POST掲載「座席案内」

POST 理学療法士作業療法士言語聴覚士のためのリハビリ情報サイトさんに
4月9日(日)、私の記事が掲載されました。
「リハビリを実施するにあたって」

今度出る本のPRもしていただき、どうもありがとうございます m(_ _)m

目の前にいる対象者の方に対して
適切なリハやケアを実践したいと願いながら
どうしたらよいのか、どう考えたらよいのか、
わからなくて困っている人の役に立つなら
そしてまわりまわって
認知症のある方とご家族の余分な困難が少しでも減ることにつながるなら
こんなに嬉しいことはありません。

まずは、明日からすぐに使える
そして、使った後に何が起こっていたのか理解できる
できれば、応用しようとして知識を深めてもらえる
最終的には、自分で観察することができて考えられるようになる

私が講演でお話する時や専門誌に依頼原稿を記載したりブログに記事を書く時に
気をつけているポイントです。

私の実践と提案は従来のものとは本質的に違っています。
「こうしたらいいんじゃないの」「原因探索と改善」ではなくて
まったく新しい視点で考え方を提案しています。

記事も本も読んでいただけたら嬉しいです m(_ _)m

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プラスの変化を

まったくの初対面で
相談にのる時に気をつけていることがあります。

埋もれている能力を1回では的確に見いだせない
だから、その時に困りごとが解決あるいは改善されるように
具体的に提案しにくい。

そんな時には
明確になっている能力からスタートして
困りごとを減らせる方向への途上にあるようなことを
提案します。

そうすれば
相談に来られた直接のきっかけとなった困りごとそのものはまだ残っていたとしても
目に見えて具体的な変化を共有化することができます。

認知症のある方ご自身にとっても
ご家族や介助する人にとっても
大きな支えになります。

「変わった。
変われるんだ。」

それは、誰にとっても嬉しいことです。
もちろん、その変化の連絡を受けた私にとっても、とてもとても嬉しいことです。

次のステップをどうしたらよいのか
認知症のある方の変化が教えてくれるんです。

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上梓「食べられるようになるスプーンテクニック」

このたび、日総研出版さんから
「食べられるようになるスプーンテクニック」を上梓することになりました。

詳細はこちらをご参照ください。
http://www.nissoken.com/book/1824/index.html

「知識がなければ観察ができない
観察ができなければ適切なケアはできない」
というキャッチコピーは担当の編集者の方がつけてくださいました m(_ _)m

私はとても気に入っています (^^)

認知症のある方の食事介助は大変です。
さまざまなことが起こりますので
認知症のない方がもう一度食べることに挑戦するのも大変なことですが
それとは別の、あるいはさらにプラスしての困難さが伴います。

「認知症だから誤嚥性肺炎はしようがない」
「認知症だから上手に食べられないのは仕方ない」
「にわかには信じ難い」

私も面と向かって言われたことが何度もあります。
それはそう言った人の過去の体験に基づいての発言です。
そういう体験しかしていないから、そう言うしかないんです。
まさしく (^^;

でも、私の体験はまったく違います。

認知症のある方のさまざまな食べることの困難は改善できることが多い。
誤嚥性肺炎になってもCRP(炎症所見の1つ)が陰性化したまま
食べられるようになることが多い。
40分以上かかっても殆ど摂取できなかった方が
20分で全量摂取できるようになる。などなど。。。

つまり
認知症のある方の能力が低下して食べられなくなるわけではなくて
認知症のある方と私たち介助者とのDiscommunicationが起こっているのです。
「食べる」−「食べることを援助する」という関係の場におけるDiscommunication

だから、可能性がある。

主治医が大脳新皮質がコピー用紙1枚の厚みしかないと言うくらいに
脳萎縮が進んでいる重度の認知症のある方でも
介助が変われば食べ方が変わるようになるんです。

今、視点・発想の転換が求められているのだと感じています。

食べにくそうに食べているその食べ方の中にこそ
認知症のある方の能力が見え隠れしているのだという風に。

私たちが為すべきことは
食べ方を修正するのではなくて
合理的に発揮できていない埋もれている能力を見いだし
より合理的に発揮できるように援助するのだという風に。

食事介助に困っている方、現状の方法に何となく違和感を抱いている方に
読んでいただければ嬉しく思います。

そして
1人でも多くの認知症のある方が
よりラクにより安全により美味しくより長く
食べられるようになることを願ってやみません。

本の予約も受付中とのことです☆
すでにお申込くださった方もいらっしゃるとのこと
本当にどうもありがとうございます m(_ _)m

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NHK「こんなはずじゃなかった」を観て

NHKドキュメンタリーETV特集
「こんなはずじゃなかった 在宅医療 ベッドからの問いかけ」を観た。

早川一光 医師のことは
医療保健福祉関係者なら少なくとも名前を聞いたことがあるのではないでしょうか。
私も若干のことは知っていたつもりでしたが
今回初めて知ることも多かったです。

健康保険の仕組みのなかった1950年頃に京都で地域の人のための診療所を立ち上げ
自らの給与が出ない時期もあり、一家が生活保護を受けていたこともあったとか…。

そこまで一心に患者さんのための治療を心がけてきた医師が
今、自宅で自らが立ち上げた在宅医療を受けている。

その感想が
「こんなはずじゃなかった」
というのである。

カメラはありのままを写し撮る。
「おしっこ、ちびっちゃった」
「早川先生が死ぬのを怖がってる姿は、ものすごく意味があると思います」
さらっとそのまま映し出される。
番組ディレクターが川村雄治というのもうなづけた。

