Tag: リハビリテーション

違和感がヒント

仕事でも講演でも
自分が組み立てて何かを為した時に
ふと違和感を感じたとしたら
それは私にとってのブラッシュアップのヒントだった
ということって、とても多い。

どこがどう。と明確に言語化できなくて
でも、何か心に引っかかることがある。

そんな時には
まず言語化できるように努力するけど
必ずしもすぐに「あ!そうか!」とわからない時だってある。

わからないことって、抱え続けるのは
モヤモヤした気持ちでいることになるけど
忘れないようにする。エイやって放り投げないようにする。
違和感を感じたところを心に留めておく。
それだけでも違う。

そうすると、後になって、ひょんな時に
「あ!そういうことだったのか!」と気がつくことが多い。
気がついてしまえば何てことはないことでも
気がつけない時は、どうしたって通り過ぎてしまう。

違和感がブラッシュアップのヒントになる。
そういうことって、とても多い。

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講演@文京学院大学

平成30年10月6日(土)に
文京学院大学本郷キャンパスにて
「認知症のある方に本当に役立つセラピストになるために」
というタイトルで講演をしてきました。

ほぼ定員いっぱいのたくさんの方にお話を聞いていただくことができました。
貴重な機会を作っていただけたことに心から感謝申し上げます。

私は認知症のある方を取り巻く現状に強く危機意識を抱いています。
優しく親切に快適さを心がけて接するだけでは
認知症のある方とご家族の暮らしの困りごとを少なくしていくことは難しい。
認知症という状態像は脳の病気によって引き起こされるからです。
同じ脳の病気によって引き起こされる脳卒中後遺症片麻痺のある方に対して
優しく親切に快適さを心がけるだけでは
麻痺が改善するわけでもADLが良くなるわけでもありません。
専門的なリハを受け、動作のポイントを踏まえて
毎日の暮らしの中で繰り返し繰り返し実践していくことが求められています。
認知症のある方だって全く同じなのです。

そのためには
認知症のある方に今、ここで、何が起こっているのか
評価、アセスメント、みたてができなければ。

そのためには
知識をもとにした観察ができなければ。
その観察をするにあたり
どんなに自戒してもしすぎることがないのが
私たち自身の在りようで
援助と使役は紙一重だということ
そして自分が何をしようとしているのか、自分自身が明確にしておくことが
肝要なのだということをお伝えしました。

一人でも多くの方に伝わって
明日からの臨床に活かされ
認知症のある方とご家族の暮らしの困難が少しでも少なくなることを
心から願っています。

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ムセ=嚥下機能低下?

ムセたら、嚥下機能低下
とすぐに判断するのではなく
ムセた時に、何が起こっていたのか
きちんと状態を確認することが重要です。

えてして
食事中にムセたら、まずトロミをつけて様子観察する。
という対応をしてしまいがちですが
ムセは必ずしも嚥下機能低下が本質的な原因ではないことが少なくありません。

姿勢や身体の使い方の問題がメインで
ムセは二次的に引き起こされていることがよくあります。
そのような場合には、身体状況にアプローチすることでムセが良くなります。
トロミをつけるだけでは本質的な問題は改善されません。

ムセを問題として捉えるのであれば
ムセが起きている状況をきちんと観察することで情報収集し
その方がどんな風に食べているのかをきちんとアセスメントしなければ
何が起こっているのかがわからない。
わからないから、的確な対応ができない。
だったら、わかるようにすれば良いだけです。

生活歴は確かに大事です。
その方の好き嫌いなどの嗜好を確認することも大事です。
それと同じように、食べ方に反映されている困難も能力も把握しなければ。

お年寄りは、口腔内にちょっとしたウィークポイントを持っています。
身体全体にも何らかのウィークポイントを持っています。
なおかつ、ウィークポイントをなんとか代償しようとして頑張って食べようともしています。
この部分を「観る」ことが一番大切。

ムセという結果だけ見て、嚥下機能低下という判断は早計です。
食べるという行為は、決して「口」だけで為されているわけではありません。
私たちは文字通り全身を使って食べているのです。
だから、食べ方では全身を「観る」必要があります。

認知症があってもなくても必要性には変わりありません。

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既成概念に囚われない

ノーベル医学生理学賞を受賞した
本庶 佑 さんの言葉「教科書を信じるな」

受賞会見の一部を見て
凛とした佇まいに圧倒されました。

科学は過去の知識の修正の上に成り立つ学問だから
その時代時代での正しさが認識されたとしても
その時代では測定不可能なために正しいとされ
後の時代で測定可能となって初めて異なる正しさが提示される。

