Category: 素朴な疑問 不思議なジョーシキ

連携について:実践的な考え方と工夫

オミアシヲアゲテクダサイ

多職種連携、チームアプローチは
古くて新しい課題
私が学生の頃から課題として取り上げられていました。

作業療法は、
確かにさまざまな知見を集積・発展してきたと感じています。
一方で、本質的な課題ほど
私が学生の頃と比べてあまり改善が為されていないように感じています。

例えば
目標設定について
評価について(検査やバッテリーではなく状態像把握という意味)
多職種連携、チームアプローチについて

目標を目標というカタチで設定できず目的や治療内容と混同していたり
検査やバッテリーをとっても、
結果を対応に活用せずに評価と乖離した実践をしていたり
対象者のための連携ではなくて連携のための連携にすり替わっていたり。。。
 
就職したての作業療法士が困惑し
先輩に相談しても本心から納得できるような援助が得られず
提示された表面的な対応をやってみるしかない
そしてあまり効果がないにもかかわらず
代替案がないのでなんだかなぁと思いつつも
なんとなく口を濁してしまう以外の手が見つからない。。。
実習生や新卒に指導する時にも
実は内心困惑しながら指導しているうちに
数年経つと困惑すら感じないようになってしまう。。。
といった状況が昔も今も変わらずあるんじゃないかなぁ。。。?

私は臨床家として
対象者の役に立てるようになりたいと必死になって考えてきました。
良いと言われたものは必ず自分で実践して
どこがどう良くて
どこがどう使えないのか
事実に即して具体的に考えながら
抽象化・言語化するという過程を実践してきました。

それらについては
講演や論文という形でも世に問い続けてきましたが
総まとめとして別の形でもまとめてありますので
よかったらご参照ください。

目標設定について

関与しながらの観察について

今回、多職種連携・チームアプローチについて
実践的な考え方と工夫について概観できるように連載記事を書きました。

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連携について

1 飲みニュケーションでは連携の問題を改善できない
2 プロのチームスポーツに学ぶ
3 連携という抽象論ではなく具体的に改善していく
4 情報伝達において前提要件を認識する
5 看護介護職は変則交代勤務
6 情報伝達の工夫:使う場所に情報提供
7 対象者が変われば職員も変わる
8 そもそも何のための連携?
9 たったひとりでも変わる意義

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

日々の実践を高め深めるための臨床家としての提言です。

 

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Activityの提供:考え方の提案

認知症のある方にActivityを提供しようとすると
いくつもの難関が待ち構えています。

それらの難関を乗り越えて
どうしたら適切なActivityを的確に提供できるのか

希望を尋ねても
希望を言えなかったり
述べた希望が認知症のために遂行困難だったり
かつての趣味活動を認知症のために行えなくなっている
ということは、よくあることです。

つまり
尋ねた希望をそのままActivityに導入することは難しい
というケースが多々あります。

認知症のある方に
希望を尋ねる意義は
その方にとって大切にしていることや
その方の特性を確認することができる
ということであって
希望を実現するだけが意義あることではない
実現するために希望を尋ねるのではないと考えています。

  ここには
  「褒めてあげることが大事」「なじみの関係」と言った
  流布している定着している考えが吟味検討不十分なまま
  導入されやすいという現状、概念の混同による誤認があると考えています。
  具体的には「常識の罠」に書きましたのでご参照ください。

希望を尋ねたら
身寄りのない一人暮らしの認知症のある方が
「遠方の実家にあるお墓参りに行きたい」
と答えた時にどうするのか?
という問いを提起しました。

現実的に病院・施設に勤務する作業療法士が
関与できることではありません。

ただし、そのように答えた
というところにその方の意義があります。
そこをもう一段さらに尋ね返すことはできます。

なぜ今お墓参りに行きたいのか
過去のお墓参りをどのようにしてきたのか
実家を離れて暮らしてきたことをどのように感じているのか

「お墓参りに行きたい」という言語化された希望の裏にある
背景・経過・状況を語れる範囲で語っていただくことで
その方の理解が深まります。

  場合によっては
  語ったことを通して
  ( 聴き手が聴き上手な場合に限定されますが )
  「お墓参りに行きたい」という希望が叶えられなくても
  納得されることもあります。

