Tag: 状態把握

衣類選択:構成障害&手続き記憶

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認知症のある方の病状の進行に伴い
更衣が困難になるケースがよくあります。

構成障害が進行すると
ズボンを上衣としてかぶったり
シャツが前後逆だったりすることはよくあります。

でも、そのような場合に全介助しか手だてがないわけではありません。

構成障害があったとしても
衣類の選択に注意深くなることで
能力を発揮しやすくなります。

どんな衣類だったら着ることが容易になるのか
どんな対応をしたら間違いが減るのか
具体的に根拠を明確にして
ご家族や職員に説明することができます。

それは、認知症のある方にとって
大きな助けとなります。

そのような判断ができ援助ができるのは
障害と能力のプロであるリハスタッフとりわけ作業療法士の役目
だと考えています。

一部で
認知症のある方に対して
日常生活のことやBPSDに対しては
介護スタッフに任せて
作業療法士はもっと早期の段階の方への作業的なアプローチをする
というようなことが言われていますが
(もちろん、その面への対応の重要性を否定しているわけではありません)
おかしな話だと感じています。

どんな衣類だったら着ることが容易になるのか
どんな関わりをしたらよいのか

目の前にいる方の
障害と能力と特性を判断できるからこそ
具体的にアドバイスすることが可能となります。

構成障害があっても
構成能力がゼロというわけではありません。

どんな条件であれば可能となるのか

それは残っている構成能力と手続き記憶を活用する
ということになります。

つまり
私たちは、構成障害の有無を確認するのが仕事ではなくて
目の前にいる認知症のある方の暮らしの援助をするために
構成障害の程度ーつまり構成能力を評価することが仕事なのです。
シロかクロか
ではなくて、シロとクロの間に無数にあるグレーの色調を見分けること
それこそが、私たち障害と能力のプロであるリハスタッフだからこそ
判断可能なことであり、また援助への活用について具体的に提案できるのだと
考えています。

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POST連載記事 7

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POST 理学療法士によるリハビリ職者のためのサイトに
私の連載記事が掲載されました。
http://1post.jp/2016/07/13/interview_ot_dementia_colum07/

同じコトが違うカタチで現れているだけ
だから食事介助が適切にできるようになることは
食事介助だけにとどまらず
生活障害、BPSDへも適切に対応できるようになることと
大きな関連があります。

「食べさせる」ことしかできない人は
他の場面でも「〇〇させる」ことしかできない。
それが、たとえ、優しい言葉と口調によるものであったとしても
使役は使役に過ぎない。

でも
「食べることの援助」ができる人は
他の場面でも「〇〇することの援助」を
具体的に考えられるようになる。

「具体的に」
自分の介助を気をつけられること
相手の反応を観察できること

そのための知識であり
現実化するためには技術が必要

当たり前のことですが (^^;

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パターンに当てはめるだけなら専門家はいらない

ちょっと待った

巷にあふれる
「こんな時にはこうしたらいい」という手合いの本。

ある意味、購読者のニーズにはマッチしているんだろうなー。
とは思う。

でも、そういうことをやるから悪循環になっちゃう
悪循環に結果として関与してしまっている
ということをどんな風に考えているんだろう?

パターンに当てはめるだけなら
専門家はいらない。

パターンに当てはめるって
対人援助の対極にある態度なんだけど。

今から20年以上前から
専門家と素人の垣根が低くなってきた
って言ってきたけど
ネットの定着もあってどんどん拍車がかかってきてると思う。
良くも悪くも。

その一方で
本物のプロは
必ずどこかにれっきとして存在してる。

本物のプロは凄いです。

専門家と素人の垣根が低くなった分
本物のプロとその他との垣根が
相当高くなりつつあるんじゃなかろうか。

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家族支援にもなるような援助を

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表面化しつつある大きな課題

「介護殺人」当事者たちの告白 NHKオンライン
http://www.nhk.or.jp/d-navi/link/kaigosatsujin/index.html

昔に比べて
多様な施設が増えてきたのは良いことだと思う。

でも、使える施設というハードが増えても
ご家族の抱える困難を
具体的に改善できるようなソフトが充実しないと
ご家族はかえって追いつめられてしまうと思う。

番組によると
75%もの方が何らかの介護保険サービスを利用していたとのこと。
にもかかわらず。。。起こってしまった介護殺人。

何らかの介護サービスを使うことによって
心身の距離をとって介護者の自分1人の時間を確保するのは大切。
(でもこれだって実際には買い物や家事等に忙殺されて
終わってしまう人だって少なくない)
間接的な家族支援になるから
これがあるだけでも、ないよりはずっと良いと思う。

