに、通常、私たちが暮らしの中で
「え?」と思うような対応をされても
内心の思いを抑圧して表面的には追従することもあるのと同様に
認知症のある方だって合わせてくれることだってたくさんあるに違いない。
そこって現実に起こっていても評価されにくいところだと思う。

だけど、私たちが判断できないからといって
現実に起こっていないわけじゃない。

私たちが観えていないだけで
認知症のある方は必死になって対応しようとしている。

それは能力があるからこそできること
なんだと思う。

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必死に対応

たとえ、重度の認知症のある方でも
必死になって環境に対応しようとしています。
使える能力を目一杯使って何とかしようと代償もしている。

「異常な環境には異常な反応が正常だ」

この言葉は当事者としての活動のさきがけとなった
クリスティーン・ブライデンさんの言葉です。
本当にその通りだと思う。

一見すると異常に見える言動が
不適切な環境として認識されるような関わりへの正常な反応であるという可能性
への吟味って、あまり為されていないように感じています。

ようやく最近になって
かなり明確に言語化できるようになってきたので
このことを掘り下げて考えてみたいと思います。

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