何を大切にしているのか
ものごとにどのように対処する人なのか
そこをActivity選択の検討材料にすることができます。

希望を尋ねて
実現援助可能であれば希望に沿ったActivity検討をするのもいいでしょう。
仮に実現援助不可能であったとしても希望を尋ねる意義はあります。
尋ねた希望を対応に活用する。

実現するために希望を尋ねると考えた尋ね方をするのではなくて
「あなたがあなたであることの再体験を援助するために
希望を教えてください」
という考え方の方がスッキリすると思います。
たとえ、重度の認知症があっても、答えられなかったとしても
必ず希望を尋ねることの意義を
作業療法士自身が自覚し明確にすることができます。
そして、尋ねた希望の答えを治療・対応に活用することができます。

 

それでは具体的に。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ その方の特性を把握する      :Act.の傾向を決める      ・
・    ↓                            ・
・ 今の能力でできることを探す    :Act.の種目を決める       ・
・    ↓                                 ・
・ 今の障害から必要な配慮を明確にする:Act.の場面設定を工夫する    ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Activityには傾向があります。
仕事的な要素が強い、表現系、他者との協働という要素etc.
ご本人の特性もあります。
お一人で没頭したい方、他者との交流を好む方、交流のパターンetc.

ここを外さないことが肝要です。
ここを外さなければ修正を繰り返してより的確に
という試行錯誤が成立します。

希望を尋ねることの意義は
Activityの傾向を決定する段階に反映されます。

次に今できること
あまり人の手を借りずに
作業療法士の援助なしでもできることを模索します。

援助が必要なAct.を提供する場合には
援助が必要な意義を(できないから手伝うレベルの話ではなくて)
作業療法士自身が自覚・明確化している必要があります。
  例えば、補助自我的に関与することの明確化・象徴としての援助等

その過程で
必然的に障害を考慮して場面設定に配慮することになります。

詳細は
「Activity選択の考え方」をご参照ください。

 

 

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Activityの提供:現状分析

認知症のある方にActivityを提供しようとすると
いくつもの難関が待ち構えています。

  それらの難関を乗り越えて
  どうしたら適切なActivityを的確に提供できるのか
  ということは後日改めて記載していきますが
  その前に現状について明確に理解する必要があると考えます。

希望を尋ねても
希望を言えなかったり
述べた希望が認知症のために遂行困難だったり
そもそも意思疎通が困難だったり

 身体障害であれば
 遂行方法を変更することでできるようになることはありますが
 認知症の場合、難しいものです。
 例えば、調理困難な方に対して
 道具を工夫することで片手でも調理ができるようになることはあっても
 認知症のある方に異なる使い方をする道具を提示すると
 その道具の意味することがわからなくて使いこなせない
 ということはよくあります。
 同じことを違う方法では行えないので
 その方の手続き記憶やイメージを大切にする必要があります。

また「一緒にやるから大丈夫」
という言葉は遂行機能障害や構成障害のある方には
通用しない言葉です。
詳細は下記の記事をご参照ください。
 「中身の連携:Act.の選択」
 「結果として起こることの目的化」

バッテリーや検査をしても
それらの障害の本質を理解できていないと
目の前にいる認知症のある方の言動に反映されている
それらの障害と、
にもかかわらず、なんとか対処しようとしている努力をも
見れども観えず
見過ごしてしまったり、見誤ったりしかねません。

