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常識の罠

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常識の罠「褒めてあげる?ともに喜ぶ!」

の記事で、現行よく言われている「褒めてあげる」という言葉への違和感を書きました。
1年以上前の記事ですが、最近になってその違和感を振り返れるようになってきたので、改めてとりあげてみたいと思いました。

そもそも、「褒める」ことは目上の人が目下の人に向かってすることで目下の人が目上の人に対してすることではない。だとすると、お年寄りに対して「褒める」ことを励行する時点で非常に失礼なのではないかと感じていました。また「寄り添って」「その人らしさを尊重して」という言葉の真意としての「尊敬」という概念と矛盾するのではないかとも思いました。
人間が生きていくうえでさまざまな矛盾を抱えているのは、この年になればさすがにわかりますけれど(^^; よりよいサービスを提供する…ということを考える時に、最低限考えられる限りは整合性のあるものを提供して初めて矛盾ある生に向き合えると考えていますので、現行よく言われている「褒めてあげることが大事」というスローガンはおかしい。と思っています。

また、神奈川県作業療法士会ニュース147号
http://kana-ot.jp/wpm/news/files/2011/07/147.pdf
の8-9ページに掲載されているインタビューで失敗談として取り上げていますが、私たち職員がどんなに褒めても、ご本人自身が落ち込んだ気持ちは変わらなかった…という体験をしています。

「褒めてあげることが大事」とよく言われているけれど、それは違う。
でも、概念としては違っている言葉が、何故こんなに流行しているのか。
こんなに流行しているのは、何かしらの意味があるから出回っているのではないだろうか…と考えました。
本当によくない言葉なら、みんな使わないだろう…とも思ったのです。
人口に膾炙するからには、それだけの理由があるはず。
もしかしたら、この言葉のどこかに何か重要な本当に大事なことが含まれていて、たまたま褒めるということと似ている概念があってそれがすり替えられて言い伝えられているのではないか。と思い至りました。

そこで思いついたのが「確認」です。
「それでいいんだ」と伝えること。

認知症のある方は記憶の連続性が低下しているので、自分の言動の根拠を過去の記憶と照合することが困難になります。
果たしてこれで本当によいのかどうか、自信がない。
自分だけでは判断するべき「根拠」がわからない。
だから、誰かにそれでよいのだと言われて安心する。
とりわけ、確証が得られやすいのが、褒められる…ということだったのではないかと。
だとしたら、尊敬するということと矛盾しません。

言葉に敏感になる…ということは概念に明敏になるということだと考えています。
言葉の限界はあるけれど、だからこそ言葉を意図的に明確に扱えるようになりたいと考えています。

本当は
「褒めてあげることが大事」
なのではなくて
「それでいいんだと伝えることが大事」
だったのではないでしょうか。
今はそう考えています。

でも、私の経験では
認知症のある方ができなかったことができるようになった時
褒める…なんて心理的距離のあることじゃなくて
本当にうれしいから、ともに喜ぶ!感じなんですけどね。
その人自身の能力と特性が
その人自身の日々の暮らしの困難を乗り越えていく
その過程をともにした者としては、まずうれしい!とにかくうれしい!本当にうれしい!
…のです。

だから、今は
過程において、それでいいのだと伝える。
結果において、ともに喜ぶ。
そう考えています。

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Activityの提供:考え方の提案

認知症のある方にActivityを提供しようとすると
いくつもの難関が待ち構えています。

それらの難関を乗り越えて
どうしたら適切なActivityを的確に提供できるのか

希望を尋ねても
希望を言えなかったり
述べた希望が認知症のために遂行困難だったり
かつての趣味活動を認知症のために行えなくなっている
ということは、よくあることです。

つまり
尋ねた希望をそのままActivityに導入することは難しい
というケースが多々あります。

認知症のある方に
希望を尋ねる意義は
その方にとって大切にしていることや
その方の特性を確認することができる
ということであって
希望を実現するだけが意義あることではない
実現するために希望を尋ねるのではないと考えています。

