
食事介助が適切に行える方は
他の介助も適切に行える方です。
食べることの援助ではなく
ただ食べさせているだけの方は
申し訳ないですが、他の場面でも
援助ではなく「〇〇させる」のではないでしょうか。
その方法論が
乱暴なのか、優しげなのかの違いがあったとしても。
どんなに優しげに接したって
「〇〇することの援助」と「〇〇させている」ことは
天と地ほどの違いになってしまいます。
優しい=良い関わり
というわけではないのです。
食事介助において
「食べることの援助」を明確に自覚した上で実践できる人は
使役ではなく援助というメタ認識のもとにメタ実践を
ただ食事という場面で実践しているに過ぎないので
場面が変わっても共通するメタ認識のもとでメタ実践を
できるようになります。
食事は
最後まで残る
認知症のある方が「行為」として表出できる場面です。
しかも
比較的工程の少ない、シンプルな、繰り返しの多い場面です。
他の排泄や更衣、入浴という複雑な場面よりも
介助者が何が起こっているのかわかりやすいのです。
つまり、食事介助において
援助ができない人に
他の場面において援助ができると言えるでしょうか。
暮らしの場面において
もっというと私たちの在りようにおいて
100%の完璧性というものは存在しません。
けれど、私たちの関わり方において
「援助」なのか、「使役」なのか、ということは
180度方向性が異なってきます。
時には「使役」するしかない場面だってあるでしょう。
でもその時には「使役」しているんだという自覚が必要です。
その場で使役をしているのに援助のつもりになっている
その場は使役で、力技で「問題を解決」できたからといっても
今はよくても、その後に悪影響を与えてしまうということは
たくさんあります。
感情の記憶は残っていくと言われている所以です。
食事介助が適切に行えるようになる
ということは、
介助全般が適切に行えるようになることの
入口なのです。
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