HDS-Rをとるならば:質的評価

どうせ検査をするならば
得点結果だけではなくて答え方…質的評価も行いましょう。

答えがわからない時には、どんな風な言動をする人なのか
HDS-Rの答えがわからない時の言動は
日常生活でわからないことに遭遇した時の言動と
結構相似しているものです。

例えば
わからない時に、じっとうつむいて黙ってしまう人は
日常生活でトイレに行きたいのに尋ねられなくて我慢してしまったり

逆にわからないことでも思いついたことをどんどん言ってみる人は
トイレを探しまわってあちこちの部屋のドアを開けてみたり

だからこそ
「おトイレは大丈夫ですか?」って
訴えがなくても声をかけてみよう。とか
他室訪問する人には、「ここは入っちゃダメです」と言わずに
「何かどこかお探しですか?」って尋ねてみよう。とか
具体的に対応を考えることができるし
そういう視点で「問題」として大きく表面化しないうちに
暮らしの中で起こる、その人にとっての困りごとをすくいあげる
観察の視点に結びつけることもできます。

HDS-Rをとるならば
正解、不正解。だけではなくて
その答え方にも着目することをオススメします。

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HDS-Rをとるならば:説明と依頼

実習生や若手のセラピストが一番困るのは
検査の依頼をする時にどうやって伝えるか
ってことなんじゃないかと思う。

「これから先もしも万が一、〇〇さんに困りごとがあった時に
すぐにお手伝いができるようになりたいので
そのためにご協力いただきたいのです。
私がお尋ねすることにお答えいただきたいのですが
お願いできますでしょうか?」

「ここにいるみなさんにお願いしていることなのですが
〇〇さんにもお願いしたいことがあります。
私がお聞きしたことにお答えいただけますでしょうか?」

実習に来た学生さんに相談されたら
まずは、前者のような言い方を私は勧めます。
こちらの目的そのままを伝えます。

時には、後者のような表現をすることもあります。
〇〇さんだけを特別視しているわけではないというニュアンスを伝えます。

認知症状態にある方は
状態が軽くても重くても
忘れてしまう、今までできていたことができなくなった等の実感を明確に感じています。
(言わないかもしれませんが)
その実感と否定したい気持ちとの葛藤状態にあって
自分だけがバカになってしまったというような周囲の人との落差のようなものを感じている場合が多い。
それらを踏まえた上で上のような表現で伝えています。

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HDS-Rをとるならば:目的

「HDS-Rは認知症のある方を傷つけるからとらない方がいい。って言われました。」

一時期、実習を引き受けた学生さんからよく聞いた言葉です。

その場の会話ができて
礼節が保たれていて
相手へ気遣いして合わせる能力がある人だと
施設や病院に入院・入所中の場合には
通常会話や行動観察から記憶の連続性を判断することが難しかったりします。

職員に「HDS-Rが〇〇点でした」と報告したら
「えーふざけていたんじゃないの?」とか
HDS-Rが一桁の方のサマリーに「普通のおばあちゃんです」と記載されていたり。
そういうことは枚挙にいとまがありません。

冒頭のような学生さんには
「うん、わかった。そしたらどうやって記憶の連続性を確認する?」
と尋ねます。
「HDS-Rをとらなくても記憶の連続性が判断できるならとる必要はない。
記憶の連続性の判断ができないと、適切な援助もできないでしょう?
他の方法で判断できないならHDS-Rをとりなさい。
そして一番大切なことは傷つけるリスクを承知でとった結果を援助に最大限活かしなさい」
と指導しています。

記憶の連続性が〇〇だから
この方に接する時には〇〇するようにしよう

これを考えられるようになるための検査としてのHDS-Rだと考えています。
モチロン、現実には1つの検査結果だけから方向性を決めることはありませんが
方向性を考える時の根拠が曖昧では、その上に積み上げるものも曖昧になってしまいます。

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できないことの中にもできることがある

「認知症になってもできることがある」

最近、いろんなところでいろんな人が表明するようになりました。
本当にその通りだと感じています。

でも
私はもう一歩つっこんで
「できないことの中にもできることがある」
と言いたいと思います。

認知症になってもできることがある。
確かにその通りだと感じていますが、
でもそこに力点を置き過ぎてしまうと
できなくなった時によけいに辛くなってしまうんじゃないでしょうか。

「できることがある=OK」
という認識では、結局のところ本質的には
従来の「できない、わからない」という枠組みを超えることにはならないとも感じています。
視点の量的な転換にはなっても質的な転換には至っていないというか。。。

「できないことの中にもできることがある」
「できないことの中にもその人らしさがある」

私はそう感じています。

クリスティーン・ブライデンさんの
「私は誰になっていくの?」
「私は私になっていく」
という本は内容も素晴らしいですが
このタイトルが示していることも、とてつもなく深い。

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POST掲載「座席案内」

POST 理学療法士作業療法士言語聴覚士のためのリハビリ情報サイトさんに
4月9日(日)、私の記事が掲載されました。
「リハビリを実施するにあたって」

今度出る本のPRもしていただき、どうもありがとうございます m(_ _)m

目の前にいる対象者の方に対して
適切なリハやケアを実践したいと願いながら
どうしたらよいのか、どう考えたらよいのか、
わからなくて困っている人の役に立つなら
そしてまわりまわって
認知症のある方とご家族の余分な困難が少しでも減ることにつながるなら
こんなに嬉しいことはありません。

まずは、明日からすぐに使える
そして、使った後に何が起こっていたのか理解できる
できれば、応用しようとして知識を深めてもらえる
最終的には、自分で観察することができて考えられるようになる