  ここには
  「褒めてあげることが大事」「なじみの関係」と言った
  流布している定着している考えが吟味検討不十分なまま
  導入されやすいという現状、概念の混同による誤認があると考えています。
  具体的には「常識の罠」に書きましたのでご参照ください。

希望を尋ねたら
身寄りのない一人暮らしの認知症のある方が
「遠方の実家にあるお墓参りに行きたい」
と答えた時にどうするのか?
という問いを提起しました。

現実的に病院・施設に勤務する作業療法士が
関与できることではありません。

ただし、そのように答えた
というところにその方の意義があります。
そこをもう一段さらに尋ね返すことはできます。

なぜ今お墓参りに行きたいのか
過去のお墓参りをどのようにしてきたのか
実家を離れて暮らしてきたことをどのように感じているのか

「お墓参りに行きたい」という言語化された希望の裏にある
背景・経過・状況を語れる範囲で語っていただくことで
その方の理解が深まります。

  場合によっては
  語ったことを通して
  ( 聴き手が聴き上手な場合に限定されますが )
  「お墓参りに行きたい」という希望が叶えられなくても
  納得されることもあります。

何を大切にしているのか
ものごとにどのように対処する人なのか
そこをActivity選択の検討材料にすることができます。

希望を尋ねて
実現援助可能であれば希望に沿ったActivity検討をするのもいいでしょう。
仮に実現援助不可能であったとしても希望を尋ねる意義はあります。
尋ねた希望を対応に活用する。

実現するために希望を尋ねると考えた尋ね方をするのではなくて
「あなたがあなたであることの再体験を援助するために
希望を教えてください」
という考え方の方がスッキリすると思います。
たとえ、重度の認知症があっても、答えられなかったとしても
必ず希望を尋ねることの意義を
作業療法士自身が自覚し明確にすることができます。
そして、尋ねた希望の答えを治療・対応に活用することができます。

 

それでは具体的に。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ その方の特性を把握する      :Act.の傾向を決める      ・
・    ↓                            ・
・ 今の能力でできることを探す    :Act.の種目を決める       ・
・    ↓                                 ・
・ 今の障害から必要な配慮を明確にする:Act.の場面設定を工夫する    ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Activityには傾向があります。
仕事的な要素が強い、表現系、他者との協働という要素etc.
ご本人の特性もあります。
お一人で没頭したい方、他者との交流を好む方、交流のパターンetc.

ここを外さないことが肝要です。
ここを外さなければ修正を繰り返してより的確に
という試行錯誤が成立します。

希望を尋ねることの意義は
Activityの傾向を決定する段階に反映されます。

次に今できること
あまり人の手を借りずに
作業療法士の援助なしでもできることを模索します。

援助が必要なAct.を提供する場合には
援助が必要な意義を(できないから手伝うレベルの話ではなくて)
作業療法士自身が自覚・明確化している必要があります。
  例えば、補助自我的に関与することの明確化・象徴としての援助等

その過程で
必然的に障害を考慮して場面設定に配慮することになります。

詳細は
「Activity選択の考え方」をご参照ください。

 

 

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Activityの提供:問題提起

認知症のある方へのActivity提供をめぐる現状には
さまざまなことが反映・錯綜していると感じています。

そのひとつが
Act.提供者側が認知症のある方がAct.遂行する時の個々の困難を
予測し難いからなんだと考えています。

私たちには意識せずとも発揮している能力がたくさんある。
できて当たり前なので、そもそもそのことに無自覚なものです。
遂行機能障害や構成障害という障害の本質を理解せずに
バッテリーだけとっていると
目の前で起こっている言動に反映されているそれらの障害を見落としてしまいます。

かつては
「その場の話ができる=認知症じゃない」
という誤解が蔓延していました。
流石にこれだけ認知症に関する啓蒙が進んできてるから
今、そんなことを言う人は少ないでしょう。

