Tag: コミュニケーション

今の実践→将来の常識へ

いつだって現場が最前線

かつて
仙台の特養の職員の方の講演を聞いたことがあります。
「今、介護保険サービスとして報酬化されているものは
かつて、自分たちがまったくのサービスとして必要に迫られて行っていたものだ」と。
そして「このような変化を嬉しく思う」と語っておられたことを。

科学は過去の知識の修正の上に成り立つ学問

対人援助として
何が適切なのか、どのような考え方が適切なのか
いつだってブラッシュアップされる運命にあると考えています。

必死になっている取り組みも
今は、たったひとつの声かもしれない。

でも、何十年かたったら、それが常識になる可能性だってある。

本当に有効で適切であれば。

私だって
食事介助のことを20年以上にわたり
実践しながら提唱もしてきたら
本を出したり、講演をすることも叶うようになった。
そんなことが私に起こるなんて当初は考えたこともなかった。

継続はチカラなり
1回1回の実践が大切

本当にそう思います。

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臨床あるある:ムセ→トロミ

臨床あるある食事介助編

「ムセたらトロミをつける」

よくありますよね?

もう、こういうパターン化した対応は卒業しましょう!

認知症のあるお年寄りで
食事が全介助の方の場合によくあることのひとつが
実は咽頭期そのものの機能は悪くないけれど
口腔期の易疲労によって咽頭期の能力が低下する
というケースです。

このようなケースでは
表面的には、「お食事するとムセる」という現象が起こってきます。
多くの場合、嚥下5相にそって食べ方の観察も能力の観察も為されていないという現実があるので
結果として起こっている「ムセ」だけ観てトロミをつけるという対応が為されがちです。

でも、本質的な困難は咽頭期ではなく口腔期にあるので
トロミをつけてしまうとかえって口腔期の易疲労を助長してしまいます。

その結果、起こるのが「さらにトロミをつける」
そんなことをすると粘性をさらに高めてしまうので
口腔期の易疲労をもっと助長してしまい、ますますムセてしまいます。

その結果、誤嚥性肺炎になってしまうという。。。

これって、本当に認知症のある方の食べ方のせいでしょうか?

諸悪の根源は
私たちのパターン化した思考回路です。

今、目の前にいる方がどんな風にして食べているのか
評価・アセスメントすることなく
「ムセたらトロミ」というパターン化した対応をしているところにあります。

だとしたら
私たちの側の問題だと言えます。

私たちの側の問題だとしたら
私たちが変わることによって現実を変えることができます。

たかだか一介の作業療法士の私ですが
たくさんの認知症のある方の食べ方を変容することができています。
私はごく普通の作業療法士です。
私にできることは、他の方にだってできます。

ただ、もっとまっすぐに観察すればいいだけなのです。

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オススメ!バリデーションセミナー2017

今年も始まります!

「バリデーションセミナー2017」
7月25日(火)の福岡会場を皮切りに
27日(木)名古屋・29日(土)大阪・30日(日)東京で開催されるそうです。

詳しくは
公認日本バリデーション協会のサイトの「バリデーションセミナー2017」をご参照ください。
http://www.clc-japan.com/validation/seminar.html

私はバリデーションを学ぶことができて本当によかったと思っています。

作業療法士として
共感・傾聴をちゃんとできてる…って思ってた。
我ながら本当に恥ずかしい。
私がしてたのは共感もどき・傾聴もどきでしかなかった…。
バリデーションを学んで
自分とは異なる感情が涌き起ってくることを実感するたびにそう思います。

でも、そんな風にはっきりと思えるようになってよかったと心から思う。
バリデーションを学ばないまま「共感・傾聴」なんて言葉を使ってたとしたら…
想像したくもないです。

たぶん、かつての私がそうであったように
バリデーションという知識と技術をなしに
「共感」「理解」「傾聴」を『本当に実践』しようとして
ものすごく辛く苦しい思いをしてる人がいるんじゃないかと思う。

そんな人にぜひおすすめします。

自分も認知症のある方もラクになります。
そして「相手を変えるのではない」ということの意味が心底わかるようになります。

迷っている人がいたら
背中、押します!
ぜひ!

