Tag: コミュニケーション

目指す着地点

「帰りたい」「子どもが家で待っている」
といった表現で訴える方は大勢いらっしゃいます。

そんな時によく言われるのが
「説得より納得」
でも実際には言うは易し。行うは難し。と感じることはたびたびあるのではないでしょうか。

確かに「説得」は効果ないどころか、一利もないことのほうがずっと多いように感じています。
けれど「納得」を着地点にもってくると、これまた別の問題が生じるように思います。

納得して「あぁそうか。ありがとね」を着地点にもってこようとすると
あの手この手を使って
笑わせようとしたり気をそらせようとしたり最後まで追いつめてしまったり
結局は説得とは違うカタチであっても説得と似たようなパワーを用いてしまう
そんなジレンマを感じたりしてはいませんか?

着地点は「納得」に置かない

その方がずっとお互いの精神衛生上プラスだと思います。
納得はできないけれど、もしかしたらそうなのかなぁ?
でも良いのだと思います。

だって、認知症のある方はそれだけの能力をもっておいでですし
そもそも、私たちだって普通に暮らしていれば
いろいろな場面に遭遇して納得できないことでも仕方ないねと
いったんはモノゴトから距離を置くことなんてしょっちゅうあるのではありませんか?

余談ですけど
対人援助職はゴールを理想的に高く上げ過ぎだとよく感じます。
ふだんの私たちの暮らしではあり得ないようなことをゴールにもってくる。
結果を声高らかに宣言する。
でもその実現の過程はものすごく曖昧。
そういったパターンが多いように感じています。
結果ではなくて過程の方をもっと丁寧にきめ細やかに検討することの方が
プロとしての在りように結びつくように感じるんですけど。。。

「納得」はできないけど、そうなのかな?
「納得はできないけど、ちょっと時間をおいてまた聞いてみようか

そんな風に感じてもらえれば十分なんじゃないかな

だって「帰宅要求」はとりあえずその場は収まったんだし。

だけど、本当は帰宅要求を収めることが目的じゃないと思う。
帰宅要求という方法で表現でき、コミュニケーションすることができているのだから
言葉と感情のやりとりをできる
その結果、一方的に押し通すばかりではなく押したり引いたりもできる
だからこそ、目にみえる結果としての帰宅要求が止まった。ということになるのだと思う。

こういうことってたくさんあるように感じています。

今、何が起こっているのか
まずは、その把握から
その時に従来から言われている方法論を鵜呑みにして考えるのではなくて
もう一度自分と相手との関係性において吟味をする。ということ。

地道な実践の検証から、思いもかけないブレークスルーが生まれてくる。
いっぱいあるように感じています。

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≠「言う」=「する」

先週書いた記事の中で
村上龍が初台リハビリテーション病院のことを
「可視できるヒューマニズム」と評したことをとりあげました。

願いとしてのヒューマニズムを
現実の中で実践を通して見えるカタチで実現していく
それができることがプロなのだと感じました。

プロというのは
実現できる知識と技術をもっている人のことだし
だからこそ実現する時に丁寧にきめ細やかに実践していく人のことだと感じています。

日曜日のセミナーでもお話しましたが
願いをカタチにするための知識と技術がない状態で願いだけがいくら強くあっても
現実を変えることはできない。

美味しく食べていただきたい
栄養や水分をちゃんと摂取していただきたい
そのような願いを抱いているのであれば
対象者に対して「食べてね」と言うのではなく
対象者が食べられるように自分が「する」のだと

知識と技術がなければ
自分が「する」のではなくて
対象者に対して「ちゃんと食べてね」と言うしかなくなってしまうのだと

そして
認知症のある方への食事という場面で起こっていることは
認知症のある方への生活障害やBPSDという場面でも
まったく同じことが違うカタチで現れているだけなのだと

「認知症のある方へ寄り添ったケア」
「その人らしさを大切にしたケア」
そのようなケアの理念を実現するために
私は語るよりも考える
ある特定のそれぞれの場面において
私自身の
どのような言動が認知症のある方へ寄り添ったケアに該当して
どのような言動が認知症のある方へ寄り添ったケアに該当しないのか
どのような言動がその人らしさを大切にすることになって
どのような言動がその人らしさを大切にしていないことになるのか
尊重と迎合との違いは何か

