Tag: コミュニケーション

役得です…m(_ _)m

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私は、こちらでいろいろ書いているように
研修会の講師として依頼されることもあれば
逆に企画・運営の中心的な仕事もしたり
参加者としていろんな研修会に出席したりもしています。

思い起こせば
今みたいに、講師の依頼がほとんどない頃から研修会に参加するたびに
どんな風に伝えたらよいのか、講師のお話の内容だけでなく表現についてや
企画・運営する人の動きなども参考にしていました。

その時には、まさか自分が
今のようにたくさんのご依頼を受けることになるとは考えてもいなかったのですが
たぶん、高校の時の部活の影響もあるのだろうと思います。

高校の時には
児童文化部といって、人形劇や影絵を作って地域の保育園や幼稚園に訪問していたのです。
そして、その活動がきっかけとなって作業療法士を目指すことになるのですが
児童文化部で活動している時にもまさかこの活動がきっかけとなって
将来の職業を選択することになるとは思ってもいなかったのですから
人生とはわからないものです (^^;

その部活で演出を担当することになり、先輩やOBから何度も指導されたことがあります。
それは
「演出が動くな。演出は常に全体をみて状況を把握し的確に指示出ししろ。」
ということでした。

全体を把握する
クチで言うのはカンタンですが、実行するのは大変でした。
でも、今思えば本当に良いトレーニングをさせてもらったものです。

作業療法士として仕事をしていても
まず、レクを企画・運営する時には、そのまま応用できることでしたし
おそらく、今私が提唱している「自分を含めた場面全体を把握する」
ということにも繋がってきているんじゃないかと思います。

そして今
講師としての立場、企画・運営側の立場、参加者の立場と
いろいろな立場でのお仕事をさせてもらうにあたり
それぞれの視点や感想を、異なる立場に反映できるというのは、1つ私の強みだと感じています。

お互い忙しい中で、トラブルを事前回避するためにどうしたらよいか。とか
より明確に伝えるための工夫とか
これは、他山の石としようとか (^^;
実感をもって考えられます。

それに
普段のお仕事では到底お会いすることが叶わないような方と接することができて
とても勉強になります。
明解、丁寧できめ細やか。
凄い人のお仕事への向き合い方に接することができるのは役得以外の何者でもありません。

仕事の報酬は仕事

本当にそのとおりだと感じました。

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臨床あるある(昔とった杵柄は要注意1)

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多かれ少なかれ経験している人は少なくないと思います。

昔とった杵柄
手続き記憶の活用
としてActivityを選択する。
あるいは認知症のある方から「やってみたい」「昔は好きだった」と言われて提供する。

ところが、実際にやってみたら
上手にできない。ほとんどOTRがやっている。表情も険しくなる。怒り出す。。。etc. etc.

認知症の状態が軽い方であれば、こういうことは少ないかもしれませんが
ある程度進行している認知症のある方には要注意なんです。
昔とった杵柄は意味がないというわけでは決してありませんし
病状が進行した認知症のある方はActivityができないというわけでもありません。
(HDS-R0/30点の方でも、いわゆる「意味のある作業」が遂行可能な方もいます。
個人的にはあんまり使いたくない言葉ですけど ^^;)

ただし、「要望を聞く」「やりたいと言ったことをやる」という観点でしか対応できないと
結果として、認知症のある方に逆効果を招きかねません。
(認知症という病態を考えれば当たり前のことなんですが。。。
このことに関しては後日詳述します)

認知症のある方は
一日暮らすだけでも、日々さまざまな困難に遭遇し
失敗体験や喪失体験を重ねていることも少なくありません。

プラスアルファとしてのActivityで
失敗体験や喪失体験の反復・強調体験を
たとえ、結果的にであったとしても、させてしまうことだけはないように
どんなに気をつけても気をつけ過ぎることはないと感じています。

ヒポクラテスが言ったように
「まず、第一に患者を傷つけないこと」

良かれと思ってスタートするのではなくて
悪いことをしないように気をつけながらスタートする

これは私の流儀ですから、別に周囲は関係ないのですけれど
昨今の風潮を眺めていると、ちょっと声高に言いたくなる時もあったりします (^^;

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地域で講演@二宮町

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10月1日(土)に
二宮町のラディアンで開催された「認知症介護入門講座」に
曽我病院の精神保健福祉士とともに講師として行ってまいりました。