Activityを実施できたとしても
「セラピストの脳が認知症のある方の手を動かしている」
という状態を
自覚して葛藤を覚えた人だっているでしょう。

しているのか
やらせているのか
見た目同じように見えても
セラピストの関与のベクトルは真逆です。

「何もしないと認知症が進行してしまう」
というのも大いなる誤解で
「何かさせることによって
 できない、わからない体験をさせれば認知症のBPSDは悪化する」
ことだって起こり得ます。

例え、善意からであったとしても
「できない」「わからない」「不安」「心配」な体験を
わざわざリハビリテーションとして提供する必要はありません。

認知症のある方は
暮らす、生活する、だけで
たくさんのできなさ、わからなさ、不安、心配に
直面し続けています。

「する」からには
 認知症のある方にとってのプラスの体験・意義がなければ。

それらの意義を
私たちがわからなければ。

ところが
現実には「意義」よりも「できること」が模索されがちです。
それだけ「できること」が限定されているとも言えるでしょう。
 本当にあったこと1
 本当にあったこと2
 本当にあったこと3
 本当にあったこと4

できることを優先すると
「意義」を見失うことが往々にして起こります。

できないことを提供すれば
一緒に手伝ったとしても
(現実には手伝うことにならないことが多々生じる)
ネガティブな感情を惹起させてしまいます。

ここに認知症のある方への
Activity提供の難しさがあります。

だからといって
本人のニーズを探索するよりも
周囲の要請にそって行うという考え方が適切だとは
私にはどうしても思えません。

周囲の要請への配慮は必要なのはいうまでもないことですが
本人のニーズに合致したActivityは
結果として周囲への要請にも合致する
という方向性を模索すべきだと考えていますし
実際に現実的に可能でもあります。

その実践への第一歩は
認知症のある方へのActivity提供の難しさを
明確に自覚することであり
「第一に患者を傷つけないこと」
というヒポクラテスの誓いから外れずに実践するという決心だと考えています。

一発で最適なActivityを提供する。などという無謀な道は諦めて (^^;
外さないという姿勢で臨んでいます。

認知症のある方とのやりとりを通じて最適なActivityを探っています。
その結果として、1〜2回の探索で
ご本人も集中でき、周囲への要請にも合致し、特性も反映されている
Activityを提供できるようになってきたと感じています。

 

 

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Activityの提供:本当にあったこと4

前に利用していた施設では徘徊がひどくて
でも「塗り絵は好き」で塗り絵をしている時は徘徊をしなかった
という方がいました。

お話してみると
意味不明な発言もありながら
どうも塗り絵が好きというイメージがありません。
人が好きで、お世話をすることを厭わない感じで、働き者で。。。
という印象の方でした。

静かに座って塗り絵という表現活動を好む
という印象ではないのですが
情報として「塗り絵が好き」とあったので
まずは塗り絵を提供しました。

そこではっきりわかったことがあります。

塗り絵が好き
なのではなくて、塗り絵を媒介とした対人交流が好き
だったのです。

下絵の線からはみ出してしまったり
下絵の意味がわからない状態でした。

「どこを塗ればいいの?」
「塗り終わったわ。次はどこ?」
とその都度私に確認を求めてきました。
(確かにその間徘徊することはありませんでした。)

この方にお話を聞いたところ
兄弟が多くて自分は長女だから下の子をおぶって
近所の子達と遊んだことや
ご両親はお仕事で忙しかったから
おじいちゃんおばあちゃんのお手伝いをしていたことを
語ってくれました。

その時に
私の指示に従って塗り絵をするという今の活動は
祖父母のお手伝いをするという昔の思い出を再現している
という意義があったのだと感じました。

だとしたら
その意義を再現できれば「塗り絵」にこだわる必要はない
むしろ「塗り絵」よりももっとこの方に適切なAct.があると
考えました。

そこで
スタッフとは、テーブル拭きなどのお手伝いを
私は小集団で風船バレーをしました。

他の方が打ち損ねた風船も
素早くダッシュして風船が落ちないようにフォローしたり
参加者みんなに風船が行き渡るように風船を回してくれたり
私のお手伝いというだけではなく
みんなに目を配ってみんなが楽しめるように
長女気質を発揮して笑顔で参加していました。