私は臨床でとても困っているから
いつも具体的に考えるようにしているし
セミナーや研修会の講師を務める時にも
抽象的なことを語ることはしない
自分自身のポリシーとして
抽象的な理想論を語っているだけでは目の前の現実を変えることはできない
必要なのは、理想を具現化する過程においての
在りようであり具体的で明確な考え方なのだと考えているから

私自身の体験として
涙をこぼさずにいられないような体験はヤマほどあるけれど
そのような体験を講師として話すことはしないから
人によっては感動や共感を求めて研修会に参加する人もいるようですけれど
そのような人にとっては私の話は物足りないと思います。

私が講師をお引き受けする目的は
認知症のある方は能力をもっているが故に暮らしの困難に遭遇する
だからこそ、対応を工夫する意義がある
ということを明確にお伝えするため
1人でも多くの困っている対人援助職の人と
1人でも多くの認知症のある方とご家族の余分な困難が少なくなるため

今の自分でできることを「する」ために
その1つの手段として
たとえばこのブログの記事で「言う」ことを活用しています。

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中身の連携:Act.の選択

確か前にも一度記事で書いたことがありますが
認知症のある方に何かAct.を提供することを考える時に
とりあえず、昔とった杵柄、かつての趣味を考える人も多いと思います。

でも、その結果
イメージはあるけど、手指の巧緻性低下のためにできなくなった。とか
イメージはあるけど、工程を思い出し修正しながら実行することができなくなった
といった障害のために、かつて得意だったことが今できなくなってしまったという方も多くて
Act.を提供する作業療法士をはじめとするリハスタッフやデイサービスで働くスタッフが
困ってしまうという場合に一度や二度は遭遇しているはずなんです。

そんな時によく私たちが言いがちな言葉が
「一緒にやるから大丈夫」という言葉だと思いますが
これは実は認知症のある方にとって、非常に難しい場面を設定してしまうことになりかねません。

一緒にやる。。。ということは
認知症のある方の隣でスタッフがやってみせる。ということを指すと思いますが
この時に認知症のある方の脳内で要求される処理としては
1)スタッフの言葉を聞いて理解する
2)スタッフのやっている動作を見て理解する
3)自分がやった動作と上記1)と2)を照合して2)になるように修正する箇所を認識する
4)認識した通りに修正する
ということになります。

もしも、認知症のある方に構成障害があれば
上記3)は非常に難しいことになりますし
そもそも上記1)〜4)を同時に並行して処理するという同時並行課題は
認知症のある方にとって難易度が高い課題です。

かつて得意だったことが今できなくなってしまったという体験
単に目の前の課題ができなくなったというだけでなく
もっと深い喪失体験を認知症のある方にもたらしかねません。

適切なAct.を選択するためには
認知症のある方の能力と障害と特性を把握することから始まります。

施設に退院される方の場合には
施設でのリハやケアで、「参加する」ことが求められるようになりますが
ご本人の特性と能力に合ったもの、
なおかつ障害による困難を最少限にするための場面設定について
スタッフが困らないですむように
認知症のある方の不利益となるような体験を提供しないですむように
そのあたりのことも申し送るようにしています。

介護保険領域において厚生労働省が「活動と参加」を強調している昨今
認知症のある方へ提供された
善かれと思ってのリハやレクが常に良い結果となるわけではないのだ
ということについて
特に作業療法士は
警鐘を鳴らすと同時に
適切な提案ができることが求められていると考えています。

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中身の連携>場の連携

介護保険領域において
「場」の連携は、かなり強化されてきていると感じています。

これからは「中身」の連携が求められてくるのではないでしょうか。

障害と能力と特性
どのような場面で困惑する傾向があって
どのような対応で理解が円滑になるか等

新たに利用を開始した場で
一から情報収集しないですむように
利用する場が変わっても
情報を積み重ねていけるように
そんな中身の連携ができればいいなぁと考えています。

認知症の病状が進行すると
記銘力低下以外の障害の進行や合併が起こることが非常に多く
また、そのことによる生活障害においては
他職種では何が起こっているのか認識できない場合も相当あります。

ただひたすら言葉で説明しようとして
結果としてよけいに混乱させてしまったり
説明する時の言葉の適切な選択ができずに怒らせてしまったり
ということは非常によくあるんです。

