「よっしーさんも進化しているから」
ある人に言われた言葉。
正直、嬉しかったです。
タマネギの皮をめくっていくみたいに発見がある。
同じ言葉でもその意味がより深く認識できたことを実感できることがある。
華厳経の縁起みたいに
関係性の複雑さ、精妙さが三次元的にわかるというか。。。
歳とるっていいな
って思う。
若い時にはわからなかったことがわかるようになる。
それって希望でもあります。
希望であり、可能性であり、畏れでもあり
深く頭を垂れ
前を向く。
8月 14 2017
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3582
8月 11 2017
今日は祝日・山の日ですが、オマケ☆
私も特別に出勤しています (^^)
他職種への伝達については
相当考えさせられてきました。
基本的には、私の側でできる努力は最大限する
とは考えています。
その1つが説明の言語化
たとえば
食事介助の場面において
他の職種でも今までとは違う方法を再現してもらえるために
どのように説明するか
ひと言で言えば
副詞を使わないで言語化する
ということです。
たとえば
施錠確認。
「ちゃんとカギをかけましょう」
と言うことが指導ではないです。
ちゃんとカギをかけるようにする
ためには、どういう行動に変更したらよいのか
そこを伝えることが重要です。
当病棟は閉鎖病棟なので
実習に来る学生さんへの一番最初の指導が施錠確認です。
「カギをかける。
まずは、ガチャッという音で確認。
次に、目で観てかかったカギを確認。
最後に、ドアを両方向に動かして開かないことを動作確認」
と指導しています。
結果として
「ちゃんと」カギをかけられるようになる。
食事介助の場面でも同じです。
ゆっくり介助する
丁寧に介助する
優しく介助する
そんなことを考えても
食べることにおいて
さまざまなウィークポイントと能力をもっている認知症のある方の
食べることの困難を改善していくことはできません。
そもそも
ゆっくり、丁寧、優しく。とは
どういう行動を示すのでしょうか。
非常に曖昧な言葉です。
人によって受け取り方に差が生じやすい言葉でもありますし
どの程度という基準も明確ではありません。
Aさんにとってのゆっくり介助が、Bさんにとってはせわしない介助
ということだって起こりえます。
だから副詞は使わない
名詞と動詞を中心に構成した言語化を行います。
明確な言語化=名詞と動詞中心の言語化
を心がけています。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3554
8月 09 2017
説明は後。体験が先。
私の持論です。
たとえば
認知症のある方への対応の工夫をきちんと検討したいという人もいれば
正直に言うと、まだまだ「認知症だから仕方ない」って思い込んでいる対人援助職もいます。
「認知症になっちゃえば本人は何もわからないからいいわよね」
そんな風に言っちゃう人がまだいるのも現実です。
どうしたらそういう人たちに話を聞いてもらえるのか。
どんな風に説明したらよいのか。
一生懸命、考えてるのに暖簾に腕押し。。。
そんな体験をしたことのある人は決して少なくないと感じています。
私は体験が先。なんだと考えています。
対応の違いによって
認知症のある方の言動に違いがある。
そういう体験をするのが先。
説明は後。
なぜなら
そのような人たちは
過去に(自分が)いろいろ頑張っても認知症のある方に行動変容はみられなかった
という体験の蓄積があって
今のような「仕方ない」という判断をしているのです。
ここで自らの方法論の検証をしないで
自分は頑張ったという(方法論の是非はともかく、確かに頑張られたんだとは思います)
正当性の上に立って
認知症だから仕方ない。と判断している。
つまり
このような状態にある人に対して
表面的に「こうしてみたらいい」と言っても
その人なりの体験の蓄積に基づいた結果として起こっている判断なので
他者からの説明というカタチで表面的に判断を変えることを促そうとしても
依って立つ根拠となる体験が異なるので
概念の食い違いが起こっているから、言葉が通じない状況になってしまいます。
まずは
その人の今までの体験とは異なる体験がありえるんだという
もう1つの現実の存在を体験してもらうことの方が先なんだと考えています。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3574
8月 08 2017
8月1日に
PT・OT・STのための働き方・学び方発見サイトさんに
「ICFで評価・対応する食事介助」の記事が掲載されました。
200名を超える方に「いいね」を押していただき
50名を超える方にシェアしていただき
1,300名を超える方に閲覧していただいて
とても嬉しく思いました。
1つの記事に論点を2つ盛り込むという
ちょっと無謀な構成にもかかわらず。。。(^^;
読者のみなさまの寛大なご対応に感謝いたします。
はい。
論点は2つ。
1)嚥下5相にそっての観察による障害と能力の把握が大切
もしもこの対応が的確に為されていたとしたら
「ムセ→トロミ」というパターン化した対応はできないはず
2)ICFを学んではいるはずなのに
臨床の場面ではICIDHの呪縛から脱しきれていないという
現状認識から始めませんか
という内容です。
もしよかったら是非、記事を読んでみてください。
https://1post.jp/2458
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3568
8月 03 2017
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3560
8月 02 2017
ICFで評価・対応できるようになるために
実は大切なことがICIDHの呪縛の強さを自覚することだと考えています。
ICIDHという因果関係論に、私たちは相当強く影響されています。
認知症は慢性・進行性の病気です。
病気を抱えながら暮らしていく
そのような人に対しては、まさしくICFの観点が求められます。
できないことをどれだけ詳しくわかってもできるようにはならない。