なんて良い人なんだろうと思ったものです。

Activityを通して
いろいろな方のいろいろな人生の一旦を
垣間見せていただくことが叶う

同時に
認知症のある方も自身の来し方をカタチを変えて再体験している
だからこそ、「私は私で変わりない」という体験ができる
のだと感じています。

 

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Activityの提供:本当にあったこと3

近時記憶が著明に低下している方がいました。
毎日リハ室に来ているけれど
来室時には毎回「私こんなところ来るのは初めて」とおっしゃっていました。

その方には
集団でのリハで、終わりの挨拶をお願いしていました。

いつも遠慮なさるのですが
そこを是非にというと
皆さんの方を向き直り、ご挨拶してくださっていました。

近時記憶が低下してしまうと
同じ内容の話を同じ言語表現でお話される方が少なくありませんが
この方は毎回その都度違う内容を異なる言語表現でお話されていました。

なんてすごい方なんだろうと感じ入りました。

お若い頃には、ある活動のリーダーを為さっていたとのこと。
きっと毎回毎回参加者全員の様子をきめ細やかに確認しながら
為さっていたんだろうな。。。と思いました。

認知症のある方の場合
「ないものはない」
「してこなかったことは、できるようにはならない」
代わりに
「してきたことは明確に現れる」
「特性は明確に反映される」
ものです。

これだけ近時記憶が低下しているのに
一度も同じ内容でお話されたことはない。
その方の在りように感銘を受けたものです。

 

 

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Activityの提供:本当にあったこと2

ずいぶん昔の話ですけど
私が毛糸を巻き取っていたら
ある人に
「それならXさんでもできそうだから、やらせてみたら?」
と言われたことがあります。

Xさんは、90歳代の男性で長く農業を営んでいた方です。
確かにXさんなら動作的にはできそうです。
でも。。。

今でこそ、男女同権(に近い)。
夫婦揃ってお買い物したり
男性が出勤途中にゴミ出ししたり
家族のためにご飯を作ったり
といったことは珍しくありませんが
私が子供の頃には、ほぼありえないことでした。
(良いか悪いかはともかくとして)
「男子厨房に入るべからず」
という言葉だってあったくらいです。

毛糸を巻き取るという行為は
昔は女子供(昔はこの言葉が使われていました)の仕事でした。

Xさんが生きてきた時代と
今の若い人たちが生きている時代は
明らかに違っているのです。

Xさんは確かに認知症は進行していて
何かを作ることは難しそうです。
でも、できれば良い。毛糸の巻き取りで良い。
とは私は考えていませんでした。
尊厳の問題です。

「Xさんに毛糸巻きを提示する」
ということは
「あなたには、これがふさわしいと(私が)考えている」
ということを言葉にはしなくても伝えることを意味します。

私は
「できる」ことよりも「特性に合致しているか」
ということを重要視しています。
その理由と展開の仕方は「Activity選択の考え方」をご参照ください。

ちなみに
私がXさんに提供したのは
他の方がそれぞれ各自のAct.を行なっている並行集団に入ってもらい
「監督」の役割を担ってもらうことでした。

Xさんは、それぞれの方に
優しく労いの言葉をかけ
褒め称え
時には冗談を言って場を盛り上げ
お一人お一人の様子を気にかけ
優しく鷹揚に年長者として場を取りまとめてくださっていました。

お若い頃のちょっとした集まりの時にも
こんなふうに和やかな場づくりを意識されていたんじゃないかな
と感じました。

Activityを提供する時に
その方にとっての意義を第一に考えるということは
( 意味ではなくて意義 )
とても重要だと考えています。

 

 