番組を観終わって感じたことは
早川先生の勇気とそれゆえの強い意志。
「今のままではいけない。何かが足りない。」そんな気持ちを感じた。
そして、それは困惑とともに私の胸に残った。

早川先生にして
必要だと言わしめた「人間総合学」を言葉にして表現できない。

早川先生の状況もご家族も関わるスタッフも
いろいろな現場の一端を知る私には、
(比較の問題ではないけれど)とても恵まれているように感じた。

にもかかわらず、いや、だからこそなのかもしれないが
患者の立場として、早川先生は
「心の奥にあるさびしさ」「在宅医療にある天国と地獄」を実感している。
そして、おそらく、早川先生だからこそ、
その実感を語ることができたのかもしれない。

とても重い宿題
この番組を観ないで知らないでいたよりは観ることができてよかったと思う。
でも、胸の奥に重い石が残っているような気持ちがしている。

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混同されてるこちらの無自覚あちらの困惑

認知症のある方の場面不適応的な言動について
認知症のある方自身の「能力低下による問題」という判断が下されがちですが
そして、確かにそういう側面もありますが
通常、結構私たちは曖昧な言葉使いをしていたりします。

言葉は相手に通じてこその言葉なので
通じればよいという側面もあると思います。
極論すれば「アレをそれして」とか。
私がやりがちなのは、主語の省略とか (^^;

普段はそれでもよいのでしょうが
対人援助職として、重度の認知症のある方への対応を考える時に
まず、自己検証を明確に行うことが求められました。

モノゴトは、その時その場のその関係性において起こるものなので
認知症のある方の「問題」というよりも
私と認知症のある方との関係の中で起こったこと
という定義付けの方が適切だと考えました。

とすると、自己検証しないわけにはいかないし
近時記憶障害や言語理解力低下や構成障害、注意障害がある
ということが明確なのだから、そこを理解したうえでどうしたらよいのか
考えるしかありません。

そうすると「援助」としては
結構不適切な言動をしてしまっていたことがわかるようになります。
通じてこそ言葉なのに、曖昧な言葉を使ってしまっていることがわかるようになります。

私たち職員側の無自覚な言動によって
もともとある認知症のある方の困惑が増幅されてしまっている
そのような現実は確かにあります。

だとしたら
私たちが自覚的になることによって
認知症のある方の余分な困惑は確実に減らすことができます。

明日から
平成29年度が始まります。
また新しい春が巡る。

新たな気持ちで
認知症のある方とご家族のよぶんな困難が少しでも少なくなるように
そのための提案として、こちらの記事投稿も続けていきたいと思います。
引き続き、どうぞよろしくお願い申し上げます m(_ _)m

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あるある注意(≠意思=行動)

現場でよくあるあるなのが
「ちゃんと〇〇するように気をつけましょう」
という注意喚起

ところが
こういった注意喚起で行動を修正できる人ばかりとは限らない

〇〇するように気をつける
とは、どういう行動に変更するのか
具体的に言語化して伝えることが必要だったりします。

気持ちの問題じゃなくて行動を変えることにポイントがあります。

私は当院に実習にくる学生さんに
施錠確認について
「ちゃんとカギをかけるように気をつけて」とは言いません。

「カギをかけたら
目で見て確かめて
次に手でドアを両方向に動かして確認するのよ」
と言っています。

「ちゃんと」という副詞を明確に言語化して伝えるようにしています。

どうでしょう?
あふれていませんか?
ケアやリハの現場で「ゆっくり」「丁寧に」「ちゃんと」「きちんと」という言葉

 

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死人テストってスゴい

死人テストとは
1965年に行動分析学のOgden Lindsley によって開発された
「死人にできることは行動ではない」
という行動の定義のことです。

行動とは
状態ではないし
否定形ではなく肯定形で表されるということを意味します。

逆に言えば
肯定のカタチでの世界への働きかけ・意思表明=生きる
ということです。

雷に打たれたような
とは、まさにこういう状態を言うのか
というような気持ちになりました。

死人テストってスゴい。
端的な言葉で奥深い概念を明確に示しています。

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目標設定と能力の把握

認知症のある方は
失われた能力をどんなにトレーニングしても再習得することはできない。
でも、埋もれていて表面化していない能力を見いだしてもらえれば
合理的に発揮できるように再習得することは可能です。

だから
リハやケアの分野において
生活障害やBPSDの改善に関して
能力を見いだすということがとても重要なポイントになってきます。

「認知症があってもできることはある」
と旗を振る人が増えてきたのは良いことだと思います。
でも、旗を振ってるだけでは個々の現実を善くしていくことはできない。

「意思」していれば現実が変わるわけではない
「意思」を行動のカタチで表現することが大切
ということは前の記事で記載した通りです。

「できることはある」ならば
今、どんな場面でどんな風にどのくらいのどういう能力が
現れているのか、明確に把握できるようになること
それこそが求められていることなのだと考えています。

そして
能力を見いだす
とは、一見綺麗で簡単な言葉ですが
おいそれとできることではありません。

「観測できれば干渉することができる
干渉することができれば制御することもできる
観測できないものには手の出しようがない」
とは、魔法少女☆まどかマギカでキュウべえのセリフですが
まさに。まさに。

見れども観えず。の状態から
観える。ようになるために
実は目標設定のトレーニングという
一見全然関係のないように思える事柄が非常に深く関与しているのです。

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