Tag: コミュニケーション

行動観察の重要性

行動観察は実は非常にactiveで有益で効率的で非侵襲的な情報収集です。

根拠に乏しいという批判のために
昨今、検査が重用されるようになってきました。
検査は検査として必要で重要ではありますが
一方で相対的に行動観察の重要性が低く認識されるようになってしまい
さらにきちんとしたトレーニングが十分に為されていない現状は
危機的だとすら感じています。

行動観察がまずいんじゃなくて
きちんとした行動観察ができないことがまずいだけなのに。。。

論点のすり替えが起こっていることが残念でなりません。

良い臨床家の育成のためには
行動観察が適切にできるようにトレーニングすることが大切なのに
と感じています。

H・S・サリヴァンの「関与しながらの観察」という言葉は本質を突いています。

単に関わりながら観察するんだ、というような表面的な意味合いではありません。

ようやく
この言葉の意味を実感をもって理解できるようになってきたし
少しは実践もできるようになってきたと感じています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3619

評価 ≠ 検査,推測

あるあるな誤解です。

評価=検査 ではありません。
でも、評価といいながら検査の意味で言葉を使っている療法士って
案外多いように感じています。

検査=評価だと思っていると
認知症のある方に対して、お手上げになってしまうのではないでしょうか。

また、評価=推測 でもありません。
とりわけ、精神科作業療法士の中に
推測の積み重ね=評価 と考えている作業療法士が
とても多いように感じています。

実習にくる学生さんには
推測するのは後!まず情報収集!と繰返し伝えています。

結果として表面的に起こっている事象について
〇〇ではないかと考える、のは違うよ。
それは臨床的推論とは違うよ。と言っています。

結果として表面的に起こっている事象について
〇〇という障害と〇〇という能力が表れている。
こう言えるためには知識が必要だし
異なる場面設定での確認ができるだけの情報収集が必要だよ。

異なる場面で違うカタチで現れていることも
メタの視点で眺めれば同じコトが(同じ障害と能力が)違うカタチで現れていることが
自然と浮かび上がってくる
浮かび上がってくるまでは情報収集が必要なんだよ。と言っています。

臨床あるあるな傾向として
身障系の作業療法士は「評価=検査」という誤解が多くて
精神系の作業療法士は「評価=推測」という誤解が多いように感じています。

モチロン、
行うべき検査をきっちり行ったうえで、評価をしている作業療法士も
複数の場面設定を巧みに緻密に行い、評価を深めている作業療法士も
たくさんいますが。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3618

問いを読みとる

実習に来た学生さんが
なぜ私のところに来たのか
ということの意味を考えることがあります。

学生さんがニコニコして実習を終えた時には
必ず学生さんの中でプラスの行動変容が起こっている。
そしてその時には必ず私の中でも変化が起こっている。
新たな気づきとか、理解の深化とか。

モチロン、学生さんがどの実習地に行くのか
養成校の教員の方がいろいろなことを総合的に考えられた結果決定されるのだと思いますから
教員の方の術中にはまったと言えるのかもしれませんね (^^;

人との出会いによって
あぶり出される自分の能力と困難と特性

私の場合には
ちょうど良いタイミングで
必要なできごとが起こっているように感じます。

逆か。
認識できることしかわからないから (^^;

私の大好きな作家に
アーシュラ・K・ル=グウィン という人がいて
読むたびごとに発見や理解の深化があるのですが
「西のはての年代記 II ヴォイス」にこんな言葉があります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

わたしたちの求めるのは真の答えではない。
われわれの探す迷子の羊は真の問いだ。
羊の体のあとにしっぽがついてくるように、真の問いには答えがついてくる。
(p.177)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

はかりしれない謎に対して理にかなった思考を寄せる
(p.195)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この表現に出会った時に衝撃を受けました。
私の中でまったく言葉にはならないでいた、
でも、漠とした感覚のような存在に名前が与えられたように感じました。

ル=グウィンの本は折にふれ、読み返しているのですが
ここのところ、全然読んでいなかったことに気がつきました。
今すぐは仕事が立て込んでいるから読めないけど
もうちょっとしたら夏休み(秋休み?)だから
その時に読み返そうって思いました。
そのためにもやるべき仕事を完遂しなくちゃ!