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Activityの提供:本当にあったこと1

実際に私が遭遇したことです。

例えば
下記のような塗り絵の下絵を
認知症のある方に提供されていました。

これらの下絵のどこがマズイかというと。。。
1)幼稚な印象を与える
2)単純化されているので誤認しやすい

認知症のある方は
よくご自身のことを「頭がバカになった」と言われますが
決してそんなことはありません。

通常、作業療法士やその他の対人援助職が認知症のある方に出会った時点で
既に認知症のある方は普段の暮らしの中で
相当な困難、できなくなった、わからなくなった体験を積み重ねています。

そのような方に対して
幼稚な印象を受ける下絵を提供すれば
そんなつもりはなくても
やっぱり自分がバカだからこんな程度しかできないと思われているんだ
と感じさせてしまう恐れがあります。

かつて
デイの利用を拒否していた方が
「『あんなところに行ったって
 チーチーパッパ幼稚園みたいなことさせられるんだろう?』
と思っていたけど
全然違った。こんなことならもっと早く来れば良かった」
と言われたことがあります。

その方の誤解もあったかもしれませんが
まったく何もなければ誤解も生まれません。

現に、このような塗り絵の下絵には
私自身が異なる複数の場で遭遇しています。

塗り絵に限らずですけれど
「あなたの両親、学校の校長先生、病院・施設のトップに
 自信をもって提供できるActivityなのか?」
と自問することは大切なんじゃないかと思っています。

また
提供者側がこのような幼稚な下絵を提供するには
それなりの理由があるからとも考えています。
それは「単純化された下絵の方がわかりやすいだろう」
という誤解があるのではないかということです。

でも
それはまったくの誤解で
単純化された下絵はかえって誤認を生じさせやすいのです。

例えば
左側の下絵では
私たちは「ウサギが雪空を見上げている」と認識しますが
認知症のある方は
ウサギの顔を赤く塗り、背景を青く塗りました。
ウサギの顔だけに注意が固着されてしまい
ウサギを金魚、雪を水の中の空気の泡と誤認したのです。

真ん中の下絵は
私たちは「クリスマスのチキンがお皿に載っている」と認識しますが
認知症のある方は
チキンとお皿を黄色やピンクで塗り
添え物の野菜と持ち手の飾りを赤く塗りました。
チキンと野菜とお皿を「帽子」と誤認したようです。

右側の下絵は
私たちは「節分の時に玄関に飾るもの」
「鰯の頭をヒイラギに刺したもの」と認識しますが
認知症のある方は
鰯の頭を赤で塗り、ヒイラギの葉を緑で塗りました。
チューリップと誤認したようです。

「認知症だから変な色を塗る」
「認知症だからこんなこともわからない」
のではなくて
構成障害があったり、図と地の判別がしにくい方もいるし
近時記憶障害があれば、最初に塗り絵のテーマを説明しても
時間が経てば説明されたテーマも忘れてしまいます。

そういった病状特性を踏まえて
誤認しやすい下絵を回避するのは
作業療法士として大切なリスク管理の一つだと考えています。

ヒポクラテスの誓いは
「まず第一に患者を傷つけないこと」
で始まると日野原重明氏の本で読んだことがあります。

幼稚な下絵を提供することもリスク管理の一環として
回避する必要があると考えています。

シンプルな下絵の場合には
ちょっとひと工夫すると幼稚に見えなくなります。
「塗り絵の工夫:幼稚に見せない」をご参照ください。

 

 

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Activityの提供:問題提起

認知症のある方へのActivity提供をめぐる現状には
さまざまなことが反映・錯綜していると感じています。

そのひとつが
Act.提供者側が認知症のある方がAct.遂行する時の個々の困難を
予測し難いからなんだと考えています。

私たちには意識せずとも発揮している能力がたくさんある。
できて当たり前なので、そもそもそのことに無自覚なものです。
遂行機能障害や構成障害という障害の本質を理解せずに
バッテリーだけとっていると
目の前で起こっている言動に反映されているそれらの障害を見落としてしまいます。