参加してくださった町民のみなさま
どうもありがとうございました m(_ _)m

窓口になってくださったYさん、Mさん、どうもありがとうございました。

お帰りになる時のみなさまの笑顔が嬉しかったです。

認知症については、いろんなところでいろんな人がいろんなことを言ってるけど
誤解がものすごくあって
結果として、認知症のある方もご家族も対人援助職の人も
一生懸命な気持ちがズレた結果になってしまうのは、本当にもったいないと思います。

今、常識として流布されていることでも
よくよく考えるとおかしなことってたくさんあります。

それはやっぱりおかしいよね。
努力するのは、そっちじゃない。
じゃあどうしたらいいのか
その次をご提案しています。

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研修を消費しない

ちょっと待った

DFJ Summit 2016 に参加して思ったことは
「明日につなげる」工夫をちゃんと取り入れているとことでした。

2日間の日程のうち、半日しか参加していない私が言うのもナンですが
締めのセッションで「Action計画」として、これからどうするのか
自分で考えて小グループで発言・共有化して最後に全員の前で発言。という進行。

前日のセッションのグループワークの結果が張り出されていたのですが
そこに「じゃあどうしたらよいか」を考える書式になっていたり。

本当にそこが大事。ですよね。

時折、研修は研修で、日々の臨床は臨床で、と切り離してる人がいる。
「あーよかった。良い話を聴けてよかった」でおわり。
明日からの臨床はそれはそれ。

研修のはずが、なんか「感動させてくれる」「楽しませてくれる」「よかった感にあふれる」ショーみたいになっちゃう。という。。。

あれれ?

研修を消費してしまっては、もったいない。です。

大切な中身を届けるためには、表現の工夫は大事。
どんなに良い中身でも聞いてもらえなければ、まさしくハナシにならない。

でも表現が刺激的だったり、笑いっぱなしだったり、過剰だったりすると
中身が通り過ぎてしまうことがあるんじゃないかと。
本末転倒という。。。

私は今、いろんな立場に立ってお仕事をしています。
時には、裏方の企画・運営
時には、講師として
時には、参加者として

立場が変わることで視点も変わり、それぞれ別の異なる立場への配慮もできるようになるので
これは役得だなーと感じています。

明日につながるような
研修を企画・運営したいし
そんな話を届けたい。

そういう心構えをカタチにする工夫の一端に触れることができたのも良かったです (^^)

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DFJ Summit 2016に行ってきました

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平成28年9月3日(土)4日(日)に
明治大学中野キャンパスにおいて
「認知症フレンドリージャパン サミット2016」が開催されました。

私は3日(土)は仕事でしたし
ちょっとお疲れモードだったこともあって(^^;
4日(日)に半日だけ参加しました。

ある人に誘われて参加したのですが
行ってよかったー!!!
行きたい気持ちはあるけど自分の状態とこれからの予定を天秤にかけて
今回は残念だけどパスくらいの気持ちでしたが
思い切って参加して本当に良かったです。
誘ってもらえなかったら行かなかったかも。。。
「人」の存在ってほんと、大きいって実感しました。

サミットの詳細はこちら
https://peraichi.com/landing_pages/view/dfjs2016

認知症フレンドリージャパンイニシアチブのサイトはこちら
http://www.dementia-friendly-japan.jp

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象徴的なできごと@実習

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学生を実習でお引き受けすると
必ず、実習開始直後に
学生さんの在りようを明確に示すような象徴的なできごとが起こります。
そして、実習終了する頃に
もう一度明確に示すような象徴的なできごとが起こるのです。

すべての言動には意味があるし
その言動には、学生さんの能力も困難も特性も現れているから
考えてみれば当たり前なのですが。。。

だから
実習開始直後に起きたできごとは
私が実習指導をするにあたり心構えを作ってくれるものになり
実習終了間際に起こったできごとは
いわば「卒業試験」みたいな意味合いをもつものなのです。

象徴的なできごとは明確に起こりますが
一見すると些細なできごとでもあります。

象徴的なできごとを受け取ることができるためには
私たちに明敏さが求められると感じています。

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無事終了!食事介助の研修会@小田原

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平成28年8月30日(火)に
小田原保健センターにおいて開催された
県西地区のケアマネージャーさんの団体「OHMY」さん主催の
研修会「本当に怖い食事介助〜あなたが知らない分かれ道」で
講師を務めてきました。

一時は迷走台風の直撃か、と焦りましたが
無事に終了することができて本当に良かったです (^^)