「認知症→記憶の低下→不安→言動を否定しない、褒める」
といったような従来のパターンでは対応困難な場合が非常に多い
それなのに、その意味がわからない場合が非常に多い。。。

まずは、転倒・骨折などで急性期病院に入院する時に情報提供。
リハが円滑に進むような声かけの工夫について記載しておくと
特に急性期病院のPTの方には好評とのことです。

そして、モチロン
退院後に利用開始する施設のケアマネさんやご家族に直接面談
必要であれば、障害の状態像が明確にわかるような作品やエピソートを伝えて説明します。
その上で退院時のサマリーで書面による情報提供をしています。
基本、どんな施設に行かれる方にも行っています。

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お気持ちの吐露

たくさんの方が
ふとした時にお気持ちを吐露されます。

HDS-Rが1桁の方が
「俺はもうバカになっちゃったからできないよ」

HDS-Rが0点の方が
「こんなバカな俺に優しくしてくれてありがとう」

HDS-Rをとることすらできない方が
「俺はよう、ここがよう(頭を指差して)こうだからよう(パーと手を開く)」

HDS-Rをとることすらできない、異食もしてしまう方が
「私はバカだから。私は何にもわからないから」

本当にあったことです。

「認知症のある方は病識がない」
と言う人はとても多いけれど
病気と診断できるのは医師だけです。

私だって
膝が痛い、腰が痛いと感じることはできますが
なぜ痛いのか、何という病気のための痛みなのかは
私にはわかりません。言えません。
それを病識がないというのなら私も病識がないのでしょう。

そして
私だって常にどこでも誰に対しても「痛い」と言うわけではありません。

大丈夫?と尋ねられた時に
辛くても「平気」と答える私は病識がないのでしょうか?

それは
私でなくたって同じなのではないでしょうか。

認知症のある方だって同じなのではないでしょうか。

感じていることを
いつでも誰にでもどんな場でも常に表明するわけではありません。

私たちは自分の本心を言っていい場とそうでない場とを区別していますし
言える人と言えない人を区別しています。

「言わない・言えない=わからない」
と判断しているのは私たちであって
認知症のある方の真実かどうかは
どれだけ私たちが言える場を作れているのか
どれだけ私たちが聞くことのできる耳と感じ取れる身体をもっているのか
という前提要件によっても随分変わってくるのにな
そんな風に感じています。

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野望は温める

昨日、とてもとても嬉しいことがありました (^^)

長年の私の野望 (^^; を叶える扉が開いたんです。

もうそれはそれは嬉しくて嬉しくて。。。
あぁ!ほんっとに嬉しい。。。

お仕事してれば、いろんなことがあるでしょう?
でも、諦めないことって、とっても大事

野望は温める
そして時期を待つ
その間は1人でこっそり牙を研ぐ

幸いなことに
私たちの仕事は
技術職だから
結果に語らせることができる
これは一番の強みだよね

今、もしかしたら、辛い気持ちを抱えながらも
何とか踏ん張っている人もいるかもしれません。
心折れそうになるかもですが。。。

私もいっぱい泣いて、いっぱい何くそって思ったもの
そして、その間、牙を研ぎまくりました。

タイミングってあるし
風向きもあるし
自分ではどうしようもないことってヤマほどある

だけど、自分の牙をどう研ぐかは自分で決めて自分でできること

そして、一見悪いことのように見える良いことだってあるんです。
これは、ほんとのこと。

悪いことの渦中にいると、
とてもそんな風には思えないかもしれませんが
私は何度もそういう体験をしてきました。

私にとって
昨日、開いた扉の意味はとても大きい。

ひとつ扉が開けば、次の扉が開くことも多い。
最初の扉が一番重いってこともよくあること。

すごく嬉しい (^^)
扉が開いたことに感謝して。。。ガンバル☆

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ご家族の援助ができるように

頑張りすぎてしまうご家族はたくさんいらっしゃいます。
よくここまでご家族だけで頑張ってこられた
と思うケースにたくさん遭遇します。

それは、ひとつには
そうせざるをえなかった。。。という状況もあるのではないか
私たち専門家と呼ばれる側の努力不足もあるのだと感じています。

困っているから相談にいったのに
抽象的・総論的なことしか言われず
今の困りごとに対して的確に役に立ちそうな答えがもらえなかったりしたら
ご家族は次に相談に行くのをためらわれるのではないでしょうか。

