Tag: リハビリテーション

終了☆「OTを叫ぶ」@OTLab

昨日、開催された
作業療法総合研究所さん主催の
「神奈川の地から作業を叫ぶー愛と毒を込めて’’作業’’を問う」
無事に終了しました。

カゲキなタイトルにも関わらず
年度末のお忙しい時期にも関わらず
花粉の飛散目一杯の時期にも関わらず
参加してくださったみなさま、どうもありがとうございました。

そして貴重な機会を作ってくださった
Sさん、どうもありがとうございました。

正直、キツい準備期間でした。。。

仕事もいろいろと重なり
準備に没頭できなかったりで
苦しかったです。。。

でも、のたうち回っていると
どこかからか、救いの手・瞬間が差し伸べられるんですね。
構成のアイデアが浮かぶようになり
推敲も進むようになり
これなら、なんとかお話できる!というところまで準備をすることができました。

参加してくださった方に
持ち帰っていただけるものがあったら良かったのですが
いかがでしたでしょうか。。。

打ち合わせの時や懇親会の時のお話は
とても得るものが多く貴重な有意義な機会となりました。
久しぶりにお会いしたTさんのお話もたくさん聴けて嬉しかったです。

この写真は会場の昭和大学さんの正面玄関です。
オカメザクラという早咲きの桜なんだそうです。満開ですね (^^)

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起こっていることがわかる

たとえば
リハスタッフなら
脳血管障害後遺症片麻痺のある方が
歩くのにどれだけ頑張って歩いているか
手を動かすのにどれだけ頑張っているか
トイレ動作やお食事するのにどれだけ頑張っているのか
よーくわかると思う。

それとまったく同じで
私たちにしてみれば
ごく簡単に思える手作業が
認知症のある方にしてみたら
どれだけ頑張って集中しているのか
よーくわかると思う。

ある場面に現れている
その方の障害も能力も特性もわかるということ
何が起こっているのか、わかるということ

それが大事で必要なこと

そうすれば、どうしたらいいのかがわかるもの。

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生活障害への寄与

認知症という状態像は
単に記憶障害だけではない。

場面場面に現れる障害と能力の意味を把握できる作業療法士は
認知症のある方の生活障害に寄与できる部分がすごく多いと思う。

できそうでできない部分を
どう見守り、どう声かけしたら
できるようになるのか
具体的な提案ができるから。

試行錯誤の幅をかなり狭めて
ご本人やご家族にとっても、介助者にとっても
具体的で有益な情報を提供できると考えています。

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技術だから言語化できない部分もあるけど

私たちの仕事は技術職だから
突き詰めていくと言語化できない部分がある。

でも
だからといって言語化をあきらめてはいけない
言語化できない領域は言語化の努力の先にあるものだと思う。

たくさんの先人の努力の積み重ねによって現在があるのだから
それは後世を支える人たちに伝えていきたいと思うし
その義務もあると考えています。

言語化できることは言語化への努力をする。
それでもなお、言語化できない部分は残る。

その時その場のその関係性において
言葉にならないけれど
明確に伝わるものがある。

時には
手を通して
対象を通して
すごく難しくてしんどいけど
そこに「いる」だけでも

かつて河合隼雄が
「そうするしかできなかったからそうした」と語っていたことがありますが
誰にでもそういう時期があると思う。
それしかできない
でもその時々でできることを積み上げていくと
次の扉が見えてくる。
その道を一足飛びにスキップすることはできなくても。

非言語のパワーと伝達の一端を知っているからこそ
言語化への努力の重要性がわかるし
その過程を通して非言語に巻き込まれないでいることを
鍛錬されているようにも感じることがあります。

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第3の道

認知症の早期発見・早期診断はこれから先どんどん進んでいくでしょう。
確定診断の精度もどんどん高まるでしょう。
それはとても重要なことですべての基礎になります。

でも、大切なのは、その先ではありませんか。

どうしたら、認知症という状態とともにあって
少しでも暮らしやすくなるのか。

認知症のある方をとりまく現状について
私の目には今、大きな振り子がふたつを行ったり来たりしているように見えます。
「認知症があってもできることはたくさんある」
「認知症があるから仕方ない」

老年期のリハビリテーションに長いこと携わってきて
常に疑問だったのは
「全か無の法則」「クロとシロの法則」と私が勝手に名付けていた事象です。
両極端に議論が傾いて、グレーの色調の判断とグレーの色調への援助に対して
具体的な検討が進みにくいという現状への疑問です。

できることはわかりやすい
できないこともわかりやすい
できそうでできないことがどうしたらできるようになるのか
具体的に検討されにくくて抽象論で終わってしまいがちです。

暮らしという現実の中で起こる困難を少しでも少なくするには
障害と能力の把握が突破口になります。

もう、旗を振る時代は終わりにして
具体的な検討ができるようにしませんか?