けれど
その誤解は氷塊したわけではなくて
根深く残っています。

「その場の話ができる=いろいろなことができる」
という誤解は対人援助職にも根深く残っているものです。

  過去の記事にも書いていますのでご参照ください。
  「輪ぐさりは難しい」
  「折り紙は難しい:身体面」
  「折り紙は難しい:認知面」

風船バレーって
飛んできた風船を打ち返すだけだから簡単
って思われてますけど
重度の認知症のある方には難しいものです。

周囲の様々な視覚的刺激の中から
動いている風船に注意を固定し続けることができないと
「飛んできた風船を打ち返す」ことができません。

そもそも
集団での風船バレーが成立するためには
「その場面に座り続けている」ことが最低限求められますが
これが難しい。。。
 
「その場面がどんな場面で何をする場面なのか」
理解し、理解を保持し、理解に合わせて言動をコントロールするのは
重度の認知症のある方では難しいものです。

そして
風船バレーなら簡単だからできるんじゃない?と考える人は
目の前にいる認知症のあるXさんにとって
風船バレーが意味するものは何なのかということに
あまりにも無頓着に過ぎると感じてしまいます。

そもそも
どのような人にどのようなActivityが提供されるべきなのか
そしてそれはなぜなのか
という大命題について、どのように考えたら良いのか
ということを教えてもらった作業療法士がどれだけいるでしょうか?

「やりたいことをやる」
というのは一見正しいようでいて
(事実、それで救われたたくさんの対象者も作業療法士もいる)
だからこそ余計に
結果として問題の本質を見誤り議論検討することを回避させてしまった
と私は考えています。

 このあたりは、「褒めてあげる」という
 本来不適切なことが一見適切なように流布されてきた経緯と
 同じコトが違うカタチで起こっている
 と感じています。
 詳細は過去記事「常識の罠」に記載してありますので、ご参照ください。

なぜ、やりたいことができると良いのでしょう?

私は、自分が自分で在ることの再体験・再確認ができる
からと考えています。

つまり
概念構造としては
自分が自分であることの再体験・再確認>やりたいことができた体験
であると考えています。

 

希望を尋ねることは必須だけれど
希望を表明できない方に対して
あるいは表明された希望を表面的に把握するのではなくて
周囲の言語化された希望を実現するのでもなくて
表現された希望を尊重しても迎合することなく
真のニーズ、自分が自分で在ることの再体験・再確認
を探り、掘り下げ、援助が可能なのが
言葉だけに頼らずに
言葉ではない「作業」を媒介できる作業療法士なのではないかと考えています。

 

例えば
「遠方にある実家のお墓参りに行きたい」
と身寄りのない一人暮らしの認知症のある方に言われたら
作業療法士としてどうしますか?

歩けるようになったとしても
ひとりでは実現困難で
でも、お金さえあれば実現できてしまうかもしれないニーズです。
それは病院・施設に勤務する作業療法士が関与できることでもありません。
だからといって、却下してしまって終わりですか?

希望を尋ねたときに表明されたということは
その方にとっては意義のあることに違いありません。

では、どうしたら良いのでしょうか?

 

いきなり難問だったかもしれません (^^;
でも、「やりたいこと」「希望」を尋ねた
その後が肝心ということはおわかりいただけたと思います。

「やりたいことをやる」「やりたいことの実現を援助する」という考えでは
必ず行き詰まってしまいます。
もうそういった現状にたくさんの作業療法士がぶち当たっているはずなんです。

次の記事から
もう少し現状を紐解いていきたいと思います。

 

 

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本当は?なケアの常識

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いろいろな業界に
〇〇の常識は世間の非常識。。。という言葉があるようですけど

ケアの常識にも、よくよく考えると「?」となる
でもとても定着している常識があります。

たとえば。。。
「まずは、なじみの関係を作る」
「認知症のある方を褒めてあげることが大事」
「不安や不快の原因を探索し改善する」
などなど。。。です。

「褒めてあげることが大事」
については、既に過去の記事で書きました。
「褒めてあげる?ともに喜ぶ!」

「常識の罠」

部分的に適切なことが拡大解釈されている
そのために定着したんだと考えています。

これからは拡大解釈せずに
定着している概念を包摂するような概念が
求められているのだと感じています。

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