ただ
どんな介護サービスでも
使うのは手段であって目的ではない。
介護サービスを使うことで、ご本人の能力を発揮できるようになる
そのことによってご家族もラクになる
ということが本来の目的だと思うけど
介護サービスの提供目的は
結果としてバラバラで
それぞれの介護サービス提供者側は
自分たちのやることを一生懸命やってるんだけど
ご家族の困りごとは改善されない。
家庭での困りごとは、ぽっかりと穴が空いたように
見逃されてしまう。

生活障害が強くなっていても
サービス利用時に「問題」がなければ
生活障害を起こしうるような「状態像」が
「家庭で」起こっていることに気がつけない。

あるいは
他人に対しては感情を抑制できても
身内に対しては難しい方もいる。

介護者が認知症のある方の言いたいことを
忖度することが難しい場合だってある。

ご家族の困りごとを実感をもって提供者側が理解できないと
相談を聴くこともできないし
具体的に対応方法を提案することもできない。

ご家族が休憩できる時間を増やしましょう
デイの利用回数を増やしましょう
それは情報収集し評価する時間を確保するという意味で有効だけど
それが為されないと単なるその場しのぎに過ぎず
結果として、新たな問題の表面化・拡大化を招き
ご本人をさらなる困難に陥れてしまうことになりかねない。

「褒めてあげることが大事」
「認知症のある方を怒ってはいけない」
などと言ってるだけだと、結果としてご家族を追いつめてしまう。

具体的に現実的に困りごとを改善する方法論を提案できるように
それは決して誰にでも通用するような
「あぁすればこうなる」というマニュアルではなくて
目の前にいる方の障害と能力を把握して初めて提案できること
ただそれが結果として似たようなパターンで現れるということはあっても。

パターンはあるけど、パターンじゃない。

この先
絶対に、私たち支援に携わる側の人間が
突きつけられる大きな課題。

パターンしか見えないのか
パターンに当てはめるのか

パターンという形で現れる、能力と障害と特性を
評価することができるのか

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(株)gene主催セミナー7月17日(日)@東京

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(株)geneさん主催で
「認知症のある方への評価から対応まで」
というセミナーが
平成28年7月17日(日)に
東京都千代田区にある中央労働基準協会ビルにて開催されます。
詳細はこちら
http://www.gene-llc.jp/seminar_info/?id=1458697576-118908

今、認知症のある方への対応について
「その人に寄り添って」
「ナラティブな見方が大切」
「不安や不快な原因を探索して改善」
「言動を否定しない」
「褒めてあげる」
といったマジックワードが席巻しています。

これらの言葉を否定することって
すごく難しい。
あまりにイメージが良い言葉だから。

でも、よくよく考えてみると
実践するには抽象的すぎる概念です。

「どういう実践が寄り添ってることになって
どういう実践だと寄り添ってないことになるの?」
「ナラティブな見方をどんな風にしたら食べ方がよくなるの?」
「原因探索・改善ってICIDHの考え方なのでは?」
「言動を否定しないとしたら、どうしたらいいの?」
「褒めてあげるって、年上に人に失礼じゃない?」

こういった疑問を解消してくれるような具体的な説明を
私は見たり聞いたりしたことがありません。

認知症のある方の生活障害やBPSDは
脳の病気によって起こる障害と
何とかしようとする能力と
その人の判断基準となる特性によって
引き起こされます。

まず、根本には障害があります。

さまざまな障害に対して
心理社会的なアプローチをするというのは
脳血管障害後遺症で重度の運動麻痺によって
上肢操作が困難な方に対して
あるいは、立ち上がり困難な方に対して
「どうしたら対象物を操作しようと思ってもらえるか」
「どうしたら立ち上がる気持ちになるのか」
「その人の興味のある物・好きな物を用意しよう」
「麻痺への不安や不快な気持ちの原因があるから
それを探索して改善しよう」
「やろうとしたら褒めてあげよう」
と言っているのと同じことです。

そんなことを言ったり実践したりしている人が
いるのでしょうか?