参加してくださったみなさま、おつかれさまでした m(_ _)m
運営に携わられたOHMYのみなさま
中でもEさん、Mさん、お世話になりました。
どうもありがとうございました m(_ _)m

人の食べ方はいろいろで
結果として現れる「口を開けてくれない」「ためこんでしまう」という
食べにくさの状態もいろいろです。

でも、なぜか
万人に通用する方法
「こうしたら口を開けてくれる」「ためこみがなく食べられる」
があると思われている。。。
認知症のある方の生活障害やBPSDに対して
「こうしたらよい」
があると思われているのと同じコトが起こっています。

まず、何がその人に起こっているのか確かめることから始まります。

現状では
確かめられることなく「食べさせる」ことに終始してしまう。
仮に確かめられたとしても心理社会的側面に終始してしまう。
だから
認知症のある方の食べることの困難を改善することもできないし
介助者が辛い思いをするような現状を改善することもできないのだと考えています。

だったら、私たちが的確に確かめることができれば良いだけなんだと。

これは、今すぐにでもできることです。

なぜなんでしょうか?
私たちは今すぐにできることをせずに
どこかにあると思っている、でもそんなのあるはずがない魔法の杖を探している。
そして困り続けている。。。

いろんなトコロで
いろんなカタチで
でも同じコトが起こっているように感じられてなりません。

8月7日の大阪での食事介助の研修会に参加された方から
続々と対象者の方の変化や職場の変化についてご連絡が届いています。
本当に嬉しいことです。

私たちが変われば
認知症のある方の食べ方が変わります。

認知症のある方も
介助される方も
お互いがラクな食事場面に変わります。

そのコトを伝えられる機会をいただき本当にどうもありがとうございました。

会場の関係で、ご質問へのお答えが途中になってしまったことが気になっています。
ご質問してくださった方、もしよかったら、メールください。

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意味がこぼれ落ちる伝言ゲーム

ちょっと待った

ふと、伝承と教育ということを考えていました。

どんなコトでも起こりうるのだと思いますが。。。
モノゴトが広まっていく過程において
伝言ゲームのワナに陥ってしまうことがあるのだと思います。

たとえば
徳利からお酒を注ぐ時に
どこからお酒を注ぐかというと
とんがっている方が注ぎやすいというのではなくて
とんがっている方を上向きにして注ぐのだそうです。

徳利の口を相手に見えるようにして
とんがっている方を上にすると
相手からは、徳利の口が宝珠の形に見える
だから、とんがっていない方からお酒を注ぐのだそうです。
お酒を酌み交わす相手の幸福を願ってお酒を注ぐという意味があるのだそうです。

それから
宮大工のお弟子さんは
作業場のお掃除が仕事だった。
まずできることといったら、お掃除だというだけではなくて
片付けながら、道具を観ることができる。
どんな風に仕事をしていたのか、その一端を垣間みることができる
掃除しながらものすごい勉強になる。
決して面倒なことをお弟子さんにさせてるわけではない。

昔は
朝起きたら子どもが玄関周りのお掃除をするのが役目の1つだったとか。
その時々で玄関周りの様子は違うから
状況をよく観て綺麗にする
綺麗にするためには状況を観て
風向きなんかも考えないと
いつまでたっても綺麗にならない。
つまり、観察力と判断力をトレーニングしてから
一日を始めるという「予習」的な意味合いがあったんじゃないかな。

表面的なカタチだけは伝えられて
でも本来の意味が伝わらずに
下手すると表面的にだけ捉えられて
「よりラクなやり方」を重視されて本来の意味が抜け落ちたり
お弟子さんの勉強になるようにという本来の意図が誤解されてブラック判断されたり
子どもの発達上重要なことよりも机上学習ばかり推奨されてしまったり
そんなことがあったんじゃないかな。。。と思うことが最近ありました。

意味がこぼれ落ちて表面的なことしか伝わらず
誤解された意味とカタチが後世に伝わってしまう

その結果、大切なことが欠けていってしまう

本来「ワザ」の仕事は、感覚つまり対象との相互作用に明敏であることが求められます。
作業療法はどうなんだろう?

知識の集積は以前よりも格段に進んでいると思います。
でも本質において、どうなんだろう?
表面的なことが伝わっていても意味がとりこぼされていることはないのだろうか?
だとしたら、どうしたら良いのだろうか?

そんなことを考えさせられました。

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