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3611

嬉しかった言葉

認知症のある方に言われて嬉しかった言葉のひとつに
「あんたと話してると頭の中がスッキリしてくるよ」
という言葉があります。

これは嬉しかったです。

だって
その方がご自身の能力を再確認されたからこそ
出てきた言葉ですもの。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3604

認知症のある方の表現を促す

同じコトが違うカタチで現れているだけ。。。

認知症のある方の食べることの困難は
認知症のある方の本当の食べ方を見てみなければ解決できない。

認知症のある方の帰宅要求と呼ばれる行為は
認知症のある方に聞いてみなければわからない。
私たちが聴き取れるように表現を促さないとわからない。

表面的に食べさせようとしたり
表面的に帰宅要求をおさめようとしたり
でも
表面に表れている困難にこそ、認知症のある方の能力も投影されてるのに
表面的な対応しかできないと
投影されてるはずの能力をも結果として抑制してしまうことになってしまう。

本当の食べ方を見られるようになるには
表現を促すことができるようになるには
技術が必要で
その技術を裏付ける知識が必要で
そこにこそプロフェッショナルとしての存在意義があると考えています。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3603

適切なスプーン操作ができて初めて能力を見いだせる

認知症のある方の食べることに関する困難はいろいろありますが
まず、私たちが適切なスプーン操作をすることができて初めて
認知症のある方の本当の食べ方、本来の食べ方、食べる能力に
触れることができるようになります。

言い換えれば
私たちが適切なスプーン操作を実行できなければ
認知症のある方の本当の食べ方
何に困っていて、何ができるのか
気がつくことができないということになってしまいます。

相手の能力がないということと
相手の能力に気がつけないということは全く違います。

いったい、どちらの能力がないのか。。。時々そんな風に感じることもあります (^^;

認知症のある方の能力に眼を見開かされた経験をしたことのある人は
自らの見落としに細心の注意を払うようになると思います。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3601

鮮烈に覚えていること

私が作業療法士として一番最初に勤めたのが
肢体不自由児施設でした。

そこに
紀伊克昌先生や古澤正道先生がいらしてデモンストレーションをしてくださったのです。

その施設にいたスタッフが一度も見たことがないような動きを
子どもたちがどんどん目の前でできるようになっていったんです。

そして(当たり前といえば当たり前ですが)その後でみんなでそれらしくやっても
誰も紀伊先生や古澤先生のようには子ども達の動きを再現できなかった。

鮮烈に覚えています。

できないのは
子どもたちじゃなくて、私なんだ。

紀伊先生や古澤先生が担当しても私が担当しても
ご両親は同じ時間で同じお金を払わなくちゃいけないんだ。

痛切に感じました。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3602

勝手な推測はしない

いつも、どこでも、言ってることですが
まずは、観察を
そして、観察ができるための知識を。

それにプラスして今日はもうひと言。
勝手な推測はしない。

私は作業療法士ですが
作業療法士がよく言う、あるあるな言葉に
時々ものすごく違和感を感じることもあります。

いわく
「作業療法を説明するのは難しい」
「作業療法は楽しく」
「あぁも考えられる。こうも考えられる。」

最後の言葉は
精神科作業療法の分野で言う人が多いようですが
そんなん、評価の真逆じゃん!
と思ってしまいます。

評価とは、しぼりこんでいく過程でもあります。
これは違うと判断し、可能性を除外していく過程。

その過程において
大切なことは予断をもたずに
まずは、観察すること
わからないことはきちんと本人に尋ねること
ただし、尋ねかたにはいろいろありますが。

そうすれば、こちらが勝手に推測などしなくても
集めた情報の集積から、ある確からしさとして語り出されてくるものです。

十分な観察も
真摯に尋ねもせずに
いくら考える努力をしたって
根拠がないじゃん。
コミュニケーションの真反対じゃん。
そんな風に感じてしまいます。

わからないことは、判断保留し、
わかる時がくるまでは、わからないままにしておくこと。

勝手に対象者のことを推測しない。

本来は、精神科がそういうことに一番明敏であることが望まれているんじゃないでしょうか。

Permanent link to this article: https://kana-ot.jp/wp/yosshi/3586