なぜ、同じ脳の病気によって起こる
暮らしの困難に対して
一方には全く考えもしないことを
他方には当然のごとく喧伝されてしまうのか

耳に心地良いマジックワードによって
思考停止してはいけないと思います。

目の前にいる認知症のある方に
一生懸命何とかしたいと努力している
ご家族や対人援助職の人が
見当違いの方向で努力することによって
心身のエネルギーを余分に消耗することなく
より建設的な方向に向かって発揮していただけるように
私からの提案としてお話させていただきます。

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POST連載記事 6

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POST
理学療法士による、リハビリ職者をめざすためのサイト
http://1post.jp

こちらに私の連載記事の最新号が掲載されました。

タイトルは
「誤介助が原因の 改善できる食べ方」
http://1post.jp/2016/06/29/demenia_ot_colum06/

こちらの記事で示した状態像のある方は
あるあるなケースです (^^;

今まではムセていなかったのに
最近よくムセる。。。という方は
早く適切に対応することによって
もう一度ムセなく食べられるようになります。

是非、記事を読んでみてください m(_ _)m

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評価から遠ざかる見方・考え方

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ときどき精神科の作業療法士から聞く言葉
「あぁも考えられる、こうも考えられる」
なぜか、得意げに語る人が多くて
本当に不思議です。

だって、それって評価と真反対の姿勢です。

評価というのは
これは確実に違う
これは考えられない
と、除外していく過程の積み重ね

同じコトが認知症のある方の食事介助についても言えます。

「想像力を働かせて」
「その人の好きな食べ物で」
「その人らしさ、その人の物語を探る」
などなど、よくよく聞く言葉です。

でも、それはあんまり関係ない。
まったく関係ないわけじゃないけど
食べやすくなるにはどうしたらよいか…を考えるうえでは
そういう心理社会的アプローチは役に立たないコトの方が
圧倒的に多い。

なぜなら、障害のために
食べにくい、食べたがらない、必然性を抱えているからです。

認知症のある方の食事介助の場面で
心理社会的なアプローチをとる…というのは
脳血管障害後遺症で運動麻痺が重度で上肢操作が困難な状態の方に
どうしたら麻痺側の手で操作しようと思ってもらえるのか
その人の興味を引くことは?
その人の好きな品物は?
その人らしさ、その人の物語を探る
というアプローチをしているのと全く同じことです。

そんなことを言う人はいないと思います。

どうして同じ脳の病気なのに
脳血管障害後遺症では考えもしないことを
こと、認知症となると
こんな方法論がまかり通るのか
本当に不思議です。

どこかで
認知症のある方の日々の暮らしの困難は
心理社会的な要因と誤解しているとしか思えません。
つまり、寂しい病、構ってほしい病、好きなことしかしない病

そうではないんだ。ということを明確に
私たちが認識するための近道が
食事介助を適切に行うということだと感じています。

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症状を形成することもできない

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「症状を形成することもできない人」
ということを河合隼雄の本で読んだことがあります。

なるほど。。。と思いました。

それって心理面だけじゃないように感じています。

河合隼雄の例とは
ちょっと意味合いが違うとは思いますが。。。

認知症のある方で
お身体が少しずつ弱ってくると
いよいよというところまで
熱も出ないし、目立った症状が出てこない。
「客観的に」数値に現れるようになると
もうかなり具合の悪さが進行してしまっている。。。
そういうケースをたくさん見てきています。

でも
表情とか
活気とか
その人らしさとか

そういうところでは、ちゃんと変化が現れている。

そもそも
「病気」というのは、
「診断」された時から
「病気」になるのだから
逆に言えば
「病気状態」であっても
「診断」されなければ「病気が存在しない」のは
どこにいても、誰でも同じこと。

私は医師ではないので
診断が仕事ではない。
その人の暮らしの援助をするのが仕事だから
「客観的な数値」ではなくて
あ、言うまでもないけど
客観的な数値を軽んじているわけではないですよ。
でも、数値に変化がないからといって
ガシガシ、いろいろなことを提供したり、
食べていただいたり
そんなことはしません。

それだったら、ロボットで十分ですよね?

症状がない。のと
症状を形成することもできない。のとでは
表面的な見た目は同じように見えるかもしれないけれど
その実、状態像は全然違う。

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