かつては
「その場の話ができる=認知症じゃない」
という誤解が蔓延していました。
流石にこれだけ認知症に関する啓蒙が進んできてるから
今、そんなことを言う人は少ないでしょう。

けれど
その誤解は氷塊したわけではなくて
根深く残っています。

「その場の話ができる=いろいろなことができる」
という誤解は対人援助職にも根深く残っているものです。

  過去の記事にも書いていますのでご参照ください。
  「輪ぐさりは難しい」
  「折り紙は難しい:身体面」
  「折り紙は難しい:認知面」

風船バレーって
飛んできた風船を打ち返すだけだから簡単
って思われてますけど
重度の認知症のある方には難しいものです。

周囲の様々な視覚的刺激の中から
動いている風船に注意を固定し続けることができないと
「飛んできた風船を打ち返す」ことができません。

そもそも
集団での風船バレーが成立するためには
「その場面に座り続けている」ことが最低限求められますが
これが難しい。。。
 
「その場面がどんな場面で何をする場面なのか」
理解し、理解を保持し、理解に合わせて言動をコントロールするのは
重度の認知症のある方では難しいものです。

そして
風船バレーなら簡単だからできるんじゃない?と考える人は
目の前にいる認知症のあるXさんにとって
風船バレーが意味するものは何なのかということに
あまりにも無頓着に過ぎると感じてしまいます。

そもそも
どのような人にどのようなActivityが提供されるべきなのか
そしてそれはなぜなのか
という大命題について、どのように考えたら良いのか
ということを教えてもらった作業療法士がどれだけいるでしょうか?

「やりたいことをやる」
というのは一見正しいようでいて
(事実、それで救われたたくさんの対象者も作業療法士もいる)
だからこそ余計に
結果として問題の本質を見誤り議論検討することを回避させてしまった
と私は考えています。

 このあたりは、「褒めてあげる」という
 本来不適切なことが一見適切なように流布されてきた経緯と
 同じコトが違うカタチで起こっている
 と感じています。
 詳細は過去記事「常識の罠」に記載してありますので、ご参照ください。

なぜ、やりたいことができると良いのでしょう?

私は、自分が自分で在ることの再体験・再確認ができる
からと考えています。

つまり
概念構造としては
自分が自分であることの再体験・再確認>やりたいことができた体験
であると考えています。

 

希望を尋ねることは必須だけれど
希望を表明できない方に対して
あるいは表明された希望を表面的に把握するのではなくて
周囲の言語化された希望を実現するのでもなくて
表現された希望を尊重しても迎合することなく
真のニーズ、自分が自分で在ることの再体験・再確認
を探り、掘り下げ、援助が可能なのが
言葉だけに頼らずに
言葉ではない「作業」を媒介できる作業療法士なのではないかと考えています。

 

例えば
「遠方にある実家のお墓参りに行きたい」
と身寄りのない一人暮らしの認知症のある方に言われたら
作業療法士としてどうしますか?

歩けるようになったとしても
ひとりでは実現困難で
でも、お金さえあれば実現できてしまうかもしれないニーズです。
それは病院・施設に勤務する作業療法士が関与できることでもありません。
だからといって、却下してしまって終わりですか?

希望を尋ねたときに表明されたということは
その方にとっては意義のあることに違いありません。

では、どうしたら良いのでしょうか?

 

いきなり難問だったかもしれません (^^;
でも、「やりたいこと」「希望」を尋ねた
その後が肝心ということはおわかりいただけたと思います。

「やりたいことをやる」「やりたいことの実現を援助する」という考えでは
必ず行き詰まってしまいます。
もうそういった現状にたくさんの作業療法士がぶち当たっているはずなんです。

次の記事から
もう少し現状を紐解いていきたいと思います。

 

 

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