Tag: リハビリテーション

HDS-Rをとるならば:説明と依頼

実習生や若手のセラピストが一番困るのは
検査の依頼をする時にどうやって伝えるか
ってことなんじゃないかと思う。

「これから先もしも万が一、〇〇さんに困りごとがあった時に
すぐにお手伝いができるようになりたいので
そのためにご協力いただきたいのです。
私がお尋ねすることにお答えいただきたいのですが
お願いできますでしょうか?」

「ここにいるみなさんにお願いしていることなのですが
〇〇さんにもお願いしたいことがあります。
私がお聞きしたことにお答えいただけますでしょうか?」

実習に来た学生さんに相談されたら
まずは、前者のような言い方を私は勧めます。
こちらの目的そのままを伝えます。

時には、後者のような表現をすることもあります。
〇〇さんだけを特別視しているわけではないというニュアンスを伝えます。

認知症状態にある方は
状態が軽くても重くても
忘れてしまう、今までできていたことができなくなった等の実感を明確に感じています。
(言わないかもしれませんが)
その実感と否定したい気持ちとの葛藤状態にあって
自分だけがバカになってしまったというような周囲の人との落差のようなものを感じている場合が多い。
それらを踏まえた上で上のような表現で伝えています。

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HDS-Rをとるならば:目的

「HDS-Rは認知症のある方を傷つけるからとらない方がいい。って言われました。」

一時期、実習を引き受けた学生さんからよく聞いた言葉です。

その場の会話ができて
礼節が保たれていて
相手へ気遣いして合わせる能力がある人だと
施設や病院に入院・入所中の場合には
通常会話や行動観察から記憶の連続性を判断することが難しかったりします。

職員に「HDS-Rが〇〇点でした」と報告したら
「えーふざけていたんじゃないの?」とか
HDS-Rが一桁の方のサマリーに「普通のおばあちゃんです」と記載されていたり。
そういうことは枚挙にいとまがありません。

冒頭のような学生さんには
「うん、わかった。そしたらどうやって記憶の連続性を確認する?」
と尋ねます。
「HDS-Rをとらなくても記憶の連続性が判断できるならとる必要はない。
記憶の連続性の判断ができないと、適切な援助もできないでしょう?
他の方法で判断できないならHDS-Rをとりなさい。
そして一番大切なことは傷つけるリスクを承知でとった結果を援助に最大限活かしなさい」
と指導しています。

記憶の連続性が〇〇だから
この方に接する時には〇〇するようにしよう

これを考えられるようになるための検査としてのHDS-Rだと考えています。
モチロン、現実には1つの検査結果だけから方向性を決めることはありませんが
方向性を考える時の根拠が曖昧では、その上に積み上げるものも曖昧になってしまいます。

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できないことの中にもできることがある

「認知症になってもできることがある」

最近、いろんなところでいろんな人が表明するようになりました。
本当にその通りだと感じています。

でも
私はもう一歩つっこんで
「できないことの中にもできることがある」
と言いたいと思います。

認知症になってもできることがある。
確かにその通りだと感じていますが、
でもそこに力点を置き過ぎてしまうと
できなくなった時によけいに辛くなってしまうんじゃないでしょうか。

「できることがある=OK」
という認識では、結局のところ本質的には
従来の「できない、わからない」という枠組みを超えることにはならないとも感じています。
視点の量的な転換にはなっても質的な転換には至っていないというか。。。

「できないことの中にもできることがある」
「できないことの中にもその人らしさがある」

私はそう感じています。

クリスティーン・ブライデンさんの
「私は誰になっていくの?」
「私は私になっていく」
という本は内容も素晴らしいですが
このタイトルが示していることも、とてつもなく深い。

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POST掲載「座席案内」

POST 理学療法士作業療法士言語聴覚士のためのリハビリ情報サイトさんに
4月9日(日)、私の記事が掲載されました。
「リハビリを実施するにあたって」

今度出る本のPRもしていただき、どうもありがとうございます m(_ _)m

目の前にいる対象者の方に対して
適切なリハやケアを実践したいと願いながら
どうしたらよいのか、どう考えたらよいのか、
わからなくて困っている人の役に立つなら
そしてまわりまわって
認知症のある方とご家族の余分な困難が少しでも減ることにつながるなら
こんなに嬉しいことはありません。

まずは、明日からすぐに使える
そして、使った後に何が起こっていたのか理解できる
できれば、応用しようとして知識を深めてもらえる
最終的には、自分で観察することができて考えられるようになる

私が講演でお話する時や専門誌に依頼原稿を記載したりブログに記事を書く時に
気をつけているポイントです。

私の実践と提案は従来のものとは本質的に違っています。
「こうしたらいいんじゃないの」「原因探索と改善」ではなくて
まったく新しい視点で考え方を提案しています。

記事も本も読んでいただけたら嬉しいです m(_ _)m

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上梓「食べられるようになるスプーンテクニック」

このたび、日総研出版さんから
「食べられるようになるスプーンテクニック」を上梓することになりました。

詳細はこちらをご参照ください。
http://www.nissoken.com/book/1824/index.html

「知識がなければ観察ができない
観察ができなければ適切なケアはできない」
というキャッチコピーは担当の編集者の方がつけてくださいました m(_ _)m

私はとても気に入っています (^^)