だって、できないことは、トレーニングしてもできるようにはならない
という疾患特性があるんだもの。
そもそも人は
時間という縦軸・さまざまな場という横軸
縦横無尽の影響下にあります。
華厳経の縁起そのもののような関係性の中に
イマ・ココで認知症のある方と自分とが対峙しているのです。
どれもが相互に関係し合っている
唯一の原因などありません。
直接のきっかけとなるコトはあったとしても。
ところが
ICIDHの因果関係論、
何か認知症のある方に原因があってそこから困難が起こる
だから、原因を探索し改善するといった思考回路から脱却できていないと
善かれという気持ちからであったとしても
現状のイマ、ココにいる
認知症のある方の在りようを
そして来し方を否定しているのだ
ということに気がつけなくなってしまうのです。
善意の気持ちによる客観的な現状の否定
このような相反する援助者の在りようは
誰よりも援助者自身の心の奥深くを損なっていくものではないでしょうか。
認知症のある方へ
ICFに基づいた評価・対応を実践しようとした時に
まずICIDHの思考回路かどうかを自らに問うということは
誰にでもできることです。
このような地道な積み重ねの上に
ICIDHからICFへと思考回路を切り替えることができるようになる。
それだけ、ICIDH・因果関係論の影響は根深いのだという自覚をすることが
まず、第一歩なのだと考えています。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3557
8月 01 2017
認知症のある方の食事介助に関して
現状は非常に心もとないものがあります。
食事介助に携わる職員は
美味しく食べていただきたいと願っていると思います。
ところが
知識と技術が伴わないと願いを具現化できない。
今、目の前にいる認知症のある方が
どうやって自らの障害を補いながら能力を発揮して食べているのか
という評価、アセスメントを適切に行いたくても行えない。
なぜならば
嚥下5相にそって評価が適切に行えることの前提要件として
まず、認知症のある方のもっている食べる能力を損なわないということが担保される必要があります。
ところが、現実には、してはいけないスプーン操作・望ましいスプーン操作を
教えてもらっていないがために
不適切なスプーン操作を結果として行ってしまい
その結果として、認知症のある方の能力発揮が損なわれてしまっています。
さらに、嚥下5相にそっての評価が適切に行えていない
(結果として起こっていることなのに、原因として把握されてしまう)
こういったことは日常茶飯事として起こっています。
だから
食べ方の評価全般のことを
ムセの有無のみで、しかも音でのみで判断してしまう
ムセたらトロミをつける
といったパターン化した対応が横行してしまっているのだと感じています。
知識と技術があれば
現状に身もすくむような思いがするのではないでしょうか。
同時に
知識と技術があれば
今すぐにでも目の前の現実を変えることができる可能性に
目を見開かされるような思いを抱くのではないでしょうか。
認知症のある方の食べることに関する評価は
ICFで評価するということの意味を体感できていない人にとって
案外、難しいようです。
でも、現実にはその前段階として
適切な評価ができるための
適切な情報収集ができていないことが圧倒的に多い。
不適切なスプーン操作によって評価の前の情報収集が機能していない場合が多いのです。
だとしたら、まずは適切なスプーン操作によって
認知症のある方の「本来の」食べ方を観られるように
適切な情報収集が行えるように
私たちが適切なスプーン操作を習得することがまず第一歩なのです。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3556
7月 31 2017
私のお話を聴いた後に
「他の職員にも伝えたい」
という感想をお寄せいただくことがよくあります。
本当に嬉しい。
是非、1人でも多くの人に伝えてほしいと思います。
と同時に
「どうやって連携をとっていったら良いのでしょうか」
というご質問をいただくこともよくあります。
それは、いろいろな方策がありますが
相手のあることだから、所属している施設によって
受け入れも実行も可能なことはさまざまだと思う。
善かれと思っての提案によって
提案者が疎まれるということだって起こりえます。
モノゴトには、いろいろな経過と背景がありますから
今すぐには難しいということもあるでしょう。
Bestを望んで性急な対処を焦ると
自分にとっても相手にとっても提案にとっても
良いことなくつぶれてしまいます。
それでは元も子もありません。
じゃあ、どうしようもないのか
というと、それもまたとんでもないことで
誰か1人でいいから、変わることには大きな意味があるのです。
もしも
対象者Aさんのいる施設において
職員全員が30%の介助が行えているとしたら
職員全員の力量を50%にするよりも
誰か、たった1人でいいから、80%の介助が行えるようになることが
とても重要なのです。
なぜか?
対象者Aさんにとって
30%の力量の職員に介助された時と
80%の力量の職員に介助された時と
明確に食べにくさ・食べやすさの違いの体験ができます。
職員によって食べにくさ・食べやすさが違う
つまり、Aさん自身の能力は職員によっって発揮される度合いが違う
自分の食べる能力は30%しかないわけじゃない。
自分には80%の食べる能力があるんだ!という体験ができます。
これは、とても大きな違いです。
天と地ほどの違いです。
多職種連携、チームワークがなぜ必要か
対象者にとってより良い環境が提供できるためであって
良い連携構築のためにチームワークが必要なのではありません。
手段の目的化を起こしてはいけない
誰か1人でいいから
まずは、80%の介助ができるようになることこそが必要です。
そして、その誰か1人いるのといないのとでは大違いだけれど
1人よりも2人、2人よりも3人いたほうが対象者のためになる
そのような視点から考えていくことが大切なのだと考えています。
Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3555
最近のコメント