Category: よっしーずボイス(ブログ)

私はやらない実習あるある その3

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私はやらない実習指導 その3
学生をむやみには褒めない。

実習だけをきりとって、どう学生を指導したらよいか
そんな風に考えている指導者は少なくないようですが
臨床家としての前体験として実習があるのだという視点で
私は考えています。

学生さんの変容した行動については言語化して伝えますが
それは褒める必要があると考えているわけではありません。

褒められる指導を受ければ
褒められようとして行動するようになります。
それってヘンじゃない?

私たちは対人援助職として
対象者にとって必要で可能な行動変容を促すのが仕事です。
何も「すごいね」「ありがとう」って言われたくて
仕事をするわけじゃない。

「あなたのおかげです。ありがとう。」
そう言われて嬉しくないわけはないけれど
それは結果として起こることに過ぎなくて
そう言われることを目的としているわけじゃない。

宮大工の西岡常一さんも
「弟子を教える時には褒めない。
褒めれば褒められようとして仕事するようになる」
と言っていました。

リハの世界に限らないように感じているけれど
「結果として起こることの目的化」による誤解って
結構多いように感じています。

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私はやらない実習あるある その2

我慢のしどころ

私はやらない実習指導 その2
「なぜ?」とは学生さんには尋ねない。

指導者が学生さんに「なぜ?」と尋ねるのには
2つの目的があると思う。

1つは、純粋に学生さんの思考過程が知りたかった時。
もう1つは、学生さんに思考過程の再考を促したい時。

でも
学生さんの立場にしたら
指導者に「なぜ?」って尋ねられるのって
プレッシャーですよね (^^;

学生さんに余分なプレッシャーを与えずに
目的が達成できるのであれば
そちらの方法を選びたいと考えています。

ふだんの学生さんの言動やフィードバックでのやりとりから
学生さんの思考過程はだいたい推測できるし
明確に確認したい時、その必要がある時には
「私には、あなたがこうやって考えているように受け取れるんだけど
実際のところ、どんな風に考えているのか教えてほしい」
って、その通りに尋ねれば良いと思っています。

そうでなくて
学生さんに思考過程の再考を促したいのだとしたら
情報収集した事実たちを紙に書き出して(ここが大事)
この事実Aとこの事実Bからこう考えたとしたら
この事実Cについては、どう考えたらよいのだろう?
情報と思考過程に論理的整合性がないことを指摘します。

そうすれば
学生さんは再考せざるを得ない。

「なぜ?」と尋ねられるよりも
より効率的に学生さんに指導できると考えています。

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私はやらない実習あるある

ちょっと待った

よくありがちな実習指導
でも、私はやってないコト
こうした方がいいと思うコトを書いてみます。

まずは、その1
「どこがわからないの?」

とは学生さんに尋ねません。
「どこまでわかった?」
と尋ねるようにしています。

実習指導者が
学生さんにどこが分からないのか尋ねたくなる時は
学生さんにしてみたら、大抵の場合に
何がわからないのか、わからないのは何なのか
わかってない時だったりする。

そんな時にそんな風に尋ねられても
それこそわからないし
かといって、正直にそんな風に言える雰囲気でもないし (^^;

学生さんは(学生だから当たり前ですが)
わかったつもりになって
わかってるような気がしてるだけで
明確にはわかってない。ことの方が圧倒的に多い。
(だから実習が必要なんです)

明確にわかっていることは、どこまでなのか。
そこを学生さんと共有する方が建設的だと考えています。

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感受と思考は継続し判断は保留

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なかなか、できそうでできないコト。
でも、とっても大切なコト。

わからないことに出会った時には
感受と思考は継続し判断は保留する

実践している人に出会えると
尊敬します。

わからないことに遭遇すると
焦ってしまって
なんとか、答えを見つけようとして
その場でふと目についたり拾えたりする
「コタエもどき」のモノに手を出してしまいがち

でも、こんなに無責任・不誠実なコトはない。

今確実にわかっているコトを手がかりに
眼を開いて耳を澄まして、聴き続ければいいだけなのに。

肝心なことは
聴いてみなければ、わからないのに
案外、聴きそびれていたりする。

それは、私たちの側の問題だから
私たちで解決少なくとも改善できる問題だと思う。

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暗黙に置いている前提要件

我慢のしどころ

暗黙に置いている前提要件を明示する。

案外、落とし穴になっていることだと感じています。
誰かと議論する時でも
講演などでお話する時でも

結果としての意見同士をやりとりしている時に
意見の相違ではなくて
実は、双方が暗黙のうちに設定している前提要件が異なっている
ということが結構あります。
そりゃー意見だって異なりますよね (^^;

そういう時には
それぞれが自明だと思っていて疑うこともない
暗黙のうちに設定している前提要件を確認すると
理解が進むことがあります。

逆に言えば
自分が話をする時には
できるだけ前提要件を明示しながら話すように気をつけたり
相手の話を聞く時には
できるだけ前提要件を推測しながら聞くようにすると
「話がわかる」ようになったりすることがよくあります。

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考えがズレる?前提がズレてる

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考えがズレてる
のじゃなくて
その考えを導き出した前提がズレてる
ってコト、結構多い。

本人なりには、一生懸命考えたことを再考を促しても
なかなか受け入れられなかったりしますが
その前提となってる「事実」については
双方ともに「確認−納得−了解」が得やすい。

「事実Aと事実Bと事実Cって、ここに書いてあるけど?」
って確認すれば「はい。そうです。」って相手は答えられる。
「事実A・Bと事実Cって矛盾してない?」と聞くことで
「!」と整合性のないことに
「自発的に」「間違いなく」了解できる。
(この時に話をするだけじゃなくて
情報収集した事実ABC…を紙に書き出しながら話すと
より明確になります)

もしも、思ってもらえなかったとしたら
「事実Dは事実A・Bと矛盾するかな?」
と双方が共有できる事実に照らして話をすることができる。

これを積み重ねていくと
事実の積み重ねによって
事実が語り出す「状態像」が自然と絞り込まれてくる。
そうやって「考える」ことを体験できる。

「考える」ということは「憶測」ではないということを。

双方ともにストレスなく、建設的に話ができるし
何よりも、臨床に出てから必要な「態度」の体験学習ができる。

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考えの根拠の確認

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どう考えたって自由だけど
自由だからこそ
考えが事実にもとづいて説得力のある
整合性のあるものかどうかの吟味は必要だし
提示した考えにもとづいた実践が
目の前にいる方にとって本当に有効かどうかの確認は必要

考えを検討するのではなくて
その考えが合理的で整合性のある根拠=事実にもとづいているのか
その考えをPDCAをまわすことで検証したのか
それが大事

そういう責任と義務を私たちは負っている
職業選択した時点で。

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必然として考えが導き出される

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対象者の状態像把握において
必要な情報を適切に収集できれば
それらから自然と必然的に考えが導き出されてくる。

もし、そうでない時には
収集した情報が不十分が不適切か
どちらかなんだと思う。

「考える」ことの適否を検討しても
その前段階の情報が不適切だったら
意味がないよね?

「考え」は根拠をもとに、自ずから語り出す。
そう感じています。

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