Tag: コミュニケーション

中身の連携>場の連携

介護保険領域において
「場」の連携は、かなり強化されてきていると感じています。

これからは「中身」の連携が求められてくるのではないでしょうか。

障害と能力と特性
どのような場面で困惑する傾向があって
どのような対応で理解が円滑になるか等

新たに利用を開始した場で
一から情報収集しないですむように
利用する場が変わっても
情報を積み重ねていけるように
そんな中身の連携ができればいいなぁと考えています。

認知症の病状が進行すると
記銘力低下以外の障害の進行や合併が起こることが非常に多く
また、そのことによる生活障害においては
他職種では何が起こっているのか認識できない場合も相当あります。

ただひたすら言葉で説明しようとして
結果としてよけいに混乱させてしまったり
説明する時の言葉の適切な選択ができずに怒らせてしまったり
ということは非常によくあるんです。

「認知症→記憶の低下→不安→言動を否定しない、褒める」
といったような従来のパターンでは対応困難な場合が非常に多い
それなのに、その意味がわからない場合が非常に多い。。。

まずは、転倒・骨折などで急性期病院に入院する時に情報提供。
リハが円滑に進むような声かけの工夫について記載しておくと
特に急性期病院のPTの方には好評とのことです。

そして、モチロン
退院後に利用開始する施設のケアマネさんやご家族に直接面談
必要であれば、障害の状態像が明確にわかるような作品やエピソートを伝えて説明します。
その上で退院時のサマリーで書面による情報提供をしています。
基本、どんな施設に行かれる方にも行っています。

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お気持ちの吐露

たくさんの方が
ふとした時にお気持ちを吐露されます。

HDS-Rが1桁の方が
「俺はもうバカになっちゃったからできないよ」

HDS-Rが0点の方が
「こんなバカな俺に優しくしてくれてありがとう」

HDS-Rをとることすらできない方が
「俺はよう、ここがよう(頭を指差して)こうだからよう(パーと手を開く)」

HDS-Rをとることすらできない、異食もしてしまう方が
「私はバカだから。私は何にもわからないから」

本当にあったことです。

「認知症のある方は病識がない」
と言う人はとても多いけれど
病気と診断できるのは医師だけです。

私だって
膝が痛い、腰が痛いと感じることはできますが
なぜ痛いのか、何という病気のための痛みなのかは
私にはわかりません。言えません。
それを病識がないというのなら私も病識がないのでしょう。

そして
私だって常にどこでも誰に対しても「痛い」と言うわけではありません。

大丈夫?と尋ねられた時に
辛くても「平気」と答える私は病識がないのでしょうか?

それは
私でなくたって同じなのではないでしょうか。

認知症のある方だって同じなのではないでしょうか。

感じていることを
いつでも誰にでもどんな場でも常に表明するわけではありません。

私たちは自分の本心を言っていい場とそうでない場とを区別していますし
言える人と言えない人を区別しています。

「言わない・言えない=わからない」
と判断しているのは私たちであって
認知症のある方の真実かどうかは
どれだけ私たちが言える場を作れているのか
どれだけ私たちが聞くことのできる耳と感じ取れる身体をもっているのか
という前提要件によっても随分変わってくるのにな
そんな風に感じています。

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野望は温める

昨日、とてもとても嬉しいことがありました (^^)