だって、相談に行くことすら、大変だと思いますもの。

じっくり話を聴いてもらおうと思えば
その間、認知症のある方を誰かにみてもらわなければならないから
そのお願いをしなくちゃいけない

近くに頼める人がいれば、まだいいけれど
遠くまでお願いしにいくとなると
道中だって大変。。。

そこまでして相談に来られるんだから
相談して良かったって感じていただけるような
そんな対応がいつもできるようでありたいと思う

ご家族に
「頑張りすぎないで」
と言うのではなくて
ご家族が頑張りすぎないですむように
そんな相談先であるように

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私ならこう返す

朝日新聞のある記事が目に留りました。

『「奥さんはキレイな人?」若年認知症の妻に問われ、夫は』
http://digital.asahi.com/articles/ASK4T5SYYK4TPTFC00V.html?_requesturl=articles%2FASK4T5SYYK4TPTFC00V.html&rm=400

記事によると
週に数回、妻に「奥さんはキレイな人?」と尋ねられるのだそうだ。
夫は、いつもどう応じたらいいのか、悩むとのこと。
友人たちは、妻を混乱させないように「大丈夫」とその場をおさめる。
妻もひとまず落ち着く。
かつては戸籍謄本を見せたり、結婚式の話を聴かせたりもしたとのこと。
話を合わせようとしようかとも思うが、それでは夫婦の距離が遠くなってしまうようで言えないと
記事には夫の揺れる心の内が記載されていた。

私は直接には、その方のことを知らない。
だから、無責任なことは言えない。
でも、夫が「どういう言葉を返すのが適切なのか」真剣に悩んでいることは伝わってくる。
友人たちの対応も自分の対応も納得できるとは感じていないが
どう考えたらよいのか逡巡していることは伝わってくる。

「混乱」「落ち着く」という言葉だけでは
今ひとつ状況が伝わってこないが
だからこそ、私ならこの夫に
「どうしてそんな風に思ったの?」と尋ねることを勧めるだろう。
「どうして」という言葉がキツい、問いつめるように受けとめられる可能性があるとしたら
「どんなところでそう思ったの?」という表現をするだろう。

妻が繰り返し尋ねるという言葉には
何かしらの思いや意図が明確に現れている
たとえ忘れてしまったために同じ言葉を繰り返すにしても
その都度ある一定の見方・感じ方をしているということを表しているのだから
「何と言う言葉を言うか」を考えるよりも
まず、「どうしてそう思ったのか」率直に尋ねてみたい。
言葉に込められた妻の気持ちがどんなものなのか
尋ねられれば答えてくれるのではないだろうか。

私にこんなに親切にしてくれる人だったら
奥さんだってきっとキレイで良い人なんだろうと思った。とか。
奥さんが羨ましいと思った。とか
それは聞いてみないとわからないから。

それによって答える言葉だって変わってくる。

「大丈夫」と
その場をおさめようとする人たちは善かれと思って対応してくれていることを
妻はしっかりと感じ取っていて
内心夫からの返事を聞きたいと思ったとしても
それ以上は言葉にしないように気遣っている可能性だってあるし
(多くの人は誤解してるけど、その場のことはよく理解できて配慮できる方はとても多い)
だとすると「その場がおさまる」ことが良いことなのだろうか?

「その場をおさめる」ことを優先しなくちゃいけない時もあるだろうけれど。。。

自分の気持ちや考えを表現しようとしているのだということをどう考えたら良いのだろうか?

「混乱しないように」という目的は誰のための目的なのだろうか?

混乱とその後の分かち合いは、双方にとってとても辛い
その後に訪れる悲嘆の分かち合いも、双方にとって辛い体験になる

けれど
生きるということは、辛いことにも嬉しいことにも遭遇するものではないだろうか?
嬉しいこと、楽しいことだけが起こる人生なんてあるだろうか?

認知症があろうが、なかろうが
誰もが辛さと嬉しさとその他諸々の感情を抱いて生きていく

だとしたら
考えるべきは表現しかけた感情や考えを
途中でおさめることではなくて
表現しきれるように援助するには、どうしたらよいのか
表現した後で訪れる辛い感情をどのように分かち合えるのか
ということなのではないだろうか

辛い感情を分かち合えるかもしれない
辛い感情を受けとめようとすると思う
そういう信頼が根底にあるかどうかということも問われているのではないだろうか

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