認知症のある方の食事介助は大変です。
さまざまなことが起こりますので
認知症のない方がもう一度食べることに挑戦するのも大変なことですが
それとは別の、あるいはさらにプラスしての困難さが伴います。

「認知症だから誤嚥性肺炎はしようがない」
「認知症だから上手に食べられないのは仕方ない」
「にわかには信じ難い」

私も面と向かって言われたことが何度もあります。
それはそう言った人の過去の体験に基づいての発言です。
そういう体験しかしていないから、そう言うしかないんです。
まさしく (^^;

でも、私の体験はまったく違います。

認知症のある方のさまざまな食べることの困難は改善できることが多い。
誤嚥性肺炎になってもCRP(炎症所見の1つ)が陰性化したまま
食べられるようになることが多い。
40分以上かかっても殆ど摂取できなかった方が
20分で全量摂取できるようになる。などなど。。。

つまり
認知症のある方の能力が低下して食べられなくなるわけではなくて
認知症のある方と私たち介助者とのDiscommunicationが起こっているのです。
「食べる」−「食べることを援助する」という関係の場におけるDiscommunication

だから、可能性がある。

主治医が大脳新皮質がコピー用紙1枚の厚みしかないと言うくらいに
脳萎縮が進んでいる重度の認知症のある方でも
介助が変われば食べ方が変わるようになるんです。

今、視点・発想の転換が求められているのだと感じています。

食べにくそうに食べているその食べ方の中にこそ
認知症のある方の能力が見え隠れしているのだという風に。

私たちが為すべきことは
食べ方を修正するのではなくて
合理的に発揮できていない埋もれている能力を見いだし
より合理的に発揮できるように援助するのだという風に。

食事介助に困っている方、現状の方法に何となく違和感を抱いている方に
読んでいただければ嬉しく思います。

そして
1人でも多くの認知症のある方が
よりラクにより安全により美味しくより長く
食べられるようになることを願ってやみません。

本の予約も受付中とのことです☆
すでにお申込くださった方もいらっしゃるとのこと
本当にどうもありがとうございます m(_ _)m

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混同されてるこちらの無自覚あちらの困惑

認知症のある方の場面不適応的な言動について
認知症のある方自身の「能力低下による問題」という判断が下されがちですが
そして、確かにそういう側面もありますが
通常、結構私たちは曖昧な言葉使いをしていたりします。

言葉は相手に通じてこその言葉なので
通じればよいという側面もあると思います。
極論すれば「アレをそれして」とか。
私がやりがちなのは、主語の省略とか (^^;

普段はそれでもよいのでしょうが
対人援助職として、重度の認知症のある方への対応を考える時に
まず、自己検証を明確に行うことが求められました。

モノゴトは、その時その場のその関係性において起こるものなので
認知症のある方の「問題」というよりも
私と認知症のある方との関係の中で起こったこと
という定義付けの方が適切だと考えました。

とすると、自己検証しないわけにはいかないし
近時記憶障害や言語理解力低下や構成障害、注意障害がある
ということが明確なのだから、そこを理解したうえでどうしたらよいのか
考えるしかありません。

そうすると「援助」としては
結構不適切な言動をしてしまっていたことがわかるようになります。
通じてこそ言葉なのに、曖昧な言葉を使ってしまっていることがわかるようになります。

私たち職員側の無自覚な言動によって
もともとある認知症のある方の困惑が増幅されてしまっている
そのような現実は確かにあります。

だとしたら
私たちが自覚的になることによって
認知症のある方の余分な困惑は確実に減らすことができます。

明日から
平成29年度が始まります。
また新しい春が巡る。

新たな気持ちで
認知症のある方とご家族のよぶんな困難が少しでも少なくなるように
そのための提案として、こちらの記事投稿も続けていきたいと思います。
引き続き、どうぞよろしくお願い申し上げます m(_ _)m

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あるある注意(≠意思=行動)

現場でよくあるあるなのが
「ちゃんと〇〇するように気をつけましょう」
という注意喚起

ところが
こういった注意喚起で行動を修正できる人ばかりとは限らない

〇〇するように気をつける
とは、どういう行動に変更するのか
具体的に言語化して伝えることが必要だったりします。

気持ちの問題じゃなくて行動を変えることにポイントがあります。

私は当院に実習にくる学生さんに
施錠確認について
「ちゃんとカギをかけるように気をつけて」とは言いません。

「カギをかけたら
目で見て確かめて
次に手でドアを両方向に動かして確認するのよ」
と言っています。

「ちゃんと」という副詞を明確に言語化して伝えるようにしています。

どうでしょう?
あふれていませんか?
ケアやリハの現場で「ゆっくり」「丁寧に」「ちゃんと」「きちんと」という言葉

 

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死人テストってスゴい

死人テストとは
1965年に行動分析学のOgden Lindsley によって開発された
「死人にできることは行動ではない」
という行動の定義のことです。

行動とは
状態ではないし
否定形ではなく肯定形で表されるということを意味します。

逆に言えば
肯定のカタチでの世界への働きかけ・意思表明=生きる
ということです。

雷に打たれたような
とは、まさにこういう状態を言うのか
というような気持ちになりました。

死人テストってスゴい。
端的な言葉で奥深い概念を明確に示しています。

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