長年の私の野望 (^^; を叶える扉が開いたんです。

もうそれはそれは嬉しくて嬉しくて。。。
あぁ!ほんっとに嬉しい。。。

お仕事してれば、いろんなことがあるでしょう?
でも、諦めないことって、とっても大事

野望は温める
そして時期を待つ
その間は1人でこっそり牙を研ぐ

幸いなことに
私たちの仕事は
技術職だから
結果に語らせることができる
これは一番の強みだよね

今、もしかしたら、辛い気持ちを抱えながらも
何とか踏ん張っている人もいるかもしれません。
心折れそうになるかもですが。。。

私もいっぱい泣いて、いっぱい何くそって思ったもの
そして、その間、牙を研ぎまくりました。

タイミングってあるし
風向きもあるし
自分ではどうしようもないことってヤマほどある

だけど、自分の牙をどう研ぐかは自分で決めて自分でできること

そして、一見悪いことのように見える良いことだってあるんです。
これは、ほんとのこと。

悪いことの渦中にいると、
とてもそんな風には思えないかもしれませんが
私は何度もそういう体験をしてきました。

私にとって
昨日、開いた扉の意味はとても大きい。

ひとつ扉が開けば、次の扉が開くことも多い。
最初の扉が一番重いってこともよくあること。

すごく嬉しい (^^)
扉が開いたことに感謝して。。。ガンバル☆

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ご家族の援助ができるように

頑張りすぎてしまうご家族はたくさんいらっしゃいます。
よくここまでご家族だけで頑張ってこられた
と思うケースにたくさん遭遇します。

それは、ひとつには
そうせざるをえなかった。。。という状況もあるのではないか
私たち専門家と呼ばれる側の努力不足もあるのだと感じています。

困っているから相談にいったのに
抽象的・総論的なことしか言われず
今の困りごとに対して的確に役に立ちそうな答えがもらえなかったりしたら
ご家族は次に相談に行くのをためらわれるのではないでしょうか。

だって、相談に行くことすら、大変だと思いますもの。

じっくり話を聴いてもらおうと思えば
その間、認知症のある方を誰かにみてもらわなければならないから
そのお願いをしなくちゃいけない

近くに頼める人がいれば、まだいいけれど
遠くまでお願いしにいくとなると
道中だって大変。。。

そこまでして相談に来られるんだから
相談して良かったって感じていただけるような
そんな対応がいつもできるようでありたいと思う

ご家族に
「頑張りすぎないで」
と言うのではなくて
ご家族が頑張りすぎないですむように
そんな相談先であるように

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私ならこう返す

朝日新聞のある記事が目に留りました。

『「奥さんはキレイな人?」若年認知症の妻に問われ、夫は』
http://digital.asahi.com/articles/ASK4T5SYYK4TPTFC00V.html?_requesturl=articles%2FASK4T5SYYK4TPTFC00V.html&rm=400

記事によると
週に数回、妻に「奥さんはキレイな人?」と尋ねられるのだそうだ。
夫は、いつもどう応じたらいいのか、悩むとのこと。
友人たちは、妻を混乱させないように「大丈夫」とその場をおさめる。
妻もひとまず落ち着く。
かつては戸籍謄本を見せたり、結婚式の話を聴かせたりもしたとのこと。
話を合わせようとしようかとも思うが、それでは夫婦の距離が遠くなってしまうようで言えないと
記事には夫の揺れる心の内が記載されていた。

私は直接には、その方のことを知らない。
だから、無責任なことは言えない。
でも、夫が「どういう言葉を返すのが適切なのか」真剣に悩んでいることは伝わってくる。
友人たちの対応も自分の対応も納得できるとは感じていないが
どう考えたらよいのか逡巡していることは伝わってくる。

「混乱」「落ち着く」という言葉だけでは
今ひとつ状況が伝わってこないが
だからこそ、私ならこの夫に
「どうしてそんな風に思ったの?」と尋ねることを勧めるだろう。
「どうして」という言葉がキツい、問いつめるように受けとめられる可能性があるとしたら
「どんなところでそう思ったの?」という表現をするだろう。

妻が繰り返し尋ねるという言葉には
何かしらの思いや意図が明確に現れている
たとえ忘れてしまったために同じ言葉を繰り返すにしても
その都度ある一定の見方・感じ方をしているということを表しているのだから
「何と言う言葉を言うか」を考えるよりも
まず、「どうしてそう思ったのか」率直に尋ねてみたい。
言葉に込められた妻の気持ちがどんなものなのか
尋ねられれば答えてくれるのではないだろうか。

私にこんなに親切にしてくれる人だったら
奥さんだってきっとキレイで良い人なんだろうと思った。とか。
奥さんが羨ましいと思った。とか
それは聞いてみないとわからないから。

それによって答える言葉だって変わってくる。

「大丈夫」と
その場をおさめようとする人たちは善かれと思って対応してくれていることを
妻はしっかりと感じ取っていて
内心夫からの返事を聞きたいと思ったとしても
それ以上は言葉にしないように気遣っている可能性だってあるし
(多くの人は誤解してるけど、その場のことはよく理解できて配慮できる方はとても多い)
だとすると「その場がおさまる」ことが良いことなのだろうか?