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余裕があるから予防もできる

前の記事に関連して。。。

暮らしが先。ということを書きました。

もしも、今、暮らすことに精一杯だとしたら
予防になんて手を回すことができない。
今日、どうやって一日をやり過ごすか、まずはそっちが切実だもの。
頭では良いことって理解できていても
人の手は2本しかないし、身体だって1つしかない。

1年後のことではなくて
今日、明日のことが切実

そういうことだって起こりうる。
もしも、そういう方に予防に取り組んでもらおうとするならば
今日、明日を少しでもラクに暮らせる「援助」がまず最初だと思う。
それが何なのかは人によって異なってくると思うけど。

直近のことが担保されて初めて将来のことにも考えが回せるように
心身のゆとりが出てくるものだと思う。

でも、実は、今日明日暮らすことだけで
精一杯という人だって少なくないんじゃないでしょうか。

日中独居・老老介護・認認介護。。。本当に多いです。

暮らしが先
あまりにも当たり前のことだけど、忘れてはいけないと感じています。

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講演@在宅医療トレーニングセンター

平成29年7月4日(火)に
神奈川県医師会在宅医療トレーニングセンターさんに伺い
「認知症のある方のもう1つの言葉〜能力を見いだし能力に働きかける」
というタイトルで講演をしてきました。

在宅で認知症のある方に関わるヘルパーさんやケアマネさん
看護師さんや介護職の方などなど多岐にわたる職種の方にご参加いただいたとのこと
ものすっごく蒸し暑かったから、みなさん上気したお顔で来室されていました。
私もちょっと歩いただけで汗びっしょりになりましたもの。
そんな中、担当のIさんがこまめに空調の確認をしてくだったおかげもあって
かなりお部屋の中は快適でお話に集中して耳を傾けてくださった方が多かったんじゃないかと感じました。
おつかれさまでした。

Iさんには事前の準備段階からいつもきめ細やかに明確にご対応いただき
大変感謝しております。
どうもありがとうございました。

認知症のある方への対応の中でも
声かけにポイントを絞ったお話と
ちょっとだけですが、演習にも挑戦していただきました。
いかがだったでしょうか?

結果として起こっている表面的な事象だけをみて
どうしようと考えてもブレークスルーは生まれません。

結果として起こっている一見不合理な言動の中にも
認知症のある方の能力がちゃんと投影されています。

だからこそ
私たちが対応の工夫をする意義があります。

そのことをお伝えすることができてとても嬉しく思いました (^^)

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POST記事 連載中

POST
PTOTSTの働き方・学び方発見サイトさんに
2017年7月1日
「そのそも活動・参加とは何なのか 認知症のある方を担当したら」という
私の記事が掲載されました。

たくさんの方にお立ち寄りいただき嬉しい限りです m(_ _)m

ご自宅にいる認知症のある方は
一日が長く感じられる場合もよくあります。
施設にいる認知症のある方を担当していると
他部門からの「徘徊しないように何かできることない?」
などという要請を受けることもあるでしょう。

結果として現れている表面的な事象に対して
「じゃあ、どうしようか」と考える思考パターンは
もう卒業しませんか?

他の対象疾患を抱える方に対して
目の前に起こっていることから障害と能力を明確化していく
という思考パターンをトレーニングされてきたリハスタッフであれば
認知症のある方に対しても同様の思考パターンで向き合えるはずです。

認知症のある方への活動・参加ということを考える。ということは
ICFの「活動・参加」という概念の本質に深く向き合う。ということを
否が応でも要求されるようになります。
その過程は、辛いこともありますが
認知症のある方に対してだけでなく
リハスタッフが担当している他の対象疾患を抱える方に対しても
一歩深いところでの洞察が働くようになると感じています。

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目指す着地点

「帰りたい」「子どもが家で待っている」
といった表現で訴える方は大勢いらっしゃいます。

そんな時によく言われるのが
「説得より納得」
でも実際には言うは易し。行うは難し。と感じることはたびたびあるのではないでしょうか。

確かに「説得」は効果ないどころか、一利もないことのほうがずっと多いように感じています。
けれど「納得」を着地点にもってくると、これまた別の問題が生じるように思います。

納得して「あぁそうか。ありがとね」を着地点にもってこようとすると
あの手この手を使って
笑わせようとしたり気をそらせようとしたり最後まで追いつめてしまったり
結局は説得とは違うカタチであっても説得と似たようなパワーを用いてしまう
そんなジレンマを感じたりしてはいませんか?

