どんなテーマの研修会でも私が必ず言うことがあります。
「どうしたら良いのかわからない時には評価に立ち戻る」
「結果として起こっていることだけを見て対応を考えずに
今何が起こっているのかを観察する」
「〇〇という状態像だけを切り取って、どうしたら良いのか考えても
良い解決策は出てこない」
研修会で上記の言葉を伝えて
具体的に事例を提示して思考過程も説明して対応も伝えているにもかかわらず
研修会終了後のアンケートや質問で必ず問う人が出てきます。
「〇〇という状態の人にどうしたら良いでしょうか?」
。。。
それだけ、切実に困っているんだろうな。とは思いますが
そう考えるから困る状態から脱却できないんだって言ったんだけど。。。(^^;
まず評価をする
評価できるための観察をする
一足飛びにはいかなくても、地道に着実に観察という情報収取をすることから始める
このような一連の過程のトレーニングが不十分なんだろうなと感じています。
ある意味、リハやケアの知識と技術の蓄積ができているという事実の表れでもあるとも思います。
だから、〇〇という状態像の人には△△という対応をすると良い
という情報が出回っているからこそ、そのような情報を探す思考回路ができてくるんだろうと考えてもいます。
でも、
Aという状態像の人に有効だった方法論AAが
A”という状態像の人に有効だとは限らない。
Aという状態像には、固有の疾患・障害・内科的状況・能力・特性が反映されていて
A”という状態像にも、固有の疾患・障害・内科的状況・能力・特性が反映されている
大きなくくりでの似たような状態像はあるから
パターンは結果として出てくるけれど
パターンを当てはめたって有効とは限らない
パターン的思考回路で対応していると
自分の思考過程や実践を言語的に論理的に表現できず
一般化・抽象化もしにくいので経験が経験として蓄積しにくくなってしまう。
それは本当にもったいないことだと感じています。
大切なことは観察です。
観察ができるためには知識と技術が必要です。
知識と技術に基づいた実践に比例して
観察も深まっていきます。
自分が実践していないことは観察できない
「見れども観えず」になってしまう
「評価している、できていると思っていたけれど、まだ全然だった」
「全然観察できていないことがわかった」
私の話を聞いた人から、このような感想をいただくと、とても嬉しく思います。
その人の可能性に、その人自身が気づいたから。なんです。
今の未熟は未来の可能性です。
安易な迎合や表面的な肯定は、未来の可能性を潰してしまうことでもあります。
違いに気づく
違いを知る
学ぶということの出発点だと考えています。
最近のコメント