「その場をおさめる」ことを優先しなくちゃいけない時もあるだろうけれど。。。

自分の気持ちや考えを表現しようとしているのだということをどう考えたら良いのだろうか?

「混乱しないように」という目的は誰のための目的なのだろうか?

混乱とその後の分かち合いは、双方にとってとても辛い
その後に訪れる悲嘆の分かち合いも、双方にとって辛い体験になる

けれど
生きるということは、辛いことにも嬉しいことにも遭遇するものではないだろうか?
嬉しいこと、楽しいことだけが起こる人生なんてあるだろうか?

認知症があろうが、なかろうが
誰もが辛さと嬉しさとその他諸々の感情を抱いて生きていく

だとしたら
考えるべきは表現しかけた感情や考えを
途中でおさめることではなくて
表現しきれるように援助するには、どうしたらよいのか
表現した後で訪れる辛い感情をどのように分かち合えるのか
ということなのではないだろうか

辛い感情を分かち合えるかもしれない
辛い感情を受けとめようとすると思う
そういう信頼が根底にあるかどうかということも問われているのではないだろうか

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「失敗は必然、成功は偶然」という言葉

かつて、野村克也が言ったという
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」

「勝ちには偶然の勝ちがあり、負けには偶然の負けはない」という言葉は
江戸時代の剣豪、松浦清(松浦静山)の言葉の引用なのだそうです。

そこから
「失敗は必然、成功は偶然」という言葉も広く使われているとか。

その通りだと思います。

認知症のある方に対して考えついた方法が
「たまたま上手くいく」(この表現もどうかとは思いますが)こともあるでしょう。
「Aという状態の人には、Bという対応をしてみたら?」という考え方は
ギョーカイを席巻しています。。。
そして、多くの場合に、Bという対応が「うまくいかない」
その時には、「次はどうしよう?」「Cという対応をしてみたら?」

Bという対応がうまくいかなかった必然があるのだとしたら
それは、打開策のヒントにもなるのに
そこを考えずに、表面的に方法だけを考えても「うまくいく」はずがない。
それこそ、数打って当たることはあるでしょうけれど
本当は、そういう話じゃない (^^;

認知症のある方の
気持ちや状態に原因を求めるのではなくて
ある状況の中で起こる状態像にとっての必然と考える。

多くの人が無自覚のうちにとらわれている
視点を変換することが一番重要なんだと考えています。

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毒の怖さがわかるから薬として扱える

本当にパワーのあるものは
扱い方に注意が必要

でも
そのパワーの怖さが実感できないと
リスクヘッジが疎かになってしまう。

そういうことって
あちこちで起こっているように感じています。

かつてよりも
さまざまな情報をずっと入手しやすい世界になり
これから、プロフェッショナルとアマチュアの垣根が今よりもさらに低くなっていくでしょう。

そのことの
メリットもデメリットも甘受するしかない。

プロのプロたる所以は
誤解されやすいけれど、
本当は、対象者の方にとって
どれだけ良いことができるか。ではなくて
どれだけ悪いことを回避できるか。なのだと考えています。

これから先
リスクヘッジの重要性は、どんなに強調されても
し過ぎることはない
と考えています。

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毒にも薬にもなる

かねがね思っていることですが。。。
本当に有効なモノはマイナスへの働き方も強い
毒にも薬にもなる
チカラはプラスマイナス両方向にはたらくから
パワーのあるモノほど取り扱いには注意が必要

作用の方向性に気をつける
ということは非常に重要なことだと感じ、また考えてもいます。

逆説的ですが
認知症のある方に対して、
有効な対応の工夫を具体的に提案できるということは
困難を来す場面をも具体的に想定できるということをも意味しています。

だからこそ
リスクヘッジとして
言葉、行動、状況をひとつひとつ回避することができる。

同時に、プロとして、非常に怖さを感じることもあります。

用い方ひとつ、扱い方ひとつで
相手を援助することも困惑を作ることにもつながってしまう。

チカラは、プラスマイナス両方向にはたらく
そして、同時には両方向にははたらけない

チカラがはたらく時には
プラスかマイナスかどちらか一方の向きにしかはたらけない

援助と使役は、紙一重。なんだということに。

作業療法士が本当にActivityのもつパワーを使いこなせるのであれば
Activityのもつ怖さを十分に認識し言語化し回避できることこそが重要なのだ。ということに。

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