着地点は「納得」に置かない

その方がずっとお互いの精神衛生上プラスだと思います。
納得はできないけれど、もしかしたらそうなのかなぁ?
でも良いのだと思います。

だって、認知症のある方はそれだけの能力をもっておいでですし
そもそも、私たちだって普通に暮らしていれば
いろいろな場面に遭遇して納得できないことでも仕方ないねと
いったんはモノゴトから距離を置くことなんてしょっちゅうあるのではありませんか?

余談ですけど
対人援助職はゴールを理想的に高く上げ過ぎだとよく感じます。
ふだんの私たちの暮らしではあり得ないようなことをゴールにもってくる。
結果を声高らかに宣言する。
でもその実現の過程はものすごく曖昧。
そういったパターンが多いように感じています。
結果ではなくて過程の方をもっと丁寧にきめ細やかに検討することの方が
プロとしての在りように結びつくように感じるんですけど。。。

「納得」はできないけど、そうなのかな?
「納得はできないけど、ちょっと時間をおいてまた聞いてみようか

そんな風に感じてもらえれば十分なんじゃないかな

だって「帰宅要求」はとりあえずその場は収まったんだし。

だけど、本当は帰宅要求を収めることが目的じゃないと思う。
帰宅要求という方法で表現でき、コミュニケーションすることができているのだから
言葉と感情のやりとりをできる
その結果、一方的に押し通すばかりではなく押したり引いたりもできる
だからこそ、目にみえる結果としての帰宅要求が止まった。ということになるのだと思う。

こういうことってたくさんあるように感じています。

今、何が起こっているのか
まずは、その把握から
その時に従来から言われている方法論を鵜呑みにして考えるのではなくて
もう一度自分と相手との関係性において吟味をする。ということ。

地道な実践の検証から、思いもかけないブレークスルーが生まれてくる。
いっぱいあるように感じています。

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≠「言う」=「する」

先週書いた記事の中で
村上龍が初台リハビリテーション病院のことを
「可視できるヒューマニズム」と評したことをとりあげました。

願いとしてのヒューマニズムを
現実の中で実践を通して見えるカタチで実現していく
それができることがプロなのだと感じました。

プロというのは
実現できる知識と技術をもっている人のことだし
だからこそ実現する時に丁寧にきめ細やかに実践していく人のことだと感じています。

日曜日のセミナーでもお話しましたが
願いをカタチにするための知識と技術がない状態で願いだけがいくら強くあっても
現実を変えることはできない。

美味しく食べていただきたい
栄養や水分をちゃんと摂取していただきたい
そのような願いを抱いているのであれば
対象者に対して「食べてね」と言うのではなく
対象者が食べられるように自分が「する」のだと

知識と技術がなければ
自分が「する」のではなくて
対象者に対して「ちゃんと食べてね」と言うしかなくなってしまうのだと

そして
認知症のある方への食事という場面で起こっていることは
認知症のある方への生活障害やBPSDという場面でも
まったく同じことが違うカタチで現れているだけなのだと

「認知症のある方へ寄り添ったケア」
「その人らしさを大切にしたケア」
そのようなケアの理念を実現するために
私は語るよりも考える
ある特定のそれぞれの場面において
私自身の
どのような言動が認知症のある方へ寄り添ったケアに該当して
どのような言動が認知症のある方へ寄り添ったケアに該当しないのか
どのような言動がその人らしさを大切にすることになって
どのような言動がその人らしさを大切にしていないことになるのか
尊重と迎合との違いは何か

私は臨床でとても困っているから
いつも具体的に考えるようにしているし
セミナーや研修会の講師を務める時にも
抽象的なことを語ることはしない
自分自身のポリシーとして
抽象的な理想論を語っているだけでは目の前の現実を変えることはできない
必要なのは、理想を具現化する過程においての
在りようであり具体的で明確な考え方なのだと考えているから

私自身の体験として
涙をこぼさずにいられないような体験はヤマほどあるけれど
そのような体験を講師として話すことはしないから
人によっては感動や共感を求めて研修会に参加する人もいるようですけれど
そのような人にとっては私の話は物足りないと思います。

私が講師をお引き受けする目的は
認知症のある方は能力をもっているが故に暮らしの困難に遭遇する
だからこそ、対応を工夫する意義がある
ということを明確にお伝えするため
1人でも多くの困っている対人援助職の人と
1人でも多くの認知症のある方とご家族の余分な困難が少なくなるため

今の自分でできることを「する」ために
その1つの手段として
たとえばこのブログの記事で「言う」ことを活用しています。

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