私が講演でお話する時や専門誌に依頼原稿を記載したりブログに記事を書く時に
気をつけているポイントです。

私の実践と提案は従来のものとは本質的に違っています。
「こうしたらいいんじゃないの」「原因探索と改善」ではなくて
まったく新しい視点で考え方を提案しています。

記事も本も読んでいただけたら嬉しいです m(_ _)m

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プラスの変化を

まったくの初対面で
相談にのる時に気をつけていることがあります。

埋もれている能力を1回では的確に見いだせない
だから、その時に困りごとが解決あるいは改善されるように
具体的に提案しにくい。

そんな時には
明確になっている能力からスタートして
困りごとを減らせる方向への途上にあるようなことを
提案します。

そうすれば
相談に来られた直接のきっかけとなった困りごとそのものはまだ残っていたとしても
目に見えて具体的な変化を共有化することができます。

認知症のある方ご自身にとっても
ご家族や介助する人にとっても
大きな支えになります。

「変わった。
変われるんだ。」

それは、誰にとっても嬉しいことです。
もちろん、その変化の連絡を受けた私にとっても、とてもとても嬉しいことです。

次のステップをどうしたらよいのか
認知症のある方の変化が教えてくれるんです。

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上梓「食べられるようになるスプーンテクニック」

このたび、日総研出版さんから
「食べられるようになるスプーンテクニック」を上梓することになりました。

詳細はこちらをご参照ください。
http://www.nissoken.com/book/1824/index.html

「知識がなければ観察ができない
観察ができなければ適切なケアはできない」
というキャッチコピーは担当の編集者の方がつけてくださいました m(_ _)m

私はとても気に入っています (^^)

認知症のある方の食事介助は大変です。
さまざまなことが起こりますので
認知症のない方がもう一度食べることに挑戦するのも大変なことですが
それとは別の、あるいはさらにプラスしての困難さが伴います。

「認知症だから誤嚥性肺炎はしようがない」
「認知症だから上手に食べられないのは仕方ない」
「にわかには信じ難い」

私も面と向かって言われたことが何度もあります。
それはそう言った人の過去の体験に基づいての発言です。
そういう体験しかしていないから、そう言うしかないんです。
まさしく (^^;

でも、私の体験はまったく違います。

認知症のある方のさまざまな食べることの困難は改善できることが多い。
誤嚥性肺炎になってもCRP(炎症所見の1つ)が陰性化したまま
食べられるようになることが多い。
40分以上かかっても殆ど摂取できなかった方が
20分で全量摂取できるようになる。などなど。。。

つまり
認知症のある方の能力が低下して食べられなくなるわけではなくて
認知症のある方と私たち介助者とのDiscommunicationが起こっているのです。
「食べる」−「食べることを援助する」という関係の場におけるDiscommunication

だから、可能性がある。

主治医が大脳新皮質がコピー用紙1枚の厚みしかないと言うくらいに
脳萎縮が進んでいる重度の認知症のある方でも
介助が変われば食べ方が変わるようになるんです。

今、視点・発想の転換が求められているのだと感じています。

食べにくそうに食べているその食べ方の中にこそ
認知症のある方の能力が見え隠れしているのだという風に。

私たちが為すべきことは
食べ方を修正するのではなくて
合理的に発揮できていない埋もれている能力を見いだし
より合理的に発揮できるように援助するのだという風に。

食事介助に困っている方、現状の方法に何となく違和感を抱いている方に
読んでいただければ嬉しく思います。

そして
1人でも多くの認知症のある方が
よりラクにより安全により美味しくより長く
食べられるようになることを願ってやみません。

本の予約も受付中とのことです☆
すでにお申込くださった方もいらっしゃるとのこと
本当にどうもありがとうございます m(_ _)m

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NHK「こんなはずじゃなかった」を観て

NHKドキュメンタリーETV特集
「こんなはずじゃなかった 在宅医療 ベッドからの問いかけ」を観た。

早川一光 医師のことは
医療保健福祉関係者なら少なくとも名前を聞いたことがあるのではないでしょうか。
私も若干のことは知っていたつもりでしたが
今回初めて知ることも多かったです。

健康保険の仕組みのなかった1950年頃に京都で地域の人のための診療所を立ち上げ
自らの給与が出ない時期もあり、一家が生活保護を受けていたこともあったとか…。

そこまで一心に患者さんのための治療を心がけてきた医師が
今、自宅で自らが立ち上げた在宅医療を受けている。

その感想が
「こんなはずじゃなかった」
というのである。

カメラはありのままを写し撮る。
「おしっこ、ちびっちゃった」
「早川先生が死ぬのを怖がってる姿は、ものすごく意味があると思います」
さらっとそのまま映し出される。
番組ディレクターが川村雄治というのもうなづけた。

番組を観終わって感じたことは
早川先生の勇気とそれゆえの強い意志。
「今のままではいけない。何かが足りない。」そんな気持ちを感じた。
そして、それは困惑とともに私の胸に残った。

早川先生にして
必要だと言わしめた「人間総合学」を言葉にして表現できない。

早川先生の状況もご家族も関わるスタッフも
いろいろな現場の一端を知る私には、
(比較の問題ではないけれど)とても恵まれているように感じた。

にもかかわらず、いや、だからこそなのかもしれないが
患者の立場として、早川先生は
「心の奥にあるさびしさ」「在宅医療にある天国と地獄」を実感している。
そして、おそらく、早川先生だからこそ、
その実感を語ることができたのかもしれない。

とても重い宿題
この番組を観ないで知らないでいたよりは観ることができてよかったと思う。
でも、胸の奥に重い石が残っているような気持ちがしている。

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