その突破口は
障害と能力のプロとして養成されてきたリハスタッフ
とりわけ作業療法士が担える一番の近道にいると感じています。

でも
リハスタッフ・作業療法士ならば誰でも担えるわけではないし
他の職種やご家族が担えないわけでは決してありません。

かつて死の病として
ひたすら恐れられてきた結核やガンが
医学の進歩によって立ち向かえるようになってきて
死の病としてひたすら恐れられる対象ではなくなってきています。

それと同じように
かつて自分が自分でなくなると恐れられてきた認知症が
当事者の言動によって、ご家族のサポートによって、多職種の支援によって
自分らしく生きることへ戦略が転換されていて旗は振られている。
けれど目の前にいる認知症のある方に向き合った時に
旗を振っていた時ほどの声が出ないような気持ちになることはないでしょうか。
理想を高く掲げれば掲げるほど目の前の現実に疲れてしまわないでしょうか。

今、求められているのは
高い理想をどうやって具現化するのか、できるのか
その具体的な検討を可能にすることなのではないでしょうか。

 

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「こそあど言葉」とADL介助

前の記事「こそあど言葉とAct.説明」を読んでくださった方の中には
「あ!」と気づかれた方もいると思います。

ADL介助の場面でも同じコトが違うカタチで現れている

そうなんです。
Activity提供、何か「する」コトに関して
言語理解と構成障害の有無とその程度が関与しているならば
ADL場面にだって関与しないはずがありません。

認知症=記憶障害。だけではないのです。
認知症=快・不快しかわからない。わけではないのです。

たとえば
洋服の着脱が困難になってしまった方に介助する時に
どんな声かけが適切なのか
具体的に検討されているのでしょうか?

認知症
=わからない
=仕方ない
=早く着替えが終わるように
=優しく、怒らせないように
というような方法論しか検討されてこなかったのではないでしょうか。

案外、「こそあど言葉」を意図せずに無自覚のうちに
多用している私たちのせいで
認知症のある方が余分に混乱している可能性はないでしょうか。

だとしたら
「こそあど言葉」「名詞」「動詞」を意図的に自覚的に選択的に
私たちが扱えるようになったとしたら
認知症のある方の状況が変わる可能性があるのではないでしょうか。

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「こそあど言葉」とAct.説明

Act.の説明をする時に
「こうして、次にこうやって」
「それをこっちにもってきて」

かつて、私もそのような説明をしていました (^^;

いわゆる、「こそあど言葉」

認知症のある方の
言語理解力と構成能力が保たれていると
「こそあど言葉」を使った説明をしても理解してもらえますが
言語理解力や構成能力が低下してくると
「こそあど言葉」を使った説明では
認知症のある方がAct.を遂行することは余計に難しくなります。

私たちが無自覚に使っている、「こそあど言葉」を
自覚的に、明確に、名詞と動詞で表現するように心がけると
動作的介助なしに声かけだけでできる部分がグンと増えたりします。

裏を返せば
作業療法士が「こそあど言葉」を使わないで説明できる。ということは
工程を明確に理解できている。ということを示してもいるのです。

また、逆に
ある種の認知症(たとえば、意味性認知症)のある方の場合には
意図的に「こそあど言葉」を使うこともあります。
物品名詞は「これ」「あれ」「それ」
そして動詞を明確に端的に使う。

つまり
作業療法士が意図的に選択的に言葉を扱えるということは
認知症のある方の障害と能力を把握していて
目の前に起こっている事象の意味がわかる
ということなんです。

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Act.工程説明の留意点

あんまり言語化されていないと思いますが
認知症のある方にActivityを提供する時に
工程を説明します。
実はその時にポイントがあります。

それは
視覚的な情報を中心にするのか
聴覚的な情報を中心にするのか
運動的な情報を中心にするのか
説明の力点をどの情報を主体として提供するのか
ということです。

どの感覚が理解しやすいのか
こちらが把握できていれば
Act.の場面でその都度説明したり声かけをしたりお手伝いをしたり
という必要がほとんど少なくなって
認知症のある方自身で援助を受けることがほとんどない状態で
Act.に取り組むことができるようになります。

えてして
Act.の場面において
対人援助職たる私たちは
「援助を受けながらでも〇〇できる」ことを善しとしがちですが
認知症のある方にとって
〇〇という作業をしながら、もう一方で他者の説明を聞いて理解して行動修正する
というような同時並行課題は負担の大きいものです。

他職種の人たちに
「これならカンタンだからできるんじゃない?」と言われることもよくありますが
認知症のある方の近時記憶障害、構成障害、遂行機能障害などの有無と
その程度を把握していると、とてもそんな風には思えません。
必死になって一生懸命やろうと向き合っているのがよく伝わってきます。

たとえ
援助を受けながらでも、何か作り上げることができたとしても
それってどうなんだろう?
作っている最中の手応え、充実感、そんな感情を味わうことができたのだろうか?

私の脳が認知症のある方の手を動かさせているような状態は、私は絶対イヤです。

認知症のある方の脳と、認知症のある方の手と、対象たるAct.とが
たとえ、どんなに小さくてもしっかりと1つのループを作っているような場
そういう場を作り上げるためには、説明ってとても大切。

どの感覚を主体として説明するのか
それは、その人がどの感覚を理解しやすいのか
その評価を根拠に判断しています。

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