教科書に書かれていることは
その時々での確からしさに過ぎない。

私たちの世界で言えば
目の前にいる対象者の方が最前線

対象者を知識に当てはめるのではなくて
対象者のために知識を活用する。

良くなるはずなのに対象者が良くならないとしたら
知識の活用の仕方が悪いのか
知識がどこか違っているのか
だとしたら修正すべき知識は何なのか

具体的に身をもって教えてくださるのは
目の前にいる対象者の方に他ならない。
だからこそ、目の前で起こっていることに誠実に。
その思いを一層強くしました。

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「変化は辺縁から起こる」

「変化は辺縁から起こる」
誰の言葉か忘れてしまったけれど
ずっと胸に残っている言葉です。

どんな世界にも流行り廃りがあって
えてして、ついうっかりと、その時々の流行りゴトに乗っかりたくなるものだし
また、乗っかることを要請されもするけれど
ものすごく流行るコトって廃れるのも早い。
リハの世界にだって流行りゴトはある。
認知症のある方への対応にだって流行りゴトはある。

流行りゴトが無意味だとは思えない。
流行るには相応の理由があるし、部分的には意義がある。
そこを検討されずに全肯定、全否定となる風潮や
対象は異なれど同じことを繰り返してしまう私たち自身の在りようが問題なのだと感じています。

一方で本質・真実は時代を超え、地域を超え、伝えられていくものだと思う。
たとえ、萌芽期においては認められなくとも。
それは歴史が証明している。
認められないどころか、迫害されてきた。
ガリレオ然り、小笠原登然り。
でも時代が彼らの主張に追いついた。
今は彼らの主張の方が常識となっている。

正邪や常識といったものさしは
時代により地域により異なるし変わるもの。
その前提を忘れてはいけないと常々思う。

私たちは「正しい」ことを為すのではなく
目の前にいる方にとって「適切な」ことを為すのが仕事。

その時々の流行りゴトの世界に身を置いてしまうと
真贋を見極める眼を涵養することが叶わなくなってしまう。

「変化は辺縁から起こる」

これからの未来を背負って立つ若い人には
流行りゴトや声の大きさに惑わされることなく
真贋を見極める眼を涵養していってほしいと切に願っています。

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「在りよう」が積み重なる

「 聞いたことは忘れる。見たことは思い出す。体験したことは理解する 」

本当にそうだと感じています。

体験したことは理解する。
もっと言えば
体験は裏切らない。
もっと正確に言うと
体験に向き合った在りようは裏切らない。
在りようが積み重なっていく。

良いと言われたことは
何がどう良いのか考えた上で実践してみる。
そうすると何が良くて何が今ひとつなのかよくわかる。

業界に流布していることでも
未検証だったり検証が不十分だったり意図が不明瞭だったり
そういうことって少なくない。

地道に体験を重ねたからこそ
今になってはっきりとわかることがたくさんある。

「よっしーさんの話には(文章には)迫力がある」
「説得力がある」
「他の人と考えていることが全然違う」
というお言葉をいただくことが多々ありますが
裏打ちされた体験が下支えになっているからだろうと思う。

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「OTジャーナル」提言に掲載

「作業療法ジャーナル」最新刊Vol.52No.11の「提言」を執筆しました。

臨床家として率直に提言しています。

読んでいただければ嬉しく思います。

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言語化への努力

かつて
♪言葉にできない♪
という歌もありましたが。。。
(歳がバレバレですね)

私たちの仕事は技術職だから
どうしても言葉にできない領域もある。
「感じ」「加減」という。。。感覚的に明確にわかっていても言葉にしづらいこと
そしてそれ以前に、自分自身明確にそうとは感受せずにわかっている「暗黙知」の領域と。

だからこそ
言語化への努力を続けることが必要なのだと感じています。

これは果てのない努力かも。ですが

必要に迫られて
言語化への努力を重ねていると
その時々で自分でそうとは認識せずにしていた部分を自覚させられる体験が起こる。

そうか!
ここを言わなくちゃいけなかったんだ!
と納得できる。

自分にとっての当たり前は
当たり前だからこそ自覚しにくい。
そしてその当たり前は
他者にとっては当たり前とは限らない。

その時々の必要に迫られて
できることをしていけば良いのだと
それで十分なのだということが今は分かる。

時期が来たら
また別の体験によって
目覚めさせられる。

今も10月の講演のスライドを作っていて
「そうだ!ここを言わなくちゃいけなかったんだ」
とはっきりわかったことがあって
ちょっとスッキリ。

暗黙の前提を明示すること

暗黙の前提を吟味すること

多分、臨床で実践的に行える研究的姿勢というのは
こういうところにあるのだろうと感じています。
論文化しようが、しまいが、
臨床家として必要な姿勢なのだと。

そのためには
自分が何をしようとしているのか
最低限、そこは言語化できないと。

そしてその言語化(概念)と
自らの実践と結果との間に乖離がないかどうか
確認しないと。

ブレークスルーは
努力の積み重ねの上に降りてくる。

努力が当初の意図の通りに報われずとも
努力が無駄になることなんて決してない。

今、もしも、苦しんでいる人がいるとしたら
この言葉を送りたい。

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